ファミリアうぃず
樋口さんと巡った場所は、日付まではっきりと覚えている。出先で一枚は写真を撮るようにしていたというのもあるし、それだけL二版に印刷された写真を見返すことが多かったということでもある。
彼女がいなくなった後でも、僕はそのアルバムを捨てることができない。女々しいことだと思う。自分の思い出まで捨ててしまうじゃないかと言い訳がましく自分を納得させて、学校の卒業アルバムの隣に並べたままにしていた。その背表紙の上端は、小学校のアルバムよりずっとボロボロだった。
深淵を覗くとき深淵もまた、とはよく言ったもので、人に深入りすれば自らの身体にも相手が浸透していく。そしてひとたび失われてしまえば、その部分は補充部品が来るまで欠落したままになる。
他人との交流が上手くいかないのは生来の気質だけれど、消極的になったのは二年前からだ。自分の一部となった他人がこの手からすり抜けていくことに、これ以上僕は耐えられない。
その対象として、北畝も例外ではないと思う。いや、例外であるがゆえに、か。
土足でプライバシーを踏み荒らした吾田を「知り合った」と呼ぶかはともかく、北畝はどこか自らと似た空気を感じ取ってしまう。だから、北畝遙に興味を持つ自分の心が、なおのこと煩わしい。
実際のところ、僕は――――。
虚実不明な結論を確定させようとして、思考を寸断する。
「あぁ、面倒だな」
呟く。アルコールを喉に注ぐ。回路がゆっくり、鈍く、沈んでいく。
今日も深堀りをやめて僕は眠りにつく。会議室の白熱蛍光灯は、随分と見慣れるようになっていた。
鯨王の発見から二週間が経過した。太平洋を周遊している鯨王は、時折集音ブイによってソングこそ確認されるものの、一向に姿を現さなかった。
僕たちはその期間、ひたすら研究所で鯨音の探知をしていた。一つ判明したことは、やはり鯨音が音波と同様の波を持っているということだ。僕と北畝はソングが探知され次第、個別で頭痛の時刻と特性を記録した。その結果、ブイがソングを収拾した時刻と、僕たちの記録した頭痛の時刻とは、ほとんど比例関係にあった。鯨王の座標を割り出すほどの正確さはなかったけれど、少なくとも僕たちは同様の音源を探知して、その速度を割り出すまでに至ったわけである。
……ただ、裏を返せば、変化はその程度だった。鯨音が顕著だったのも最初の数日だけで、その後はソング自体が散発的になった。もともと鯨王は鳴く頻度が高くはないいらしい。人類が一方的に彼を見つけただけで、彼は変化を見出そうと浮上したわけではない。
そういうわけで、半月も経つとJAMSTECも危機フェーズを落として戒厳令を解き、僕は半月間の連勤の代わりに、数日の休暇を与えられた。検討していた車の購入をそれに合わせ、中古のハスラーを午前中に受け取った僕は、慣らし走行も兼ねて水族館を訪れた。一年ぶりの運転にしては好調で、自動車学校時代に通った道であれば、道路特性もほとんど覚えていた。一発で白線内にうまく収まった車体をしげしげと眺めて、車のドアを閉める。
『どこから情報を仕入れたのか、当初は調査権限を要求していたアメリカの研究組織も、今じゃ静かなものだ。鯨王の存在はオカルチックな扱いになってしまったよ』
電話の向こうで苦笑したのは吾田だ。この休暇を与えてくれた張本人には、鯨王の出現に即応するため行き先を申告するよう言伝られていた。
『長期間拘束してしまってすまなかった。単位は大丈夫かい?』
「オンデマンドが基本だったので、特に問題は。もともと二年次までに必要な単位は取り終えていましたし、就活は少し先のことですから」
『それならよかった。こちらとしても、学業とは両立してほしいからね。今日はどこに?』
「水族館ですよ。ちょうどついたところです」
マリンピア日本海。そう記された看板をくぐりながら、僕は短く答えた。スクエア状の屋根の下、右手には自然公園、左手にはお土産売り場があり、正面にチケット売り場と館内入口がある。屋外にショップの出入り口が設けてあるのは水族館では珍しくないが、完全に本館と独立しているのは、やや特殊な構造だ。火曜日の午前中だからか客は少なく、チケット売り場には家族連れが一組いるだけだった。僕はその横を素通りして、自動ドアをくぐる。
『ああ、そうか。もしかしたら――いや、いいか。楽しんできてくれ』
