ギリギリの人生を歩んできた男がギリギリの決断に迫られた

春風秋雄

俺は何故いつもギリギリなのだ?

1989年1月7日。この日が重野智弘、つまり俺が生まれた日だ。そう、昭和の最後の年、昭和64年の最後の日だ。その翌日からは年号は平成になった。つまり、俺はギリギリ昭和生まれということになる。だから俺はいつもギリギリの男、『ギリ夫』と言われてきた。実際に俺はいつもギリギリの人生を歩んできた。高校受験のときは、試験の2日前に39度の熱を出した。受験は無理かとあきらめていたが、試験当日すっかり熱は下がって志望校に合格した。学園祭のフォークダンスで、女子の人数が足らず、一人先生と踊ることになったが、俺はギリギリ女子と踊れ、隣のやつが先生と踊っていた。大学も志望校へは補欠合格で入学できた。社会人になって初めての懇親会で、出た料理の中の鯖寿司による食中毒が出たが、俺は後で食べようと思っていたら、隣のやつが最後の一切れを食べて、俺は食べずにすんだ。そんなことが度々あった。しかし、俺のギリギリの人生は良い事だけではない。悪いこともギリギリだった。大学時代に、仲良くなった女の子に告白したら、「昨日他の人から告白されてつきあうことになった。もっと早く言ってくれればよかったのに」と言われた。就活でも、第一志望の会社に最終面接までいったのに、面接当日、駅前の道でヤンキーに肩がぶつかり因縁をつけられて、電車に乗り遅れ、面接会場に3分遅刻し面接を受けられなかった。このように、俺の人生は、良いことも悪いこともギリギリのケースが多かった。もっと余裕をもって生きていきたいと思うが、何故かそうなる。


俺は社会人になってから、ギリギリを避けるため、なるべく思いついたことは、すぐに行動に移すようにした。仕事は最低でも締切日の前日には仕上げるようにした。アーティストのLIVEを見たいと思ったら、売り切れる前にすぐに買いに行った。そして、気に入った女の子がいたら、迷わずアタックしようと決めていた。そして、その結果付き合いだしたのが君島弓月(ゆづき)だった。弓月とは合コンで知り合った。4対4の合コンだったが、俺はその4人の中で弓月が一番好みだった。迷わず連絡先を交換して、翌日デートに誘い、交際してほしいと言った。弓月はあまりの速さにあっけにとられていたが、交際を承諾してくれた。

調子に乗った俺は、早速ホテルに誘った。

「私たち、会うのは2回目なんだよ。さっき付き合おうと言ったばかりなんだよ。いくら何でも早すぎるでしょ?」

仕方なく俺は、弓月に「俺はギリギリの男なんだ」と言うと、「何それ?」というので、いままであった出来事を話したら、弓月は大笑いしていた。

「だから、俺は思い立ったら、すぐに行動することにしているんだ。そうしないと、ギリギリのところで邪魔がはいるかもしれないから」

弓月は笑いながらホテルに行ってくれた。


ある日、弓月と人気のスウィーツ店に並んだ。

「智君が一緒だと、買えるかどうか、ギリギリなのかな?」

「俺たちの前で売り切れるか、俺たちが買って売り切れるかって感じかもよ」

俺は冗談めかしてそう言った。

しばらくすると、店員が並んでいる人に何個購入するのか聞いてメモし始めた。俺たちの前に並んでいる人が2個と言うと、店員が俺たちに向けて、

「申し訳ありません。本日はここまでで売り切れとなります」

と言って頭を下げた。俺はやっぱりと思ったが、弓月はあっけにとられていた。

それ以来弓月は、並んで何かを買う時は、俺を並ばせなかった。弓月一人で並んで、俺は少し離れたところで待っているという図式ができた。


弓月との付き合いも、今年で5年になった。25歳だった弓月も今年で30歳だ。そろそろ結婚を考えなければいけないのだろうか。何事も思い立ったら即行動に移していた俺も、さすがに結婚となると躊躇していた。弓月のことは好きだし、とても良い女性だと思う。しかし、生涯を共にするとなると、本当に弓月でいいのだろうかと考えてしまうのだ。何が足りないとか、ここが気に食わないとか、そういうことではない。ただ単に、結婚ということに臆病になっているだけなのだろう。

