今こそ分かれ目

はくすや

謝恩会

 明和めいわ学院大学卒業式が終わった後、謝恩会幹事の一人となっていた私は、大学近くにあるホテルの会場にいた。

 謝恩会は文学部全学科が合同で行う。一応学科ごとに会場は別になっていたが、それは一つの会場には入りきれないからだ。

 しかし招いた教授連の中には複数の学科に教え子がいる先生も多く、そうした先生方が各学科の謝恩会に顔を出せるように配慮して、同じホテルで隣り合った会場で謝恩会を開く。そのやり方が代々受け継がれてきた。

 私たちはただそれを踏襲すれば良いだけだ。

 しかし、やはり謝恩会の幹事は面倒くさい。

 立食形式なので正確な参加人数を知る必要はないが、参加者の概数は知る必要がある。

 謝恩会の参加は原則自由だ。学生が全員参加すれば会場は人であふれて収拾がつかなくなる。だから自由参加なのだが、そうなると今度は参加人数をある程度確保しなければならない。

 この手の謝恩会、参加したい学生がいる一方で、参加したくない者もいる。しかも参加費が一万円ともなると、卒業式後そのまま卒業生のみで行う二次会へ馳せ参じようと考える者も多かった。

 そこを何とかなだすかして、ある程度の参加者を確保しておかねばならず、私たち幹事は卒業間近にあちこち奔走したのだった。

 そして今日、最後の仕事が待っている。謝恩会受付業務と進行係だ。

 どうにか教授連よりも卒業生の参加者が多く確保できて私たちはほっとしていた。教授の方が多かったら洒落にならない。

 会場の受付は全学科共通で一か所に受付担当の幹事が集まっていた。そこに私はいた。隣に仏文科の夏帆かほがいる。

 受付業務は来賓となる先生方に記帳していただき、赤い胸章をつけて差し上げることだ。

 文学部は教官も多く、直接関わらない先生の方が多かったから私は緊張していた。中には知らない顔もある。学科が異なる幹事が揃っていてどうにか成り立つ業務だった。

 幸いなことにお金のやりとりはない。来賓は無料参加だし、学生の参加料はスマホアプリ決済だ。ここで現金のやりとりをしようものならその管理で相当気を遣わねばならなかった。

 続々と教授連がやって来る。学生の方が来場が遅いくらいだ。もっと早く来いよ、ったく。

 年配の先生方が多い中、三十代のイケメン男性が現れる。心理学科の降旗ふるはた先生だ。

 降旗先生は東都医大医学部精神科から我が明和学院大学の犯罪心理学准教授になられた先生だ。新しく開設された犯罪心理学講座のトップが降旗先生なので准教授ながらこの謝恩会にお越しいただいた。教授連の中にいると若いのでかなり目立つ。

 私は気分が高揚した。当然のことながら心理学科の私の受付に来られると思っていたのに、英文科の麻耶まやがすっと歩み寄って自分のところへ降旗先生をお連れした。

 なんて奴だ。ひとの彼氏をつぎつぎ奪った伝説は嘘ではないのだろう。私には真似のできない芸当だ。

 そんなことを思っていたら、私の目の前に高齢の紳士がいた。

 いや、紳士というか、よく見るとよぼよぼの爺さんで、小奇麗な紳士服がどうにか紳士に見せているだけだ。退官された元教授といったところか。少なくとも私の知る顔ではなかった。