「……? ええ、はい」
顔パスのようになってきた受付の女性に年間パスポートを提示して、パンフレットを手渡された。僕にとって水族館は遊園地よりもむしろ図書館に似ていて、楽しむより落ち着く場所だった。吾田は楽しんできてくれと意味深に言っていたものの、魚の一匹一匹に興奮して館内をはしゃぎまわることなど、とうに出来なくなっていた。
ただ、すぐに吾田の言い淀んだ憂慮の正体が判明した。
入り口すぐ隣、年間パスポートの顔写真を撮影する特別スペースから、見慣れた背丈の黒髪が現れた。彼女は係員にお辞儀をしながら「どうも」と小さく呟く。その片側だけ長い前髪が、お辞儀でわずかに揺れる。
こういう時、どうして人というのは余計な空気を醸し出してしまうのだろう。一介の通行人のふりをして横をすり抜けていけばいいのに、指向性を持った圧を発してしまう。背後の気配に気づいたのか振り向く背中に、申し訳ないと、強く思った。
数秒後、うげ、と今にも発しそうな顔の北畝と目が合った。
吾田が言っていたのは、これか。
「……やあ、どうも」
「なんでここにいるんですか」
北畝は研究所で見たことがない類のお洒落をしていた。チャコールグレーのワイシャツとスリットの入った黒のタイトスカート、オリーブグリーンのダブルコートに赤いベレー帽を乗っけている少女は、まるでイラストから飛び出してきたようだ。五センチくらいだろうか、ヒールが彼女の長身をことさら高く見せ、スタイルのよさを際立たせていた。
じっと見返す少女の視線に、不躾だったと気づく。弁解しようと口を開いてみたが、謝罪の言葉は思いつかず、結局いま受付で提示した年間パスポートを指さす。
「この水族館、よく来るんだ。年パスだって持ってるし、割と頻繁に訪れてた」
「別につけ回されてるなんて思ってないですよ。無駄な弁明はいりません」
「二回も偶然に会うなんて、そうそうないだろ。まして相手は女の子で、それもお互いの憩いの場所なら、なおさら。普段から来てるんだと、釈明しておきたい」
「……どこかで会っていたかもしれませんね。二度と会わないことを願っています」
取り付く島もなく去ろうとする背に、思わず「北畝」と呼びかけていた。
「……前々から聞こうと思っていたけど、どうして僕をそんなに嫌うんだ? 見ず知らずの人間に否定的な感情をぶつけられるのは、さすがに気分が悪い」
言葉を選べなかった、という後悔は訂正するまでには至らなかった。少女は毒づかれたことが珍しいのか、見開いた目を伏し目がちに逸らした。
「……知り合いに似ているんですよ。でも、決定的に違うところがあって、あなたがその人ではないということを理解させられる。それだけです。あなたも私に同様の態度で接してください。私は気にしませんから」
「君は気にしなくても、僕は気にするんだよ」
初めて彼女の口から聞けた理由を反射的に深掘りしたくなって、僕は続く言葉を息とともに飲み込んだ。北畝遥が意図的に他人を避けているのは明白で、その猫のような無愛想に不用意に近づこうものなら、さっと彼女は逃げてしまうに違いない。だから、その距離を詰めるには、彼女から踏み込んでもらうように会話を促すしかない。まるで飼育員のように一瞥だけして次の水槽へと移っていく北畝に、僕は言葉を続けた。
「自分がされて嫌なことはするな。小学校で教わることだけど、じゃあ自分が許容できるからといって、必ずしも他人が堪えうる訳じゃない」
北畝は泥濘でポチャンと跳ねるトビハゼに視線を向けていた。
「……それもそうですね。反省はしています。そういう態度をとるべきでないということも、分かってはいるつもりです。でも、取らなければいけないんです。私はそういうコミュニケーションしか取れません。昔から、ずっと」
壁紙に記された海の歴史をなぞるように、北畝は水族館を壁に沿って奥へと進んだ。決して振り返らないけれど、その意識が僕に向けられているのはわかった。マンボウの標本を横目に奥の展示スペースをのぞき込み、順路を進んでいく少女の背を追うか迷っていると、「忌避や嫌悪を対人関係の基準にするしかいない人もいますよ」と声が聞こえた。
これを許容と捉えるのは、虫がよすぎたかもしれない。ただ、今を逃したら二度と彼女の本心に触れられない気がして、小走りで彼女の隣に並んだ。
「一緒に回ってもいいのか」
