たのんだぞ、タカシ
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第1話小学校編
■第一回世界競走大会-パラ競走大会
タカシこと野々村隆は今、アメリカ合衆国、ハワイ州オアフ島で開催されていた、第一回世界競走大会に続く、パラ競走大会の視覚障害者男子マラソンのスタートラインに立っていた。
一年の中でも最も天候が安定しているという十月中旬のハワイの空は、それを物語るようにペンキで塗りつぶしたような青空が広がっていた。
三本の紐を三つ編みにした短い紐の片方を、タカシが左手で握り、もう一方の端を、伴走者である西田幸彦が右手で握っている。
この世界競走大会は、大会の権威としてはオリンピックに次ぐ権威ある大会で、タカシが出場しているパラ競走大会も、パラリンピックに次ぐ権威を持つ、格段にレベルの高い大会だった。
タカシは先天的に弱視だった。視力が弱いというよりも、視野が極端に狭いのだ。さらには狭いというよりも、小さいと表現をした方が解り易いかもしれない。
もう少し具体的に説明をすると、前を真っ黒い画用紙で覆った、直径五センチほどの筒を、あなたが実際に覗いた時の状況を想像してみて欲しい。
「真っ暗で何も見えないよ」
きっとそんな言葉を発することだろう。それなら、前を覆っている黒い画用紙の中心に直径五ミリの穴を開けてみよう。これで、少しは筒の向こうの景色があなたの目に見えただろうか。いや、筒の向こうに眩しい光が溢れていることは実感できても、おそらく景色は見えなかったに違いない。この視野の狭さ、小ささが、タカシが見える範囲なのだ。
先天的な弱視なので、タカシは生まれた時から、二十五歳の今日に至るまで、五ミリ以上の視野で景色や、家族の顔、友だちの表情の変化を見たことがなかった。
そんなタカシが、本格的に陸上を始めたのは、中学校に入学してからだった。
それから、めきめきと実力を開花させ、第一回世界競走-パラ競走大会の視覚障害者男子マラソン日本代表選手に選ばれるまでに成長したのだった。
しかも、二十一年間誰も破ることができなかった、視覚障害者の男子マラソン日本記録である2時間28分43秒を、タカシは西田の伴走で出場をした、第一回世界競走-障害者競走大会の国内選考会で、大きく更新する2時間21分19秒という驚異的な記録でゴールし、文句なしに日本代表に選ばれたのだった。
第一回世界競走-パラ競走大会、視覚障害者男子マラソンの部には、全世界七十国から、百三十二名の選手がエントリーをしていた。全盲の選手と同じ環境にするために、極度の弱視であっても、タカシはアイマスクを付けてスタートラインに立っていた。
スタートは、世界競走大会開催のために、ダイヤモンドヘッドの麓、カピオラニ公園に隣接した場所に新しく建設された、収容人数五万人の競技場「カラカウアスタジアム」のトラックからで、ゴールもこのスタジアムに戻って来るコース設定になっていた。
タカシの応援のために、日本からタカシの家族、幼い頃から可愛がってくれた両親両方の祖父母、それに、タカシが陸上を始めるきっかけを作ってくれた、小学校の同級生とクラス担任の恩師。視覚障害者支援学校の陸上部時代のOBたちが、メンバーを募り応援ツアーを組んで、大勢でハワイまで駆けつけてくれていた。
そして、忘れてはならない、伴走者の西田幸彦は、小学校の同級生で、本格的に陸上を始めた中学校の時からタカシの伴走を務めてくれている。
西田と一緒だから、どんな大会でも自分は百パーセントの力を出し切って走ることができると、タカシは西田に全幅の信頼を寄せていた。
いよいよスタートの時間が近づいてきた。
「タカシ、スタートまで三十秒を切った」
「ああ、わくわくしているよ」
「十、九、八、……」
「ドーン!」
ハワイ州知事が撃ったピストルの音が、カラカウアスタジアム中に響き渡る。
「たのんだぞ、タカシ」
いつものように、西田がタカシに声をかける。
「たのんだぞ、タカシ!」
スタジアムに駆けつけてくれた、家族から、応援団から、西田と同じ言葉がタカシの耳に飛び込んでくる。視力が弱い分、聴力は人一倍鋭い。だから、遠くから届くこの声を、タカシの耳は聞き逃さなかった。五万人の大観衆の中から送ってくれた、応援団の声。
タカシが陸上競技を始めるきっかけになった言葉。
「たのんだぞ、タカシ」
そして、タカシは陸上を始めるきっかけになったのは、なんと、小学六年生の時に、入学以来、初めて出場した運動会で、千メートル走を愛犬チロの伴走で走った優勝したことなのだった。
■小学校入学
野々村隆が生まれた年、五棟二千戸あるマンション団地は、空前のベビーブームで、なんと同じ団地内に同級生が五十人以上もいるほどだった。
この五十人以上の同じ歳子供が、団地から近い幼稚園に通い、同じ小学校に入学するはずになっていた。一名を除いてだ。そう、除かれるのは、生まれつき極度の弱視のタカシだった。
タカシの家族が暮らす団地がある、市の教育委員会からは、タカシを視覚障害者支援センターの小学部に入学をさせるように、両親には通知が来ていたのだ。
けれど、両親はタカシを、同じ団地の子供たちが入学する、近くの公立小学校に入学させたいと考えていた。
タカシ家族が暮らす団地には、完成と同時に、結婚して間がない同世代の夫婦が多く入居した。こうした夫婦同士がまるで家族のように仲良く付き合い、初めての出産、子育ての悩みや苦労をお互いに助け合うことで、乗り越えてきたのだった。そして、タカシを含む五十名以上の子供たちは、この春、無事に小学校入学の歳になったのだった。
この五十名以上の子供たちは、各々違う両親の元に生まれ、育ってきたが、団地という大きな枠で捕らえれば、皆がこの団地という家族であり、兄弟だったのだ。
実際に同じ年齢の子供だけでなく、団地で生まれ育った子供たちは、元々年齢が近いこともあり、とても仲がよかった。
生まれつき極度の弱視というハンディを背負うタカシに対しても、特別扱いをすることなく、他の子と何一つ変わらないように接してくれた。
だから、生まれてから今日まで、タカシの口から視覚障害のことで、「辛い」とか「嫌だ」とかの、ネガティブな言葉が発せられることは一度もなかったのだ。
両親は、六歳にして、タカシを団地の子供たちと違う学校に入学させることを、どうしても避けたかった。勿論、タカシの障害のことは十分に理解をしていた。同じ障害を持つ児童が集まる学校に入学すれば、今後、タカシが生きて行く上で役に立つ多くのことを、小学生の時から学ぶことができることも。さらに最悪なことを考えれば、これから大きく自我が芽生えてくる同級生や、団地以外の生徒から、障害のことでいじめを受けてしまう可能性も決して「ゼロ」ではないことも十分に理解した上で、それでも、タカシを団地の子供たちと同じ小学校に入学させてかったのだ。
沢山の利点と、少なくないリスクよりも、両親はタカシに、生まれた時から、どんな時も兄弟のように一緒に過ごしてきた、団地の子供たちとの小学校の思い出という宝物を、タカシの記憶の中に残してやりたいと考えたのだった。
この件で、両親は、足繁く市の教育委員会に出向いた。直接、小学校の校長先生にも面談をし、両親の思いを熱心に説明した。
けれど、タカシの公立小学校への入学は困難を極めた。教育委員会は、視覚障害者支援センターに入学することの利点を繰り返し説明するばかりで、学校側は、障害を持つ生徒が入学することで、その子を特別扱いすることになり、他の生徒への対応が疎かになることのデメリットを理由に、両親を説得し続けた。
両親の思いと、教育委員会、学校の思惑は全く妥協点を見出すことができないまま、小学校入学まで残り三ヶ月を切った二月上旬になっても、この件は暗礁に乗り上げたままの状態が継続していた。
このまま、平行線を辿り、なし崩し的にタカシを団地の子供とは違う小学校に通わせることになるのかと、磐石なはずだった両親の気持ちの中に、僅かなひび割れが入りかけた二月中旬に、事態は大きな動きを見せた。
団地に住む二千戸の家族の人たちが、駅前などの街頭に立って、「タカシを公立小学校に通わせるため」の署名活動を、両親の知らないうちに進めてくれていたのだ。
それだけでなく、団地の子供たちが通っている小学校で教師をしている、野口雅人先生の高校時代の同級生が団地の中にいて、その人が両親の思いを野口先生に伝えてくれて、両親が、野口先生と直接話ができる機会を作ってくれたのだ。
団地の自治会会長から、署名の束を手渡された時、団地の人たちの優しさに、大粒の涙を流しながら何度も頭を下げ続ける両親に対して、会長から、「家族が困っている時に助けるのは当然のことだ」と、優しく肩に手を添えられたのだった。
そして、野口先生と面談した時には、こんな力強い言葉をもらうことができた。
「タカシ君が入学したら、私がタカシ君のクラスを担当し、卒業するまでの六年間、責任を持って他の生徒と分け隔てなく指導をして行くことを、校長に志願をします。だから、決して諦めないでください」
こうした周りの人たちの絶大は支援もあり、両親の希望通り、タカシは団地の五十人以上の子供たちと一緒に、近くの公立小学校に入学することを、正式に許可されたのだった。
ただし、公立小学校に入学することを許可するにあたっては、多くの条件が、教育委員会、小学校側から出されたのも事実だった。
この条件を受け入れなければ、公立小学校への入学は一切認めないというのが、教育委員会と学校側の見解だった。
その条件とは以下の内容だった。
① 入学してから一年間は、両親または祖父母、両親の依頼を受けた代理人が、必ず送り迎えすること。この期間については、一年間が終了した時点で協議をされ、学校側が必要と認めた場合は、延長をされることとする。
② 他の生徒への影響、安全面を考慮し、学校で実施される体育(夏季の水泳を含む)の授業は見学とする。また、同様な理由で、運動会や競技大会も見学とする。
③ 学校の体育以外の授業、教科内容に関しては、一切の特別扱いはしない。
④ 当学校での学習に対応することができず、学習の遅れ、他の生徒への影響が認められた場合は、関係者で協議をして、適切な対応を取ることとする。
この条件を提示された時、両親は特に②項の体育の授業、運動会を、六年間ずっと見学に回ることが一番引っかかった。
極度の弱視ではあったが、タカシは動き回るのが大好きで、走ることも、鉄棒やマット運動も得意だった。両親もタカシの運動能力の高さは認めていたし、周りの親や子供たちからも、タカシの運動神経の良さをよく褒められていた。
果たして、タカシ本人がこの条件を受け入れて、公立小学校への入学を了解するだろうか。こうした大きな不安を胸に秘めながらも、両親は、これまで長い時間をかけて取り組んできた、小学校入学に関することを、きちんとタカシに説明をして、タカシの希望を尊重することにした。
二月最後の日曜日の夕食の前に、タカシを居間に呼んで、このことを解り易い言葉で説明をした。両親からの説明をタカシは身じろぎもせず真剣に聞いていた。
全ての説明が終わり、「タカシは、今父さんがした説明を聞いて、それでもコウイチ君やアキト君たちが通う小学校に入学したいか?」と、答えを求められた。
「みんなと同じ学校に行きたい」
タカシは躊躇することなく、直球の答えを両親に返した。
「大好きな体育の授業は見学しなければならないんだぞ。それでも良いのか?」
父親は念を押して聞いた。
「体育は、学校の中だけでしょう。でも、外で遊ぶことは毎日自由にできるから平気だよ。公園で、鬼ごっこやボール遊びをすることは、何も変わらないのだから」
タカシのこの答えで、両親も提示された条件を受け入れて、タカシを公立小学校に入学させることを決めたのだ。
タカシが、団地内にある大きな公園を、自由に駆けずり回ることができるのには理由があった。それは、タカシが三歳の誕生日に、両親から贈られた豆柴犬の「チロ」の存在だった。
今では、四歳離れた妹の「理香」がいるが、その頃は一人っ子だったこともあり、生後三ヶ月で野々村家にやって来た子犬を、タカシは自分の本当の弟のように可愛がった。
その溺愛振りは、両親が何度注意をしても、チロを布団の中に連れてきて、毎晩一緒に寝るほどだった。食事の時も、いつもタカシの隣にはチロがいた。まさしく、寝食を共にする、タカシにとってチロは最愛の存在だったのだ。
チロの方もタカシのことを最愛の存在だと感じていた。成犬になる過程の中で、チロは早い時点で、タカシに視覚障害があることを理解していたようだった。もとより頭の良い犬だったのだろうが、タカシへの愛情が、チロをより賢明な犬に成長させたのだろうと、両親は思っていた。
タカシが外で遊ぶ時には、必ずチロも一緒だった。短めのリードを片手で握って、公園内を駆け回るタカシとチロの姿は、団地内では日常の光景だった。
チロは、特別な訓練は受けていなかったが、常に一緒に行動をしているうちに、こうした表現が適切かどうかは判らないが、自然に盲導犬の役割を果たすようになっていた。
だから、大勢の子供たちが遊んでいる公園内を、タカシが思いっきりのスピードで駆け回る時も、他も子供たちや遊具などに決してぶつかることはなかったし、鬼ごっこの鬼になった時も、隠れている友だちを誰よりも素早く見つけ出すことができたのだ。
「犬の臭覚を利用するなんて、タカシはずるいぞ」
そう笑いながら抗議することはあっても、それによって子供たちが、タカシを遊びから外すことは決してなかった。
公園内で駆けっこをしても、タカシに敵(かな)う同世代の子供はいなかった。タカシは団地内でも群を抜いて俊足だった。
小学校は、一学年五クラスあった。タカシは一年二組で、担任は両親との約束通り野口雅人先生が務めてくれた。
学校の授業の最初の日、野口先生は、クラスの机の配置を大きく変えた。クラスは全員で三十名。縦五列、横六列の机の配置だったが、タカシが座る真ん中の最前列の机だけを、さらに一メートル前に出したのだ。
まるで、縦横きれいに並んだ三十ピースのジグソーパズルから、真ん中一番上の一ピースだけが一ピース分上に移動した形になっていた。
そして、授業で黒板に字や数字を書く時や、図や表を描く時にも、野口先生は、大きな黒板の真ん中部分だけを使って授業を進めて行った。
牛乳瓶の底のような、分厚いレンズのメガネをかけているタカシに、少しでも黒板に書いた文字や数字がきちんと確認できるようにという、野口先生のアイデアだった。
入学して一年間は、お母さんが妹の理香の手を引きながら、毎日学校まで送り迎えをしてくれたお陰で、通学に問題が発生することはなく、タカシが二年生に進級をすると、集団での登下校の許可が学校から出された。
また、学習の方も、野口先生のアイデアのお陰で、視覚障害のためにタカシの成績が、他の生徒と比べて劣るということはなく、逆に頑張り屋のタカシの成績は、クラスの中でもトップに近かった。
入学して一年間で、タカシが公立の小学校に入学したことによる、タカシ自身への支障だけでなく、クラス、学校への悪影響や支障は、全く無いことが実証されたのだった。
こうして、タカシの小学校生活は三年目に入り、タカシは三年生に進級をした。入学前の約束通り、クラスの担任は、一年生の時から変わらず野口先生が務めていた。
■体育の授業
それは、世間でゴールデンウィークと呼ばれる、四月の終わりから五月初めにかけての飛び石連休が終わって、初めて登校をする日のことだった。
休日が続く間、タカシは仲の良い団地の友だちと、毎日公園を駈けずり回って遊んだ。野口先生から出された宿題を、午前中の早い時間に済ませると、昼ごはんの時間も忘れて友だちと遊び回り、いつもお母さんに「昼ごはんよ」と呼びにこられるほどだった。
もちろん、遊びには愛犬のチロがいつも一緒だった。
こうした休日を過ごしたことが大きく影響をしていたのかもしれない。チロと長い間一緒に公園を何不自由なく駆け回ることができたから、クラスの他の生徒と、自分の待遇が違うことに疑問を持ってしまったのかもしれない。
連休明けの初日の三時間目は体育の授業だった。入学許可の条件として、タカシは体育の授業はずっと見学だった。
いつもは、みんなと一緒に運動場に出て、丸木で作られているベンチに座って体育の授業を見学していたのだが、その日、タカシは運動場に出ることを拒否し、教室に残りたいと野口先生に申し出た。
「身体の調子でも悪いのか? 熱はないのか?」
こんなことは、入学して以来、初めてのことだったので、心配になった野口先生が、発熱の有無を測るためにタカシの額に手のひらを当てようとした。
「止めて!」
そう叫ぶように言うと、タカシは野口先生の手を自分の手ではね退けたのだった。
「タカシ?」
衝撃的な出来事に、野口先生は唖然としていた。今起きたことを素直に心が受け入れることができないでいるようだった。
「運動場に出たくないんだよ。みんなが楽しそうに運動する声を聞くのが、辛いんだ」
タカシは吐き捨てるようにそう言うと、机の上に顔を伏せた。
「そうか、そういう気持ちになる日もあるよな。今日の体育の授業は、教室で見学していてもいいぞ」
机に伏せたまま小刻みに肩を震わせているタカシに、優しくそう声をかけると、野口先生は教室から出て行った。
でも、体育の授業の間中、野口先生はタカシのことが気になっていた。
初めから無理なことではなかったのか。視力以外は、肉体的にはどこにも障害のない元気な男の子に、体育の授業を見学させ続けるなんて。ましてや、日ごろの身のこなしの敏捷性や、休み時間に友だちに手を引かれて運動場を走る姿を見ていると、人一倍、運動能力に長けていて、運動が大好きな男の子なのだ。
その子に、体育授業を目の前で見学をさせることは、大好物のおやつを目の前にして、ずっと食べてはいけないと言い続けているようなものだ。タカシは、体育の授業のたびに、きっと辛い思いをしていたのだろう。
こうした懸念は、一年生の時から感じていた。だから、二年生に進級した時に、野口先生は、自分が必ず責任を持つから、タカシがクラスの生徒と一緒に体育の授業を受けられるように、校長先生から教育委員会に交渉して欲しいと、強くお願いをしたのだった。
けれど、この野口先生の申し出は、「入学条件の変更を学校の方から教育委員会に申し出ることは断じて認められない」と一掃されたのだった。
それどころか、「そんなことをしたら、教育委員会が元々野々村君の両親に入学を推奨していた、視覚障害者支援センターの小学部に転校を勧められてしまう動機付けにもなりかねないぞ」と忠告をされたのだった。
確かに、視覚障害者支援センターに転校をすれば、タカシの大好きな体育の授業も思う存分受けることができるようになる。
「タカシのご両親の強い希望もあるが、この体育の授業一つをとっても、タカシを条件付でこの小学校に入学させたことは、真の意味でタカシのために良かったのだろうか?」
野口先生は、そのことをずっと悩み続けてきた。
その日、野口先生は、昼休みに給食を食べ終わるのを待って、タカシを図書室の横にある個別自習室に誘った。タカシは仕方ないという感じで、ダラダラした歩き方で野口先生の後ろを付いて来た。
自習室に入ると、野口先生とタカシは向かい合わせで座った。分厚いレンズのメガネの奥から強い光を放ちながら、タカシが野口先生を見ている。というよりも睨み付けていた。こんなタカシの目を見たのは初めてだった。どちらかというと、タカシは穏やかな性格で、気持ちの起伏や喜怒哀楽を大きく表情に出さない生徒だった。
だから、この目の光の強さに秘められたタカシの怒りの大きさに、野口先生は気持ちを引き締め直した。
どう話を切り出そうかと考えていたら、先にタカシの方から言葉が出てきた。
「僕が、体育の時に運動場に出なかったから、それで叱るためにここに連れて来たの?」
そんな悲しいことを思いながら、自分の後ろを付いて来たのかと思ったら、胸が締め付けられるように痛くなった。
「タカシに対して、先生がそんなことを思うわけがないだろう」
野口先生は、声に涙が混じらないように注意をしながら、タカシを真っ直ぐに見ながら言った。
「じゃあ、なんで僕一人だけが、ここに呼ばれたの。叱らないなら、先生は僕に何をしようとしているの?」
タカシの声は、ずっと攻撃的だった。攻撃することで自分を守ろうとでもしているように、自分の発言で自身を鼓舞している様子が、手に取るように分かる。まだ十歳にもならない子供が、こんな術を身に付けてはいけない。
「先生は、タカシと二人切りで話がしたかったんだよ。話をしてタカシの気持ちが知りたかったんだ」
「僕の気持ち?」
「そうだよ。タカシの気持ちが知りたいんだ」
「僕が思っていることを話しても、先生には解からないよ」
「そんなことないよ。どうして、タカシはそう思うんだ?」
「だって、先生は目が見えるもの。今日の空の色だって、教室に飾っている花の種類や、クラスみんなの顔や、こうして話をしている僕の表情だって、ぱっと見たら分かるでしょう。でも、僕には見えないから、目をこすり付けるように、先生の顔に近づけないと、僕は先生の顔さえ分からない。そんな先生に僕の気持ちなんか解からないよ」
タカシ、お前はそんなふうに、先生やクラスのみんなのことを思っていたのか。そんな思いを抱きながら、今日まで学校生活を送ってきたのか。そう考えると、野口先生は、入学してからのこの二年間以上の学校生活は、タカシにとっては、決して楽しいものではなかったのではないかという、悲しさと申し訳なさが、心を急速に染めて行った。
「タカシ、先生は無責任なことは言わない。タカシが言うように、タカシの気持ちが全部理解できるなんていい加減なことは言わない。でもな、タカシ、相手の気持ちを理解するために必要なのは、目で見ることだけではないだろう。確かに、形や色、それに常に変化する顔の表情や、雲の大きさや流れる速さは、目で見ることで分かるけど。それには、必ず音の変化があり、手で触った時の形や、硬さや、冷たさなどの手の感触でしか判断できないことも多い。
確かにタカシは視力が弱い。これは紛れのない事実だ。けれど、それを補うために、聴力や、手の感触は目に障害を持たない人たちよりも、必ず敏感で優れたものを持っているはずだ。だから、先生のことを、目が見えるから、タカシの気持ちが理解できないと決め付けてはいけないし、そんなふうに思われたら、先生はとても悲しいよ」
野口先生は、タカシの手を握るとその手に少し力を込めた。
「ごめんなさい」
そう言ったタカシの、メガネの奥から放たれていた強い光は、いつも間に消えていた。
「タカシ、今日、体育の授業の時に、どうして運動場に出たくなかったのか、その気持ちを先生に話してくれないか。もちろん、それがどんなことでも、絶対に叱ったりはしないから」
野口先生は握ったままでいるタカシの手を軽く揺すった。
「僕、体育の時間に外にいて、ただ見学をしている時に、まるで自分は檻の中にいる動物のようだと感じてしまうんだ。動きたいのに動けないし、たとえば、僕が鳥だったとして、ちゃんと羽根があるのに空に向かった飛ぶこともできない、そんな状態だと感じてしまうんだ。だって、そうでしょう。僕は、走ることもできるし、跳ぶこともできる。それに、ボールを投げることも蹴ることだってできるのに、ベンチにずっと座ったままで授業を見学していないといけない。
これって、自由に動くことができない檻の中の動物と、いったい何が違うの?