「私たち、付き合いだして、もう5年になるね」

弓月がそれとなく言う。おそらく結婚を促しているのだろう。俺はそれには気づかない振りをする。

「そうか、5年か。確か付き合いだしたのは9月だったね」

「9月3日。だから、来月でまる5年だよ」

「だったら、9月3日は盛大にお祝いしよう」

弓月はチラッと俺を見たが、少し期待外れのような、少し期待するような何とも言えない顔をした。俺は、どこかオシャレなレストランでも行って美味しいものを食べるだけのつもりだったが、弓月はその日にプロポーズしてくれるのではないかと期待したのではないかと不安になった。


お盆休みは俺も弓月も帰省することにした。正月は二人ともそれぞれの実家で過ごすことにしているが、お盆に二人が帰省するのは初めてだった。俺が今回帰省するのは、中学卒業20周年の同窓会があり、それに参加したかったからだ。

さすがに20年も経っていると、みんな様変わりしていて、誰が誰なのかわからない。同じ高校だったやつらは何とかわかるが、中学卒業以来という級友は、顔はわかっても名前が出てこなかったり、名札を見て覚えのある名前なのに、中学時代の顔が思い出せないやつもいた。それでも、しばらくしてなれてくると、35、36歳の顔が、だんだん15歳の顔に見えてくるから不思議だ。仲のよかったやつらが俺を見つけて「おー!ギリ夫」と声をかけてくれる。そうすると、俺まで15歳に戻ったような気がする。そんな中で、ひとりの女性が近寄って来た。

「ギリ夫くん?」

この女性だけはすぐにわかった。中学時代に俺が好きだった吉本日和(ひより)さんだ。中学2年3年と同じクラスになり、席が隣同士になったことも何度かあった。高校は別々になったので、会うのは中学卒業以来だ。

「吉本さん、久しぶり。全然変わらないね。すぐにわかったよ」

「そう?もうオバサンになっちゃったけどね。それより重野君は立派な大人の男って感じになったね」

「単にオジサンになっただけじゃない?」

「そんなことない。バリバリ仕事をしている人って感じがする」

「もう結婚しているんでしょ?お子さんは?」

「結婚はしていたけど、離婚してバツイチ。子供はいないよ。重野君は?」

「僕は独身」

「そうなの?重野君モテそうなのに。でもいい人はいるのでしょ?」

「一応付き合っている人はいるけど、結婚はどうなのかな。自分でもよくわからない」

「ふーん、そうなんだ」

その後、他の級友が寄ってきたので、吉本さんとの会話はそれきりになった。


二次会はクラス単位で行動することになっており、幹事が予約していたカラオケバーへ移動した。女性陣は家庭があるので、ほとんど一次会で帰り、男性陣も半数以上は帰った。その中で吉本さんは二次会に付いてきた。吉本さんはさりげなく俺の隣に座って、みんなが歌うのに声援を送ったり、拍手をして楽しんでいるようだった。しばらくすると、吉本さんが俺の方に顔を寄せて話しかけてきた。

「もう少ししたら、抜けて、二人で飲まない?」

「いいよ」

「じゃあ、重野君が先に出て、駅前のコンビニで待っていて。後で私も行くから」

俺の胸は何かを期待するように高鳴って来た。

2曲ほど聞いてから、俺は幹事のところへ行って、先に帰る旨を伝え、会費を払って店を出た。言われたとおりにコンビニで待っていると、10分ほどして吉本さんが現れた。

「お待たせ。私が知っているバーへ行こうか」

吉本さんはそう言って、俺をバーへ連れて行った。

2杯目のカクテルを飲みながら、吉本さんがボソリと言った。

「中学の時、私重野君が好きだった」

俺は驚いた。当時の吉本さんは学年のアイドルで、俺からすれば高嶺の花だったから、一方的に思いを寄せるだけで、相手がどう思っているかなんて考えもしなかった。

「僕も好きだったよ」

「知ってた。でも重野君は全然何も言ってこないし。ギリ夫君だから卒業式の日にでも言ってくるのかなと思っていたけど、結局それもなくて卒業しちゃった」

「まだ子供だったんだよ」

「今は、もう大人だよね?」

吉本さんはそう言って、潤んだ目で俺を見た。


俺の心臓は、ずっと爆発しそうなくらい脈打っていた。こんな夢のような展開は、35年の人生で初めてのことだ。あの吉本さんとホテルにいる。そして、その吉本さんは、今シャワーを浴びている。先にシャワーを浴びた俺は下着もつけずにバスローブを羽織り、ベッドに横になっていた。シャワーの音が止み、脱衣場で吉本さんが体を拭いている気配がする。しばらくすると、バスローブを羽織った吉本さんがバスルームから出てきた。そして、スッと俺の横に滑り込んできた。静かに目をからませ、唇を合わせる。吉本さんのバスローブを脱がせようとしたその時、テーブルの上に置いていた携帯電話が鳴った。俺の手が止まる。しばらく待つが電話のコールは鳴りやまない。俺は無視して行為を続けようとした。