口を突いて出た疑問に、北畝がみるみる鬱陶しそうな表情をした。「ごめん」と呟いたが、返事はなかった。巨大な葉が造波装置の作り出した波に揺られる様子をしばしの沈黙とともに眺め、暗い絨毯の上を歩いた。赤色灯だけを怪しく光らせる黒い消火栓は水族館特有のものだろうか。シックなデザインに釘付けになっていると、アクリル板に張りついて内側がむき出しになったタコに視線を向けたまま、北畝が静かに息を吸う。
「別に、あなたと仲良くしたいわけじゃありません。ただ、面倒な人間でも会話くらいはできると知っていただきたいだけです」
簡単に共感するのも彼女に拒否感を抱かせそうで、「そっか」とだけ相槌を打った。「そうです」と返事が返ってくる。
この譲歩を機に、僕たちの間には、この場限りの協和関係が結ばれたらしかった。北畝から発せられる警戒心や断絶を伴った冷たいオーラが薄れ、頭の中で銅鑼のごとく響く緊張感が和らいだ。お互いに展示されている生物など見飽きているのに、まるで旅先の小さな水族館を訪れたかのように、ゆっくりと鑑賞した。僕たちの間にある静寂は心地よく、館内のBGMが却ってそれをかき乱しているほどだった。
大水槽を潜水窓から覗く北畝が「見てください」と水槽の中を指し示した。宇宙服のヘルメットのように丸くくぼんだアクリル板に顔を突っ込むと、彼女との距離が数センチほどになった。
「今日のイワシの群れは特段大きいですね。クリックスを使えば、シャチの今夜の食卓は晩餐です」
クリックス? 聞き慣れない語句に躓きながら、「あんなにまとまってたら一呑みにされそうだな」と返答する。
「……クリックスというのは、ハクジラ類の使う超音波みたいなものです。鼻腔で発した音をメロン体という頭部の脂肪塊で収束して、指向性を持たせるんです。シャチを始めとした大型のハクジラ類では、魚を気絶させることもできます。他にもホイッスルやコールと呼ばれる鳴き声があって、それを下顎骨で回収して位置関係を把握するのが、有名なエコーロケーションですね。一呑みにするのは、ザトウクジラのバブルネット・フィーディングが有名で、これは――――、すいません、私ばかり喋って」
「いやいや、聞いててためになる。続けてほしい」
自分の熱に恥じ入る北畝に続きを促すと、彼女はそそくさと距離をとって水中回廊へと歩き出した。空板に乗ったかまぼこのようなドームに踏み入ると、エイやブリを中心に多様な魚類が頭上を泳ぎぬけていく。
「……では、お言葉に甘えて。バブルネット・フィーディングというのはザトウクジラに特有の食餌法です。魚の群れを円状に囲い込んで、海中で息を吐く。鯨の身体は巨大ですから、吐かれた空気でできる泡も相応に大きいです。そうなると小魚はそれを避けて、より円の中心へと逃げ込んでいく。そうしてより中心へ、より上方へと追い立て、海面付近で一斉に掬い上げます。名前は結構、そのままですね。この時にもザトウクジラは音を発し、円から逃げようとする魚たちを威嚇します。クジラ類にとって音はかなり重要な器官なんです」
へぇ、と気づけば感嘆が口から漏れ出ていた。鯨というと、一匹でプランクトンを食べるために口を開けっぱなしにしているイメージがあったが、集団で狩猟までするのか。
「そういうクジラもいますよ。セミクジラ科に有名な濾し取り型採餌ですね。ザトウクジラは突進採餌をする習性もあるので、オキアミなんかのプランクトンであれば、そのように食べることもあります」
「オキアミって、あのエビみたいな?」
プランクトンとは、ミジンコみたいな微生物を指すのだと思っていた。僕の疑問を見透かしたのか、北畝がそれを待っていたとばかりに得意げな表情を浮かべた。彼女は白く華奢な指先でピースを作ると、さながら微生物の触角のように上下に振ってみせた。
「プランクトンは自身の意思ではなく放浪している生物全般を指す言葉なんです。巨大なクラゲも、自分の意思で泳げないのでプランクトンに入ります。さっき見た水槽でたくさんのクラゲがぐるぐる回っていたじゃないですか。あれはクラゲに遊泳能力がないのをいいことに、疑似的な水流でくるくる回しているんです。非常に緩慢とした洗濯機みたいなものです」
幻惑のような光景は、まさかクラゲの権利を無視して作り出されているのか。僕の言いたいことは分かるというように、北畝が肩をすくめた。