先生、僕がこんなふうに感じてしまうのは、いけないことなの。僕は他の人よりも変わっているの?」
「ううん、タカシの感じていることは、どこにもおかしいことはないし、いけないことでもない。それは、タカシの素直な気持ちだよ。タカシが、素直な気持ちを話してくれて、先生はうれしかった。よく話をしてくれたな」
「僕、ずっと話したかった。でも、父さんと母さんに、こんなこと打ち明けると、二人は悲しい思いをするでしょう。だって、僕をこの学校に入学させるために、父さんと母さんは、すごく頑張ってくれたんだもの。体育の時間を見学することが、入学する時の約束だということは、僕も分かっているから。でも、どうしようもなくなる時があるんだよ、先生。
こんなこと思ってはいけない、考えないようにしようと頑張ってみるけど、だめなんだ。体育の時間にベンチに座って見学をしていると、どうしても、自分が檻の中の動物になっているように感じてしまうんだ」
タカシは声を上げて泣き出した。温かい涙が、タカシの手を握っている野口先生の手にもこぼれ落ちてきた。
「頑張っていたんだな。タカシは優しい気持ちを沢山もった子供だから、お父さんやお母さんを困らせることが辛いと感じてしまうんだよな。でも、もう頑張らなくても良いんだよ。自分の気持ちを隠さなくて良いんだ」
握っていたタカシの手を優しくほどくと、野口先生はその手をタカシの肩にそっと当てた。小柄で華奢なタカシの肩が、休む間もなく震え続けている。
タカシは、入学してからずっと闘い続けてきた。だから、自分の正直な気持ちを制御することに神経をすり減らしてしまったのだ。
「タカシ、これから先生がする話を良く聞いて欲しい」
タカシが泣き止むのを待って、野口先生は話を始めた。
「もし、タカシが今、視覚障害者支援センターの小学校に転校をしたいと思っているなら、先生がお父さんとお母さんを説得する。支援センターの小学校なら、視覚障害を持つ生徒のための授業が行われているから、お前の大好きな体育の時間も思いっきり運動ができるはずだ。そうしたら、もう、自分が檻の中にいる動物だと感じることもないし、体育の授業は楽しい時間になる。
団地の友だちとは、同じ学校ではなくなるけど、新しい学校での友だちはすぐにできると思うし、休みの日にはこれまでと変わらず、団地の友だちと遊ぶことができるからな。
タカシのお父さんとお母さんは、団地の仲の良い友だちと同じ学校に通わせて、タカシに友だちと過ごす小学校の思い出を作って欲しいと思って、この小学校に入学をするために頑張った。その気持ちは、先生にも良く理解できたし、素晴らしい考えだと思う。それは、タカシにも分かるよな。
でも、それで、タカシが辛い思いをしているなら、どんなに素晴らしい考えでも修正をしなければいけないんだ。人が進んで行く道は、一本道ではないんだ。歩いて行けば、途中いくつもの道に分かれている場所に必ず出くわす。
今は、その分かれ道の場所に来たところだと、先生は思う。どの道を選ぶかを決めるのは、お父さんやお母さん、それに先生を含めたこの学校の人たちと相談してからだが、その中で一番大事なのは、タカシの気持ちだ。タカシが希望することだ。
すぐに、答えを出すことは難しいと思う。けれど、もうタカシは、自分の心を開放してやってもいい。転校ということもあるんだと、気持ちを楽にしてやれ。これが、先生がタカシに話したかったことだ」
急な話なので、タカシには考える時間が必要だ。何日間か、タカシからの答えを聞くのを待つことにしようと、野口先生は思った。
けれど、意に反して、タカシからの答えはその場ですぐに出された。
「そんな悲しいことを言わないで」
消え入るような弱々しい声で、タカシはそう言った。声は小さかったが、言葉ははっきりしていた。
「えっ、悲しいこと?」
野口先生は自分の耳を疑った。たった今さっき自分がした話は、決して悲しい話ではない。タカシが抱えている悩みを解決するための、明日に繋がる話なのだ。
「僕は、この学校が嫌いなわけではないんだ。それどころか、大好きなんだよ。友だちも好きだけど、僕は野口先生のことが大好きなんだ。僕のことを考えて、授業を進めてくれているし、こうして僕の様子が少しでもおかしいと、すぐに話を聞いてくれる。
だから、大好きな野口先生や友ともだちと、僕を引き離すような、そんな悲しいことはお願いだから言わないで」
「タカシ……」
「この学校が好きだから、先生やクラスのみんなが好きだから、体育の時間に、自分が檻の中の動物と同じだと考えてしまう自分のことが、嫌いだし、苦しいんだ」
「分かった、分かったよ。これが、タカシの本当の気持ちだな。よく話をしてくれたな。
先生のことが大好きだと言ってくれたタカシの気持ちが、先生はすごくうれしかった。そのタカシの気持ちと同じくらい、先生もタカシのことが好きなんだ。
だから、考えるよ。タカシにとって一番良い方法を、一生懸命考えるからな。安心して先生に任せておけ」
そう言うと、野口先生はタカシの手を再び握りしめた。
その日の放課後、帰宅してからも野口先生は、タカシにとって一番良い方法を必死に考えた。野口先生が担任を務めている三年二組の時間割では、月曜日の三時間目と、木曜日の二時間目に体育の授業が組み込まれている。
次の体育の授業がある木曜日までに、改善策を具体的に考えて実行する必要がある。
野口先生は、その夜、結局一睡もしないで考え続け、あるアイデアを思い付いたのだった。そのアイデアを実現させるために、火曜日と水曜日の放課後は街に繰り出した。
そして、迎えた木曜日。体育の時間が始まる前に、野口先生はタカシに言った。
「タカシ、今日の体育の時間は、制服の上着を脱いで運動場に出るように」
「でも、まだ外は寒いよ。運動もしないのに上着もなしだったら、寒くて僕、風邪を引いてしまうよ」
「いいから、いいから」
と言ったあとに、「必ず、上着を脱いでこいよ」と付け加えた。
言われた通りにタカシは制服の上着を脱いで、薄手のボタンダウンのシャツに半ズボンという格好でグランドに出た。クラスの他の生徒は、長そでと半ズボンの運動着に着替えている。タカシもほぼそれに近い格好だ。
「タカシ、今日から体育の時間は、ここでタカシにも運動のしてもらう」
「運動、一人で?」
「そうだ。ここに縄跳びとフラフープ。それに、ゴム紐の付いたボールがある。縄跳びとフラフープはその場でやれるから安全に運動をすることができるし、ボールはゴム紐が付いているから、紐をこのベンチの脚に縛っておけば、蹴っても、ドリブルしても、紐を引っ張れば必ず手元にボールが返ってくるから、これで安全だ」
「へえ、これって、野口先生が準備してくれたの?」
そう言うタカシの声が、明らかに興奮をしている。
「あの時に、先生に任せておけと約束をしただろう」
「でも、こんなことして、校長先生に叱られたりしないの?」
「大丈夫、ちゃんと校長先生には許可をもらっている。先生にぬかりはないのだ」
「やったー!」
タカシはその場で何度も飛び跳ねた。
「よし、タカシに指令を出す。縄跳びで、二重跳びとクロス跳びができるようになること。フラフープでは連続で二百回回せるようになること。それと、ボールはリフティングを連続二十回できるようになること。簡単ではないぞ、やれるか?」
「そんなの簡単だよ」
「おお、頼もしいな。では、夏休みが始まる前の、一学期最後の体育の時間にテストをするからな」
「はい。先生、次の体育の時間から、僕もみんなと同じように運動着に着替えた方が良いよね」
タカシはわくわくしながら、そう聞いてきた。
「もちろんその通りだ。運動をするんだからな、運動着に着替えてもらわないと。今日の連絡帳に先生からお母さん宛てに、運動着を用意して下さいと書いておくし、昼休みにもお母さんに電話をしてお願いをしておくよ。だから、今日は、頑張り過ぎてズボンやシャツをあまり汚すなよ」
「それは正直約束できるか、難しいな?」
タカシはうれしそうに首を傾げた。
「おいおい、タカシもちゃんと約束を守れよ」
「へへへへ」
結局タカシは約束を守らないで、体育の授業が終わった時には、紺色の制服の半ズボンが泥で真白に汚れていたのだ。
「タカシ、お前、ズボンが泥だらけだぞ」
野口先生がそう指摘すると、「注意していたんだけどね」と、額の汗を拭いながら言った。
その日の昼休みに、野口先生は、タカシとの約束通りお母さんに電話をした。この時に、月曜日の話しと、今日の体育の時間の話もした。話を聞きながら、お母さんは泣いていた。
「先生、ありがとうございます。運動着はすぐに準備をします。やっぱり、タカシを野口先生のいる小学校に入学させて良かったです。話を聞いて、さらにそう感じました」
翌週の体育の時間から、タカシは運動着に着替えて運動場に出た。その日、クラスの生徒と一緒に運動着に着替えている時の、タカシのはしゃぎ様は半端ではなかった。
夏休み前の最後の体育の授業の日。七月に入ると体育の授業はプールでの水泳になるが、その日は内容を変更して、体育館での授業に切り替えた。そして、最後の十分間を使って、タカシのテストを、他の生徒全員の前で行うことにしたのだ。
「タカシ、緊張しているか?」
まずは、縄跳びの二重跳びのテストから始めることになるが、他の生徒が集まって来る前に、野口先生がそっとタカシに聞いてみた。
「さすがに、ちょっとね。でも、縄跳びとフラフープは自信があるから大丈夫」
タカシからはそう答えが返ってきた。
「と言うことは、リフティングはちょっと心配ということだな」
「連続二十回は、できる時もあるけど、失敗する時もあって、勝率五割という感じ」
「五割の確率なんて、プロ野球選手だと打率五割なんて選手はいないぞ。すごいじゃないか」
「野球とサッカーは違うよ。でも、先生のつまらない冗談のおかげで緊張が少しほぐれた」
「つまらない冗談か。自分ではナイスフォローだと思っていたんだけどな」
いよいよ、生徒全員が集まってタカシのテストが始められた。
まずは、縄跳びの二重跳びからだ。
「すげー!」「こんなの僕たちには絶対できないよ」
タカシは、二重跳びを連続五回も成功させた。見学をする生徒の目が、この二重跳びの成功により俄然真剣味を増して行った。
続いてクロス跳びだ。これは縄跳びの取手を持つ手を胸の前で交差させたまま跳ぶ、二重跳びよりも数段に難易度が高い跳び方だ。
「タカシ、がんばれ」
同じ団地で仲の良いコウイチから応援の声が飛ぶ。タカシは一度大きく深呼吸をすると、まずは基本の縄跳びを始めた。縄が回転するスピードが上がったところで、手を交差させてクロス跳びに入る。一回、二回……五回。
「やったー!」「タカシは縄跳びの天才だ!」
生徒全員が拍手を送る。
「タカシ、おめでとう!」
野口先生の声が飛ぶ。
次のフラフープの連続二百回の回転も、難なく合格をした。
残すは、勝率五割のリフティングだけだ。
「タカシ、今日はクラスのみんながいる。だからボールが転がってもみんなが拾ってくれるから、ゴム紐が付いていないサッカーボールでリフティングをしてみよう」
そう言って、野口先生が体育の時間に使っているサッカーボールを手渡してくれた。
「リフティングを始めます」
自分を鼓舞するようにそう大きく声をかけると、タカシはリフティングを始めた。
二十回連続でできれば合格だ。十二、十三、十四。
「あっ!」
ボールが違う方向に飛んで行ってしまう。こうなると、タカシの視野ではボールを追うことは不可能だ。連続十四回で終わってしまった。
「いつもとはボールが違うから、難しかったね」
野口先生は慰めの言葉を投げた。
「ワン モア チャンスだよ、タカシ」
コウイチが言う。
「コウイチは良いことを言うな。どうだ、タカシ、もう一度チャレンジしてみるか?」
野口先生がそう提案をする。
「はい、チャレンジします」
タカシの再挑戦が始まる。
十三、十四、十五。
「十六、十七、十八、十九」
生徒全員が声を揃えて、回数を数える。
「二十」
「やったー! タカシ、お前本当にすごいやつだな」
コウイチがタカシに飛びつく。それを合図に生徒全員がタカシの肩や、頭に「おめでとう」と言いながら優しくタッチして行く。
「ありがとう。みんなが応援をしてくれたからできたんだ」
そう言うタカシの顔は、うれしそうで、少し誇らしげだった。
その後、タカシは縄跳びもリフティングも格段にレベルアップをし、ボールではリフティングだけでなく、ドリブルもNBAのバスケット選手さながらの技術を身につけて行った。
■運動会
そして、タカシたちは小学校最終学年の六年生を迎えた。
長い夏休みを終えて、日焼けをして登校してくる生徒たちを、野口先生はにこにこしながら教室で迎えた。
体育館での始業式が終わり、教室で学級会が開かれた。議題は十月第二日曜日に開催される運動会のことだった。
タカシたちが通う小学校の慣例で、卒業前のクラスの団結力を強くすることと、小学時代の思い出をより色濃くする目的で、運動会では六年生だけクラス対抗戦になっていた。クラス対応のリレー、徒競走、玉入れ、綱引き、それに、これも六年生限定だが、千メートル走も行われた。クラス対抗の競技の中でも、千メートル走は一位から八位まで得点がもらえるので、クラス代表に選ばれた選手は、毎年本番までに真剣に練習をするのだった。特に、優勝者の得点は、二位の二倍もあり、運動会の最終競技でもあるので、出遅れていたクラスが、この千メートル走の優勝で大逆転することもあるほどだ。
学級会では、この対抗戦に出場する選手を決めることが目的だった。
徒競走、玉入れ、綱引きは全員参加なので、リレーと千メートル走の選手を決めることになる。リレーは男女四名ずつ計八名。千メートル走は、男女問わず各クラス三名ずつ出場することができる。
リレーは、五月に体育の時間に行った、百メートル走の記録の良い者順に、問題なく選出をされた。六年生になると各自の肉体的な成長の差が顕著に出て、五年生の時には目立たなかった男子生徒が、六年生なって急に身長が伸び、それに比例して走りも急に速くなったりすることも多かった。
タカシのクラスでも、五年生の時にリレーの選手に選ばれた男子四人のうち、六年生の今年も選手になれたのは、たった一人だけだった。それくらい、六年生は急速に成長をして行く時期なのだ。
小学校に入学して以来、ずっと運動会は見学に回っていたが、こうして選手を決めたりする学級会に参加するのは、タカシにとっても楽しいことだった。クラス全員のわくわく感がタカシにも伝わってくるからだ。
リレー選手男女四名ずつもすんなりと決まり、残すは千メートル走に出場する三名の選手を決めるだけだった。
「千メートル走は得点が高いから、これで沢山入賞者を出さないと、他の競技でどんなにがんばっても、一気に逆転をされてしまうぞ」
委員長のマサルがひときわ大きな声で、千メートル走の得点の高さを強調する。
「千メートル走は得点が高いのか?」
タカシが後ろを向いて、コウイチに聞く。
「そりゃそうさ」
「なぜ、そりゃそうなの?」
「千メートルなんて気が遠くなるような長い距離を走るのだから、しんどい分だけ得点が高いんだよ」
「しんどい分だけね」
タカシは納得できたような、できなかったような曖昧な気持ちだった。
「小学校最後の運動会なので、優勝をしてすばらしい思い出を作って、卒業ができるようにがんばろう」
マサルがクラスを盛り上げるように、右手のこぶしを突き上げる。
「マサルはそう言うけど、四組の西田が、短距離も長い距離も関係なく、とにかく速いという噂で持ちきりだぞ。四組は優勝をねらって、西田をリレーと千メートル走の両方の選手に選んだらしい」
クラスでも情報通の、ヨシノリが立ち上がってニュースを読むような口調でみんなに告げる。
「そんなことして、ルール違反じゃないのか。普通、リレーと千メートル走は別の選手が走らないと違反だろう」
コウイチが指摘をする。勿論、なんの根拠もない発言で、感じたままを口にしているだけだ。委員長のマサルの代わりに野口先生が、コウイチの質問に答えた。
「リレーで同じ選手が二区間を走ると違反だが、リレーに出た選手が千メートル走に出場をしても違反ではない。学校のルールではそうなっている」
「これまでにも、同じことがあったのですか?」
同じ団地のミホちゃんが質問をする。解析をするのが好きで、疑問に思うと納得するまで相手を質問詰めにする性格でもある。
「先生は、六年生の担任は今回が初めてだから正確には判らないが、おそらくこれまでに、リレーと千メートル走を同じ選手が走ったことはないのではないかな」
「それくらい、西田の能力がすごいということだよ」
またまた、ヨシノリが情報通ぶりを前面に出してくる。
「でも、クラス対抗リレーの三番あとに、千メートル走が始まるプログラムになっているから、いくら西田君の足が速くても、リレーの疲れが残った足で走る分、絶対に不利だと思うけどなあ」
ミホちゃんの解析が始まった。
「そうしたハンディがあっても、なおかつ西田をリレーと千メートル走両方の選手に起用しようと思わせるくらいに、西田の能力が高いという証拠だよ」
ヨシノリとミホちゃんの攻防が、このまま永遠に続きそうな危険を敏感に感じ取ったのか、議長のマサルが議事を次に進めるために大きな声を出す。
「まずは、千メートル走に出場をする選手の候補を挙げてください。自薦でも推薦でも構いません」
「ナオヤが良いんじゃないか。瞬発力はないけど、鬼ごっこの時もしつこく追いかけてくるし。千メートル走には向いていると思うよ」
金山直也の名前が黒板に書かれる。瞬発力がないと指摘されたことで、当事者のナオヤはむくれた顔をしていたが。
「コウイチは足が速いから、千メートル走でも力を発揮できるんじゃないか」
「僕はダメだよ。すでにリレーの選手に選ばれているし」
コウイチが辞退を表明する。
「西田もリレーと千メートル走の両方に出場するんだから、コウイチだって両方出場しても西田と対等に戦えるんじゃないのか?」
リレーの選手にも、おそらく千メートル走の選手候補にも名前が挙がる可能性が低い、ヨシノリと同じ団地のアキトが意見を述べた。
「僕は、西田のようにリレーを走ったすぐあとに、千メートル走を走れる自信はないよ。僕としては、リレー一本に絞って集中をしたいと思う。何しろ、百メートル走のタイムがクラスで一番速いのは僕なんだし」
「ちぇっ、ただ足が速いことを自慢したいだけだろ」
アキトがすぐに反論をする。まあ、コウイチとアキトは自宅も近くて、団地の中でも特に仲が良い。これによって、コウイチの千メートル走への出場はなくなった。
長い時間かけて結局、金山直也と柏原省吾の二人だけはやっと決まったのが、残りの一人がなかなか決まらなかった。
「タカシが良いだろう。走ることだったら、僕よりも速いんだし」
グッドアイデアが浮かんだと、発言をする前にそう前置きをして、コウイチがタカシを推薦した。
「本当だ、タカシを忘れていたよ。夏休みの時に中学生を追いかけた武勇伝は、本当にすごかったよな」
アキトがまるで昨日のことのように、その時のことを詳細に話始めた。
それは、夏休みが始まって十日あまり経った七月の終わりの日だった。午前中の涼しいうちに、一日分の夏休みの宿題を済ませると、日中は日差しが強すぎるという理由で、外で遊ぶことを団地のどこの家の子供たちも、母親から禁止されていた。
その代わり、持ち回りのようにどこかの家に集まって、仲の良い家族が昼ごはんを一緒に食べるのが慣例になっていた。昼ごはんを食べたあとは、そのままその家に日が翳り始めるまでアニメのDVDを観たり、夏休みの宿題の工作や絵を描いたりして過ごすのも慣例だった。
その日も、アキトの家に、コウイチ、タカシ、マサル、ミホちゃんの家族が集まって、そうめんの昼ごはんを食べたあと、アキトがおばあちゃんに先週買ってもらったばかりの、特撮映画のDVDをみんなで観ていた。
「僕は、これをおばあちゃんに買ってもらったんだよ」
そう言って自慢げに、アキトと二歳違いの弟のフトシがゲーム機を手に持って、DVDを熱心に見ているみんなの前に現れた。
「えっ、フトシ、それって最新のゲーム機だよな。画面もすごくきれいになったと評判だけど、ちょっと見せてくれよ」
コウイチが口火を切ると、みんなの興味は、特撮映画から一気にゲーム機へと流れを変えた。フトシの手からゲーム機を奪うと、みんなで回しながら画面を覗き込んでいた。
「本当にきれいだな。前の機種とは比べ物にならないほどだよ」
画面を見た、タカシ以外の全員が驚嘆の声を上げた。
「そろそろ、日差しも弱くなってきたから、公園に遊びにいったらどう」
あまりの騒がしさに辟易して、アキトのお母さんが、子供たちの声に負けないように大きな声で叫ぶ。
「そうしよう、昨日の続きの警察鬼ごっこをやろうよ」
コウイチがすぐにそう提案をする。
「何よ、その警察鬼ごっこという物騒な名前の遊びは?」
コウイチのお母さんが、息子に聞く。
「警察と泥棒の二手に半分半分分かれて、警察が泥棒を追いかけて捕まえる、まあ、鬼ごっこの変形だよ」
コウイチがそう説明をする。「警察と泥棒ね」とコウイチのお母さんが表情を歪める。
「警察と泥棒というのが、スリルがあって迫力を増すんだよ。今、僕たちの間では大人気の遊びなんだよ」
そう言うと、フトシも含めた子供たち全員がアキトの家から出て行った。
「フトシ、ちゃんとゲーム機を置いて行きなさいよ」
そう注意された時には、すでに右手にゲーム機を持ったままフトシは玄関のドアを出ていた。
タカシは一度家に帰ると、愛犬のチロを連れて公園に急いだ。
