蛍とアオミズ様

明海 詩星

蛍とアオミズ様

 玄関を開けたら、蒸し暑い風が入ってきた。

 日が暮れたばかりの夜とはいえ、八月初旬の真夏だ。当然のように一瞬で汗を拭き出させた。

 腕を捲っても、涼しくもなんともない。まるで、自然のサウナ風呂の中にいるようだった。

「あっちぃ」

 呆れたようにつぶやくと、二階の階段から活発な足音を出しながら降りてきた。

 振り向くと、黒の短パンと真っ白なTシャツから健康的な日焼けの色をはみ出させた息子の大地が満面な笑みで立っていた。籠を肩から掛けて、走り出すその瞬間を待っているようだった。

 俺のジャージを掴むと、ぴょんぴょんと跳ねて興奮を抑えずにアピールしてきた。

「父ちゃん、準備できた! 今すぐ行こ!」

「大地、少し待ってな」

 足音一つ出さずに階段を下りてきた妻が遅れて顔を見せた。手には、虫よけスプレーを手にしていた。

「二人とも、これ使ってから外に出て。蚊に刺されたくないでしょ?」

 腕を伸ばすと、妻はすぐにスプレーを振って白い煙を吐き出させた。

 高濃度なのだろうが、色がついているのは少し違和感がある。虫よけというよりも殺虫剤のような臭いがしているのも、すこし奇妙にも思えた。

 これは近場で買った虫よけではなく、海外から輸入して買った物らしい。このあたりは、水田が多いため蚊が大量発生しやすい。

 俺も妻も、この時期になるとそれなりの回数で刺されている。そのたびにかゆみによって眠れぬ夜があった。

 大地は、それほど刺されない体質なのかかゆみで眠れない夜はほぼない。ただ、刺されてしまったときは大きく腫れてしまう。もしかしたら、アレルギーなのかもしれないがまともな病院は遠い。

 刺されない様に、この殺虫スプレーのような虫よけを使うのは当然だった。

「はい終わり。次は大地ね」

「やりたくない」

「わがまま言わない。あなた、ちょっと押さえておいて」

 俺は、言われるがまま息子の鼻と脇を軽く抑え込んだ。

 身体を動かしてイヤイヤと拒絶反応を起こしていたが、すぐにされるがままスプレーの煙を受けた。

 煙が自然と消えるのを待って、息子を離した。大地はずいぶんと嫌そうな顔をして小さな手に拳を作って、俺の太ももを殴った。

 嫌なことをしたのだ。よくあることだ。

 機嫌を治すために、合言葉を口にした。

「それじゃあ、蛍取りに行くか」

 その言葉を聞いた大地は、眼を輝かせて一番に玄関から出た。

 すぐに立ち止まると、また機嫌がよくぴょんぴょんと跳ねた。

「父ちゃん、はやくはやく!」

 機嫌取りは、成功したようだった。


 門をくぐって、小道を十分程度歩く。

 今日は、満月だ。雲はそれなりにあるが、まだ懐中電灯を使うほどの暗さではない。月明りだけで十分に明るいのだ。

 夜遅いから星空は雲に隠れながらも広がっていた。

 大地の手をつなぎながら、星と大地を交互に見た。

 星はきれいだが、その下が忙しなく動くため空を見る時間は短い。

 星の下に立つ息子の大地は、ワクワクを隠すこともせずに跳ねては、走ったりと忙しい。その空いている手には、小さな網と竹の棒が付いた虫取り網を手にしていた。

 俺の親父が孫のために作ったものだが、想像以上に丈夫だ。

 ここ最近は、夏野菜を収穫するためにそれなりに忙しかった。息子と遊ぶことができなかった。保育園に入園している子は、このあたりでは少ない。田舎の欠点がこの子を寂しい思いをさせてしまっていた。