水中回廊を抜けた先の広間には、壁際に沿ってベンチが取り付けられていた。足下を照らすようライトアップされたそれにどちらと言わず腰かけ、ぼうっと今しがた通過してきた大水槽を眺める。
朝方、まだ餌で濁っていない水槽に秋の空を射抜くような日光が差し、波に揉まれて揺らいでいた。曲線のようにも見えるその光は、まるでカラオケに設置されたミラーボールのように薄く、丸い光を水槽内に落とし込んでいる。その真下を通るホシエイの巨大な背中が、光に透けたレースカーテンの模様が描かれるフローリングのようだった。まだ光を背中で支えきれない三匹の小さなエイは、その子供たちらしい。
水色の空間を漂うチャコールグレーの絨毯と、光を反射する銀色の群れは宝物庫を思い起こさせた。この光景を眺めているだけで一日が終わりそうだった。
北畝もそう感じていたのか、「さて」と呟いて立ち上がったので、僕もその後をついていった。お互いにどこへ行こう、なんて口にはしなかった。二つ分の孤独を突き合わせて、そこにいることを許容しているだけなのだ。特に、目の前を歩く彼女は。
不意に、その後ろ姿にかつての先輩の姿が重なった。女性にしては高い背丈と、身にまとったような落ち着き。そして、その奥で灯のように揺れる孤独。
僕は覚えている。ついぞ並び立つことのなかった、その背中を。称賛と信頼を一身に背負ってもなお猫背にならない、その立派な彼女の顔を――――、
「あの、大丈夫ですか」
名前を呼ぶ声にはっとした。前を歩いていたはずの北畝が下から覗き見るように僕の目を見つめていた。その表情に、言いようのない不安の色が浮かんでいた。
「顔色、悪いですけど」
「あぁいや、えっと、寝不足、かな」
クジラの女王から予想外の配慮を賜れたことに慌てて、僕は取ってつけたような噓をついた。北畝は僕の出まかせに気づいたようだったが、それをどの立場から指摘するか迷っているようだった。その気遣いに申し訳が立たなくなり、僕は隣の水槽へと目を向けた。
「カクレクマノミってなんでこんな派手なオレンジ色なんだろうな」
「知りませんよ」
「南国の魚って色が派手なんだろう? なにか理由があるのか?」
「知りませんって……。あの、すいません、私は鯨に関係する生き物しか知らないんです」
ふふっ、と鼻から息が漏れた。次の瞬間、彼女の言葉よりも早くその怒気がきゅぅっと高い音ともに耳へ届いた。北畝は呆れたように踵を返して順路を進んでいく。しかし、どうやらそれは不機嫌に由来するのではなく、僕が話題を変えようとしていることを察知したがゆえの行動らしかった。彼女は突き当りの水槽を泳ぐチョウチョウウオやナンヨウハギを見て、話を戻そうとはしなかった。
ウツボやハリセンボン、ミノカサゴと順路を回って、やや開けたクラゲの展示スペースへと出た。先ほどの大水槽の休憩スペースと壁を挟んで反対側に設けられたこの空間には、三台の展示機が並べられ、さながら灯台のように暖かい青色光を放っていた。奥に見える光に照らされた明るい通路は川魚の展示コーナーで、抜けていくと屋外に繋がる。
この休憩場所は独特な雰囲気があって、ハンドスピナーのような形状をしたマットソファと米粒を大きくしたような石製の椅子が無造作に置かれていた。いつも子供が飛び乗ったりしていて、座っている人は数少ない。
時に仲間の触手と絡まりながら漂うクラゲの水槽を横目に眺めつつ、北畝は無人のインフォメーションカウンターへと向かった。面白そうなイベント情報が更新されていないか確認するのだろう。僕も定期的に見ているからよくわかる。空気清浄機の電源ランプと金属メッシュに囲まれたコンセントの照明、カウンター上のデスクライトに照らされながら、彼女はその台座から一束の書類を手に取り、パラパラとめくった。
「鳥類の、歌の授業……」
「館外の施設にフィールドがあるのはご存じでしょう。そこで講演があるみたいですね。これはそこに登壇する人が描いた冊子のようです」
にいがたフィールドか。入館する時右手に見えるその公園では、遠足に来た幼稚園児たちがよく昼食をとっている。動線が微妙に悪く、ペンギンを見終えて帰宅モードになった客がそちらに行くことはめったにないが、植物・昆虫・水生生物など多くの生き物が飼育されている貴重な施設だ。
「カナリヤやインコの発声学習について……学習? 人類の言語分野みたいな話かな」