 その爺さんが私に話しかけてきた。「あのお……」

「こちらにお名前をご記帳いただいております」私は目を細めて爺さんに言った。「そしてこちらが歌詞カードになります。お持ちください」

 私は爺さんに赤い胸章をとりつけ、「仰げば尊し」の歌詞カードを渡した。

 爺さんは歌詞カードを開いてそこに目を通してからおもむろに老眼鏡を取り出した。

 最初に眼鏡だろ、爺さん。それに今歌詞カードを見なくて良いじゃん。

 謝恩会の最後に卒業生と教授連揃って「仰げば尊し」を歌うことになっていた。歌詞を覚えていないだろうから歌詞カードを用意したのだ。

 爺さんは歌詞カードを見た挙句に言った。

「歌詞が間違っておるのう」

「え?」私も横にいた夏帆もぎくっとした。

「最後の方にある『今こそ別れめ』……」

「直っていませんか?」

 私と夏帆は改めて歌詞カードを見た。

 急いで用意したこともあり、文字変換ミスで「分かれ目」となっていたのを「別れ目」に訂正したはずだ。

「『別れめ』の『目』は『おめめ』の『目』ではないのう。ひらがなじゃ」

「「は!?」」

「これは係り結びなのじゃ、『こそ、已然形』のな。意味は『今は別れよう。そしていつかまた会おう』じゃ」

「「げ!」」

「文学部にあるまじき恥ずかしいミスじゃのう……ほっほっほ」

「ご指摘ありがとうございます」

 私たちは頭を下げた。しかし今更もう訂正もできない。歌う前に口で訂正するしかないだろう。

 爺さんは会場へ入って行った。

「今の誰?」私は夏帆に訊いた。

「知らない。退官された教授かな」

 記帳された名前は「野田耽二」とあった。

「知らない……」

 私たちは近くにいた国文科の子にその名前を見せた。

「ああ、これ」国文科の子は笑っている。「文学部唯野教授の筆名よ」

「唯野教授?」

「知らないの? 筒井康隆」

 同じ文学部でも心理学科の私はそういうのに疎い。

「さっきのよぼよぼのお爺ちゃんでしょ、たぶん香杜こうもりみやびね」

「香杜みやび?」

「史学科の高森たかもりさんよ。よく魔法使いのおばあさんとかに扮して学内をうろついていた人。劇団サークル高雅堂こうがどうの団長ね」

「ああ」何となくわかった。

 そうか私はまんまと騙されたのか。これは高森とかいう子のいたずら、というか余興なのだ。

 それで私たちは納得した。


 謝恩会はつつがなく行われた。といって立食だし、お世話になった教授には誰かがついているだろうと思ったら、教授の人気に差があることが浮き彫りになった。

 私たちはさびしそうにしている教授を見つけては、その相手をしなければならなかった。

 ほんとうは、降旗先生と話をしたかったのだが、その降旗先生は英文科の麻耶たちに囲まれていた。

 自由に動けないなんて損な役回りだ。

 さきほどの爺さんはどうやら他の学科の会場にも出向いたようだ。姿が見えたり消えたりしていた。

 しかし最後の「仰げば尊し」を歌う頃になるとちゃっかり戻って来ていた。しかも私のすぐ横。

 赤い顔をしてとてもご機嫌だ。

「そんなに飲んで大丈夫なの?」私は訊いていた。

「大丈夫だあ」何だかギャグっぽく言っている。ほんとうに酔っぱらっているのか。

 司会役の子が声をあげた。これから「仰げば尊し」を歌うと。その前に歌詞カードの訂正が行われた。「文学部にあるまじき痛恨のミス」と言わざるを得なかった司会役が憐れにも見えた。彼が間違えたわけではない。

「これは落第案件ですなあ」と言ったのは例の爺さんだった。

 この酔っ払いめ。

 歌が終わり、お開きの宣言がなされた。

 爺さんが私を見て「今こそ別れめ、いざさらば」と言って片目をつぶった。そしてご機嫌状態のまま出て行った。

「何て子なの」最後まで爺さんを演じ切るなんてたいした奴だと私は思った。

 これでようやく降旗先生を捉まえられる。私は麻耶から離れていた降旗先生を呼びとめた。

「先生、大変お世話になりました」私は頭を下げる。

「ああ、君か」

「私の名前、覚えていらっしゃいます?」

「××さんだろう?」降旗先生は私の氏名を覚えていてくれた。

 私はとても嬉しかった。名前まで覚えてくれていたのだからそれなりに印象に残ったのだろう。

 私と降旗先生は少しの間、話をした。

 そうやってそこにとどまっていると、他の女子たちも寄って来る。中には別の学科からやって来た者もいた。

「降旗先生」と呼びかけたその女子はかなりの美人だった。

 女子は袴姿が多く、その子も袴姿だったが、同じ袴姿のはずなのにその子はとても目立った。

「えっと、君は……?」降旗先生はその子の名がすぐに出て来ないようだった。

 私はちょっと得をした気分になっていた。

高森雅代たかもりまさよです」と彼女は答えた。

「ああ、君か。香杜こうもりみやび」

「ええ」と彼女は微笑んだ。

 とても上品な笑みだった。

 しかし私はその直後「え!」という声を出していた。

「あなた、高森さん?」私は高森さんに声をかけた。「さっき、お爺さんに扮していなかった?」

「はい?」高森さんは首を傾げた。「二次会ではコスプレしますが、さすがに謝恩会では致しませんわ」

「じゃあ、さっきの爺さんは……」誰だったのだ。

 そこへ夏帆が慌てた様子で入って来た。

「ちょっと××」夏帆は私を見つけて走り寄った。そして高森さんを見つけて「あ、高森さん」と間の抜けた声で頭を下げた。

「ということはやっぱりさっきの爺さんは?」

「誰も知らないひとだったのよ。あちこちの会場に顔を出してさんざん飲み食いして行ったらしいわ。誰って訊いても誰も知らない。先生方にも心当たりがないらしいの」

「そういえば聞いたことがありますわ」高森さんが言った。「大学謝恩会に紛れ込んで好き放題に飲み食いしていく人がいるのですって」

「そんな簡単に紛れ込めるものなの!?」夏帆が言ってから私の顔を見た。

 ああ、私のせいだ。あの爺さんの受付をしたのは私なのだ。

 あの時、爺さんは「あのお……」と私に声をかけただけだった。あれは潜り込めるか探りを入れたのに違いない。まさに潜入できるかどうかの「分かれ目」だったのだ。

 そうとは思わず私は勝手に来賓だと思って通したのだ。

 片目をつぶった爺さんの顔が蘇る。


〽今こそ別れめ。いざさらば。

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