今日は、ジャンケンをして、タカシとマサル、ミホちゃんは警察役に、アキトとコウイチは泥棒役に決まった。他にも日が翳るのを待っていた子供たちが次々に公園に集まって来て、この鬼ごっこに加わった。でも、フトシはゲームをやると言って鬼ごっこには加わらなかった。
アキトが夏休みの武勇伝と言った出来事が起こったのは、警察鬼ごっこが最高潮に盛り上がった頃だった。
「ドロボー!」
フトシが急に大声を上げた。このフトシの声を、誰もが鬼ごっこの中の泥棒だと思って、気にかけなかったが、誰よりも聴力の優れているタカシだけは、フトシの声が尋常ではないことにすぐに気がついた。
タカシが声の方向を頼りにフトシのところに駆けつけると、フトシが泣きながら、中学生の男の人にゲーム機を奪われたと、中学生が逃げた方向を指差した。
「すぐに追いかけるぞ」
チロにそう言うと、タカシは中学生が逃げたという方向に駆け出した。追いかけ始めた時には姿は全く見えなかったが、少し走って角を左に曲がると、歩いている人の影がぼんやり見えた。この影が当の中学生かどうかは、タカシの視力では判断できなかったが、とにかく確実な方法で確認することにした。
「ゲーム機を返せ!」
そうタカシが叫んだ瞬間に、その影はすごいスピードで逃げ出したのだった。
「やっぱり、あいつが犯人だ。そのまま、追いかけよう」
逃げて行く影を追いかけて、タカシとチロも全速力で走った。一度姿を覚えたチロが、案内役になって、中学生を追いかけて行く。少しずつだが確実に中学生の影が大きくなってくる。
とうとう、隣町のコンビニの駐車場の所まで追い詰めた時に、中学生はその場に倒れこんでしまった。
「フトシのゲーム機を返せ!」
タカシがそう言うと、素直にゲーム機を返してきたが、明らかに激しく繰り返す、苦しそうな呼吸の音だけが聞こえてくるだけで、ひと言も言葉を返してはこなかった。
こうしている間に、異変に気づいてタカシの後を追いかけて来たコウイチたちがここに到着した。
「タカシがあまりに速いから、すぐに姿を見失ってしまったよ」
それでも、さすがに百メートル走のタイムではクラスで一番速いコウイチが、一番に到着していた。
「フトシのゲーム機を強奪したのは、こいつだな」
コウイチが、駐車場の地面に座り込んだままの中学生を指さしていたところに、第二陣のアキトと被害者のフトシを含む、鬼ごっこしていた子供たちがコンビニに到着をした。おかげでコンビニの駐車場は、一時的に催し物でもやっているような賑わいになってしまっていた。
「人聞きの悪いことを言うなよ。俺は、あのチビからゲーム機を強奪なんかしていないからな。ちょっと貸してくれと手に取ったら、突然、『ドロボー!』と叫び出したから、怖くなって逃げただけだよ。ゲーム機もすぐに返すつもりだったのに」
ようやく呼吸が整ってきたのか、中学生はそう言い訳をした。
「フトシ、このお兄さんのいうことは本当なのか?」
「貸してくれって、僕が『いいよ』と言っていないのに、ゲーム機を僕から奪ったんだよ」
フトシはそう説明をした。
「だから、貸してもらおうとしただけで、奪ったんじゃないって。この最新型のゲーム機がずっと欲しかったけど、俺、中西と言うんだけど、父さんがいなくて母さんと妹二人の四人家族だから、こんな高価なゲーム機を買ってくれなんて、口が裂けても言えなくて、公園に来たら、このチビが持っていたから、評判になっているきれいな画像を見たくて、声をかけただけなんだよ。これ本当の話だから、信じてくれよ」
中西は両手を合わせて、「ごめんなさい」とフトシに謝った。
「やましいとこがないなら、どうして逃げたりしたんだよ」
マサルが追求をする。さすが、クラス委員だ。
「チビには突然叫び声を上げられるし、続いて犬が追いかけて来るわで、同じ状況になったら誰だって逃げ出すだろ。とにかく、本当に悪気はこれっぽっちもなかったんだよ」
中学生はそう言って、犬とタカシを見た。
「それにしても、この犬と一緒に走って来た、そこの坊主、お前、かなり走るのが速いな。それに、俺がこうして倒れこんで、死んでしまうかと心配になるくらいに胸を苦しくしているのに、お前、全く呼吸も平気そうだけど、苦しくないのか?」
「全然」
平然としてタカシは答えた。
「お前、速いだけでなく、持久力もあるんだな。マラソンをやれよ。絶対に一流選手になるって。これは、俺が保証してやるよ」
中学生が立ち上がると、そう言ってタカシの肩を軽く叩いた。
「ドロボーに保証されても、なんだか」
「だから、ドロボーではないと何度も言っているだろう」
「でも、僕は視力が弱いから、一人では走れないんだ」
タカシが分厚いメガネを指差して説明をした。
「そんなの全く問題ないよ。さっきだって、このワンちゃんと一緒に走って来たじゃないか。視力が弱いとか、全く見えない人でも運動ができるように、走る時には伴走者が一緒だし、サッカーなどの球技の種目で、ブラインドサッカーという目にマスクをしたままやる競技が、パラリンピックには正式にあるよ」
「パラリンピック?」
「そうさ、パラリンピックは身体や脳などに障害を持つ、そうした人たちのオリンピックなんだよ。だから、タカシというんだっけ、タカシもパラリンピックを目指せよ。あれだけ、速く、長く走ることができるのだから、絶対にものになるって」
中西はそれだけ言うと、フトシに「ごめんな」ともう一度謝って、その場から離れて言った。
「だから、タカシは、長い距離を速く走ることができる才能に恵まれているんだよ」
アキトが話を締め括る。
「そんなクラスの宝が存在するのに、クラス対抗戦の千メートル走に出場させないなんて、文字通り宝の持ち腐れだよ」
委員長のマサルが、博学なところをひけらかす。実際、マサルの成績はクラスでトップだった。
「でも、タカシ君は、体育の授業だけじゃなくて、運動会も毎年見学だよ。タカシ君が千メートル走に出場することを、学校が許可するのかな。どうなんですか、先生?」
ミホちゃんが先生とタカシの顔を交互に見ながら聞く。野口先生は、首を傾げていた。その表情を表現するなら、「浮かない顔」だった。
「難しいかもしれないな」
先生は、タカシの出場で盛り上がっているクラスの雰囲気に水を指すのが辛いというように、弱々しい声で答えた。
その答えは、成績トップのマサルには想定内のことだったのだろう。すぐに反論に転じた。
「でも先生、さっきのアキトの話の中に出てくる中学生も言っていたように、パラリンピックのマラソンにだって視覚障害者の部があるんだよ。こうした事実をきちんと説明をすれば、校長先生だってタカシが千メートル走に出場することを納得してくれると思うよ」
さすが、マサルは説得力のある話し方をする。
「マサル、それは話がごっちゃ混ぜになっているぞ。パラリンピックのマラソンは、伴走者と二人一組で走るけど、運動会の千メートル走は、一人だからな」
「だったら、タカシも誰を伴走者にして二人組で走ればいいだけじゃないか。おい、誰かタカシの伴走者に立候補しろよ」
けれど、マサルの呼びかけには誰も手を挙げなかった。ここまでに、ナオヤとショウゴの二人を決めるだけでも大変だったのに、足が速いと評判のタカシの伴走は、誰でもが簡単に務まるものではないとみんな判っているのだ。
しばらく待ったが、手は挙がらなかった。
「ええい、仕方ないな。僕がタカシの伴走をやるよ」
リレー一本に集中したいと、一度は千メートル走の選手になることを断ったコウイチが、伴走者募集に希望者が出ない状況にしびれを切らして、自ら手を挙げた。
「コウイチ、お前、本当に良いのか?」
議事進行役のマサルが、コウイチが手を挙げたことに驚きの声を上げた。
「だって、タカシの速さに付いて行けるのは、クラスでは僕くらいしかいないだろ。手を挙げたのはクラスが対抗戦で優勝をするためでもあるけど、タカシを小学校最後の運動会に出場をさせてやりたい気持ちの方が大きいんだ。リレーのすぐあとで千メートルを走るのは辛いかもしれないけど、伴走者に立候補したからには、タカシと一緒に練習を積んで、僕も一生懸命に走る決意だよ。タカシの運動会の思い出に僕も花を添えたいし」
「コウイチ、お前の気持ちは良く解った。良く決断をしてくれたな。と言うことは、あとは野口先生の頑張りだけだということだな」
マサルが野口先生の方を見る。先生は、すでに覚悟を決めている顔をしていた。
「つまりは、伴走者付きでタカシが運動会の千メートル走に出場できるように、職員会議で許可をもらってくれということだな」
「そういうことです。お願いします」
マサルの声に合わせて、クラスの全員が立ち上がり、「お願いします」と頭を下げた。もちろん、タカシも立ち上がって頭を下げた。
「解った。早速、今日の職員会議に、この話を出すことにする。今の時点で確約はできないが、先生も一生懸命に頑張ってみる」
その力強い言葉に、生徒全員から拍手が起こった。
「先生、カッコ良い!」
女子の声に、野口先生が照れているのが可笑しかった。
次の日の朝一番、授業が始まる前に、野口先生がニコニコしながら、「みんなに話がある」と切り出した。でも、話が始まる前に、この野口先生の表情を見ていたら、生徒全員がタカシの運動会出場を確信していた。
「タカシ、それにみんなも喜べ。タカシの千メートル走出場の許可が下りたぞ。まあ、最初は反対意見もたくさん出ていたが、先生の説明に説得力があったのかな、後押しをしてくれる先生もいて、最後は校長先生も気持ちよく許可を出してくださった」
ここまで話しても、生徒の間からは全く歓声が上がってこなかった。野口先生は生徒のこの無関心ぶりに、不満そうで不安そうな顔をしていた。
「なんだ、お前たちうれしくはないのか? タカシが運動会に出場できることになったんだぞ」
野口先生は、真剣な顔をして生徒に訴えている。
「先生は、分かり易いんだよ」
アキトが我慢し切れなくて、吹き出しながら言った。
「分かり易い?」
「そうだよ。みんな学校に来たとき時から、タカシの話がどうなったか心配で仕方なかったのに、先生の顔を見た瞬間に、みんな安心してしまったんだよね」
「先生の顔を見た瞬間に……、安心をした?」
「だって、先生は考えていることが顔に出易い単純なタイプだから、教室に入って来た時に、『タカシは運動会に出場できるぞ』って、先生の顔に書いてあったもの。だから、すぐにみんな安心をしてしまったんだよね。サプライズしたかったんなら、もっと上手に演技をしないと、最近の子供たちは大人の表情をすぐに見抜いちゃうから」
いつの間にか、先生と生徒の立場が逆転していた。
「野口先生、ありがとうございました。昨日、みんなのアイデアを先生が職員会議にかけてくれるって言ってくれたことがうれしくて、ひょっとしたら運動会に参加することができるかもしれないと思ったら、あんまりうれし過ぎて、昨日はなかなか眠れませんでした。先生が頑張ってくれて、運動会に参加することが現実になって、僕は本当にうれしいです」
タカシは、みんなより一メートル前に出ている机から立ち上がって、涙声で頭を下げた。
「タカシ、泣くのはまだ早いぞ。涙は千メートル走で優勝した時のために取っておけよ」
コウイチがそう言う。
「言っているコウイチも泣いているじゃないか」
そう言ってからかっているマサルも泣いていた。
「先生、ありがとうございました」
マサルのこの声が合図だったように、全員から「ありがとうございました」のお礼の声が、野口先生の元に返ってきた。
「お前ら、大人を泣かすような、余計な能力も身に付けているんだな」
そう言って、野口先生は指先でそっと涙を拭った。
「タカシ、昨日言っていた通り、今日の放課後から練習をするからな。運動着は持ってきているだろう」
「うん、持ってきたよ」
「ナオヤとショウゴも持ってきただろう」
二人も大きく頷き返した。
「早速、練習か。先生も付き合うぞ」
「僕も付き合うよ。タカシを推薦したのは僕だし。責任もあるしな」
とかなんとか理由を付けていたが、アキトは練習に付き合いたくて仕方がなかったのだ。
僕も、私もと、生徒のほとんどが練習に付き合いたいと言い出して、結局全員で練習に立ち会うことになった。
放課後、運動着に着替えたタカシ、コウイチ、ナオヤにショウゴが運動場に集まった。
「コウイチ、これが運動会の時にタカシと繋ぎ合う紐だ。良いか、練習の前に伴走者としての注意事項を教えておく」
「えっ、伴走者って、ただ一緒に走れば良いだけなんじゃないの?」
コウイチが、野口先生から伴走者の注意事項があると聞かされて、急に緊張した顔になった。
「伴走者にはちゃんとルールがあるんだよ。まあ、そんなに難しいことではないから、すぐに実行できると思う。まず、二人を結ぶ紐を、どちらかが絶対に放してはいけない。これは常識だな。次に、これが一番肝心だが、伴走者は選手の前に出て引っ張ってはいけない。これは完全な違反行為で即失格だ。選手を実力以上の走力に引き上げることになるから、かなり厳密にチェックされる」
「じゃあ、タカシが僕を引っ張ってくれるということなの? それは、ちょっとおかしいと思う。だって、タカシは視力が弱いからこそ僕が伴走をするのだから、タカシが僕をリードして行くのは違うと思う。元々、そんなことができるなら伴走者なんて必要ないでしょう」
コウイチの言うことは最もだと、隣で聞いていたタカシは思った。
「タカシがリードをするのではなくて、二人が並んで走って、コースの様子を言葉で教えたり、次の行動の指示を出したりするのが、伴走者の仕事なんだよ。例えば、もう十メートルくらい走ったら、コースは左にカーブするからとか、前の選手に追い付いたから、抜くために少し外側に出てスピードを上げるとかの指示を出すとか。伴走者は、ただ走るだけでなく、司令塔でもあるんだよ」
「司令塔なんて、コウイチカッコいいな」
アキトが冷やかす。
「伴走者って、結構大変なんだな」
コウイチが素直な感想を口にする。
「それと、これが一番大切なことだが」
そう野口先生が言いかけた時、「えっ、まだあるの?」と、うんざりしたような声がコウイチから出た。
「コウイチ、そんな表情をするのと声を出すのは絶対止めろ。お前のそうした表情は、タカシにははっきりと確認することができないかもしれないが、表情以上にその声や言い方が、今のコウイチの気持ちを物語っている。タカシはそれを敏感に察している。いいか、選手と伴走者との間で一番大切なことは、信頼感だ。選手は伴走者に対して、こいつに任せておけば大丈夫という安心感、伴走者は選手に対してこいつが思いっきり実力を出し切れるようにサポートをする。こうした信頼関係がないと、学校始まって以来の前代未聞の挑戦は、絶対に上手く行かない。
選手と伴走者という意識ではなく、二人とも選手であり、同時に伴走者だという意識を持つことが重要だ。
伴走は、一長一短でできることではない。先生が調べたところでは、大きな大会で上位入賞を果たしている視覚障害を持つ選手と伴走者の関係は、かなりの長い時間を一緒に積み重ねてきたからこそ、こうした強靭な信頼関係ができ上がったと、どの選手も異口同音に言っている。
だけど、コウイチとタカシは、同じ団地で、それこそ兄弟のように育ってきたので、すでに強い信頼関係を持っているはずだから、これが強みだ。でも、この兄弟のような関係は、油断すると慣れになり、遠慮がない分、相手を傷つけることを無意識のうちに口にしてしまうのだ。選手は伴走者を、伴走者は選手を、大事なパートナーとして尊重をする必要がある、たとえ、それが、コウイチやタカシのように気心の知れた幼馴染でもだ」
野口先生の話を聞いている間、タカシもコウイチも、何度も頷き返していた。
「はい、解りました」
二人は同時に大きく返事をした。
走る前の準備体操を終えて、いよいよコウイチの伴走による、タカシの千メートル走出場に向けた練習が始まる。タカシがこうして正式に運動場を走るのは、入学して以来、初めてのことだった。だから、団地に住んでいない生徒の中には、タカシが走る姿を見ること自体が初めての生徒もいる。団地の生徒たちが強力に推薦するタカシの走りを、期待と好奇心の入り混ざった顔で、今か今かと見学の生徒全員と野口先生が待っていた。
野口先生が、土の上に足で引いたスタートラインの前に、内側からナオヤ、ショウゴ、コウイチ、タカシの順に並ぶ。タカシは利き手が右なので、走りに影響が大きい腕振りを有利にするために、右手をフリーにして左手でコウイチと繋がる紐を掴むことにした。これは野口先生のアドバイスだった。先生は、昨日一晩で伴走者についてかなり調べ、勉強をしてくれていた。
野口先生の「よーい、スタート!」の号令で、四人が一斉に走り出す。すぐに、タカシ、コウイチ組みと、ナオヤ、ジョウゴとの間に差ができ、それがどんどん広がって行く。
「コウイチ、絶対にタカシの前に出るなよ」
野口先生が大きな声で注意を送る。この言葉を守ってコウイチはタカシの真横か、やや下がったポジションで走っていると、野口先生を含めた見学者は全員がそう思っていた。
一周百メートルのトラックを一周して、二周目に入った。急にタカシとコウイチの身体が離れ始め、タカシがコウイチを引っ張っているような形での走りが続いた。そして、二周目を走り終えたところで、とうとうコウイチがタカシと繋がっていた紐を手放してしまったのだ。
「えっ?」
見学者から驚きの声が上がった。それでもタカシは走り続けていた。
「タカシ、ストップ! 走るのを止めろ」
野口先生が大声を上げる。逆の事態を予測していたので、先生は何度もコウイチに注意を促していたのだが、まさかコウイチが紐を手放してしまうという、こんな事態は想定もしていなかった。だから目の前で起きたことなのに、野口先生は事態をすぐに呑み込めなかった。
「コウイチ、どうしたんだ。やっぱり、伴走は難しいのか?」
足を止めたコウイチのところに見学者と、ナオヤに手を繋がれたタカシが集まった。ショウゴもすぐに駆けて来た。
「僕では伴走者は務まらないよ。だって、タカシが速過ぎるもの。僕の走りでは付いて行けないんだよ」
「えっ、嘘だろ。お前、百メートル走ではクラスで一番速いじゃないか?」
アキトは「信じられない」という顔をしている。
「それは、体育の時間にタカシがいないからだよ。タカシが百メートルを走っていたら、ダントツでクラスナンバーワンだよ」
野口先生を含めた見学者全員が、改めてタカシの顔を見る。
「コウイチの言っていること良く分かるよ。後ろから見ていても、タカシとコウイチとでは脚の回転数が明からに違っていて、あきらかに、コウイチが必死で付いて行っている感じだったもの」
ナオヤがさらに続ける。
「まあ、僕とショウゴはスタートしてすぐに引き離されたけど、タカシの走りは千メートルを走るようなスピードではなくて、まるで百メートル走と勘違いしているのでないかと思えるくらいの速さだった。だから、二周目に入ったら急にスピードが落ちると思っていたけど、二周目に入ってもスピードが落ちるどころか、信じられないことに、逆にスピードアップしたから、とにかく驚いたよ。ショウゴもそうだろ」
「ああ、ナオヤの言う通りだよ」
ショウゴが大きく頷く。
「うちのクラスにタカシの伴走ができる人間なんていないよ」
コウイチが欧米人のように、両手を肩まで上げて身体で「お手上げ」を表現する。
「じゃあ、タカシ君は運動会に参加できないということになるの?」
ミホちゃんの言葉に、タカシの顔が悲しそうに曇って行く。
「タカシが、コウイチのスピードに合わせて走れば良いだけのことだろう」
アキトがなんでもないことのように言う。
「そんなのタカシが可哀そうだよ。わざと遅く走るということだろう」
マサルが、アキトの意見に異議を唱える。
「そうだよ、アキト君はタカシ君の気持ちを全く考えていないよ」
ミホちゃんまでマサルの意見に同調をする。
「じゃあ、どうすれば良いとマサルは思っているんだよ。解決策もないくせに、闇雲に僕の意見を否定する権利なんかないだろう」
「否定なんかしていないだろ。ただ、タカシが可哀そうだと言っただけだよ」
日頃は優等生で穏やかな性格のマサルが、珍しくむきになっている。
「それが、僕の意見を否定しているということなんだよ。いいか、このクラスにタカシの走るスピードに付いて行ける人間なんていないんだぞ。この現実を良く考えろよ。だったら、タカシが走るスピードを遅くしないと、運動会には参加できないんだぞ。俊足のコウイチだって伴走することができないくらいにタカシの足が速いんだから」
アキトもむきになっている。気まずい雰囲気がその場を包み込んでいた。
「そうだよ。なんでこんな簡単なことに気が付かなかったんだろう」
大きな音を立てて手を叩くと、コウイチがグッドアイデアを思い付いたと言った。
「確かに、タカシの速さに付いて行ける生徒は僕らのクラスにはいないけど、生徒ではないけど、唯一タカシのスピードに付いて行ける伴走者がいるよ」
「えっ?」
そこにいる全員が同じ声を上げた。
「それは、誰なんだ?」
アキトが唾を飲み込む。全員がコウイチの口から出てくる答えを、期待しながら待っていた。
「チロだよ」
「ああ、チロか。なるほどなあ」
アキトもマサルも、ミホちゃんも大きく頷く。
「チロ? それって誰のこと」
団地に住んでいない生徒や野口先生は、タカシの愛犬の名前がチロだということは知らない。
「タカシの相棒の愛犬のチロだよ」
コウイチがみんなに説明をする。
「犬。犬が伴走をするってこと?」
説明を聞いた生徒から、あからさまに失望の声が上がる。
「そうだよ、チロはとにかく賢いし、それにタカシにとっては身体の一部のような存在だからな。伴走者には打ってつけだよ」
アキトも援護射撃をする。
「そんなの現実的に無理だよ。だって、運動会で犬が伴走して走ることなんてできるわけがないじゃないか。第一、学校から許可は出ないよ」
