第3話 下天は夢か……夢じゃなかった!?
「夢オチだったなんて聞いてない……」
ぶつくさ文句を言いながら、起動しっぱなしのパソコンの前で突っ伏してた机から起き上がる吾輩……なんて一人称はもうやめとこう、令和だし。目が覚めた俺は、部分的には妙にリアルだけど全体的にはテキトーだったなと今まで見ていた夢のことを思い出していた。まあ、夢なんてそんなモンだろう。
とはいえ「もしかして」という気持ちはあったので、小説サイトを開いていたブラウザに新しいタブを開いて「徳川家康」と打ち込んでみた。
あれ、出ない?
いや、検索結果は出るのだ。「家康」というキーワードにつられて、検索結果は出る。だが、一番上に出てるのは、何だ?
「吉良家康」
Web辞典の項目である。そのページを開いて読んでみる。
吉良家康(きら いえやす) 一五四三~一六一六年
戦国時代の武将。三河松平家の出身。幼少期に今川家の人質となる。桶狭間の戦いのあとに独立して元康から家康と改名。織田信長と同盟を組む。吉良家の家督を継いで吉良家康となる。信長横死後は豊臣秀吉と敵対するが、のちに臣従。北条征伐後に関東に移封される。秀吉の死後、関ヶ原の戦いを起こして天下を掌握。征夷大将軍に任官して江戸幕府を開くも、すぐに辞官して息子の秀忠に将軍職を譲り大御所となる。大阪の陣にて豊臣家を滅亡させたのちに死去。従一位太政大臣。
お、おおお……歴史、変わってるじゃん!
なら、一番気になるのはコレだ。検索「赤穂事件」。どや?
……出たよ。無念……結局、赤穂事件を防ぐことはできなかったのか。
アレ? やっぱり内容が変わってる。
赤穂事件
元禄十四年三月十四日に、勅使饗応役だった高家
……蒔田家って吉良家の遠い分家じゃない。武蔵の方に土着して、家康の関東移封のときに臣従して、やっぱり高家をやってたはず。確か、赤穂事件のあとで断絶した吉良本家のかわりに吉良氏に複姓してたんじゃなかったかな。そうか、吉良本家が高家じゃなくなっちゃったから、代わりにこっちの家が浅野内匠頭と赤穂浪士のターゲットになっちゃったんだな。
そのあと色々調べてみたんだけど、「吾輩」の吉良家は結構優遇されていた。家康が天下を取ったあとに三河岡崎十五万石(もちろん父祖の地である吉良荘含む)を与えられ、御三家の末席である水戸家に準じる扱いになっていた。大廊下詰め(ただし御三家と同じ上之部屋ではなく加賀前田家などと同じ下之部屋)で、極官は従三位権中納言。そして何と、参勤交代なしの在府大名なのである。さらに基本的に役職につかない御三家と異なり、高家総支配に任じられていたという。
特に、第三代藩主の義央は領内の新田開発や産業振興に力を入れ、中でも大規模な入浜式塩田開発の成功は幕末まで岡崎藩の財政が破綻しなかった大きな要因になったという。このため名君と讃えられた。
そして、高家総支配としての朝廷対策でも辣腕を振るい、時の将軍である五代綱吉が望んだ母親
在府大名でもあることから水戸家と並んで「副将軍」と徒名され、特に義央は三田にあった上屋敷を愛して庭園などを整備したことから、俗に「三田の黄門(中納言の唐名)様」と呼ばれたそうな。在府大名だが、藩主就任前や隠居後には所領である三河岡崎藩にも頻繁に行ったことがあるため、江戸と三河を往復しただけであるにもかかわらず「隠居後に諸国を漫遊した」という設定で「三田黄門漫遊記」のような講談本が書かれたり、歌舞伎の題材となったほか、昭和時代にはテレビドラマとして人気を博した。その漫遊記のお供である「
……待って待って、何か水戸黄門の
そこで、吉良
そして、気になったことがもう一点あった。『大日本史』の編纂も行わせていたが、それに関連して前に書かれていた項目が無かったことに気づいたのだ。
「水戸学」が無い。どういうことだ?
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※毎日19:30の投稿で、全5話予約済みです。
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