「ありていに言えば、鳴きまねですよ。基本的には同種内の親から鳴き声を学習するんですけど、シジュウカラやマネシツグミなど一部の鳥類は多種から歌を学んで、托卵や同所性など種間競争に用いている場合があります」
「……やけに詳しいな」
「鯨音も物理学上は音と一緒ですからね。多少勉強はしますよ。クジラも発声学習をしますし、一部の鳥類と同様、方言や流行歌を持ちます。鳥は歌によって地域差など把握できるみたいですけど、クジラはどうなんでしょう。ポッド同士の交流にコールを用いたりするんでしょうか。そうすると繁殖期はともかく、餌場の獲得が……」
ぶつぶつと自分の世界に入ってしまった北畝をよそに、僕は冊子の表紙のカナリヤを眺めていた。
歌学習。なにか喉元に引っかかるような違和感を覚えて黄色のインクを眺めるが、文字情報が目に飛び込むほど音韻とテキスタイルだけが脳内でこんがらがって、思考をかき乱した。
気のせいだろう。冊子をもとあった場所へと戻し、北畝に順路を進むよう促した。彼女は忘我していた自分を恥じ入るように目をそらす。その表情が大人びた彼女に残る子供らしさを象徴していた。
渓流の魚たちを一通り見て、二枚の自動ドアをくぐって屋外へ出た。途端に海の香りを乗せた秋風が吹きこんでくる。青空が寒々しいほどに澄んでいた。大気の状態が不安定だとニュースで言っていたが、この青空では誰も信じまい。
――とはいえ、晩夏から早春にかけての新潟は予報があてにならないほど天気の移り変わりが激しいので、おそらく二時間としない内にキャスターの言ったとおりになるだろうけれど。
「イルカショーまで、あと三十分ほどあるな。どこかで時間でもつぶそうか」
「でしたら、海棲哺乳類でも見に行きましょう。マリンサファリは普段、どうしても見逃しがちなので」
頷いて、表面の衣装が削れかかっている金属扉に示された方向へ歩き出した。右手に見える木々の落ち葉が、秋が深くなっていると伝えていた。
それは、突然の出来事だった。懸念しなければならなかったのに、予期していなかった。
僕自身がそのことを失念したのは、北畝との水族館めぐりが楽しくなってきたからだろう。
忘れていたのだ、自分のトラウマのことなど。
アザラシと同じ目線に立ち、トドやアシカを二階から眺めた後、僕たちは自販機の前に立っていた。そこはマリンサファリと呼ばれる鰭脚類の展示スペースと、イルカショーの行われるドルフィンスタジアム、イルカが飼育されている屋内プール、水辺の小動物と呼ばれる展示スペースによって四方を囲まれた空間で、スタジアムの屋根が日光を遮ってしまうため、やけに薄暗く陰気な空間となっていた。
「昼食をとる時間はなさそうですし、アイスでも食べましょうか。好きな味とかありますか」
「いや、自分で払うからいいけど……」
「三秒以内に答えなかったら問答無用でクッキーアンドクリームにします」
「……抹茶でお願いします」
千円札を入れた北畝は抹茶味を購入すると、戻ってきた釣銭を入れてクッキーアンドクリームのボタンを押した。自分が好きなのか、と漏れそうになる口を無理やりつぐむ。何にせよ、彼女の心の壁が低くなったのは喜ばしいことだ。
取り出し口に積み込まれた二つのアイスを丁寧に取り出し、北畝が抹茶味を差し出してきた。
深く考えもせず、それを受取った。受け取って、しまった。
さわ、と指先になにかが触れた気がした。思い出したときには、もう遅かった。一本だけ伸ばされていた北畝の人差し指が、僕の指先へと触れていた。
だめだ。とまれ。そう思うより先に、僕の手は逃げるように跳ね、北畝の手元を離れようとしていたアイスをはじいていた。
「え」驚愕を通り越して呆然とした北畝の表情が、やけに鮮烈に、鮮明に見えた。
紙を指ではじく軽快な音とともに、アイスはアスファルトの上をころころと転がって、壁の縁にぶつかって止まった。
「……すいません」
「いや、君が悪いわけじゃない。そうじゃなくて……」
血の気が引く、とはまさにこのことだ。それは後悔だとか罪悪感のようなものかもしれないし、今まさに身体的にそんな症状が現れているのかもしれない。沈む顔の北畝に「ありがとう」と声をかければいけないのに、手が震える。背筋に冷水をかけられたように、きゅっと鳥肌が立つ。視界が小刻みに揺れて、喉が擦れた。