ヨシノリが、そんなの当たり前だよとコウイチたちを見る。
「やってみないと判らないのに、最初からダメだと決めつけるなよ」
アキトがすぐに反論をする。
「やる前から、答えが出ていることも世の中には沢山あるんだよ、アキト。さっき野口先生から伴走者の注意事項でもあったように、伴走者は、選手の前に出て引っ張ってはいけないというルールがあるんだよ。いくら頭の良い犬だといっても、タカシの真横かやや後ろを保ちながら走り続けることなんかできるわけがないだろう」
ヨシノリの言葉には、かなりの説得力があった。そこにいる殆どの生徒が頷いている。
「チロなら、きっとできるさ。いや、やってもらう」
アキトも決して譲ろうとしない。
「おいおい、タカシの前でそんな争いをするのは止めろ。二人のやり取りを聞いて、一番悲しんでいるのはタカシなんだぞ」
野口先生にそう指摘されて、二人は「はっ」とした顔になった。
「ごめん、タカシ」
アキトとヨシノリが同時に謝る。
「大丈夫だよ、僕は全然気にしていないから」
でも、タカシのその声は弱々しくて、言葉で言うほど大丈夫ではなかった。
「先生、まずはタカシがチロと運動会の千メートル走に出場できるかどうかだけでも、職員会議で確認をしてみてよ。職員会議でダメと言う結論が出たら、別の方法を考えるから」
いつもまとめ役に回るマサルが、今回もそうまとめた。あ
「マサルの考えに、みんなも賛成だということだな?」
念を押すように、野口先生は全員の顔を見渡す。
タカシ以外の全員が頷いた。そんなタカシの様子を野口先生は見逃さなかった。
「どうした、タカシ。お前はマサルの意見に反対なのか?」
優しい声で野口先生が訊ねる。この問題はタカシの伴走者のことなのだ。当事者が首を縦に振らないのでは次の行動に移れない。
「みんなの気持ちはすごくうれしいけど、でも、チロの話しがダメだったら、もう僕が運動会に出るチャンスも無くなるということでしょう。だったら、僕はコウイチと走ることを選びたい。コウイチのスピードに合わせて走るから、運動会に参加させて欲しい。せっかく、野口先生が校長先生から許可をもらってくれたのだから、僕は、このままチロのことはなかったことにして欲しいです」
タカシは、両手を合わせて、みんなに頭を下げた。
「タカシ、お前、そんなにまでして、どうしても運動会に出たいんだな」
野口先生の言葉に、タカシは大きく頷いた。
「それなら安心をしていいぞ。たとえチロと走ることがダメだったとしても、コウイチが伴走者として千メートル走に出場することは決して取り下げないから」
「本当に?」
「ああ、先生が約束する」
「ありがとうございます。僕、本当に運動会に出ることができるんだよね」
タカシは両手を上げて、何度も跳び上がった。うれしさの大きさを、そのまま身体で表現するように。
「そうと決まったら、どちらに転んだとしても、タカシはこれから練習が大変になるぞ。もし、コウイチと走ることになったら、遅く走る練習をしなければならないんだから」
アキトがコウイチを見ながらニヤリと笑う。
「アキト、それは僕に対する皮肉か?」
「いえ、真実を語っただけです。コウイチには、もっと速く走れるようにしっかり練習してもらわないとね」
「アキトは良いよな。だって、クラスの中でも群を抜いて鈍足だから、千メートル走だけでなくリレーの選手にも選ばれる可能性がゼロだから、気が楽っていうもんだよ」
「コウイチ、それ僕に対する皮肉だな」
「いえ、真実を語っただけです」
二人のやり取りが終ったところで、今度はコウイチのスピードに合わせてタカシが走る練習が再開された。
「どう見たって、タカシの走りが突っかかっている感じだよな」
二人の走りを見ながら、クラス一鈍足のアキトがそう言った。
■職員会議での野口先生の頑張り
初めての千メートル走の練習の翌日の放課後、定例の職員会議が行われた。通常の議題が終了したあと、「他に何かありますか?」との教頭先生の言葉を受けて、野口先生が手を挙げた。
「はい、野口先生どうぞ」と、教頭先生がすぐに指名をしてくれた。
「私の方から提案をさせていただきたい案件があります。それは、六年二組の野々村隆の運動会出場に関する提案です」
野口先生は、教頭先生の顔を真っ直ぐに見ながら、すぐに本題に入った。
「野々村隆君の話しなら先日協議して、伴走者が付くという条件で千メートル走の出場が決定したばかりじゃないですか。この他に、何か提案があるのですか?」
教頭先生がそう問いただすのは無理もないことだ。
タカシが伴走者付きで千メートル走に出場でできることが決まったのが、一昨日の定例職員会議の時だったので、ここにいる教師全員の記憶の中にくっきり残っているはずだから。
「はい、大きく状況が変わってしましたので、新しく提案をし直したいと考えています」
「大きく状況が変わった? それは、どのように変わったのでしょうか」
職員会議が終っても、各教師には残っている仕事の片付けが待っている。各クラスの授業を終えて、二日に一回の頻度で行われる職員会議は、通常、教頭先生からの連絡事項を受けて、大きな問題がなければ毎回三十分程度で終了をする。
生徒が下校し、職員会議を終えてからが、本格的な教師としての事務作業開始の時間なのだ。だから、職員会議の最後に「提案がある」と手を挙げた野口先生のことを、快く思っていない教師も多くいる。その証拠に、野口先生が話始めたのを機に、あからさまにパソコンのキーを叩き出した教師までいた。
パソコンを叩かないまでも、どの教師の顔も「興味がない」と書いてあった。こうした雰囲気を敏感に読んで、野口はすぐに具体的な話に入った。
「野々村隆の伴走者を、伴走者ではなく伴走犬に変更したいと考えています」
これではあまりにも説明を端折(はしょ)りすぎているだろう。案の定、教頭先生を含めた全員が「?」の顔をしている。
「仰っていることが全く理解できませんが」
六年生の学年主任である山脇先生が顔を歪めながら聞いてきた。伴走者と一緒にタカシを千メートル走に出場させる件でも、最後まで反対の意見を主張した、この職員会議では最も手強い相手だった。
「そうですね。いきなり伴走犬とだけ言ったのでは、訳が解らないのは当然ですよね」
一度山脇先生に頭を下げると、野口先生は詳細を説明した。クラスで最も走るのが速いコウイチでも、タカシのスピードには付いていけなくて伴走はできないこと。タカシの伴走ができる生徒はクラスにはいないので、代わりにタカシが兄弟のように可愛がっている、チロという柴犬を伴走犬として採用をし、タカシの持つ走ることの才能を思い切り発揮させてやりたいことを、野口先生は一気に説明した。
説明を始めた時には、パソコンの画面から目を離していなかった教師たちも、野口先生の説明が続くうちに、パソコンの画面から目を離し、身体全体を野口先生の方に向けて真剣に耳を傾けてくれるようになっていた。
「六年二組の中に野々村君の伴走をできる生徒がいないのなら、野々村君の千メートル走参加を取り止めるか、伴走者に合わせて野々村君が走るか。選択は二者択一しょう。こんな簡単なことをいちいち職員会議に提案をすることではないと思いますよ。先生方は皆さん大変忙しいのですから、この話はそういう結論で、皆さん良いですね」
山脇先生が、「はい、終わり」というように、そう言い切った。
「学年主任、それはないと思いますよ。野口先生の提案、私はなかなか面白いと思いますけど」
助け舟を出してくれたのは、同じ六年生を担当する、四組の岸和田先生だった。
「面白いだけでは、議題に上げる動機付けにはなりませんよ。岸和田先生の個人的な興味で、職員会議を延長するほど、どの先生も暇ではないのですからね」
山脇先生が岸和田先生を軽く睨みながら言う。
「面白いと感じたのは果たして私一人だけでしょうか。他の先生方は、野口先生の話に興味は持ちませんでしたか?」
そう言ったあとに岸和田先生は立ち上がると、他の教師たちの顔を見渡した。
「私も野口先生の提案には興味を持ちました。また、野々村君の愛犬を伴走者にするという発想が生徒から出てきたことが、素晴らしいとも感じましたね」
三年三組を担当する吉光美奈子先生が、岸和田先生の意見に同調をしてくれた。吉光先生が扉を開けてくれたかのように、次々と同調の声が上がった。さすがにこうした意見を無視することはできなくて、山脇先生も渋々、タカシの伴走の件で話し合うことを承知した。
「では、話の流れで岸和田先生が議長になって、野々村隆君の千メートル走出場について、最初から議論をし直してください」
教頭先生からの指名で、岸和田先生が議長をやることになった。
「それでは、田岡教頭の氏名を受けまして、私岸和田が議長を務めさせていただきます。まずは、再度野口先生から今回の経緯について詳細な説明をお願いいたします」
議長の要請を受けて、先ほど説明した内容をさらに詳細に話した。
「野々村君は、それほど優れた運動能力を持っているということですね」
同じ六年を受け持つ六年一組の轟由紀子先生が、野口先生の提案が上手く行くような質問を敢えて投げてくれた。
「そうです。私も昨日初めてタカシが実際に走るのを見たのですが、まるで百メートル走のようなスピードで、千メートル走を走ります。そのためにクラス一俊足のコウイチ、いや名取幸一も二周で伴走することができなくなってしまったのです」
「だから、野々村君が可愛がっているチロという愛犬に伴走をやらせたいということですね」
轟先生はさらに援護射撃をしてくれる。有難い。
「そういう理由なら、何も犬なんか借り出さなくても、野口先生自ら伴走をすれば良いじゃないですか」
山脇先生が、本気とも冗談とも取れるような曖昧な提案を出してきた。
「山脇先生、意見がある時は挙手をして、議長の了解を取ってから発言をしてください」
岸和田先生が注意をする。
「私が伴走ですか?」
「そうです。いや、また怒られるところだった。議長、発言をしてもいいですか?」
山脇先生が、わざとらしく手を上げる。
「山脇先生、どうぞ」
「野口先生は大人なので、いくら野々村君が速いといっても小学六年生よりは速く走ることができるでしょう?」
山脇先生のこの意見に異議を唱えたのは、同じ六年生を担任する六年五組の麻布先生だった。
「学年主任は体育の授業には全く出てはこられないので、現状を全くご理解されていないようです。今の六年生男子の百メートル走のスピードに付いて行ける教師なんて、この学校中探してもいませんよ。野口先生、二組で一番の俊足だと言っていた、その名取君の百メートル走のタイムはどれくらいですか?」
「確か、13秒5だったと思います」
野口が即答をする。「速い!」と山脇先生以外の教師から声が上がる。
「13秒5で走る名取君でも伴走ができないということは、野々村君は場合によっては、13秒を切る走りをしていたのかもしれませんね」
「私が見ている限りでは、それでも全力では走っていないような感じでした。それが、証拠に名取が二周で走りを止めた時、名取は肩で大きく息をしていましたが、タカシは全く息さえ切らしていませんでしたから」
「ということですが、山脇先生は百メートルを十三秒以下で走ることができますか?」
麻布先生が山脇先生に答えを求める。
「別に私が走るわけではないでしょう。麻布先生も無理難題を押し付ける」
山脇先生が麻布先生の顔を睨み付ける。
「ご自分ができないことを野口先生にやらせようとすることが、無理難題を押し付けていることではないのですか」
「私は何もやらせようとしたわけでなく、一つの方法として提案したまでですから」
「では、現状を聞かれた今、まだ同じ提案をされますか?」
麻布先生が山脇先生に詰め寄る。
「意見を言う時は、議長の許可を取れ」
今になって山脇先生が言う。
「では、議長、山脇先生に答えていただけるように指名をしてください」
麻布先生が岸和田先生に要請をする。
「判りました。それでは、山脇先生にお聞きいたします。今現在でも、野々村隆君の伴走者として野口先生を推薦しますか?」
「いや、その提案は取り下げるよ。六年生男子がそんなに速く走れるなんて思ってもいなかったからね」
「余計なことかもしれませんが、学年主任のお仕事もお忙しいとは思いますが、もう少し現場を掌握された方が良いように感じますが」
岸和田先生が、この時とばかりに日頃の不満を盛り込んでいる。
「現場はちゃんと掌握しているよ。ただ、体育までは忙しくて手が回らなかっただけだ」
ここで、別の教師が手を挙げた。
「前回の、この六年二組の野々村隆君の千メートル走出場に関しての議論の時にも感じたのですが、そもそも、そこまでして、何故視覚障害のある彼を運動会に出場させる必要があるのですか。五年生までは見学していたわけですし、運動会が見学するというのが、野々村君をこの学校に受け入れる条件だったわけですよね」
五年三組を担当する藤本今日子先生が、話を振り出しに戻すようなことを言い出した。藤本先生はこの学校の中でも最年長で、校長よりも年上だった。前回の伴走者付でタカシを千メートル走に出場をさせる提案の時も、山脇先生と二人で最後まで抵抗をしていたのだ。
「タカシを運動会に出場させる件は、前回の協議で了解されていますので、今更蒸し返すことではないと考えますが」
野口先生ははっきりとそう言い切った。
「でも、先ほど田岡先生から野々村君の千メートル走出場につき、最初から議論をやり直してくださいと指示が出たばかりじゃないですか。議論をやり直すということは、野々村君を運動会に出場させるかどうかまで遡(さかのぼ)るということでしょう」
藤本先生は、自分よりも六歳も年下の田岡教頭のことを、決して教頭とは呼ばない。職員の歓送迎会や忘年会などで酒が入ると、「なんで、あんな奴が校長や教頭になっているのよ」と常に愚痴をこぼしていた。
「それは、藤本先生の見解の相違だと思います。田岡教頭はそんな意味で言ったのではないと思います。そうですよね、教頭先生?」
岸和田先生が教頭に問う。と言うよりも同意を求める。
「岸和田先生の言う通り、野々村隆君が千メートル走に伴走者付で出場することは、前回の職員会議での決定事項です」
教頭先生がきっぱりと言い切ってくれたことで、野口先生はほっと胸を撫で下ろした。
「ああ、そうですか。田岡先生は今日みたいにいつも曖昧な言い方をされるから、判断に困ってしまいますね」
結局、藤本先生は、教頭先生に対して皮肉を言いたかっただけなのではないかと、野口先生はそう理解した。これで議論を次に進めることができると安心をした途端に、再び山脇先生が手を挙げた。
「いや、藤本先生の意見も一理あると思いますよ。では、何故、犬に伴走をさせてまで、野々村君を運動会に出場をさせる必要があるのですか? 彼が体育の授業も運動会も見学することを入学の条件にされたのは、視覚障害があるから危険だという理由からです。確かに伴走者がいるなら、競技中に人とぶつかったりするような危険を回避できると考えて、私も出場を渋々承知はしましたが、伴走者が犬ということなら話は違ってきますよ。傍に付いているのが犬なら危険を回避することはできない。それに、皆さんは犬と聞いて可愛い身近な動物と単純に受け止めているかもしれませんが、一緒に走る他の生徒の中には犬が嫌いな者もいるかもしれませんよ。こうした可能性があることも考慮すべきです」
この山脇先生の意見で、職員室がざわついた。
「この学年主任の意見に対して、野口先生は何か意見がありますか?」
岸和田に氏名をされて野口先生が口を開く。
「意見ではなく、山脇先生にお聞きしたいのですが、先生は、犬を伴走として出場させることを反対されているのか、そもそも野々村隆を運動会に出場させること自体を反対されているのか、そこをはっきりと聞かせてください」
「野口先生は私のことを何か誤解されているようですが、私は前回の職員会議で決まったことを、今さら蒸し返すような了見の狭い人間ではありません。それに、犬が伴走をするから反対ではなく、犬では危険を回避できないし、犬が嫌いな生徒がいる可能性もあると指摘をしているだけです。生徒の安全を考える教師の立場としては、至極当然のことを申し上げていると思いますが」
山脇先生は憤慨をした顔をして、野口先生を睨んでいる。
「では、タカシが犬を伴走にして走っても、安全を確保し、他の生徒が犬と接触しない方法を取ることができるならば、山脇先生は賛成をしてくださるということですね」
野口先生が山脇先生に問う。
「まあ、そういうことになりますね。しかし、そんなことなど現実的に無理でしょう。それに、犬を運動会に出場させたことで、生徒が怪我でもしたら、それこそ取り返しが付かないことになります。田岡教頭、もしそうなったら、学校としての面子は丸つぶれですよ」
大袈裟な動作をして、山脇先生が教頭先生を見る。
「それが、学年主任の本音ですよね。大事なのは、生徒のことよりも、学校の面子が最優先」
岸和田先生がたっぷり皮肉を込めて言う。
「学校あったて生徒だろ。学校の面子を一番に考えて何が悪いんだ」
山脇先生はそう開き直った。
「次の教頭は年功序列で、ご自分だと考えてらっしゃる山脇先生らしいお考えですね」
藤本先生がそう皮肉たっぷりに言う。どうやら、先ほど、「前回の職員会議での決定事項を蒸す返すほど、自分は了見の狭い人間ではない」と、遠回しに藤本先生のことを「了見の狭い人間」と決め付けたことに腹を立てているようだ。
「犬を伴走者にするくらいで、そんなに大きな危険が予測されるものでしょうか。それよりも、六年生になるまで一度も運動会に出場をしたことのない、運動能力の高い生徒を、最後の運動会に出場させてやるために、どうしたら良いかを考えるのが本来の教師の務めではないのですか」
野口先生は、自分の声が大きくなっているのさえ気づいてはいなかった。
「それは理想論だよ。実際に事故でも起きたら、父兄や世間から叩かれるのは学校や教師という現実をもっときちんと認識すべきだ。野口先生のいうことは立派で素晴らしいことだよ。それは、ここにいる教師ならみんな理解している。けれど、綺麗ごとだけで事が運ばないのも、また現実なんだよ」
山脇先生の主張は全く揺るぎがなかった。それでも、野口先生は説得を続けた。
「皆さん、突然ですが私の言う通りにしてみてください」
そう言うと野口先生は、教師全員に目を閉じるように要請をした。山脇先生と藤本先生は何か反論を試みようとしたが、岸和田先生の「目を閉じましょう」という指示に、咄嗟に言葉を飲み込んだ。全員が目を閉じた。
「皆さんは、今、何も見えませんよね。目の前は真っ暗な闇が存在するだけだと思います。では、その状態のまま、想像をしてみてください。その暗闇の中心に五ミリ程度の小さな穴が開いていることを。そこから光が見えています。でも、光以外の具体的な映像が見えますか」
二十秒が経過した。
「轟先生はどうですか?」
「光は見えますが、具体的な映像は全く見えません」
「麻布先生はどうでしょうか?」
「轟先生と同じく、私にも具体的な映像は見えません」
「そのまま、少しの間目を閉じたまま私の話をお聞きください。先ほど皆さんに想像をしていただいた、暗闇の中に見える五ミリの穴が、野々村隆の視界です」
「えっ、彼はこんな状況で毎日学校生活を送っているの?」
三年三組担任の吉光美奈子先生が驚きの声を上げる。これをきっかけに、ほぼ全員が驚嘆の声を上げた。
「この狭い視野を拡大するために、タカシはあんな分厚いレンズのメガネをかけているのです。そして、クラスの中で、他の最前列の生徒よりも一メートル前に机を出して、授業中は必死で黒板に書かれた文字や図をノートに写し、視覚的に不利な分、集中して私の話す言葉を一言も聞き逃さないように聞いています。 タカシの成績は、クラスでもトップクラスです」
この説明にも、教師全員から驚きの声が上がる。
「こうした状態で日々の生活を送っているタカシですが、今年の夏休みにこんなことがありました」
野口先生は、先日アキトが話してくれた、タカシが、弟のフトシが持っていたゲーム機を奪った中学生を追い詰めた話を、目を閉じたままの教師たちに話した。
「この中学生を追い詰めたコンビまでには、交通量の多い大小の交差点が幾つかあり、信号もあります。こうしたコースをタカシは愛犬のチロの伴走で、なんの支障もなく中学生を追い詰めたのです。こうした事実を聞かれて、車の往来や交差点もない、運動会のグラウンドでチロを伴走者にしたタカシが、それでも事故を起こす可能性があると、皆さんはお考えでしょうか?」
職員室から音が消えた。初めて聞くタカシの話に、誰もが声を発することができないでいた。
「タカシはこの学校に入学する条件として、運動会だけではなく、体育の授業も見学ということになっています。先ほどから何度もお話をしているように、タカシは運動能力が格段に優れた生徒です。ですから、グランドの隅に座ってみんなが楽しく体育の授業を行っている姿を見ることや、声を聞くことが辛かったのです。こんな状態に耐えきれなくなったタカシは、三年生の時に泣きながら私に訴えました『僕は、檻に閉じ込められた動物と同じだ』と。飛ぶことも走ることも、投げることもきちんとできる一人の生徒を、ロープで縛り付けるような残酷なことを、私たちは日頃タカシに強いていたのです」
野口先生は、とうとう我慢し切れなくて、声に涙が混ざり始めてしまった。
「こうした我慢を強いてきたタカシを、最後の運動会に、なんとしてでも参加させてやりたいと思う気持ちは、担任の教師としてはいけないことでしょうか? 学校のリスクを考えると諦めなければいけないことなのでしょうか?」
そこで野口先生は一度言葉を切った。