 昨日で、やっと夏野菜の出荷が完了した。すぐに米の収穫を手伝うことになるが、微かな余暇が出来た。今のうちに息子の機嫌取りをしようと考えての、蛍取りだった。

 大地の大好きな遊びとして、虫取りがエントリーされている。多分、一番か二番目あたりだ。

 まだ五歳といっても、十二分に男の子を謳歌している。

 今日も朝食しているとに提案した途端に、眼を輝かせるほどだった。

 今は丁度、七時半だ。蛍が光る時間には間に合うが、俺はすこし足が重たくなっていた。

 蛍を採取する場所は、あの忌々しくもなくしてはならないあの場所だ。

 あそこ以外の場所は、ホタルが全く発生しない。まるで、呪いのように一か所に留まっているようだった。

 ぐいぐいと、手を引っ張られて息子のほうを見た。

「なぁなぁ父ちゃん、蛍ってどこが光ってるの?」

「蛍のお尻が光っているんだ」

「ぜんぶ光らないの?」

「いいや、お尻だけだな」

「おおきいの?」

「このあたりなら、一センチぐらいだな。すっごい小さいだろ?」

「ならさ、あれ何?」

 大地が、指を伸ばして前方を向けた。

 俺は、その先を見てみたが何もいない。目を細めて、凝らした。間違いなく何もいなかった。

「なにもいないぞ?」

「父ちゃんがみようとしたら、なんか消えた」

 俺は、軽く首を傾げた。

 周りを見渡すと、水が貼られた田んぼしかない。苗を植えられて、月明かりを反射させて緑に輝いている。その下は、根元を隠す様に水で覆われている。

「月明りが反射したのを、見間違えたんじゃないか?」

 蛍を観たかったから、反射した光を見間違えたのだろう。

「そうなのかな」

「よくあることだ。ほれ、蛍を見に行くぞ」

 息子のためだ。よくあることだったと、決めつけておいた。

 鳥肌が逆立つようなおかしい感覚がある。微かに胸騒ぎもする。

 この時間帯なら、しっかりと夜目が効くのになぜ息子だけが反射した光を見る事が出来たのか。

 それが見間違いならいい。ただ、もしもがある。

 目的の水田まで、絶対に大地の手を離さない様にした。


 目的地にたどり着くと、大地が感激の声を出した。

「うわぁ~、ホタルが、いっぱい!!」

 水田の上には、綺麗に光る蛍が飛び上がっている。

 点滅するかのように消えては、点灯した黄色のほのかな光が美しく水田を輝かせていた。

 この水田はある理由で使われなくなったのだが、蛍が発生しやすいため子供たちの虫取り所になっている。秋になれば、トンボ。夏になればホタルやヤゴ、虫ではないがカエルなどがよく発生する。

 それでいて、蚊がほぼ発生しないという。

 まさに、息子のような虫取り大好き男児からしたら天国だろう。

 俺は、今すぐにでも取りに行こうとする大地を軽くつかんだ。

「大地、汚れてもいいけどな。蛍は五匹までだぞ?」

 これが、この水田の虫取りのルールだ。

 その子供の年齢までしか虫を採ってはいけない。それ以上を取ってしまったら返さなければならなかった。

「なんで~!」

 理由を知らない息子が、不満そうな声で俺を睨みつけてくる。睨んでいても丸みのある顔がかわいらしくて、まったく効果がないのだが。

 考えていた理由を口にした。もちろん、嘘だ。

 本当のことをいえば、息子が見つかる。

「今日でいなくなるのは嫌だろ?」

「いなくなるの?」

「今日でたっくさん、虫をとって全部いなくなったら悲しいだろ?」

 考えるしぐさをする息子は微かに唸りながら、頷いた。

「いなくなるのは、ヤダ!」

「なら、五匹までな。我慢が出来たら、明日も連れてきてあげるからな」

「うん!」

「それじゃあ、行ってこい!」

 息子は、水が貼られた田んぼの中に足をしずめた。

 ゆっくり、しっかりと歩を進めていく。

 蛍が発する弱々しく美しい光めがけて、大地は網を振った。

 一匹目をとれたようで、跳ねていた。

 俺は蛍を追いかけ続ける大地のほうをずっと見ていた。

 三十分程度だろうか。大地が水田から陸へと上がった

「とれた!」

「ほんとうに五匹か?」

 竹籠の中を見ると、弱々しい光を発する蛍が五匹いる。

「五匹だな。よく我慢できた。えらいぞ!」

 俺は、大地の頭を撫ぜた。泥だらけになった頬をかるく、拭って満面の笑みを見せた息子は虫取りに満足したようだった。

 