ここはあの場所ではない。脳に認識の再補正をかけるため、手近な自販機へと手を伸ばした。
その冷たい筐体が、あの日を鮮明に思い浮かび上がらせるとも知らずに。
ぐっと、視界が揺れる。トイレが視界に入った。自販機ではアルコール飲料も売っていた。だが、そんな悠長な時間はなかった。中身のない胃を身体中が刺激して、胃酸が食堂へ遡るのを感じた。身体から力が抜けて、背骨を氷で逆なでされるような不快感がスーッと駆け上ってきた。
だめだ。吐くのだけはこらえろ。唾液を飲み込んで、抵抗した。
気がつけば、視界が暗転していた。
離れないよう、ちゃんと手を握っておきたまえ。
そう言って僕の右手を握りしめてくれた樋口さんの微笑を、今でも鮮明に思い浮かべることができた。
その左手の感触と、温もりも、すべて。
「樋口さん……」
自分の声に気づいて、ゆっくりと目を開ける。北畝の整った顔が、ボブヘアの垂れ幕にかかりながら僕を見下ろしていた。
「目が覚めましたか」
その言葉に視線を横に向けると、暗い室内に大きな水槽が見えた。以前ラッコが飼育されていた半陸状のそれは、いま横たわっているここが水辺の小動物ゾーンだと示していた。四段に分かれた通路に手すりが設けられた、人っ子一人いない静かな館内。その最上段で、僕は手すりのあいだに差し込まれた北畝の膝に頭を預けていた。カーペットが敷いてあるのだからその辺に転がしておけばいいのに、ご丁寧にオリーブグリーンのコートまでかけてあった。ゆっくり身体を起こしてコートを返すと、彼女は何でもないような顔をしてそれを羽織った。その唇がほのかに血色を薄れさせていた。
「……悪い」
「いいえ。ここまで運ぶのには苦労しましたが、気を失っていたのは十五分ほどですから。吐いてもいませんでしたし。――どうか、されたんですか」
「何でもないさ。よくある事なんだ。言っただろ、持病さ。急性の体調不良。……そろそろショーの始まる時間になっただろうし、向かわないか。もう身体なら大丈夫だから」
「そんなはずがないでしょう。あんなの、どう考えても普通じゃありません。あなたを引きずってきた分のお駄賃くらいはもらってもいいと思うんですけど」
そう軽口を飛ばした北畝の瞳はしかし真剣そのもので、誤魔化しや冗談を許さなかった。
「……トラウマがあるんだ」逡巡してから、僕はぼかした。
「トラウマ?」北畝が怪訝そうな顔をする。僕はそれに気づかないふりをして着崩れを直した。まだ感覚のない右手を握っては開いてみる。震えは収まっていた。
「気にしないでくれ。人間、思い出したくないことなんて大小ひとつはあるものだろ」
足下に転がる包装を剥がしていないままのアイスは、外からでもわかるほどに溶け切っていた。包装紙に内容物がしみ込んでふにゃふにゃになったそれを手に取って立ち上がると、座ったままの北畝が物言いたげな視線を向けていた。
しばらく沈黙が場を支配していた。入り口のプリント機から流れる軽快なアナウンスだけが、やけに鼓膜を刺激した。彼女の言葉を待っていると、北畝はゆっくり目をつぶって、開いた。
「話すつもりがないなら、これっきりです」
それは、彼女なりの譲歩だったのだろう。
僕はしばらく、返答できなかった。これっきりという言葉の中身を考えて、言い訳だとかこの先の業務のことだとか、いま考えるべきでないことばかり考えていた。この少女にとっての、僕のトラウマ話の価値を判じかねていたのだ。僕の過去や症状を掘り下げる相手は、いつもマイクかカルテを持っていた。その矛先は常に森崎千里という人間ではなく、僕のストーリーや会話内容に向けられていた。
それがどうだ。目の前の北畝は、メモ帳一つ持っていない。
「どうして、そんなことを聞くんだ?」
心からの疑問だった。
「あなたが心配だから。それだけです」
「――――心配、だから」
「変ですか?」
そういう理由も、あるのか。驚愕というよりは知識のような驚きが、ストンと身体を落ちていった。
北畝が彼女の隣をポンポンと手でたたく。僕は下りかけていた足を止めて、同じ手すりの下に収まるようその隣に座った。
「聞いていて、気持ちのいい話じゃない」
「構いません。私が聞かせてほしいんです」
真意をくみ取ろうと上げた視線が、北畝と合った。その冷たい瞳にこもった感情は、疑う必要もなかった。