「済みません。興奮をしてしまい、つい声が大きくなってしまいました。ご協力ありがとうございます。どうぞ、目を開けてください」
着席をすると、野口先生は指で涙を拭った。
「野口先生の話を聞いた限りでは、野々村君の愛犬を伴走者、いや伴走犬と呼ぶのかな、まあ、この際どちらでも良いか。伴走者にしてもなんら安全には問題がないように思います。野々村君の千メートル走への出場を、私は賛成をします」
轟由紀子先生が、最初に賛成の声を上げてくれた。一緒に競技に参加する六年生の担任からの賛成は大きく、力強い援護射撃になる。
「私も大賛成ですね。野々村君に運動会の楽しかった思い出を持たせて、この小学校を卒業させてやりたい気持ちも強いですが、それにも増して、野々村君が思いっ切りグラウンドを走る姿を見てみたいと思う気持ちが強いです」
これも同じ六年生担任の麻布先生が賛成に一票を上げてくれた。
「それでは、多数決を取りましょうか?」
議長の岸和田先生が田岡教頭を見ながら言った。
「こんな重要なことは多数決で決めることではないだろ。問題が起きれば学校の責任になるのだぞ」
この期に及んでも、山脇先生は責任という言葉を繰り返した。
「責任と言うなら、私が全責任を取りましょう。野々村隆君が愛犬と運動会に参加することを、私が許可します」
職員室に続く校長室のドアが開いて、北林校長が姿を現した。
「北林校長。今までの話をお聞きになっていたのですか?」
田岡教頭が驚きの表情で北林校長を見ていた。
「どうやら、校長室のドアが完全には閉まってなかったようだね。良い提案じゃないか。兄弟のように育ってきた愛犬を伴走者にして、千メートル走に出場する生徒が現れるなんて、この学校も革新的な考えができる先生や生徒が現れたものだと感心をしたよ。責任はすべて校長の私が取るから、是非、具体的に話を進めてください」
それだけ言うと、「しっかりドアは閉めておくよ」と言い残して、北林校長は校長室に戻って行った。
「それでは、学年主任が執拗に繰り返しておられた、責任という懸念も払拭されましたので、これから具体的な項目について協議して行きましょう」
岸和田先生がチクリと皮肉を言って、具体的に議事を進めて行った。
■練習場所の確保
翌朝、授業の前に行われる連絡会の時間に合わせて教室に向かうため、職員室を出る前に野口先生は洗面所の鏡を覗いた。前回は、嬉しそうな表情を易々と生徒たちに見破られたから、今回はそれを悟られないために、思い切り厳しい表情を作ってみた。ただ、今日は喜んでばかりはいられない事情もあったからだ。
教室のドアを開ける。
「先生、どうだった?」
すかさずコウイチが聞いてくる。コウイチの顔を見たあと、全員の顔を見る。その誰の顔も同じ表情をしている。期待と不安でいっぱいの顔だ。
「今朝は、先生の顔から答えを読み取ることができないようだな」
野口先生が生徒の顔を見ながら言った。
「先生、修行を積んだね。今日の先生はいつもと変わらない顔をしている」
アキトが上から目線でそう言う。
「お褒めの言葉をいただいて、恐縮です」
「それより、どうなったんですか? タカシの伴走者の件」
いつも冷静なマサルが焦(じ)らすのは止めてくださいと、目で訴えている。
「それでは、昨日行われた職員会議の決定事項を説明します」
「待っていました」
アキトが合いの手を入れる。
「タカシの愛犬であるチロを伴走として、タカシが千メートル走に出場することは、職員会議で正式に承認されました。つまりは、タカシはチロと一緒に千メートル走に出場することができるということです」
「やったー!」
「これで二組の優勝は間違いなしだな」
全員が立ち上がって両手を挙げて喜んでいる。見ると、日ごろはあまり感情を表に出さないタカシも、その場で跳び上がって喜びを表現している。余程うれしかったのだろう。
「おいおい、少し静かにしろ。実は、そう、浮かれてばかりはいられない状況でもあるんだ」
「えっ、それってどういうことですか?」
マサルの顔から、いや、全員から笑顔が消えた。
「タカシがチロに伴走されて運動会に出場するには、条件があるんだ」
「条件?」
反応をしたのは、これもまた冷静なマサルだった。
「そうだ。タカシとチロが運動会に出場するには、この条件を受け入れなければならない」
「その条件って、どんなことなのですか?」
解析好きのミホちゃんが質問をする。
「その条件について、これから説明をする。いいか、途中で口を挟んでくるなよ。まずは、最後まできちんと聞いてくれ。質問や意見は説明のあとにきちんと聞くから。分かったな」
「はい」
全員の声が揃う。
「まず、これは伴走者の基本だが、伴走者は、それが犬であっても絶対に選手の前に出てはならない。この条件にはタカシにも異論はないな」
「はい」と、タカシもはっきりと答える。運動会に参加できることが決まって、タカシのそのうれしさが、野口先生にも伝わってきそうなくらい、タカシの表情が浮き足立っている。この顔が曇らなければ良いがと、野口先生は少し不安になった。
「そして、二番目の条件。チロは必ず、タカシの右側を走ること。これは、コースの内側を走る他の生徒とチロの接触を避けるためだ。コースは時計とは逆回りだから、必ず左が内側になる。だから、チロのリードはタカシが右手で持つことになる。タカシは右利きだから、利き手が振れないマイナスはあるが、これも大きな問題ではないな、タカシ?」
「はい。問題ありません」
これにも、タカシはきっぱり答えた。
「次に三番目の条件。これが最後の条件になる」
ここで、野口先生はタカシの顔を見た。やはり、ニコニコとうれしそうだ。野口先生は一度目を閉じると、大きく息を吸い込んだ。
「タカシとチロは、他の選手との接触を確実に避けるために、コースの一メートル外側を走ることになる。千メートル走の時には、コースの一メートル外側に、タカシ専用のコースラインが引かれることになる。説明は以上だ」
「先生」
やはり、すぐに反応したのはマサルだった。
「三番目の条件の。意味が良く理解できないのだけど、つまりは、タカシだけ遠回りをしろということですか?」
「結果的にはそうなるな」
「百メートルのコースを十周する間、タカシだけがずっと一メートル外側を走り続けるということでしょう」
「そういうことだ」
「そんなの酷いよ。絶対に不利だよ」
マサルの指摘は当然だ。野口先生も職員会議でこの条件を出された時には、「これは酷い!」と強く抗議をしたのだ。
「コースの一メートル外側を走り続けるとしたら、半径は一メートル、直径では二メートル大きくなり、これに円周率をかけると、タカシが走る距離は、一周百十一メートル五十センチの計算的にはなります。十周なら千百十一メートルを走ることになり、他の選手よりも一周以上長く走ることになりますね。当然ですが、かなり不利な条件と言えますね」
解析好きのヨシノリが本領を発揮する。
「タカシの優勝を阻止しようとする、他のクラスの完全な陰謀だよ。こんな条件なんて絶対に受け入れるものか」
コウイチが怒りの声を上げる。でも、コウイチそうじゃないんだよ。六年生の他のクラスの担任教師は全員、この条件に反対をしてくれたんだ。ただ、学年主任だけが犬が嫌いな生徒もいるはずだという主張を崩さなくて、こんな不利な条件を飲まざるを得なかったのだ。
そう心の中で説明をしながら、野口先生は当事者であるタカシを見た。タカシの表情は朝一番に見た時と何一つ変わっていなかった。ずっとニコニコとうれしそうだ。
「みんなの抗議は良く分かる。でも、この条件を受けないと、タカシの運動会参加はさらに難しくなることが予想される。みんなの気持ちも大切だが、一番大切なのは当事者であるタカシの気持ちだろ。まずは、タカシの気持ちを聞いてみようじゃないか」
野口先生がみんなにそう提案して、全員が頷いた。
「タカシ、この条件を聞いてどう思ったか、正直な気持ちを聞かせてくれ」
マサルがストレートにタカシに聞く。
「僕は、この条件を受けるよ。これで、運動会に出場できるならお安いご用だよ」
タカシはニコニコしながら、そう答えた。
「一周以上も長く走るんだぞ、優勝することは絶対に不可能だぞ。それでもいいのか?」
コウイチが、あまりにもすんなりと条件を受け入れたタカシに、再度確認をしている。
「優勝できるかどうかは、走ってみないと分からないよ。だって、僕は力いっぱい頑張って走るもの」
「それが、走る前から分かっているんだって。何しろ一周以上長く走ることになるんだからな、タカシ。このことをきちんと理解しているか?」
「タカシはなんにも解っていないな」と、コウイチがポロリと言葉をこぼす。
「でも、僕はどうして運動会に出たいんだ。クラスのみんなはがっかりしたかもしれないけど。僕は運動会に参加できることだけで、すごくうれしいんだよ」
「タカシの気持ちが一番大切だよ。だって、タカシがこんなにうれしそうな顔をしているんだから。この条件を受け入れようよ、なあ、コウイチ、アキト、それにみんなも」
マサルは全員に呼びかける。
私の出る幕はなかったなと、野口先生は、生徒の成長がうれしくも、ほんの少し寂しくもあった。
さらに厳しい条件として、放課後チロを連れての学校の運動場での練習も、禁止されていた。
その日の昼休みと放課後に、早速「千メートル走でタカシを優勝させる会」が結成された。会長はアキトが務めることになった。理由は、リレーにも千メートル走の選手にも選ばれていない生徒の中で、一番弁が立つのがアキトだったからだ。
放課後には、これから運動会までのタカシの練習スケジュールについての会議が実施された。
愛犬のチロがタカシを伴走して、運動会の千メートル走に出場するというニュースは、六年生の全クラスの朝の連絡会で発表かあったこともあって、昼休みには学校中に広がっていた。下校時間の早い下級生が団地に帰って母親たちに話したことにより、学校だけでなく、団地中にもこの話は瞬く間に広がった。
タカシが帰宅した時には、いきなり母親から「チロと一緒に運動会に参加するんだって、よかったね」と言われて、タカシの方がポカーンとしたほどだ。
いつもになく早い時間に帰宅した父親も含めて、平日久しぶりに家族が全員揃って夕食をとっていたら、玄関のインターホンが鳴った。
「こんな時間に誰かしら?」
そう言いながらインターホンの受話器を取った母親が、急に丁寧な言葉遣いに変わった。
「マンションの自治会長」と、受話器の口を押さえながら言った。
「ええ、今、食事中ですので、後ほどこちらの方からお伺いをさせていただきます」
インターホンが切れたあとも、母親はしきりに受話器を持ったまま頭を下げ続けていた。
「自治会長さんが、なんだってこんな時間にわざわざ訪ねて来たんだ?」
箸を置いて、父親が聞いた。タカシを公立小学校に入学させるために街頭で署名活動を手伝ってくれたことはあったが、今まで一度だってマンションの自治会長が、直接この家を訪ねて来たことはなかった。父親が気になるのも当然のことだ。
「何か相談したいことがあるらしいのよ、あなたも一緒に会長の家まで来て欲しいそうよ。さっさと食事を済ませて行いきましょう。長く待たせるのは失礼だし」
それから母親は夕食をかき込むと、化粧をして洋服も着替えた。
「おいおい、そんなにおしゃれして何処に行くつもりなんだよ」
茶碗に残っているご飯に味噌汁をかけて食べながら、父親が笑いながら母親をからかった。
七時半に組合長の家に出かけた両親が帰宅したのは、八時半を過ぎた頃だった。この時、タカシは部屋で宿題をやっていた。
「タカシ、ちょっと来なさい」
母親にそうドア越しに声をかけられたが、「宿題をやっている最中」と言って断った。
「宿題が終わるまでに、あと、どれくらいかかるの?」
「二十分くらいかな」
「じゃあ、宿題が終わってからで良いから、出て来なさい」
「何? 僕、問題行動はしていないと思うけど」
タカシは勝手に叱られることを想像していたが、頭の中で思いを巡らせても、自治会長に叱られるようなことは思い浮かばなかった。
「悪い話じゃないのよ。タカシにとっても良い話だから」
その言葉でタカシの気持ちは一気に軽くなった。
宿題をやり終えると、部屋から出て、台所のテーブルでテレビを観ながらお茶を飲んでいる両親の所に行った。
「話って何? とっても良い話だって、さっき母さんは言っていたけど」
「タカシお前、チロと一緒に運動会の千メートル走に出るんだって」
父親が飲んでいたのは、お茶ではなく、どうやらお酒のようだ。それが証拠に顔が少し赤くなっているし、いつもよりテンションが高い。
「今日、正式に決まったんだよ。帰って来た時に母さんにも言われたけど、どうしてそんなこと知っているの。今日の朝、初めて先生から話があったばかりだよ。母さんが知っているのは、どう考えたって早すぎる気がするんだけど」
「何を言っているの、もう団地中、この話で持ち切りだよ。母さんもアキト君のお母さんから教えてもらったんだから」
「へえ。なんでそんなに噂になっているんだろう?」
「そりゃそうだろう。犬と一緒に運動会に出場するなんて、こんなこと前代未聞だからな」
父親が赤い顔をして言った「前代未聞」の意味が解らなくて、聞き返した。
「これまでに一度もなかったという意味だよ」
「前代未聞って、そういう意味なのか。そうだよ、うちの学校では初めてみたいだし」
「うちの学校どころか、日本中の学校で初めてのことだよ」
父親は、笑いながら言った。お酒のせいで目がトロンとしている。
「話って、そのことなの?」
これで話が終わりなら、タカシはさっさと風呂に入りたかった。
「違う、違う。関連はあるけど、この話ではないの。タカシとチロが運動会に出ることに決まっても、学校の運動場で練習をすることはできないんだってね」
「そうだけど、そんなことまで知っているの? すごい情報網だね」
「『そうだけど』って軽く言っているけど、じゃあ、どこで練習をするつもりなのよ」
「アキトとかと相談をして、明日学校から帰ったら、団地の公園で練習することになっている」
タカシはなんでもないことのように言った。
「そんなの無理に決まっているじゃない。あの公園は団地中の子供たちが大勢遊んでいるのよ。千メートル走の練習ができるようなスペースを確保するなんて無理に決まっているでしょう」
「えっ、そうなの。アキトは大丈夫だって言ったけど」
今日の放課後、「千メートル走でタカシを優勝させる会」の第一回の会合で、練習をどこでやるかという大問題を話し合っている時、会長でもあるアキトが、「団地の公園なら一周百メートルは取れなくても、七十メートルくらいのコースは確保できるから大丈夫だよ」
と事も無げに言ってのけた。
「でも、団地の公園だと、団地の他の子供たち、特に小さな子供たちも大勢遊んでいるから、そんな広い場所を独占するのは難しいと思うけどな」
ミホちゃんから否定的な意見が出る。
「僕も、ミホちゃんと同じ考えだな。団地の公園は難しいと思う」
マサルまでアキトの意見に否定的だ。
「それじゃあ、団地の自治会長さんに協力をお願いしようよ。タカシのことを話せば、きっと会長さんも協力をしてくれるはずだし。練習と言ったって、運動会までの一ヶ月ちょっとの間だしな。会長さんには、お母さんと一緒に僕がお願いに行ってくるよ」
ミホちゃんとマサルは、それでも首を傾げていたが、アキトが「任せとけ」と、拳で胸を叩いたので、それ以上反論をする人は出なかった。
だから、元々人を信じ易い性格のタカシは、このアキトの提案を信じ切っていたのだった。
夕食の時に自治会長がタカシの家を訪ねて来てくれたのは、きっと、アキトがお母さんと一緒に会長さんに頼んでくれたからだと、タカシは思っていた。それだから、母親の言ったことに驚いていたのだ。
「だったら、会長さんからはどんな話があったの?」
タカシが母親の顔を見る。タカシは、家ではメガネはかけていないので、母親の顔は殆ど見えないが。
「だから、その話をこれからするのよ。いい、ちゃんと聞きなさいよ」
「はい」
「アキト君とアキト君のお母さんが、夕方、タカシの運動会の練習のために団地の公園を使用させて欲しいと、自治会長さんの所に頼みに行ってくれたらしいのよ。なんでも、タカシが愛犬のチロを伴走者にして、千メートル走に出場することが決まったこと。それに伴ってクラスで『タカシを優勝させる会』が結成されて、自分が会長に推薦されたことを、アキト君から説明を受けたと自治会長から報告されたの。アキト君が会長さんの所に頼みに行くことは、タカシも事前に知っていたことなの?」
「うん」と答えたが、アキトは、「タカシを優勝させる会」の会長に推薦されたわけではなく、自ら強引に会長に名乗りを上げて就任をしたのだ。でも、このことは黙っていることにした。
「でも、無理だったんだよね。さっき母さん、そう言っていたでしょう」
タカシは弱々しい声でそう聞いた。タカシの中ではまだ淡い期待が残っていたのだが。
「確かに団地の公園で、チロと一緒に千メートル走の練習をするなんて、団地の自治会としては賛成はできかねるというのが結論よ。そんなこと、たとえ自治会がOKを出したとしても、小さい子供を持つお母さんたちが黙ってはいないでしょう。小さな子供を安心して遊ばせる場所を、一時的にしても奪われるわけだから」
「冷静に考えるとそうだよね」
タカシは失望でガクッと肩を落としたが、それよりも淡い期待を抱いていた分、気持ちの方がポキンと音を立てて折れそうだった。
「そんなにガッカリしないの。だから、ここからが自治会長さんからの話しなのよ。団地内の公園での練習を許可するのは難しいけど、学校から少し山側に行った所に県営の競技場があるでしょう。その競技場の隣に小さなサブグラウンドがあるのを知っている?」
「競技場に行ったこともないので、サブグランドのことも知らない」
「そうだよね。母さんも知らなかったし、父さんでさえも知らなかったんだから、タカシが知らないのも無理もないよね」
母親は、笑いながら言った。
「競技場の方は、沢山の競技会や野球やサッカーなどの試合に使用される機会が多いけど、サブグラウンドの方は、それほど利用頻度が高くないという情報を会長さんが知っていて、アキト君から練習場所について相談を受けた時に、このサブグラウンドのことに思い出して、すぐに県庁の担当部署の部長さんに確認をしてくれたらしいの。そうしたらね、少し使用料金は必要だけど、放課後や土日、祝日も予約すれば自由に使って良いことが確認できたのよ」
「チロが一緒でも良いの?」
「勿論、チロも一緒に練習できるのよ」
「やったー! これで練習場所は完璧だ」
「タカシはなんにもやっていないけどね。周りのみんながタカシを運動会に出場させるために、自分のこと以上に頑張ってくれたから、ここまできたことを忘れてはいけないよ。野口先生やクラスの友だちには本当に心から感謝しないとね」
母親はしみじみと言った。
「千メートル走で優勝をしてみんなに恩返しをするよ。そう決まったら、明日からの練習、バリバリがんばるぞ」
「優勝だなんて、大きく出たわね」
「出場するからには、優勝を狙うのは当然でしょう」
そう言うと、タカシはガッツポーズを作りながら浴室に向かった。
■タカシとチロの練習
運動会は、十月第二日曜日に行われる。今日は、もう九月第二週目に入っているので、運動会当日までは四週間を切っていた。つまりは、土日や、秋分の日の祝日を入れて、練習できるのは、毎日行ったとしても、せいぜい二十回程度なのだ。
タカシの母親から電話で、昨日の自治会長の話を聞いた野口先生は、すぐに県庁に連絡をしてくれて、今日の放課後からサブグラウンドで練習が可能になったのだ。
授業と放課後の掃除を済ませると、タカシはアキトと一緒に一目散に自宅に帰って来た。そして、用意をしてくれていた運動着に着替えると、キャップを被り、冷たいスポーツドリンクが入っている保冷型の水筒、タオルの入ったリュックを背負った。
タカシが帰って来たことがうれしくて、タカシの周りを走り回っているチロにリードを付けると家を出た。アキトとはエレベーターを降りた所で待ち合わせているが、チロと一緒の時にはエレベーターには乗らないので、タカシはチロを連れて、自宅のある五階から階段を下りた。
待ち合わせの場所に到着をすると、すでにアキトは来ていた。
「アキト、早いな。かなり待ったのか?」
「僕は監督で、自分が走るわけじゃないから、ランドセルを置いてくるだけだから準備が簡単なんだよ」
アキトはどさくさに紛れてそう言った。「優勝をさせる会」の会長にはなったが、監督就任は聞いていない。
「おお、タカシとアキト、これからか? 僕たちもあとからすぐに追いかけるからな」
学校から帰って来たコウイチとマサルが声をかけてくれる。
「チロ、しっかり頼むぞ」
コウイチがチロの頭を撫でると、「くーん」とうれしそうに鳴いた。どうやら、チロはいつものように遊びに行くと思っているようだ。
県営競技場までは距離にして一キロくらいはあるので、アキトは自転車で行くことになっていた。アキトが自転車で先導をして、チロとタカシがそれを追いかけて走る形でサブグラウンドまで移動をする。
「チロ、アキトの自転車に付いて行くぞ」
先に走り出したアキトの自転車を追って、タカシとチロが走り出す。
競争をしていると勘違いしているのか、アキトの自転車はどんどんスピードを上げて行く。それに合わせてタカシも走るスピードを上げる。だから、サブグラウンドにはあっという間に着いた感じだった。
自転車から降りると、アキトはタカシの耳でもはっきりと捉えられるくらいの音を立てて、荒く息をしていた。
「準備体操のつもりだったけど、頑張りすぎて、もうこれだけで疲れてしまったよ」