 帰り道、機嫌よく歌っていた。かごの中には蛍は五匹。

 蛍は明日には跳ぶことはないだろう。それでもいい。あそこにいる虫は、餌と札の役割がある。五匹だけならば、息子の代わりに死ぬ。

 釣竿に引っ掛けられた餌であり、あそこに住み着いたナニカが息子を見つけるだろう。しかし虫が守護するといった札のような効果もある。

 ただ、年と同じだけの数だけ。それ以上は、毒になる。

 どうしてそうなるのか。なぜそうなるのか親父の祖父の子供の時からあった話だったから分からないのが正直な話だった。

 子供の時から、このホタルを取っておくとナニカは飽いて見つけることをしなくなる。

 だから、俺はこの小さな虫大好き男児を今のうちに耐性を付けさせようとしたのだ。どうせ、大きくなっても絶対に虫取りを止めないだろう。

 ただ、耐性が付くと言ってもその理由もわからないのだ。

 息子のほうを見ると、唄を歌うのを止めて硬い顔をしていた。

「どうしたんだ?」

「声きこえない?」

 耳を澄ましてみると、たしかに聞こえる。

 足を止めて、しゃがんでみた。

「いつから聞こえた?」

「歌ってたとき?」

 水田から離れてからすぐのようだった。

 少し、待っていると満月が雲に隠れた。暗闇で夜目があまり効かなくなる。この先一本道だから、暗くとも問題はない。

 もしかしたら、があった。

「大地、見えないかもしれないけど、絶対後ろを向くなよ」

 不安そうな声で、頷いたような動きを見せた

「うん」

 立ち上がると、声がした。

「~~~~で」

 小さくて、幼くて、それでいて枯れたザラザラとした子どもような声。

「~~ーー~せ」

 声が大きく、近づいてくる。まだ、距離はある。

「~~ーーん」

「大地、抱っこするぞ」

 ジャージを脱いで、後ろを観ない様に視界を覆った。その後、息子を抱き上げた。

 準備が終わる。同時だった。

 水を含んだ靴で、歩いているような足音が聞こえた。

 ヒタヒタ。ペタペタ。

 擬音で表現するなら、この二つだ。

 かなり遠いような、気がするのだが、音の先が左側から聞こえる。ペタペタと、歩いているようだった。

 左といえば、水田だ。苗が植えられた田んぼがある。

「~れーーせ」

 ざらついた声が耳を震わせて、身体が固まりそうになった。

 間違いがない。

 ナニカだ。

 アオミズ様が後ろから追いかけてきている。あり得ない。

 籠の中を何度も確認して、五匹であることを確認した。それ以上ではない。

 なのに、追いかけてくるということは、それ以上蛍を取ってしまったのだろうか。

 息子の身体には蛍が付いていることはなかった。

 あるとすれば。

 恐る恐る、俺は網を見た。

 虫がいた。六匹目の蛍が、しがみついている。

 それも、籠の中にいる蛍に比べて大きい。二センチぐらいの蛍だ。

 それは光っていなかった。

 尻尾から光を発していなかった。

 俺が見つけた途端に、息をするように光を発し始めたのだ。

 固まっていた足を無理やり動かして、だんだんと歩を速めた。

 アオミズ様から追いかけられたら、逃げるしかない。背を振り返って、後ろを見ることもできない。

 見たり、捕まればそれで終わる。

 終わる。そのままの意味だ。

 捕まった誰かは、その後どうなるのかはわからない。

 捕まったことがある人がいない。いるかはわからない。

 アオミズ様は、水がある場所じゃなきゃ歩けない。そういわれている。

 子供の時も一回も会ったことがない俺は、本当なのかは知らない。

 追いかける対象になっているのも息子だ。俺じゃない。

 一瞬、おいていこうと思った。それはできない。

 逃げ切れないし見てしまう。

 それだけはさせたくない。

 走って、自宅まで走った。

 足音は、どんどんと近づいてくる。水音が聞こえる。ぺしゃぺしゃと水たまりを踏んだ足音が聞こえる。

 走っても走っても、自宅が見えない。

 真っすぐのはずだ。歩いて、十五分の道だ。

 距離がおかしくなっているようにも思える。これほど遠い道だったか。

 俺の身体からしがみついているのは分かるが表情を見る事が出来ない。

 ジャージを取ったら、後ろを見てしまうだろう。

 家につくまでは、このまま走るしかない。

「父ちゃん?」

「大丈夫だから、なにも心配しなくていいからな」

 息が切れて、とぎれとぎれの言葉になった。

 息子は、力を入れてさらにしがみついてきた。

「よし。もう少しだからな」

 走って、どれほどになったか。

 水音がさらに近づいて、真後ろからしっかりと聞こえる。

 一歩一歩ごとに水たまりを大きく踏み込んだような足音がする。

 声が聞こえないのは、なぜかは分からない。

 微かな光が見えた。

 家が見えた。

 平屋に明かりがついていた。

 やっとだ。安心したが、歩を遅くせず走り続けた。

 門をくぐって、玄関を開けた。

 照明の光に照らされて、俺はやっと終わったのだと思った。

 でも、俺は後悔した。

 鏡があった。

 姿を照らす水の鏡が、玄関を濡らして待っていた。

「嘘だろ」

 俺を映した。

 息子を映した。

 それを、映した。

 アオミズ様が、俺をみていた。

 俺の肩から鏡を覗くように、眼が逢った。

 俺は、その子供の名前を呼んだ。

「大地?」

 顔が萎んだ息子が、後ろにしがみついた。

 なら、俺が抱き上げているのは誰?

 心臓の鼓動が、痛いほどに鳴らし続けていた。

 ジャージをゆっくりと恐る恐る開いた。

 子供がいた。

 いないはずの子供がいた。

 小さな、男の子が俺を観た。

 この子供の名前も知っている。

 俺だ。

 照明が消えた。蛍が籠から解放された。灯のように輝いた。

 振り返った。大地が、いる。間違えようがない。

 俺は子供を下ろして、ジャージを見た。

 背中が蛍がべったりとしがみつかれていた。二十匹なんてものじゃない。沢山だった。

 子供がとった数と、俺のだと、俺が優先されるらしい。

 アオミズ様の獲物は、俺だった。

「にげ――ないで」

 水死体のような、大地が俺の足をしがみついた。あり得ないほどの重さが、鉛のようにきた。

 俺は、大地を抱きしめて、水の鏡へと歩を進めた。

 足首が沈み、太ももが濡れて、腰まで落ちて、いつしか体全部沈んだ。

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