胃酸の味がする喉に唾液を流し込んで、水槽を泳ぐウミガラスへと視線を向けた。人間以外の生きたものを見ているのが、一番心安らぐ気がした。口を開く。記憶をたどる。隣のぬくもりがその作業の苦痛を和らげてくれているようだった。
僕はまず、樋口紗枝という人物について、一通り説明した。大学の先輩で、元恋人。彼女には縁もゆかりもない人物だというのに、北畝は丁寧に相槌を打ってくれた。
その相槌に促されるように樋口さんの輪郭をなぞっていった。
あの日の事故のことを。
樋口さんと交際して初めてのクリスマスイブだった。プレゼント代わりにお互いで費用を出し合って佐渡島に旅館をとった。写真に残しておこうとする僕とは正反対に、彼女は形に残るものが好きではなかった。佐渡島へは中央区の佐渡汽船から毎日定時便が出ていて、カーフェリーのほかに、ジェットフォイルという高速船があった。女性の準備を急かすことなく、かつ佐渡島を長く観光するためには移動時間の短縮が必須で、僕たちは午前十一時発のジェットフォイルを選んだ。
生まれつき海が嫌いだった。正直、どうせ旅館に泊まるなら山の方が良かった。ただ、恋人の希望を否定するほどその忌避感は強いわけではなく、冬に山へ向かうとなれば交通手段も限られていたから、素直に樋口さんの提案に応じた。
新潟らしく、みぞれの降る朝だった。小雨交じりの雪が吹雪のように吹き荒れる中をフェリーのターミナルまで歩いた。ターミナル内の暖房が温めてくれるなか、乗船手続きに向かった樋口さんがチケットを片手に戻ってきた。すぐに電光掲示板に乗船案内が表示され、散らばっていた旅客たちが集まってきた。
「……意外に、乗客少ないですね」
「さっき受付の人に聞いたら、今日一日向こうが悪天候らしくてね。何件もキャンセルが入ったらしい。それで、乗るのは荒れた海が大好きな釣り人たちばかり、ということさ。……ここだけの話、ちょっといい席になったよ。前の景色が見えるんだ」
こそっと呟いた彼女の言葉にチケットを見ると、たしかに座席が前方へと移動していた。カーフェリーと違い自由に甲板に出られないジェットフォイルでは、座席によって景色の見え方が大きく異なる。僕はよくなったというからには嬉しい気持ちと、海を間近で見ることになるということへの苦手意識とが混ざり合って複雑な気持ちだった。僕の言い澱んだ態度に樋口さんが笑みを浮かべた。
「千里は、船はあまり乗ったことないんだっけ」
「まず地元に海がないですから。修学旅行でなら何度か乗りましたけど、正直慣れてないです。樋口さんは経験が?」
「まあ、君よりはあるだろうね。なるほど、まあ心配することはないよ。私がいるしね」
ジェットフォイルは時速にして八十キロを超えるためシートベルトの着用が義務化されていて、船内の立ち回りも控えるよう言い渡された。船外に出るなどもってのほかだ。
「万が一クジラなど大型の海棲生物と接触した場合でも、沈没はありえません。ただ、皆様の身体が船外に放り出されてしまう可能性はありますので、しっかりとシートベルトはご着用ください!」
昼間から船内で飲み始めた釣り客たちに、船員が叫んだ。忠告などまるで聞いていないその態度に眉をひそめる僕を、愉快じゃないかと樋口さんが窘めた。
いざ出航の時間になると、すさまじいエンジン音が鳴り響いて船体がググっと持ち上がった。ハイブリッド車のようにスムーズな滑り出しに、リニアモーターカーもこんな感じなんだろうと思った。灰色の空と同様にさえない海洋に向かって、船は進みだした。港を抜けて巡航速度に入ると、再び注意事項が発された。
僕の体が震えていたのだろう、不意に樋口さんが左手を握りしめてきた。
彼女は自信と確信に満ちた表情を浮かべて、その大人びた瞳を僕に向けた。
「離れないよう、ちゃんと手を握っておきたまえ」
僕はその手に残る温もりを忘れないよう、強めに握りかえした。細長くしなやかな指先と、すこし熱を持った手のひら。彼女の手を握っている間は、ずいぶんと心落ち着くものだった。
この十五分後だった。船が接触事故を起こし、転覆したのは。
海を割って、白く光る巨大な山が現れた。隆起した次の瞬間にはもう前面一面が白く包まれて、衝突していた。身構える暇すら与えられなかった。聞こえたのは、船員のあ、という間の抜けた声だけだ。衝撃が身体を揺さぶった気もしたし、そんな知覚すら与えられる猶予はなかった気もした。