呼吸の苦しさからか、アキトの言葉が何度も途切れた。
時刻は午後三時を過ぎていたが、九月の太陽はまだまだ威力全開で、団地からここまで走って来ただけでシャツが汗で濡れていて、額には大粒の汗が浮かんでいた。
それにまだかなり明るかった。この明るさはタカシにはとてもありがいことだった。狭い視野はいくら分厚いレンズで拡大しても、周りが暗くなると全く見えなくなってしまうのだ。
「お-い、アキトとタカシ、こっちだ」
野口先生の声がする。先に来て待ってくれていたのだ。アキトは自転車を停めると、タカシの手を握って野口先生のいる場所まで連れて行ってくれた。チロは見知らぬ人間には絶対にタカシを近づけない。自分のことを、タカシを守る護衛だと思っているフシがある。
「先生早いね。今日の放課後は職員会議がなかったんだ」
放課後ということもあり、アキトの言い方も砕けている。
「職員会議は一日おきだから、今日は、会議はなしの日なんだよ。おかげで、記念すべきチロとの練習初日に立ち会うことできたよ」
そう言いながら、野口先生がチロに近づこうとした途端、「ウー」とチロが低い声で吼えたので、頭を撫でようと出した手を、野口先生は咄嗟に引っ込めた。
「おお、怖い!」
「チロ、吼えちゃだめだ。この人は僕の学校の先生で悪い人じゃない」
チロに教え込むように、タカシが少し強い声で言う。
「悪い人じゃないけど、女の人にはもてない。したがって、未だに独身」
アキトがからかうように、そう付け加える。
「そんな余計な情報は必要ないだろ。それに、アキトの情報は間違っているぞ。先生は女の人には人気があります」
笑いながら野口先生がアキトの頭を軽く叩く。女の人の人気はどうか分からないけど、クラスの生徒に人気があるのは確かだよねと、タカシは心の中で言っていた。
タカシが教え込むと、恐る恐る野口先生が頭を撫でても、チロはもう吼えることはなかった。タカシの言うことには忠実なのだ。
「おーい、タカシ」
コウイチたちも自転車で駆けつけて来た。聞こえる声からすると、コウイチの他にマサル、ヨシノリ、ミホちゃん。それに一緒に千メートル走に出場をするナオヤとショウゴも到着したようだった。
「千メートル走に出場する三人の選手が揃ったから、競技場の中に入ろうか」
野口先生に続いて、県営競技場の中に入って行く。サブグラウンドには、一度競技場の建物に入ってからでないと移動できない構造になっていた。
「うわー、サブグラウンドと聞いていたから、もっとコンパクトな、学校の運動場と同じくらいかと想像していたけど、かなり広くて立派なグラウンドだな」
コウイチが驚きの声を上げる。
「見てみろよ、一周二百メートルのトラックの内側に、小さなトラックのラインが引いてあるよ。あれは、学校の運動場と同じくらいだから、きっと百メートルのトラックだな」
ヨシノリは解析好きなだけでなく、観察力も鋭いので、こうしたことにもすぐに気がつく。
「ヨシノリ、良く気がついたな。県庁の担当者の人に百メートルトラックもちゃんとありますと教えてもらっていたけど、どこにあるのか、先生にはすぐに分からなかったよ」
「ヨシノリは、人が気づかないこところはすぐに気がつくんだよ。人がすぐに気がつくところは、なかなか気がつかないんだけどな」
いつも余計なことを付け加えるアキトが、今回もご多分に漏れず余計なことを言う。
「先生、早速百メートルトラックの一メートル外側に、タカシとチロ専用のラインを引きましょう」
マサルが野口先生に提案をする。こうした決まり事を先回りして実践するのが、マサルは得意で、しかも正確に実行するのでクラスでのマサルに対する信頼は厚い。
「その前に、まずチロとタカシの走りを確認しよう。百メートルトラックを上手く走れることは判ってから、外側にラインを引くことにしよう。先ほど、競技場の係の人にライン引きは借りてきたから」
見ると先生は右手にキャスターの付いたライン引きを持っていた。
「そうか、先生はタカシがチロと走る姿を見るのは、今日が初めてだよね」
アキトが、「楽しみにしていてよ」と、まるで自分が走るようなことを言う。
「それなら、タカシがどれだけ速いか、一周だけ僕も一緒に走るから、比べてみてよ」
競技場にやって来た時からタカシも気になっていた。何故、コウイチまで運動着に着替えているのか不思議だったのだが、コウイチのこの言葉を聞いてタカシも合点が行った。コウイチも一緒に走ってくれるのだ。
「僕も一応、チロの補欠だしな。チロに何かアクシデントがあった時には、僕が代わりを務めることになるから、運動会までは一緒に練習をしようと思って」
言い訳をするようにコウイチはそう言ったが、これを聞いて、タカシはコウイチの気持ちがとてもうれしかった。
「おーい、応援に来たぞ」
クラスの殆どの生徒が駆けつけて来た。
「応援か、ただの野次馬か判らないけど、大勢いる方が盛り上がるからな、サンキュ」
アキトが、「優勝させる会」の会長らしいことを言う。
「こういうのを、枯れ木も山の賑わいと表現しますね」
ヨシノリがそう言って勝手に悦に入っている。
「では、タカシとチロ。それにコウイチとナオヤとショウゴの練習をこれから始めます。走る前に、十分に準備体操をしますので、みんなも一緒にラジオ体操をやることにします。それでは、号令をミホちゃんがかけます」
「えっ、私。聞いてないよ」
いきなりアキトに指名をされて、ミホちゃんが抗議をする。
「当たり前だよ、今、思いついたんだから」
「そういうのを短絡的と言いますね」
ヨシノリが話の腰を折る。
アキトに勝手に指名されたミホちゃんは、最初渋々ラジオ体操の号令をかけ始めたが、すぐにその楽しさと意義に気づいて、号令をかける声にも、体操する動きにも切れが出てきた。
「ジャンプはしっかり高く跳んでください。腕は指先までピーンと伸ばしてください」
ミホちゃんが、本物の指導者のように指示を出す。
「僕よりも上手い指導をするかもしれないな」
さっき、「きちんと足が上がっていない」とミホちゃんに注意された、野口先生からついポロリとこぼれた言葉だった。
「それでは、選手と補欠は、スタートラインの前に並んでください。内側から、ナオヤ、ショウゴ、それに補欠、タカシ、チロの順番です」
「おいアキト、さっきから僕のこと補欠、補欠と呼んでいるけど、コウイチという名前があるんだから、ちゃんと名前を呼べよ」
「事実、補欠なんだから仕方がないだろう。そう呼ぶ方が、みんなも判り易いし」
「明らかに、補欠よりもコウイチの方が判り易いだろ」
「はい、時間が勿体ないので、練習を始めます」
「こいつ、僕の言うこと、全く聞いてないな」
アキトはさっき野口先生から渡されたホイッスルを首にかけていた。いよいよ、これを手に取って口に持って行く。
「チロ、いいか、この白い線の通りに走るぞ」
タカシがチロに言い聞かせる。
「よーい、ピー!」
ホイッスルの音に合わせて、まずは、一気にコウイチがスタートダッシュをする。でも、それは一瞬のことで、すぐにチロとタカシがコウイチを抜き、ぐんぐんその差を広げて行く。
団地以外の生徒と野口先生は、そのあまりのスピードに目と口を大きく開いたまま、声さえ出せない。いや、日頃一緒に遊んでいるはずのマサルやヨシノリも同じ表情で固まっていた。
あっという間に、チロとタカシが一周を走り切る。続いてコウイチがゴールしたが、その差は裕に十メートルは付いていた。ナオヤ、ショウゴに対しては、十五メートル以上は開いていただろう。
「先生、今のタカシのタイムは?」
アキトが野口先生に確認をする。野口先生は、右手に持っていたストップウオッチを見る。
「タカシとチロの走りに圧倒されて、ストップウオッチのスイッチを押すのを忘れていた。ごめん」
「本当、役に立たないなあ、先生は」
「ごめん。本当に済まない。でも、それにしても、こんなにタカシが速いとは、想像以上だよ」
「僕も、びっくりした」
団地以外に住んでいる生徒たちも、口々に驚きの声を上げた。
「速いのは確かだけど、大きな問題があるのが分かった」
アキトが厳しい顔をしている。
「先生も気が付いた。チロが完全に前に出てタカシを引っ張っていることだろ」
「そうです。これでは、明らかに失格になるよ。タカシがチロに前に出るなと言っても、簡単には理解できないか?」
アキトが、タカシとチロの顔を交互に見ながら、タカシに聞く。
「今まで、どんな時にもチロが僕を引っ張ってくれていたから、前に出てはダメだと言っても、急には難しいかもしれない。でも、チロは頭の良い犬だから、きっと判ってくれると思う。次から、チロが前に出ないように指示を出しながら走ってみるよ」
「そうだな、チロにはどうしても、身体で覚えてもらわないといけないからな」
次は、チロがタカシの前に出ないような走りができるかどうかに重点をおいて、練習をすることになった。
「チロいいか、僕の前に出てはダメだぞ」
スタート前にそう言い聞かせたが、ホイッスルが鳴った瞬間に、チロはタカシの前に飛び出した。
「チロ、後ろに下がって。前に出てはダメだ!」
タカシが大きな声で注意をするが、チロはお構いなしにどんどん前に出て行く。タカシがしきりにリードを引っ張るのだが、全く後ろに下がる気配を見せない。
それから、何度も同様な試みをしてみたが、チロが前に出る行動は全く改善を見せなかった。
「当然のことだよ。言葉が通じるわけでもないのに、犬に前に出るのを口で止めなさいと言って、理解しろというのが土台無理な話だろう。だいたい、チロを過大評価し過ぎだよ。所詮(しょせん)、犬は犬だということだろう」
応援に来ていた団地以外の地区に住んでいる中西順二が言う。ナカニシはクラスでも休憩時間に誰ともつるまず、一人ですごすことが多く、他の生徒がタカシやアキトのように下の名前で呼び合うことが多い中で、中西順二だけは、「ナカニシ」と名字で呼ばれていた。だから、今日の練習に駆け付けたメンバーの中にナカニシの姿を見つけて、アキトたちは驚いたくらいだ。
ナカニシの指摘は強烈だったが、タカシは素直に一理あると受け止めていた。タカシがどんなに言い聞かせても、走っている時に強くリードを引っ張り寄せても、決して前に出ることを止めないのは、これまで九年近く前に出てタカシを誘導してきた習慣だったし、犬の本能的なこともあるのかもしれない。それを人間の都合で瞬時に変更しろというのは、チロにとっては身体をがんじがらめに縛り付けてられて、自由を奪われることと同じことなのだ。
『チロを伴走にするのは、ナカニシの言う通り無理なことだったのかな』と、タカシの中に弱気な感情が湧き上がりかけた時、解説好きのミホちゃんがこう提案をした。
「私、団地でチロとタカシ君が歩いているのを良く見かけるし、公園で走り回っている姿も良く見ているから、ある特徴があるんだよね。今日もそう思って見ていたら、やっぱりそうだ」
いったい何が言いたいのか、ミホちゃんの回りくどい前置きに、とうとうアキトがしびれを切らす。
「それで、ミホちゃんは何が言いたいわけ?」
「だから、チロはタカシ君と歩いている時は決して前に出ないのよ。チロがタカシ君よりも前に出るのは、走っている時だけということ。タカシ君が公園で走っているのは、鬼ごっこをやっている時が殆どでしょう。だから、逃げるか、追いかけるかだから、スピードが出ている分、タカシ君の視界が狭まっているから、チロは自分が誘導をしなければならないという使命感で行動をしているのだと、私は解析をしました」
「ミホちゃん、すごいことに気が付いたね」
アキトが感心をした目でミホちゃんを見る。
「アキト君勘違いしないでよ。私は気が付いたわけではなくて、データに基づいて解析をしただけだから」
「へえ、それならミホちゃんは科学者ということだね」
ショウゴが言う。この褒め言葉にミホちゃんも満更でもないようだ。
「科学者というよりも、今回の解析内容からすれば、心理学者の方が適切かな」
ミホちゃんのことをライバル視しているヨシノリが、ショウゴの言葉を訂正する。
「科学者でも、心理学者でもどちらでも構わないけど、とにかく、ミホちゃんは頭が良いということだよ」
ショウゴが言う。この頭が良いというショウゴの褒め言葉も、ミホちゃんは気に入ったようだった。「それほどでも」と口では言っているが、目に見えない鼻がピノキオのようにどんどん高くなっていることだろう。
「でも、僕に言わせると、ミホちゃんの解析は中途半端だよね」
ヨシノリが、そう言ってミホちゃんの気持ちを逆撫でにする。挙句の果てにはこんなことまで言い出す始末だ。
「観察力は確かに鋭いけど、解決策をまったく示していないので、中途半端と言わざるを得ないね。今一歩足りないということだよ。だから、ミホから一歩引いて、これからはニホちゃんと呼ばせていただくことになるかな」
今一歩だから、ミホ(三歩)ちゃんから一歩引いて、ニホちゃん。全く上手い話だとタカシは、意外なヨシノリの才能に感心をしたが、当然、今はそんな話ではない。
「ニホちゃんなんて、そんな失礼なことを良く平気で言えるね。じゃあ、ヨシノリ君は解決策を見つけることができているの?」
憤慨しながら、ミホちゃんはそう言ってヨシノリに迫った。その顔には「どうせ、解決策なんか考えてもいないくせに」という気持ちが見え隠れしていた。
「ニホちゃんと違って僕には、ちゃんと考えがあるよ。僕もタカシが歩いている時にはチロがタカシの横を歩いていることにも、走り始めた途端に前に出てしまうことにもすぐに気が付いていたからね」
敢えて、ミホちゃんだけがこの現象に気づいていた訳ではないことを、ヨシノリは強調した。この現象を捉えて、ヨシノリが考えた解決先は以下の通りだった。
タカシとチロで、ますはトラックを歩くことから始め、何周か歩いたところで、その歩くスピードを普通の歩きから、速足(はやあし)で歩くくらいのスピードに上げてみる。おそらく速足程度ではチロが前に出ることはないと考えられるが、そこは辛抱強く慎重にスピードアップをして行く。
速足でも横を付いてくることが分かったら、しばらく速足で歩いて、このスピードをチロの身体に覚えさせる。
その後、いよいよゆっくりしたジョギングに移って行き、ここも慎重に様子を見る。もし、前に出て行くようだったら、すぐに元のスピードに戻す。こうした訓練を慎重に重ねて行き、タカシが最速で走った時にも、チロが絶対に前に出ないようにスピードに慣らして行くのだ。
ヨシノリの解決策をみんなは感心しながら聞いていた。野口先生さえ何度も頷き返していたほどだ。
「ヨシノリ、ひょっとしたら、お前は天才かもしれないな」
アキトがぽんとヨシノリの頭を叩く。
「ひょっとしなくても、僕は自分の才能が怖くなることがあるよ」
ヨシノリは、グーンと鼻を高くしている。
「でも、このやり方だったら時間がかかり過ぎないかな? 運動会まではもう一ヶ月もないんだよ」
どうしても、ヨシノリの提案の欠点を見つけ出さないと気が済まないミホちゃんが、そう指摘をする。
「時間なんて全く問題にならないよ。元々タカシもチロもスピードは持ち合わせているんだから。最悪、運動会の前日までにチロが前に出ないようになれば良いだけのことだもの」
ミホちゃんの指摘に、ヨシノリが簡単に答えを出す。それがまた、ミホちゃんには面白くないらしい。表情がかなり歪んでいる。
「そんなに簡単に行くかな?」
ミホちゃんは、大げさに首を傾げた。
早速、ヨシノリの立てた方法を実証することにした。
一周百メートルのトラックの外側を、タカシが右手でリードを引きながらチロと歩き始めた。ナオヤ、ショウゴ、コウイチの三人は、タカシの内側を走って行く。確かにミホちゃんが指摘する通り、歩きのスピードではチロは決してタカシの前に出ることはなかった。
二周歩いたところで、次は歩くスピードを速足程度に上げた。
大方の心配をよそに、速足のスピードでもチロは決してタカシの前に出ることはなかった。
「ヨシノリの計画は、案外スムーズに行くかもしれないな」
アキトがそう楽天的なことを言っている時に、「あっ!」という声が上がった。
見るとチロがタカシを引っ張って走り始めていた。
「いったいどうしたんだ? さっきまで順調に進んでいたのに」
「油断してタカシが少し走り始めた途端に、チロが前に出てタカシを引っ張り始めてしまったんだよ」
ずっと事の成り行きを見守っていた生徒の一人が、事情を説明してくれる。
「この調子だと、まだまだ時間がかかりそうだな」
今吐いたばかりの言葉とは真逆のことをアキトは言った。
結局、この日は、速足歩きでトラックを十周して初回の練習を終了した。
翌日の放課後も同様にサブグラウンドに集合して、練習が開始された。
最初の一周目を歩いた後に、二周目からは速足に切り替えた。昨日の練習で感覚的に判りかけてきているのか、速足では一切チロがタカシの前に出ることはなかった。
速足で五周を歩いたあと、慎重にゆっくりとしたスピードで走り出してみた。すると、途端に元の木阿弥(もくあみ)で、一気にチロが前に出てタカシを引っ張り始めたのだ。
「チロ」とタカシが声をかけると、一旦はタカシの横に付くのだが、またすぐに前に出て引っ張り始めてしまうのだ。何度やってもこの繰り返しが続いた。
「はーい、練習中断。これから、作戦会議を行います」
アキトが両手をメガホンの形にして、全員を集める。
「この現状をどうやって打破するかを、みんなの知恵を出し合って解決して行きたいと思います」
アキトが、全員の顔を見回す。そう簡単に解決策が出てこないことは判っているので、必然的にアキトの目は、アイデアマンと解析好きのヨシノリとミホちゃんのところで止まってしまう。
「チロは、タカシが走り始めたら、自分が引っ張って行く使命感で行動をしている感じだよね」
コウイチがそう感想を言う。
「条件反射というか、そういうふうに行動するように身体が覚え込んでいるんだよ。ほら、理科の時間に習った、ベルが鳴るとご飯をもらえると思ってよだれを垂らす犬のようにさ」
マサルが条件反射という言葉を出して説明をする。
「それは、パブロフの犬のことですね」
美味しいところは他人には譲らないという強い信念を、ヨシノリは持っているようだ。
「私、気が付いたんだけど」
出ました。鋭い観察力のミホちゃんが手を挙げる。途端に期待感でアキトの目が光る。
「ミホちゃんは何に気づいたんだ?」
アキトがミホちゃんからの答えを促す。
「誰も気が付いていないかもしれないけど、チロがタカシ君の前に出たあとに、タカシ君が『チロ』と名前を呼ぶと、必ずチロはタカシ君の横の位置に戻るのよ。それで、しばらくするとまた前に出て引っ張ってしまう」
ミホちゃんは、そこで話を中断する。
「それで、それから話はどうつながるの? ニホちゃん」
ヨシノリのニホちゃん攻撃は継続していた。
「だから、タカシ君がずっと『チロ』と言い続けていたら、どんなに速く走ってもチロはずっと前に出ないで、タカシ君の横で走り続けるのではないかと、私は解析しました」
「ほー!」
アキトが大げさではなく、感心をした声を出す。
「ミホちゃんの観察力は、さすがにすごいなあ」
野口先生まで感心をしている。
「そんな単純なことで、解決できるのかな?」
ヨシノリは、ミホちゃんの着眼点に否定的だ。
「僕は、良い提案だと思う。どうだ、タカシ。ミホちゃんのアイデアを試してみないか」
アキトはすぐにでもミホちゃんのアイデアを試したいようだ。
「うん、すぐにやってみたいよ」
そう言うとタカシは、チロを連れてトラックに出た。
トラックを、まず速足で歩き始め、二周目にゆっくり走り始める。と同時にタカシが「チロ」と名前を呼び続け始めた。
するとどうことだろう。先ほどまでとは打って変わって、チロはずっとタカシの横に付いたままで、全く前に出ようとしないのだ。ミホちゃんのアイデアは、まず、第一段階で成功したと言える。
「ミホちゃんすごいよ。期待通りだね。いや期待以上だ」
アキトがミホちゃんに握手を求める。ミホちゃんの方も満更ではないようだ。
「これくらいで喜んでいても、本来の目標はタカシが最速のスピードで走ることだからね」
ミホちゃんへの賞賛を心から喜べないでいるヨシノリが、負け惜しみのようにそう言う。当然、ヨシノリの言うことは正しい。勝負はこれからなのだ。
「タカシ、三周目は一気にスピードを上げてみようか」
アキトがコーチのように指示を出す。
「分かった」と、タカシがリードを握っていない方の左手を上げる。
三周目は、全速力ではないが、二周目と比べると明らかに速いスピードに切り替えた。引き続き、タカシは「チロ」の名前を呼び続けている。
これもチロは楽々クリアをした。いよいよ、四周目は全速力で走ってみることになった。このチャレンジには、コウイチとナオヤ、ショウゴの三人も一緒に走ることになった。
四周目に入る。スタートラインをタカシとチロが走り抜けると同時に、コウイチたちもスタートをした。
最速で走り出してもチロは決してタカシの前に出ることはなかった。三人の中では他の二人を引き離して格段に速く走っているコウイチでさえ、タカシとの差がどんどん広がって行く。あっという間に四周目が終わった。
「タカシ、そのまま続けて全速で走ろう」
アキトが指示を出す。これに応えて、タカシが左手を上げる。五周、六周と風を切るように疾走するタカシとチロ。このまま、十周、千メートルを走り切れると、練習を見守る誰もが思った八周目に、いきなりタカシのスピードが落ち始めた。と同時にチロが前に出てタカシを引っ張り始めた。
「おい、おい。いきなりどうしたんだ?」
アキトが全員の走りを中断させた。
「タカシ、どうして、こうなったんだ?」
アキトの聞き方は必ずしも適切ではないが、言いたいことは全員が理解できた。誰もが急激な減速の理由を聞きたがっていた。
