第4話 明治がとんでもなく変なことになってる件
何で「水戸学」が無いんだろうと思って調べてみたら、とんでもないことになっていた。
「南朝正統論」が無くなっているのだ。いや、まったく無くなっているわけではないが、全然主流になってない。
何でかというと、『大日本史』が「北朝正統論」をとっているからなのだ。
このため、狂信的な尊王論を唱えるような水戸学が無い。だから水戸家の家臣団から過激な尊皇攘夷運動が起こることも無い。水戸家出身の十五代将軍
明治維新の立役者となった長州藩とかでも、過激な攘夷論はあるが尊皇と結びついておらず、あくまで将軍の権威に対抗するために天皇を使おうという扱いでしかない。
幕末の頃の吉良幕府がボロボロだったのは徳川幕府と変わっていないので、大政奉還と王政復古の大号令あたりまでの流れは変わっていなかった。しかし、鳥羽・伏見の戦いでは、俺の知る史実では敵前逃亡をかましたはずの慶喜が、自ら新式陸軍の陣頭に立って指揮督戦して奮闘したため、兵数的にはむしろ優勢だった旧幕府軍の士気が思いっ切り高まり、新政府軍と互角に戦ってむしろ押し気味に戦いを進めてしまった。
このため新政府きってのリアリストである大久保利通は、局面を打開するために新政府を動かして、大政奉還時に旧幕府側が望んだ慶喜の新政府総裁就任を認めるというウルトラCで慶喜=旧吉良幕府との和睦を実現させたのである。
慶喜もまたリアリストであったため、日本のことを考えるなら、これ以上の内戦は避けるべきであることをよく分かっていた。そして、自分の
そのため、吉良宗家当主として、勝海舟や榎本武揚らの助けも借りながら、多少の暴発はあれども旧幕府勢力を何とか押さえ込み、新政府に騙されて無理押しされるのではなく、新政府総裁として薩摩や長州と並び、自ら率先して版籍奉還を行ったのである。
明治維新は行われたが、俺の知る史実とはまったく異なり、鳥羽・伏見の戦いで
そして、旧幕府や東国や東北の諸藩からも有能な人材が明治新政府に参加することになったため、薩長のみに権勢が集まるということが無くなったらしい。
陸軍は旧幕府軍も参加したためフランス式を踏襲することになった上に、何の影響か
海軍も旧幕府海軍が壊滅せずにそのまま参加したものだから「薩の海軍」なんてことも無くなった。もっとも、山本権兵衛や東郷平八郎みたいに薩摩でも有能な人材はちゃんと登用されて出世してたけど。
そして、薩長の横暴が無くなったためか、佐賀の乱が起きず、江藤新平は普通に新政府高官として長く働いていたし、佐賀の乱の前例がなかったためか、それ以降の士族の反乱も起きなかった。
何より、西南戦争が起きていないのである。尊皇思想が弱いため、朝鮮征伐という意識が弱かったせいか、自ら使節として朝鮮行きを望んでいた西郷隆盛が、単なる外交文書受け取り拒否問題解決のための全権使節として朝鮮に派遣される流れになったのだ。ただし、西郷自身は日本の国土防衛のためには朝鮮半島を勢力圏に収めることが必須と考えていて、朝鮮と戦争して日本の優位を認めさせることが必要だと思っていたらしく、出立前に「自分が殺されることで日本が朝鮮に対して開戦する大義名分を得ることを望んでいる」と書き残している。
ところが、西郷隆盛の人としての
このため、当然
朝鮮に権益を得ようとする清国が日本に対して日朝同盟の破棄と、日本軍の朝鮮からの即時撤退を求めたことをきっかけに日清戦争が勃発し、ほぼ記憶にある史実通りに日本が勝利したものの、やはり三国干渉は発生した。
そこからの日露戦争への動きは、前の史実と大差なかったものの、日露戦争においては史実よりも陸海軍のトップ同士の派閥意識が薄く、第一次旅順港閉塞作戦が失敗に終わった段階で海軍が陸軍に旅順艦隊壊滅のための旅順要塞攻略を依頼。派遣された第三軍が慎重な要塞攻略を望んだことを陸軍参謀総長である大村益次郎(元第九代首相だが対露戦遂行のため、あえて格落ちして現場復帰)が認めたため、無理な白兵突撃によることのない正攻法による要塞攻略が進められた。
その一方で大村益次郎が要塞攻略の主目的が海軍から依頼された旅順湾内の艦隊攻撃であることを強調したため、湾内攻撃のための観測拠点としての二〇三高地はロシア軍の防備が固められる前に早々に攻略され、さらに要塞攻略と湾内攻撃の両方に使用するため二十八センチ榴弾砲も早々に配備された。このため旅順艦隊は早々に壊滅し、第一艦隊が旅順港封鎖任務から開放されたことから、
要塞攻略開始が早かったことにより、正攻法においても旅順要塞は俺の知る史実の時期に、史実より遥かに少ない戦死者数で攻略に成功した。このため第三軍は史実よりも疲弊せず精鋭の兵士を維持したまま奉天会戦に参加したので、自軍の倍以上のロシア軍左翼を突破し、史実ではなしえなかったロシア軍の後方遮断に成功。ロシア軍は士気崩壊して全軍潰走するという日本軍の大勝利となった。
そして俺の知る史実通りに日本海海戦が起こって聯合艦隊がバルチック艦隊を撃滅して完勝。
それでも日本の継戦能力は底をつきかけていたので、米国のセオドア・ルーズベルト大統領の仲介でポーツマス条約が結ばれ、日露講和となったのは俺の知る史実通りだった。
ただ、ここでひとつ大きな違いが出てきていた。「桂・ハリマン協定」が破棄されなかったのである。史実では日露講和を成し遂げた名外務大臣である小村寿太郎が猛反対して破棄されたのだが、その動きに対して、元老の中の元老で、対朝鮮外交=大陸政策における重鎮でもあり、このときは対露戦遂行のため、あえて格落ちして陸軍大臣に就任していた元第三代首相の西郷隆盛が「恩人(=対露講和に協力してくれたアメリカ)との約束を破るもんではなか!」と小村を一喝したため、そのまま有効な協定として認められることになったのだ。このことから、史実と異なり満州鉄道の経営に大きくアメリカ資本が関わることになったのである。
また、日朝関係が変化していたからか、朝鮮併合は起きず、伊藤博文が
また、明治新政府で諸侯会議を重視する慶喜が重きをなしたことから、日本国内では俺の知る史実よりもかなり早く国会(貴族院)が設置されたのである。また、尊皇意識が薄かったからか、伊藤博文の主張する英国式の立憲君主政体が採用され、明治憲法も君主たる天皇が与えた
その一方で板垣退助らも明治新政府で重用されたからか、自由民権運動はあまり盛り上がらなかったものの、逆に板垣退助が新政府内で「広く会議を
何か知らんが、明治の歴史が大きく変わってしまっていたのだった。
狂信的な尊王論が無くなるだけで、だいぶ変わってしまったのだが、それにしても何で『大日本史』が「北朝正統論」を取ることになったんだろう?
違いなんて「徳川」と「吉良」だけでしかないのに……ん?
もしかして……。
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※毎日19:30の投稿で、全5話予約済みです。
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