「電話出たら?」

吉本さんが言う。仕方なく俺は起き上がりテーブルの上のスマホを見ると、電話はお袋からだった。

「もしもし」

「智弘!お父さんが、お父さんが倒れて病院へ運ばれた!」


病院へ駆けつけると、親父の措置は終わっていて、今のところ命に別状はないということだった。今回は一瞬意識を失っただけらしいが、もともと血圧が高い親父は、治療をしていかないと脳梗塞へ移行する可能性が高いということだった。

家に帰ってからお袋と話していると、俺の結婚の話になった。

「智弘も、そろそろ結婚して、お父さんを安心させてあげなさいよ」

それは、親父のためというよりも、お袋自身が安心したいという気持ちがこもった言葉だった。

スマホを見ると、吉本さんからLINEのメッセージが入っていた。お袋の電話に出たあと、吉本さんに事情を話し、連絡先だけ交換して、急いで身支度をしてホテルを出た。親父の状況を心配してくれているようだったので、俺は簡単に大丈夫だったと返事をした。折り返し来た吉本さんのメッセージに、近いうちにまた会おうと書いてあった。それは、近いうちに今日の続きをしようということだ。しかし、俺の休みは明日で終わりだ。一旦東京へ帰らなければならない。


東京に帰ると、弓月は浮かない顔をしていた。実家で何かあったのかとも思ったが、俺が親父のことを話すと、心底心配してくれた。

「どこかの休みを使って、一度実家へ帰ってみようと思っている」

俺がそう言うと、弓月は何も疑わず、

「心配だね。脳梗塞に移行しなければいいね」

と言ってくれた。その言葉を聞いて、実家に帰るのは親父のことより吉本さんと会うのが目的だった俺は、少し後ろめたい気持ちになった。


9月3日の記念日に、俺は弓月を誘って、ちょっと高級なレストランへ行った。夜景の見える席でコースディナーを堪能し、弓月は喜んでいた。しかし、食事が終わりタクシーで弓月のマンションまで送り、「じゃあまたね」と俺が言うと、弓月は悲しそうな顔をした。おそらく弓月は、今日俺がプロポーズしてくれるものだと思っていたのだろう。俺と弓月は、同棲はせず、週末だけどちらかの部屋で過ごすようにしていた。だから平日の今日はそれぞれの部屋で過ごす日だ。自分のマンションに向かうタクシーの中で俺は考えた。俺は、弓月と吉本さんと、どちらと結婚したいと思っているのだろう。実家でお袋が言った言葉が蘇った。いずれにしても、そろそろ俺も身を固めなければいけないかもしれない。


弓月が実家へ帰ると言い出したのは、それから1週間後のことだった。

「何かあったのか?お盆に帰った後も浮かない顔をしていたけど」

「私、お見合いすることにした」

俺は弓月の言葉が一瞬理解できなかった。

「お盆に実家に帰った時、お見合いを薦められたの。写真と釣書を見たけど、なかなか良い人だった」

弓月はそう言いながら俺の顔色を探っているようだった。

「お見合いして、結婚することになったら、東京は引き払って地元に引っ越すから」

俺は、何を言えばいいのだ?引き止めなければいけない。そう思いながらも、頭の隅に吉本さんの顔がよぎる。すると、自分でどうするべきなのか、わからなくなった。ひょっとすると、これで迷わず吉本さんを選べるということか?

