神の名において許したもうⅣ

 S警察署から歩いて二十分くらいにある総合病院の小児科に着くと、わたしが会いにきた少年は、併設された学習室の中で何かを書いていた。――いや、正確に言えば、紙に鉛筆を塗りつけるように描いている、という感じだ。中に入り近くで見てみると、すでに紙全体が真っ黒になっているのに、少年は線を書き続けている。その表情からは何の感情を感じることができず、神聖な儀式を執り行うかのように、まっすぐな視線を紙に落として、ひたすらに、鉛筆を走らせていた。

「こんにちは。それは何なのかな?」

 わたしが問いかけると、彼はわたしを方を見ることもなく、儀式を続けた。それによって、何を得ようとしているのか、何を忘れようとしているのか、わたしにはわからないけれど、彼の記憶を消してあげたいという気持ちが、胸から静かにこみ上げてきた。学習室の窓のブラインドを下げ、誰にも見られないようにすると、わたしは少年を背中から抱きしめる。少年はそんなことはお構いなしに、黒い世界をより完璧なものにしようとした。わたしは「今、つらい?」と聞いてみると、少年は何も言わなかったが、否定もしない。それは無視ではなく、無言の肯定であると、わたしには理解ができた。理解をして絵を見てみれば、それは黒い炎の海だということがわかった。わたしには、少年は一人の世界に閉じ籠っているわけではないように思える。彼はきちんと意思を持っているのだ。ただ、誰にもそれを見せようとはしてこなかったのではないか。——この絵以外には。

 わたしが彼の目に手をあてると、彼は手を止めた。

「もう大丈夫だよ。そんな恐いものなんて、忘れてしまおうね」

「――忘れて、いいの?」

「もちろん。わたしは、その為に来たのだから。安心して」

 わたしは詠唱を始める。――願わくば、もう二度と、燃え盛る炎を描くことのない、幸せな未来を生きられますように。

「――神の名において許したもう」

 わたしが祝福の言葉を終えると、少年は静かに、わたしの胸に身体を預けた。


 しばらくして、少年が意識を回復すると、わたしは少年を連れて「いのりの園」に帰ってきた。多くの子供たちが、興味深そうに少年に寄ってくる。自分の名前を告げて自己紹介を始めたり、どこから来たのか問うたり、彼らは興味のままに少年にアクションをする。

「はいはい。いきなりそんなに質問したら、びっくりしちゃうでしょう? だから、もう少し落ち着いたら、みんなで歓迎会をしましょうね」

 子供たちは歓迎会に特別なお菓子が出ることを知っているから、大喜びをする。わたしは周りを見渡すと、遠くからわたしと少年を見ている少女と目が合った。わたしが声をかけようとすると、少女は何も言わずに、その場から静かに立ち去ってしまった。


(続)

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