「ごめん」
タカシは謝ったあとに、「無理なんだよ」とだけ言った。
「何が無理なんだ?」
アキトの質問は当然だ。
「全速力で走りながら、ずっと『チロ』と言い続けるのは、呼吸が苦しくなってスピードを維持するのは無理なんだよ」
タカシにしては珍しく、走り終わってしばらく経った今でさえ、軽く肩で呼吸をしていた。
「そうだったのか。やっぱり走りながらチロの名前を呼び続けることには限界があるんだな」
納得したアキトが、ヨシノリとミホちゃんの顔を見る。ヨシノリの目が、「待っていました」とばかりにきらりと光った。
「そんなこと簡単なことだよ。タカシがチロの名前を呼び続けても、苦しくないくらいのスピードに落とせば良いだけのことだよ」
事も無げにヨシノリが即答をする。全員が首を傾げる。
「みんなも見ていたでしょう。コウイチたちとタカシの走りの差を。たった三周走っただけであんなに差がついてしまったんだよ。多少スピードを落としたからって、いくら速いといったって西田に負ける心配はないと思うよ」
ヨシノリの説明に、全員が大きく頷く。
「僕もそう思うよ。タカシのスピードに付いて行ける小学生なんて、うちの学校どころか、日本中の小学校にだっていないと思うよ」
コウイチがヨシノリ理論に賛同の声を上げた。タカシを除けばクラスで一番の俊足のコウイチの言葉を全員が信じた、けれど、それも次の日の放課後までのことだった。
翌日、チロの問題が解決したことで、意気揚々とサブグラウンドでの練習のために、下校をしようとした六年二組の生徒たちは、運動場で繰り広げられている光景に、大きな衝撃を受けた。
「これヤバいんじゃないか!」
アキトが衝撃を隠し切れなくて、震える声で叫んだ。
放課後の運動場では、六年四組が千メートル走の練習を開始したところだった。この場面に偶然アキトたちが出くわしてしまったのだ。
四組といえば、タカシの最大のランバルと二組の連中が勝手に決め付けている、西田がいるはずだ。そう意識してアキトやコウイチたちが目を凝らそうとしたが、全くその必要はなかった。千メートル走に出場する選手と補欠一名の四名が走り始めた瞬間に、誰が西田なのかすぐに判った。何故なら、他の選手と比べると、大袈裟に言えば、走るスピードに大人と子供くらいの差があつたからだ。
その速さは、もちろん感覚的なことになるが、タカシがチロと全速力で走るのと何一つ遜色がないようにアキトの目には映った。
「昨日、ヨシノリが提案したスピードでは、タカシは西田に絶対勝てないな。これだけは確実だ」
コウイチが西田の走りに魅入られながら、ひとり言のように言った。
「なんとしても、タカシが全力疾走できるように対策しないといけないな」
マサルが言う。と言っても、マサルから具体的な解決策が出てくることはなかった。
タカシたちがサブグラウンドに到着すると、他の生徒たちの間で、先ほど見た西田の走りの話題で持ちきりになっていた。
「タカシ、作戦変更だ」
到着した途端に、アキトからそう宣言をされた。
「作戦……、変更?」
どんな作戦を組んでいたのか、ぴんと来なかったので、タカシはアキトにそう訊ねた。
「昨日立てた作戦だよ。チロが前に出ないようにタカシがチロの名前を呼び続けても、苦しくならないスピードで走るという、作戦」
アキトが説明してくれる。
「ああ、あの作戦ね。なんで、変更する必要があるの?」
「タカシは、放課後、四組が練習している様子を見なかったのか?」
「見たけど、僕の視力では顔の識別ができないので、誰かが走っているという感じしか判らなかった」
「だから、そんな呑気なことが言えるんだよ。とにかく、西田の走りが予想していた以上にすごいんだ。タカシが全速力で走るスピードに引けを取らない速さなんだよ」
「へえ、強力なライバル出現という感じだね」
「なに呑気なことを言っているんだよ。タカシは、その強力なライバルの西田よりも百十メートル以上も余分に走らないといけないんだぞ。同じスピードで走れば、確実に負けることになるだろう」
「そういうことになるね」
「だから、大幅な作戦変更というわけだよ」
「うん、分った」
タカシは大きく頷き返したが、果たしてどんな作戦を立てれば良いのか、皆目見当がつかない。ここは、クラスの知恵袋に頼るしかないだろう。
「ヨシノリのアイデアでは、四組の西田には勝てないということがはっきりしたので、新たな作戦を立てる必要が生じました。また、みんなでアイデアを出し合いたいと思います」
一応、みんなに投げかけるようにはしているが、アキトの目は、またまたミホちゃんしか見ていなかった。
アキトの視線を目で追いながら、その延長線にミホちゃんがいることを確認すると、屈辱からなのかヨシノリは顔を歪めた。
「ミホちゃん、何かアイデアはあるかな?」
さり気ない風を装っているが、アキトの目は真剣だった。それなら、自分でも苦労すれば良いのだが、アキトの性格として、できないだろうと思われることは最初からやらないのだ。
「アイデアまでとは行かないんだけど、いいかな?」
アキトに指名をされたミホちゃんは、その使命感からなのか、自信なさ気に切り出した。
「いいよ。いいに決まっているじゃないか。なんでも言ってみてよ」
「実は、昨日の練習の時に、タカシ君がチロの名前を呼び続けている間は、チロはタカシ君の前には絶対出ないことを説明したでしょう。昨日、おうちに帰ってからも色々と考えてみたんだけど、チロに対する名前の呼びかけは、別にタカシ君がしなくても、チロは走っている時に名前を呼ばれると、自分はタカシ君の横にいなければならないと判断するんじゃないかと思うの」
ミホちゃんはそう自分の考えを言った。
「つまりは、タカシではなく、他の誰かがチロの名前を呼びかけ続けていれば、チロはタカシの横から、決して前に出ないとミホちゃんは考えているんだね」
さすがは学級委員のマサルだ。誰もが理解できるように解説付きでまとめてくれる。
「その考えは、僕は間違っていると思うな。主人であるタカシの声だから、主人の命令だからこそ、チロは、前に出たいという欲望を抑制できているんだよ」
ヨシノリがこの時とばかりに異論を唱える。
「やはり僕は、タカシの心肺機能を向上させて、千メートル、実際には千百メートル以上だけど、これを『チロ』の名前を呼び続けながら、全速力で走り切れるようにトレーニングをすることの方が、憶測で行動をするよりも、確実で、効果が高いと思う」
ヨシノリは、自分の意見を強く主張をした。
「想像や、憶測で話を進めて行かないと、新しい発見や、大げさに言えば未来はないよ。本当に頭の良い人は、他人の考えを素直に受け入れることができる人だと思うけどな」
ミホちゃんは、あくまでも冷静な声だったが、かなり強烈にヨシノリのことを非難していた。
「未来という言葉を出しさえすれば、どんなことでも画期的な提案になると考える方が、愚かだと僕は思うけどね」
このままだと、ヨシノリとミホちゃんのバトルが勃発してしまいそうな勢いだったので、とにかくアキトの権限で、まずはミホちゃんのアイデアを実践してみることに決めた。
「チロ」と呼び続けるのは、練習を見学している全員で声を揃えて行うことに決まった。
いよいよ、タカシとチロ。それに今回もコウイチが加わり、ナオヤ、ショウゴもスタートラインに立った。
アキトがホイッスルを口元に持って行く。
「じゃあ、チロの名前を呼び始めてください」
アキトの号令で、二十数名のクラスメイトと野口先生が一斉に、「チロ」の名前を呼び始める。
その直後にスタートのホイッスルが鳴る。「ピー」
四人と一匹が一斉にスタートをあいた。
直後からタカシとチロが、どんどん他の三人を引き離して行く。しかも、チロはタカシの横にぴったり付いたままで、決して前に出ていないし、出ようともしていない。
タカシとチロが、どんどん他の三人を引き離して行く。二周目、三周目……。そして、八周目に入った時に、タカシとチロが、最後尾だったショウゴを抜き、ナオヤを抜いて、他の三人の中で一番前を走っていたコウイチを抜いた。ナオヤとショウゴは、八周目の早い地点で抜かれたが、コウイチは八周目の終盤を走ったところで抜かれた。周回遅れになったのだ。
タカシのスピードは、最後の十周目に入ってもまったく落ちなかった。周回を重ねて、かなり脚に疲労が溜まってきているナオヤとショウゴを、もう少しで二周遅れにするところで、タカシとチロの千メートルがゴールを迎えたのだ。
タカシがゴールをした時には、コウイチは、九周目をあと三十メートルくらい残していたし、ナオヤとショウゴは、やっと九周目に入ったばかりだった。
タカシはコウイチに百三十メートル差を付けてゴールしたことになる。
「チロ、良くがんばってくれたな」
膝を折って、タカシがそう言いながらチロの頭を撫でる。
遅れてコウイチがゴールをする。それよりもさらに遅れて、ナオヤが、続いてショウゴがゴールをする。ゴールと同時に、三人はその場に倒れ込んだ。
「苦しい」とコウイチは叫んでいるが、他の二人は声さえ出せないほどに疲労困憊していた。
「すごいよ。ミホちゃんの観察通りだ。これで、全てが解決したな。あとは、運動会当日に向けて練習を重ねるだけだよ」
アキトがミホちゃんに握手をしながらも、顔だけはみんなに向けて言った。いつまでも握った手を離さないので、しびれを切らしてミホちゃんが強引にアキトの手を引き剥がした。
「実際の運動会では、タカシとチロはトラックの一メートル外側を走ることになるので、明日からは、このトラックの一メートル外側にラインを描いて、運動会を想定した練習に入った方がいいね」
マサルがアキトに向かってそう提案をする。まあ、「タカシを優勝させる会」会長のアキトの顔を立てた感じだ。
「全てが解決したとアキトは言っていたけど、それは能天気で甘い考えではないのかな」
この期に及んでも、まだヨシノリがクレームを付けてくる。ミホちゃんの言う通りになったことが、どうにも我慢ならない感じなのだ。
「能天気で甘いなんて、お前は相変わらず平気で嫌なことを言う奴だな。ミホちゃんの観察力が、お前の屁理屈よりも正しかったことが、悔しいからって僕に当るなよ。そんなのとんだお門違いだろ」
アキトは、自分のことをけなされたことで、憤慨をしていた。そんなアキトの様子をヨシノリは冷めた目で見ていた。
「アキトに当たるとか、そんな次元の低い問題ではなく、僕はタカシを優勝させるための貴重で効果的な意見を言っているだけだよ」
アキトの気持ちを逆撫でするようなことを、ヨシノリは平気で口にした。しかも、平然とした声で。
「それを、僕は屁理屈だと言っているんだよ。もう良いからお前は黙っていろ。ヨシノリのアドバイスなんかもう必要ないから」
ヨシノリに対して、アキトはかなり感情的になっている。
「まあ、アキトもそう熱くなるなよ。ヨシノリも言い方に気をつけろ」
こういう時にいつも場をまとめるのはマサルの役目だった。
「僕は別に熱くなんかなっていないよ。たた、こいつが」
アキトは人差し指で、文字通りヨシノリを指差した。
「人に対して指を指すのは、とても失礼なことだよ。まあ、今回は大目に見るけど」
ヨシノリの言い返しに、アキトが歯ぎしりをしている。
「はいはい。二人のやり取りはこれくらいにして、じゅあ、ヨシノリが言う貴重で効果的な意見を聞くことにしよう」
マサルが上手くまとめてくれた。まるで野外学級会のようだと、やり取りを聞きながらタカシは思った。
「では、僕の意見を言わせてもらいます。今日の練習で、選手以外の全員が『チロ』の名前を呼び続けたおかげで、チロは確かにタカシの前に出ることはなく、しかも、コウイチさえも百三十メートル以上引き離して十周を走り切ることができた。この結果は確かに一見成功したように見えるけど、現実的には、運動会当日にはこの方法は通用をしないと僕は思う」
ヨシノリは声を張ることもなく、淡々と説明をした。
「その理由を詳しく説明してくれよ」
何か言いたくてうずうずしているアキトの肩を押さえながら、マサルがヨシノリを促した。
「運動会当日の観客の数や状況を思い浮かべれば、その理由は明確だと思うけど。つまりは、運動会当日の運動場の騒がしさの中では、どんなに頑張っても、みんなが叫ぶ『チロ』の声は、肝心のチロには全く届かないということだよ。当日は、全校生徒、教職員、来賓、それに父兄、卒業生を含めたOBなど、かなりの来場者が一同に集まる。僕が確認した限りでは、昨年の来場者は、生徒、教職員以外で千三百七十六人。生徒と教職員を入れると、二千五百人以上の人たちが運動場に集まるということだよ。
昨年の運動会の状況を思い浮かべれば判り易いと思うけど、一人一人の声は小さくても、父兄が応援する声、生徒がお喋りをする声などが、二千五百人分重なってしまうと、たった三十人足らずが発する『チロ』と呼ぶ声なんて、簡単にかき消されてしまう。
だから、僕は、今日、成功した方法は運動会当日には通用しないと言ったんだよ。能天気で甘い考えと発言したのは言いすぎだったかもしれないけど、甘いと表現した理由は、僕の説明で解ってもらえたと思う」
ヨシノリの説明を聞いているうちに、だんだんと周りが静かになって行った。現実をみんなが理解してきたからだ。
「確かにヨシノリの言う通りだな。運動会当日の来場者の数を考えると、いくら大きな声を出し続けても、みんなの声はチロの耳には届かないかもしれないな」
野口先生がそう結論付けた。ヨシノリの言うことが肯定をされたわけだ。
「じゅあ、これからどうするかだよ。せっかく、解決策が見つかったと喜んでいたのに、運動会当日に通用しないのなら意味はないし」
アキトは肩を落としたまま、悲しそうに言った。アキトは、僕が優勝するために心を砕いてくれているんだなとタカシは感じた。自分のことなのだから、自分が一番に考えなければと、タカシは思い切って手を挙げた。
「会長」
「タカシ、どうした?」
「僕が意見を言ってもいいのかな?」
「もちろんだよ、タカシは当事者なんだから、どんな小さなことでも言っていいに決まっているだろう」
「僕は、今のままの方法でしばらく練習を続けたいと思っている。みんながこれからも練習に付き合ってくれることが前提だけど、練習のやり方を変えてばかりいると、チロが戸惑ってしまって、かえって良くないと思うんだ。それに、チロは頭の良い犬だから、今の練習を続けていたら、必ずかけ声がなくても前に出ることはなくなると思う。これは、どんな時にも一緒に行動を共にしてきた僕の勘だけどね」
タカシは、みんながチロの名前を呼び続けてくれる練習方法を、このまま続けたいと主張をした。そして、運動会当日までにチロはみんなの声がなくても、絶対に前に出るようなことはなくなると言い切ったのだ。
「タカシの言う通り、チロのことを第一に考えてやらないといけないな。せっかくチロが今の練習法に馴染んできたのだから、しばらくこの練習方法を続けてみよう」
野口先生が、そこにいるみんなではなく、会長であるアキトに向かってそう言った。アキトの立場を尊重したのだ。
タカシとチロの組み合わせで、初めてタカシの持ち得る力を出し切って千メートルを走り切った記念すべき日は、クラスに小さなひび割れができてしまった日でもあった。自分が運動会に参加することを強く望んだから、こんな状況になったことを、タカシは申し訳ないと感じていた。自分さえ五年生までと同じように、運動会を見学することにしておけば、こんなことにはならなかったのだ。
でも、ここまできたら、とにかくクラスの期待に応えるように、しっかり練習を積み、四組の西田に勝つこと。そして、二組が優勝することだけに集中をしよう。タカシは改めてそう決意を固くした。
翌日からの練習は、百メートルトラックの一メートル外側に、タカシとチロ専用のラインが引かれた中で行われた。
昨日と同じように、練習にはクラスの全員が参加してくれた。走り出すと全員が声を揃えて「チロ」の名前を呼び続けてくれた。
その日はなんの問題もなく、千メートル(タカシは千百十メートル以上だが)走の練習が終わった。
九月も最後の週を迎えて、運動会本番までは残すところ二週間足らずになった。
季節が夏から秋に急速に移って行こうしているのを、日増しに涼しくなって行く空気で感じるようになった。
季節の変わり目は、多くの雨をもたらした。秋雨前線が停滞をして、先週は三日間も練習が中止になったのだった。それだけでなく、雨になると光の量が極端に少なくなるので、タカシの視界がさらに狭くなるのだ。だから、雨の日は登下校にさらに注意が必要だったため、団地の同級生と一緒に登下校をすることはもちろんだが、傘は例えそれが透明な傘であっても視界を遮ってしまうので、タカシはフード付のレインコートを着てフードを被り、傘を差さないで外を歩いた。
溢れる光はタカシを助けてくれたが、雨や曇りによる薄暗さは、タカシに沢山の試練を与えてくれる、どちらも生きて行く上での先生だった。野口先生のように。
降り続いていた雨が止んだ月曜日は、一気に空気が秋の兆しを、乾いた風の涼しさでタカシたちに教えてくれた。
四日ぶりの練習だった。この日、運動会の本番に向けて大きなチャレンジが行われた。それは、「チロ」の掛け声を一切無くして、チロがこれまで通りにタカシの横に付いたまま、トラック十周を走り切ることができるか、チャレンジすることだった。
運動会まで二週間を切った今になっても、チロが自分を呼ぶ声が聞こえなければ、前に出てタカシを引っ張ってしまうことになれば、この時点で練習の方向性を大きく変えなければならなくなる。
その大事な練習が、四日ぶりの月曜日の放課後の練習で実践されるのだ。
準備体操を終えて、コウイチを含めた四人と一匹がスタートラインに並んだ。タカシとチロはトラックの一メートル外側に描かれたラインの外に並んだ。
「チロ、お前ならできるな。僕の横から絶対に離れるなよ」
膝を折ってチロの顔の高さに合わせると、タカシはチロの頭を撫でながら、ひと言だけ言った。
いよいよ、スタートだ。アキトがホイッスルを口に持って行く。同時に、コウイチ、ナオヤ、ショウゴがタカシの方を見る。「きっと、大丈夫」と、三人の中では一番外側に並んでいるショウゴがそう声をかけてくれた。
「うん」と、タカシは力強く頷く。
「ピー!」
四人と一匹が一斉に走り出す。
「おお!」
見守ってくれているクラスメイトと野口先生から大きな声が上がる。
スタートからすでに五十メートル以上走ったが、チロはタカシの横にぴったり付いたままだった。
「チロ、いいぞ。その調子だ」
チロに声をかけたあと、タカシはさらにスピードを上げた。後ろからの足音がどんどん遠くなって行く。
二周、三周……九周目を通過した。残すところあと一周だ。
「チロ、このまま行くぞ」
タカシがチロに声をかける。
最後の一周に入る。
「チロ、あと一周だ。がんばれ」
黙っていることに我慢し切れなくなった生徒から、激励の声が飛んでくる。
「チロの名前を呼んではだめじゃないか」
アキトに注意をされている。
ついに、掛け声がないまま、チロはタカシの前に一切出ることもなく、十周を走り切ったのだ。しかも、二位のコウイチと差は、三十メートル近く付いていた。一メートル外側のコースを走っても、コウイチとはこれほどの差を付けるのだ。これなら、もうタカシの優勝は間違いないと、そこにいる誰もが確信をした練習でもあった。
そして、いよいよ運動会当日を迎えた。前日の天気予報では午前中の雨の確率を五十パーセントと報じていたが、タカシが窓のカーテンを開けると日差しが眩しく降り注いできた。
「天気は大丈夫そうだな」と、タカシは胸を撫で下ろした。
台所に行くと母親が弁当作りに精を出していた。
「タカシの好きな海苔巻きも沢山作ったからね」
「父さんは?」
見回すと父親の気配がなかった。
「ビデオの試し撮りをするために外に出て行ったわよ。タカシとチロの晴れ姿をしっかり記録に残すと言って大張り切りよ」
運動会のために頑張っているのは自分だけではない。小学校の最後の年、タカシにとっての最初で最後の運動会が、いよいよ今日行われるのだ。
「天気、なんとか持ちそうでよかったね」
母親も天気のことを気にかけてくれていたのだ。
「うん。心配していたから、朝一番にカーテンを開けたら、すごく眩しかったから安心をしたよ。うれしかった」
「うっすらだけど青空も顔を覗かせているから、たぶん今日一日は雨も降らないと思うよ」
「最初で最後の運動会だからね、天気も味方をしてくれたのかな」
「そりゃあそうでしょう。タカシの初めての運動会なんだから」
母親はそう言いながら、朝ごはんを用意してくれた。
小学校に入学して初めて、チロと一緒に登校をした。
「タカシ、おはよう。あっ、チロも一緒だね。チロ、今日は期待しているぞ」
タカシを追い抜いて行くクラスメイトが、必ずチロにも声をかけてくれる。
午前九時。タカシにとっての最初で最後の運動会が始まった。
午前中は主に、下級生の徒競走やダンスのプログラムが組んである。妹の理香は徒競走で一等賞を取った。ダンスは、昨日夕食を終えてからもリビングで練習をしていた。上手に踊れたかどうかは、父兄と一緒の昼ごはんの時に聞いてみようと、タカシは考えていた。
午前中のプログラムが終わった。空はまだ雨を降らさずに、ほんの僅かだが青空さえ残してくれていた。
タカシが出場をする「六年生千メートル走」は、プログラム最後の競技だ。それまで、なんとか天気が持ってくれることを祈るばかりだ。
母親が早く起きて心を込めて作ってくれた弁当の、特に好物の海苔巻きは本当に美味しかった。
「タカシ、あんまり食べ過ぎるなよ。午後からの千メートル走に影響するからな」
父親が午前中に撮影をした、理香の動画を確認しながら形だけの注意をした。