「それで、お見合いはいつなの?」

「来週の日曜日。だから土曜日に実家に帰る。もう切符も買った」

弓月はそう言って、切符を見せてくれた。

9月14日12:36発 新幹線やまびこ61号10号車 

弓月の実家がある新花巻には15:41に到着する。来週は祭日があるので3連休だった。お見合いの当日も実家に泊るつもりなのだろう。


9月14日が迫ってくると、俺は落ち着かなかった。冷静に考える。このまま弓月を失って、後悔しないのか?吉本さんのことは中学時代は好きだった。この前会った時も、変わらず綺麗だった。それで、俺は本当に吉本さんと結婚したいと思っているのか?単に中学時代の思いを遂げたかっただけではないのか?

そんなことをずっと自問自答していた。


9月14日、昨日なかなか寝付けなかったので、朝起きたときは時計の針は10時半だった。コーヒーを淹れ、ボーっとしていると、本棚に立てかけてあるハート形の入れ物に目が止まった。弓月が付き合い始めて、初めてのバレンタインでくれたチョコレートのケースだ。ケースの真ん中にマジックで“一生本命”と書かれていた。

「智君は、ギリ夫君って呼ばれているかもしれないけど、私があげるチョコは義理じゃないからね。私にとって智君は、一生本命だから」

弓月はそう言って、チョコレートを渡してくれた。俺はそれが嬉しくて、そのケースをずっと飾っていた。

俺は立ち上がって、着替えを始めた。時計を見る。まだ間に合う。

マンションから最寄りの立川の駅までは歩いて15分。時計を見る。はやる気持ちを静めながら、「大丈夫。まだ間に合う」と自分に言い聞かせながら冷静になろうと努めた。タクシーが通れば捕まえるつもりだったが、一向にタクシーは来ない。結局立川駅まで早歩きで歩いて、切符を買う。ホームに出ると、11時45分の特快が来たところだった。俺は迷わず飛び乗った。

スマホで到着時間を調べる。12時26分到着予定になっている。確か弓月が乗る新幹線は12時36分だった。10分でホーム移動できるだろうか。どうして俺はいつもいつもギリギリなんだ。

吉祥寺の駅で座席が空いたので、俺は落ち着くために座った。スマホを取り出し、吉本さんにLINEメッセージを送る。


“ごめん、吉本さんにはもう会えない。また何年か先の同窓会で会いましょう”


これから弓月がいる東京駅に向かうのだから、吉本さんのことはキッパリと忘れるのがケジメだと思った。

すぐに吉本さんから返信があった。


“そうか、残念。また同窓会で会いましょう。彼女を大切に!!”


東京駅に着いた。座席に座ったことを後悔した。気が付くと、結構な人が乗っている。座席に座っている分、出るのに時間がかかる。前を歩く人の多くはキャリーケースなどを持って、これから旅行をする人たちだ。自然と歩様が遅い。俺はイライラしながら前の人について歩く。やっとコンコースに出て、東北新幹線の改札を目指す。東北新幹線は乗ったことがなかったので、どこが改札なのかわからない。案内看板を見ながら人の波に逆らって進む。やっと改札を通り、やまびこ61号がいるはずのホームを探す。23番線だ。エスカレーターは遅いので、階段を駆け上がる。息が切れる。あと数段というところで、発車のベルが鳴り響く。やっとホームに上がったと思ったら、新幹線のドアが閉まった。ギリギリ間に合わなかった。静かに動き出す新幹線を見送りながら俺は、ホームに立ち尽くした。ドッと疲れが出て、俺はベンチに座り込んだ。さて、どうしよう。そう思っていると、隣に人が座った。

「智君、どうしたの?」

弓月だ。

「どうして?さっきのに、乗らなかったの?」

「ひょっとしたら、智君が来てくれるかもしれないと思って。でも智君のことだから、ギリギリ間に合わないだろうなと思ったから、次の新幹線に変更したの」

「そうか・・・」

俺は、脱力感で、言葉が出なかった。

「どうする?私を連れ戻しにきたのでしょ?帰る?」

「いや、このまま花巻まで行こう」

弓月が驚いた顔をした。

「弓月のご両親に結婚の許可をもらいに行こう」

「それでスーツを着ているの?」

「そうだよ」

「じゃあ、一旦出て、智君の切符を買おう」

「切符はもう買ってある。自由席だけど」

俺はそう言って切符を見せた。

「立川の駅でこれを買っていたから、ギリギリ間に合わなかった。ごめん」

弓月は、目に涙を一杯ためて言った。

「そんな理由のギリギリなら、許す!」

そう言った弓月は人目も気にせず、俺に抱きついてきた。



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