ピザを待つ

犀川 よう

ピザを待つ

 春先の華やかな時間は過ぎ去り、青々しい若葉をつけた桜の木が並ぶ公園道路でわたしは黒猫を助けたようだ。穏やかな日曜日の午後、高齢の男性が乗った自転車がフラフラと運転していて黒猫を轢きそうになっていたのだ。

 たまたま男性の向かい側を歩いていたわたしは無意識に男性を避けると、男性も慌ててハンドルを切った。通り過ぎる時にお酒の匂いがした。酔っているみたいだけど、そんなに大げさに方向転換をする必要もないのではと思っていたら、わたしの足元に黒猫がいて、そちらに気を取られたようだ。わたしは偶然に猫を助けたらしい。

 わたしは制服のスカートを畳んでしゃがみこみ、黒猫を見た。どうやら成猫のようで、前足を隙のない美しさで揃えて座っている。彼か彼女かはわからないけれど、黒猫の瞳に視線を合わせると、深い緑の瞳がわたしを咎めているように見えた。――危ないではないか。そう言っているような瞳だった。直接悪いのはわたしではないのだけれど、わたしは酔っ払いに代わって謝罪する。「ごめんね」と。黒猫の瞳がわたしの心を素直にさせたのかもしれない。

 わたしが謝ると満足したのか、黒猫は桜の木の根元に移動して、ゆっくりと腹を地面につけて丸くなった。――わかったから、キミはもう行っていいよ。黒猫の流れる動作がそう言ってるようにわたしには見えた。黒猫のそんな一連の動作は無駄がなくて、そのまま黒い液体とってなって地中へと消えていくのでないかと思う程、とてもスムーズだった。


  ◇

 

 黒猫との短いドラマを終えたので、わたしは学校に行こうとしたけど、向こう側からまた自転車がこちらに向かってくる。わたしは黒猫が再び轢かれぬよう、自転車が通り過ぎるまで立っていることにした。

 自転車は何事もなく通りすぎるはずだったのに、わたしの前でブレーキ音を立てながら止まった。油を差していないのか、キーという音がやけに甲高く、わたしは黒猫が起きてしまうのではないかと心配になった。黒猫の方を見ると眠っているようで、微動だにしていない。

「やあ」

 自転車の主は屈託のない笑顔をわたしに向けた。彼は同じ高校の制服を着ているが、まったく見覚えがない。ネクタイの柄でどうやら先輩だとわかるくらいだ。

「どうも」

 同じ学校の人間なのだから無視するわけにはいかない。人としての最低限の返事をすることにした。わたしが猫なら瞳で返事すれば済むのに、なんて思いながら。

「君も部活に?」

「――そうではないんですけど」

「そうなんだ。制服姿だったから、吹奏楽部の休日練習なのかなと思って」

 わたしは下を向く。吹奏楽部が目当てではあるが、部員ではない。

「あなたは?」

「ああ、俺はね。補習」

 罪の意識の欠片もない笑顔。むしろ得意気ですらある。

「だったんだけど、ダルいから逃げてきたとこ。で、昼飯食べ損ねて、腹が減っているカンジ」

「そうなんだ」

 わたしの辞書には「そうなんだ」以外に返す言葉が存在しなかった。強いて言えば、「は?」くらいか。

「とにかく腹減っているってわけ」

「それは大変ですね」

「君は腹減ってない?」

「……んー。減っているようないないような」

 学校へ行く目的を思い出して、わたしはひどく緊張することになった。そのせいか、お腹の減り具合がとてもあやふやになっていた。

「そう、じゃあさ。あそこにベンチがあるじゃん?」

「ええ。そうですね」

「あそこで、ピザ食べようぜ」

 そう言うと彼はわたしの反応など見ることなく、スマホでピザを注文していた。

「あ、えっと、君さ。ペパロニ、食べられる?」

 わたしは黙って首を横に振った。彼は「了解!」と言って別のトッピングを指定する。あまりにも意味がわからないので下を向くと、いつの間に黒猫がわたしの足元にいて、あの綺麗なポーズをしてわたしを見上げていた。

「キミもピザ、食べる?」

 黒猫は何も答えてはくれなかった。


  ◇

 

「あと三十分くらいで来るって。便利だよねえ。配達先をGPSで指定できんだからさ」

 彼はベンチの横に自転車を置くと当たり前のようにベンチに座り、当たり前のようにわたしを横に座らせる。そして、これまた当たり前のようにわたしの足元には黒猫が座っていた。

「あの、どうして、ピザ?」

「ハンバーガーの方が良かったかな?」

「いや、そういうことではなくて」

 なかなか話が通じない。

「どうせ、ピザが来るまで時間はあるから、話でもしない?」

 わたしは学校へ行く目的があるので、どうしようか迷った。

 わたしの目的。それは吹奏楽部にいる先輩に告白するためだった。

 わたしは新学期からずっと日曜日になると学校に行き、先輩が演奏している音楽室を眺めていた。直接彼を見るわけではなく、彼のアルトホルンの音を聞き分けて彼に思いを馳せるのだ。わたしは誰もいない自分の教室にいて、彼は部員と音楽室にいる。数十メートルの距離でわたしは彼の音を探し、彼を想う。ただそれだけのために日曜日の学校に行く。わたしにとって日曜日の学校は、特別な空間なのだ。