「大丈夫だよ。千メートル走は午後からのプログラムの最後だから」
「そうだが、油断は禁物だ。用心をすることに越したことはない」
とにかく、父親はタカシが運動会に出場することが嬉しくてたまらないのだ。
順調にプログラムは進行して行った。
六年生のクラス対抗リレーでは、タカシたちの二組は五クラス中、二位に入った。優勝をしたのは四組で、最後の一人までは二組がトップを死守していたのだが、アンカーのコウイチが四組の西田に抜かれて、二位になってしまったのだ。評判通り、西田は短距離でもかなりの俊足の持ち主だった。
午前中の玉入れ、綱引き、午後一番に行われた六年生全体の徒競走の結果と、このクラス対抗リレーの結果を総合すると、現在のトップは六年四組で、僅かの得点差で二組が二位に付けていた。その得点差は二十二点で、千メートル走の優勝の得点が百点、二位が五十点なので、二組が優勝を果たすためには、四組の西田の走力からすると、千メートル走で優勝することしか残された道はなかった。
リレーが終わってから、三つのプログラムのあとに千メートル走が行われる。
「タカシ、ナオヤ、ショウゴ。そろそろ準備を始めた方がいいぞ」
アキトからそう指示が出た時に、ポツリと冷たいものが頬に当たったような、不吉な気がした。その不安をより色濃くするかのように、急に辺りが暗くなって行った。一気にタカシの視界が狭くなる。
一粒だった雨は、身体中を打つほどに一時的に強くなって行き、そのすぐあと、小康状態になった。厚い雲が垂れ下がっているのか暗さは変わらない。
準備を始めようとしていたタカシのところに、野口先生がやって来た。
「タカシ、ちょっと来てくれ」
野口先生に手を引かれて、運動場の端にある体育館の裏に移動した。そこには、母親が待っていた。
「タカシ、運動会の楽しさは味わえた? 初めての運動会だものね、思い切り楽しまないと損をしちゃうよね」
「うん。でも、僕の運動会はこれからだよ」
そう、まだ千メートル走を走っていない。
「それなんだけど、タカシ、千メートル走に出場するのは、残念だけど諦めよう」
「えっ、どうして。なんで諦めないといけないの?」
「タカシ、ごめんな。雨が降り出してきてしまったんだ。今は一時的に止んではいるけど、いつ降ってもおかしくないくらいに、空には厚くて黒い雨雲が居座っている。こんな暗い中でタカシを走らせることが、危険すぎて許しが出ないんだ。
あんなに、一生懸命に練習をしたのに、走らせてやることができなくて申し訳ない。でも、タカシの安全のためなんだよ。怪我をしたり、他の生徒に怪我をさせたりしたら取り返しのつかないことになってしまうだろう。辛いと思うし、悔しいと思う気持ちは先生にもよく解る。でも、どうしてやることもできないんだよ」
野口先生が悲しそうな声でそう説明をしてくれる。
「嫌です。僕は走ります。どうしても走りたいです」
「タカシ……」
タカシの意志の強さに、野口先生は、それ以上言葉を発することができなかった。
「タカシ、野口先生を困らせるようなことを言ってはいけないよ。タカシの気持ちは良く解っているから、悔しいけど今日は走るのを諦めよう」
野口先生に代わって、母親がタカシに言った。
「僕の気持ちなんか、なんにも解っていないよ。僕が毎日、どんな気持ちで学校に通って、どんな思いで学校生活を送っていたかなんて、誰にも解らないよ」
タカシは大きな声を出した。気持ちがそうさせていた。
「タカシ……」
珍しく声を荒げるタカシの様子を見て、母親もまたこれ以上言葉を発すことができなかった。
「僕は、学校の中で、一人だけでは何もできないんだ。授業で理科室や工作室に移動する時にも、誰かが手を引いてくれて一緒に歩いてくれる。給食の時も、他のみんなはちゃんと並んで順番を待っているのに、僕だけは並ばなくても、当番の人が机まで運んでくれるんだよ。だいたい、僕は給食当番をすることさえできないんだ。
みんなに助けてもらっていることを、いちいち挙げると、きりがないくらいに沢山あるよ。でも、みんなそれが当たり前のようにやってくれるんだ。ちっとも面倒がらずに、ひと言も文句も言わないで助けてくれている。
でも、僕はみんなのために何ひとつやってあげることがないんだ。この六年間、ずっと僕はみんな助けてもらってばかりなんだよ。
だから、今日の千メートル走で優勝をして、六年間のみんなの優しさに対して、少しでも恩返しをしたいんだよ。僕がみななにできることが、やっと見つかったんだから。 だから、僕は絶対に走りたい。走らせて欲しい」
タカシは泣きながら、野口先生の両手を掴んで懇願をした。
「先生、何があっても親が全責任を取ります。だから、タカシを走らせてやってください」
声に方向に目をやるとそこには、見覚えのある父親のシルエットが立っていた。
「あなた!」
「私の方から校長先生にお願いに行きます。何があっても責任は親が取ります」
父親はさらに言葉を重ねた。
「先生、僕たちも他の選手に危険が生じないように、しっかりタカシをサポートします」
父親だけでなく、クラス全員がここに駆けつけてくれていた。一緒に千メートルに出場をするナオヤとショウゴがそう言ってくれた。
「みんなの気持ちは良く解った。先生が校長先生にしっかり説明をして、必ず許可をもらってくる」
野口先生は覚悟を決めたことを示すような、強く潔い声でそう言った。
「先生、私も一緒に行きます」
父親が申し出た。
「いえ、私一人で大丈夫ですから」と、野口先生は父親の申し入れをきっぱり断った。
交渉が難航しているのか、野口先生はなかなか帰って来なかった。この間にもプログラムは進んで行く。雨はなんとか小康状態を維持していた。このままの状態を保ち続けて欲しいと、そこにいる誰もが懸命に祈っていた。
野口先生が朗報を持って帰って来たのは、六年生の千メートル走の一つ前のプログラムが始まってすぐのことだった。
「やっと、校長先生から許可をもらうことができたよ。ただ、危険な状況だと判断された時は、競技途中であってもタカシは競技を中止することになる。条件はこれだけだ」
「それなら大丈夫、ショウゴと僕が付いているから」
いつもは陰に隠れて、決して前に出てこないナオヤが、頼もしいことを言ってくれる。
「タカシ、しっかり走ってこい」
父親がタカシの肩を軽く叩く。
「はい!」
タカシは、力強い声で短く答えた。
「たのんだぞ、タカシ」
アキトが言った。
「たのんだぞ、タカシ」
今度は、みんなの声が揃った。
野口先生がいる。両親が、マサルとコウイチが。ミホちゃんとヨシノリもいる。そして、クラスのみんながいる。
「たのんだぞ、タカシ」と背中を押してくれるみんながいる。
「チロ、行くぞ」
タカシはチロにそう声をかけると、入場門に向かった。
■野々村隆の千メートル走
入場門には、すでに千メートル走に出場する他のクラスの選手が全員集合していた。タカシが伴走者として、飼っている犬と一緒に出場することは、学校中の周知の事実であり、話題の的でもあった。
また、これまでにタカシは運動会や体育の時間に走ったことはなかったので、犬を伴走にしてまで六年二組が、タカシをこの千メートル走に出場させることに、学校中の生徒だけでなく、生徒の父兄も注目していた。
母親の話しでは、練習場所としてサブグランドを紹介してくれた自治会長を始め、団地の人たちも、タカシを応援するために大勢来てくれているとのことだった。
いよいよ入場が始まる。ナオヤがタカシの手を引いてスタートラインまで歩いて行く。
「いよいよ、運動会最後のプログラムにして、最大のイベントであります、六年生クラス対抗の千メートル走が始まろうとしています」
運動場にアナウンスが流れると、小学校の運動会とは思えないような、「ウォー!」という歓声と、アナウンスの声さえ掻き消さんばかりの拍手の嵐が起こった。
「犬と一緒じゃないと走れない奴だけには、絶対に負けたくない」
わざとタカシに聞こえるように、他のクラスの選手が言う。
「タカシ、気にするな。どうせ、タカシの方が速いんだから」
ショウゴがそっとタカシに耳打ちをしてくれる。
「うん、ちっとも気にしていないよ」
スタートラインに到着した。ナオヤが前のプログラムが終ったあとに、新しく引かれた、百メートルトラックの一メートル外側の白いラインの外に、タカシを誘導してくれた。
「たのんだぞ、タカシ」
「おお、任せとけ!」
身体の奥から闘志が湧き上がってきているのを、タカシは感じていた。
この時だ。小康状態を保っていた空が、急に泣き空に変わって雨が降り出してしまった。幸い雨脚はそれほど強くない。タカシがかけているメガネの分厚いレンズにも水滴が着いてくる。
「大丈夫だ」と声には出さず、タカシは自分を鼓舞した。
「選手はスタートラインに並んでください」
ピストルを持った係の生徒が、最終のアナウンスをする。スタートラインの前に立つ。
「ようい……どん!」
ピストルが鳴ったと同時に選手が一斉に走り出す。選手の背中を押すように応援の声と拍手が巻き起こる。
でも、タカシはスタートができないでいた。今までに体験したことのない状況に怖気づいてしまったチロが、動き出せないのだ。
「チロ、どうした。大丈夫だ、僕が一緒だから」
そう言いながら強くリードを引いても、チロは全く動き出そうとはしなかった。
この状況にいち早く気付いたのは、アキトだった。六年二組の生徒はスタートラインの近くに全員が集まって来ていた。
「チロが怯えている。早くなんとかしないと」
「チロの名前を呼んだら落ち着くと思う」
ここに来てミホちゃんがまた助け船を出す。
「チロ、チロ、チロ」と、六年二組の生徒全員が声を揃えてチロの名前を連呼する。その声を聞いた他のクラスの生徒たちや、父兄からも「チロ」を呼ぶ声が上がる。
学校中が「チロ」と呼ぶ声で包まれる。
チロが動き出す。そして一気に加速した。
「タカシ、四組の西田とは二十メートルの差がついている」
タカシが抜いた時に、ショウゴがそう大きな声で教えてくれた。余程大きな声を張り上げないと、応援の声と拍手の音で、人の声が聞き取れなかったのだ。
「分った」
タカシは、このままの差でしばらくペースを保つことにする。それよりも小雨のために視界がかなり狭くなっていた。ラインを踏んでしまわないか、そちらの方が心配だった。
「タカシ、もう少し外側に出て走った方が安心だ」
コウイチの声がする。見学席の一番前でアドバイスを送ってくれる。ありがたい。タカシは少し外側にコースを取る。
「そのままのコースで問題なし。西田とは二十メートル近くの差がついているが、全体ではタカシは三位につけている。いいか、焦るなよ」
十メートルも走らないうちに、今度はマサルの声がする。
「そのままのコースでいいよ。二位の選手とはもう三メートルの差まで追い詰めているよ」
さらに十メートル走った所で、ミホちゃんが声を限りに叫んでくれている。
次はヨシノリだった。そして、つぎはアキト。クラスのみんなが十メートル毎に立って、コースの位置取りと前を走る選手との差をタカシに教えてくれる。チロと二人だけで走っているわけではない。僕はみんなに走らせてもらっている。タカシは溢れ出しそうになる熱い気持ちをぐっと飲み込んで、さらにスピードを上げた。
「タカシ、すごいぞ!」
「タカシ君、がんばれ!」
ちょうど、団地の人たちが応援に来てくれている場所を走っているのだろう、聞き覚えのある大人の声の応援が、耳に飛び込んできた。
「タカシ、二周目だ」
野口先生が教えてくれる。タカシは左手を上げてこれに答えた。
「タカシ、すごいぞ。西田との差が十五メートルに縮まっている。じっくり追いついて行こう」
再びコウイチの声が状況を教えてくれる。
「タカシ、内側に寄りすぎているぞ。もう少し外側を走れ」
アキトがコースの指示を出してくれる。
「タカシ、三周目だ。良い調子だぞ。そのまま行こう」
野口先生の声が、タカシの走りの調子をさらに上げてくれる。
調子の良いまま、タカシとチロは走り続けた。
「タカシ、九周目だ。残り二周になったからな」
「タカシ、西田との距離の差は、五メートルもないぞ。相手はスピードが落ちてきている。ここで差を詰めて、ラスト一周で一気に抜け」
コウイチの檄(げき)が飛んでくる。
「タカシ君、そのままのコース取りで大丈夫だよ」
九周目になるとミホちゃんの声も、そろそろ枯れてきていた。
「タカシ、ここから三十メートルくらいは直線だ。スピードアップのチャンス」
ヨシノリがコースを教えてくれる。
クラスのために走っているのではない。周回を重ねて行く毎にタカシはそう感じ始めていた。スタートする前は、「クラスのために優勝したい」と強く思っていた。しかし、いざスタートし、こうして走り続けていると、何かが開かれるように、はっきりと気づかされた。
「クラスのみんなに走らせてもらっている」と。
スタートしたあとも、チロが大勢の観客に怖気づいてなかなか走り出せない時にも、クラスのみんなが「チロ」の名前を呼び続けてくれて、走り出すことができた。
そして、走り始めると、運動場に等間隔でクラスの生徒や野口先生が立っていてくれて、前を走る選手の状況や、ラインを踏まないように、コースの指示まで出してくれる。九周までに、ショウゴを二回抜いた。この二回ともショウゴは、「タカシ、西田との差は二十メートルだ」「タカシ、西田との差は五メートルを切った。抜かれる時に感じたが、西田も呼吸が苦しそうだ。行けるぞ、タカシ」と、自分も選手として出場をしているのに、そう教えてくれる。
小学校での最初で最後の運動会に、僕を出場させるために、クラスの誰もが知恵を絞り、それを実行するために力を注いでくれた。「タカシを優勝させる会」まで立ち上げてくれたのだ。
「僕は、クラスのみんなに支えられて、今、こうして走っている」
だから、僕のゴールはクラスみんなのゴールなのだ。
タカシはスピード上げた。
「タカシ、十周目。ラストだ」
野口先生の声が、残り一周を教えてくれる。
「タカシ、西田との差は一メートルもないぞ」
ナオヤを抜いた時、そう教えてくれた。残り一周。西田との差は一メートルにまで縮んでいる。
「チロ、行くぞ」
チロに声をかけると、タカシは最後の力を振り絞った。ここで、少し雨が強くなった。メガネの分厚いレンズに雨粒が溜まって前がぼやけてしまう。
「タカシ、残り半周だ。西田との差はもう無いぞ」
アキトが最後の声を絞り上げて教えてくれる。
左側に西田の身体が、黒い物体として目に映った。
横に並んだ。加速して一気に抜いた。
「タカシ君、今、トップだよ」
ミホちゃんの声が泣き声に変わっていた。このままゴールに突っ込む。タカシはもう残り少なくなっているゴールまでの距離を、クラスのみんなが迎えてくれる光景を頭に浮かべなら走り続けた。
足音が聞こえてきた。それは急激に大きくなってタカシに迫ってくる。そして横に並んだと思った瞬間に抜かれた。けれど、タカシもすぐに抜き返した。残りの距離が判らない。メガネのレンズに雨が降りかかってきて、ワイパーが壊れた雨の日のフロントガラスのように、前が見えないのだ。でも、必死で走るしかない。このままゴールまで突き進む。
一度下がった西田は、また横に並んだ。そして、抜かれた。抜き返さなければと思った時。
「ゴール」と、無残な声がタカシの耳に届いた。
「負けた……。負けてしまったのだ」
最後の最後で負けてしまった。そう思うと涙が止めどなく溢れてきた。悔しさよりも悲しさの方が何倍も強かった。自分の視力がもっとあれば、ゴールテープが見えていたなら、西田に抜かれることはなかったはずだ。
「タカシを優勝させる会」の目標を達成することができなかった。
「タカシ、お疲れさま。お前もチロも素晴らしい走りだったぞ」
そう言って、野口先生がタカシの身体を抱きしめてくれる。
「ごめんなさい、ごめんなさい。僕、優勝することができませんでした」
タカシは野口先生の身体に顔を押し付けて、大声を上げて泣き続けた。
「タカシ、ありがとう。すごいものを見せてもらったよ」
アキトが、コウイチが、マサルが駆け寄ってきた。
一周以上遅れてゴールしたナオヤとショウゴが、そのままタカシの元に駆け寄る。
「タカシ、本当にすごい走りだったな。一緒に選手として走っていて、すっと『カッコイイ』と思いながら、タカシの走りを見ていたよ」
ナオヤが息も整っていないまま、「それだけは伝えたかった」と言ってくれた。
「二組の優勝は無くなってしまったね。ごめん」
タカシが集まって来てくれたみんなに頭を下げた。
「タカシが謝ることなんて必要ないだろ。それよりも僕たちがタカシにお礼を言わせてもらうよ。タカシ、感動をありがとう。雨の中をすごいスピードで駆け抜けて行くタカシの姿は、僕たちにはヒーローに見えた。タカシが同じクラスのいることが誇りに思えた。タカシは、僕たちに優勝以上の感動を与えてくれたんだよ」
アキトがタカシとチロを抱きしめてくれながら、そう言ってくれた。
タカシは涙が止まらなかった。
「ただいま行われました、六年クラス対抗千メートル走の結果を発表します。一位、六年二組野々村君。時間、3分37秒。なお、これは千百十二メートルを走った記録です。二位、六年四組西田君。時間3分37秒。これは千メートルの記録になります」
「やったー! タカシ、優勝だよ。優勝したんだよ」
アキトがタカシに抱きつく。
「野々村、優勝おめでとう」
そう言って握手を求めてきたのは、なんと西田だった。
「でも、本当の優勝者は西田だよ」
タカシは西田にそう言った。確かに自分は西田に負けたのだ。
「僕が、千メートル走が始まる前に、校長先生にお願いをしたんだ。トラックの一メートル外側を走る野々村は、合計で千百十二メートルを走ることになるから、たとえ誰が一位でゴールしたとしても、野々村と一周以上の差が付いていないと、本当の優勝ではないことを。校長先生は、『その通りだね』とすぐに解ってくれたよ。だから、野々村は紛れもない優勝者なんだ」
周りから拍手が起こった。
「それにして、野々村の走りはとにかくすごかったな。まるで一人だけ中学生が混ざっているんじゃないかと錯覚をしたよ」
西田は正直な感想を言った。
「野々村」
「タカシでいいよ。みんなにそう呼ばれているから」
「だったら、タカシ、中学校に行ったら一緒に陸上部に入ろうな」
西田がそう言ってくれた。
「ごめん、それは無理なことなんだ。一緒に陸上部には入れない」
「えっ、なんで?」
「僕、中学からは視覚障がい者が通う学校に行くことになるんだ」
タカシが衝撃的なことを口にした。
「タカシ、僕たち、その話、なんにも聞いてないぞ」
アキトが驚きの声で言った。
「団地のお友だちにも言っていなかったけど、タカシは中学から視覚障がい支援学校の中等部に通うことになりました。とても、残念なことだけど、タカシの視力ではみんなと同じ中学校に行っても、まともに授業を受けることは無理なの。学習内容も難しくなるし、今みたいに野口先生やみんなの協力で、黒板の中央だけ使って大きな字や数値を書いていたら、他の生徒の人たちに迷惑がかかってしまうのよ。だから、家族で良く話しあって、中学からは視覚障害センターに転校することに決めの。でも、たとえ別の中学に行っても、このままずっとタカシと友だちでいてやってね」
母親がそう、みんなに説明をしてくれた。
「別々の中学校に行っても、一緒に走ることはできるよ」
西田がタカシの顔を見ながら、大きく頷く。
「そんなの無理だよ」
ヨシノリが横から入って来た。
「僕が、タカシの伴走者になるよ。だから、タカシはパラリンピックに出場することを目標にしろ」
「パラリンピックは、障がい者のオリンピックでしょう。そんな大きな大会に出場するなんて無理だよ」
タカシは、あまりにも大それた西田の提案に、実感が持てなかった。
「そんなことはない。タカシの実力なら絶対にパラリンピックを目指せると思う。中学校では短距離から長距離まで、色々な種目にチャレンジして、自分が一番向いている種目を見つけて行けば良いんだ。タカシが中学の大会に出場する時は、僕が伴走をしてやるよ。それなら、別の学校の生徒でも一緒に走ることができるだろ」
「あっ、そういうことか」
「そして、タカシがパラリンピックに出場する時にも、必ず僕がタカシの伴走者になる」
「そうか、中学に入学するのが楽しみになってきたよ」
タカシがわくわくした声で言う。
「タカシ、お前には走る才能がある。だから、中学校に入ってから本格的に陸上を始めれば、きっとどんどん実力は付いてくるはずだ。でも、僕もタカシには負けない。タカシの伴走はするけど、自分自身も大会で良い結果が出せるようにがんばっていくつもりだよ。だから、中学になってからは、二人は仲間であり、ライバルになるんだよ」
西田は握手を求めてきた。タカシもまた西田の手を強く握り返した。
「そして、二人はパラリンピックに出場をする」
アキトが言う。タカシと西田は同時に頷いた。
「パラリンピックには、僕たち六年二組の生徒は全員で応援に行くからな」
マサルが「なあ、みんな」と声をかける。
「もちろんだよ」と全員の声が返ってくる。
「生徒だけじゃなくて、先生ももちろん応援に行くからな」
「野口先生や僕たちがパラリンピックに応援に行けるように、たのんだぞ、タカシ」
コウイチがタカシの肩をたたく。
「たのんだぞ、タカシ」
最後はみんなが口を揃えた。
「たのんだぞ、タカシ」
そして、タカシと西田の目標は、世界競走大会、世界パラ競走大会の視覚障がい者男子マラソンの部で、その階段を一段上ることができた。
たのんだぞ、タカシ @nkft-21527
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