 わたしはそんな日陰な恋にケリをつけようと、この日こそ先輩に告白するつもりで学校に行こうとしていた。だけど、足元にいる黒猫との出会いから横に座る彼の出現まで、わたしの調子を狂わせる要素が多すぎて、これから急いで学校に行っても、先輩への告白が上手くいく気がしなくなっていた。時間も中途半端だし、告白が成功すると思える良い材料は何もなない。目の前に占いの雑誌があったら「今日はやめておきしょう」と忠告するに違いない、おかしな午後になってしまった。

「――そうですね。せめてお互いの名前くらいわかれば、話ができそうですね」

 わたしは観念して、彼とピザを待つことにした。彼は笑顔で自分の名前を告げると、わたしの胸の中が騒めいた。会ったことはなかったけど、特徴的な名前を聞いてその存在を思い出したのだ。部活終わりの帰り際に、先輩と彼の会話を何度か聞いたことがある。彼は、先輩の親友だったのだ。


  ◇

 

「お、予定よりも早いな。あと十五分だって。自転車でこっちに向かってるみたいだね」

 わたしの名前を聞いても彼は口調を変えることはなかった。

「わたしに用があるんですよね」

 下を向き、黒猫の頭を見ながら聞いた。

「……まあね」

「補習なんて、ウソじゃないですか」

「あーそれはマジ。数学が赤点をはるかに下回っていてね」

「どれくらいですか?」

「名前しか書けなかった」

「――それはお気の毒に」

 そう呟きながら人差し指の腹で黒猫の頭を撫でると、黒猫はされるがままであった。

 しばらく無言の時間が続いた。彼はスマホのアプリで丁寧に残り時間を確認し、わたしは黒猫を触っていた。お互いに次の言葉を探すために。

「――今日も、自分の教室に行くつもりだったよね?」

 彼の方が先に答えを見つけたようで、口を開いた。

「何故、知っているんですか」

「まあ、君がアイツを見ているのところを、何度か、ね」

 あまりいい雰囲気には思えなかった。彼が先輩の話をする時のトーンは、スマホでピザを頼んでいるときの数分の一の明るさもない。

「そうですか。もしかしてわたしのこと、先輩も知っているのですか?」

「うーん。多分だけど、知らない」

 えっ、と思った。だったら何故、彼はわたしを知っているのだろうか。

「俺、ちょっとで吹奏楽部を辞めたんだけど、たまにアイツのところに顔を出していてね。それで、日曜日なのに誰もいない教室に君がいるのを見たことがあるんだ」

 黒猫がベンチに上がり、わたしと彼の間に座った。毛づくろいする様を見るに――どうやら黒猫は「彼女」のようだ。

「そうですか」

 わたしは腕時計を見る。

「あと、十分、くらいですかね」

「だね」


  ◇

 

「アイツ、ある人を想っていてね」

 残り時間に押されるかのように、彼は本題に入った。

「その人、音大に行っていて、アイツも一緒のところに行きたくて必死にやってる」

 わたしは何を聞かされているのだろう、と思った。

「だけど、どうもアイツの才能ではかなりギリギリでさ。だから、ああやって必死で頑張っているんだ」

 わかる。素人のわたしにでも先輩の音は何かを焦っていた。時折、とんでもない音程になることがある。まるで演奏中に何かを思い出して焦り、苛立っているようだった。わたしは彼の説明を聞いて、そういうことだったのかと悲しい納得をした。

「俺もなんとかアイツを助けてやりたいんだけど、結局アイツにとって俺も焦りの一因になってしまってさ」

 わたしは黙って続きを促す。わたしの緊張が彼女に伝わったのか、彼女はゆっくりとわたしの膝の上に来て、あの完璧な丸さとなった。

「だから辞めたんだ。アイツがそれで――姉貴と同じ音大に行けるのなら、と」

 彼は葉桜を見上げる。そっとさりげなく、わたしを見ないようにしながら。

 わたしは震える手を彼女の背にあてる。

「そう、なんですね」

「ごめんな。俺が余計なことをしているのかもしれないけど、君が誰もいない教室でアイツを想っているのがわかっていたから、どうしても話しておきたくて。たまに音楽室から君の顔が見えて、誰の音を探しているのか知ってしまったんだ」

 わたしは、彼がどんな顔をしているのか見ることができなくて、ずっと下を向いていた。

「だからさ、アイツのことは――」

 

 最後の言葉をどうしても止めたくて、わたしは彼を見た。彼は若い緑色の桜並木の先にいる、ピザの配達自転車を見ていた。わたしはそんな彼に何とか言葉を出そうとすると、あれだけ静かだった彼女が「ニャー」と鳴いた。わたしは驚いて彼女を見ると、深い緑色の瞳が、「ピザの耳の部分を食べたいな」と言っているようであった。

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