目を覚ました時、黄色くなった太陽が随分低い位置にあった。夕方という言葉がうまく結びつかず、呆然とそれを見ていた。船体は大きく断裂して、僕はたまたま浮揚していた鉄くずの上にうつぶせで寝そべっていた。記憶障害が起きていたのか、しばらく僕は鉄板と空の境界をずっと眺めていた。自分が海に浮かんでいるだとか、船が何かに衝突しただなんて、全く覚えていなかった。身体機能の一部が壊死していたのだろう、本来感じるべき冬の海の冷たさは、百八十度回転して温もりになっていた。
夕陽が半分ほど沈んだ頃、不意に、本当に突如として、全ての出来事を思い出し、知覚した。まるで油を注がれた火のように、猛然と爆発的な活動だった。その時初めて、僕は自分の左手が握っていたはずの女性と行く末、そしてその不可解なほどの軽さに思い至った。
悪寒のような予感は理性の制止を振り切るほど、直感的に僕の顔向きを変えさせた。強く握りしめていた左手がその瞬間、初めて視界に入った。
僕の左手には、握っていた彼女の右手首から先だけが残っていた。
その指の産毛や皺のひとつひとつまで、鮮明に描くことができた。何度もつまみ、弄び、握りしめたその手が、手だけが、掌に包まれていた。打ち上がった鉄屑にこべりついた錆みたいなものが、樋口さんの血だと分かった。骨がむき出しになった関節から滲むように滴る赤が、経血よりもいっそう不潔に感じた。
北畝の手が背中をさすって、僕は自分の息が激しくなっていることに気づいた。水垢のついた水槽のアクリル板があの日の船内を思い出させるようで、僕は一度足元へと視線を落とした。大きく息を吸って、ゆっくりと吐く。
「その凄惨な光景がトラウマになったんじゃない。あろうことか、僕はその手に驚き怯え、振り払ってしまったんだ。離さないようにと彼女が握りしめてくれた手をね。正気に戻って海を覗き込んだころには、もう彼女の形見は見えなくなっていた。僕は彼女とつながった縁を、自ら断ち切ってしまったんだ。二度とそれを取り戻すことができなくなるなんて、思いつかなかった。愚かなことだよな。不安を取り除こうと手を握ってくれた人を、振り払ったんだ、僕は。彼女の手を放り捨てたことなんて、誰にも言えなかった。告別式で会った遺族にさえ、罪を打ち明けられるはずもなくて、どうしようもなかったとでも言いたげに、慰められるのを待ってた」
家族に形見一つ残してあげられなかったことを、ずっと受け入れられなかった。僕はずっと、自分が嫌いなままだ。他人と関わるのが怖かった。他者が怖いんじゃなく、僕のせいで相手を傷つけることが、ひたすらに怖い。この手が触れた相手が、手首だけを残して消えてしまうのではないか。それを僕が引き起こすのではないかと、考えてしまう。人間が肉塊になる様が眼前に浮かび上がることはなくなっても、身体に染みついた恐怖はどれだけ擦り落としても落ちてくれない。
海の上で、生存者は僕一人だけだと悟った。そして同時に、自分が生きているとは思えなかった。誰の返事もないと、自分の存在さえ曖昧になってしまうんだ。予報通りの悪天候の中、僕が生きていたのは奇跡といっていいだろう。
「数日後、鯨との衝突が事故の直接原因だと発表された。船を大破させるほどの巨体からナガスクジラだと推測する調査チームに、それでも僕は化け物鯨の話なんて、とてもできなかった」
「どうして弁論を避けたんですか?」
「認めるはずないさ。自己の前後で記憶が欠落・改ざんされるなんてのはよくあることだし、なにより僕自身が、あの白が視界を包み込んだ一瞬を、気絶する前のフラッシュアウトだと思えたんだから。だから、鯨王が発見されたときは驚愕とともに、ほっとしたよ。実在していたんだとね」
ただ、事故の原因が分かっても、トラウマが消えるわけではないし、事実そんなことはなかった。
事故からひと月、生ものは食べられなかった。食肉コーナーのどぎつい赤が目に入るたび、立ち眩みがして胃の中のものがせり上げた。海中に没した彼女の身体を引き上げて、バラバラにして並べているんだとさえ信じていた。目につく血と肉が僕を責め立てているような気がして、蛍光灯すら恐ろしくなった。
「半年くらいは、ずっと家にこもってたな。ちょうどいいタイミングで感染症が流行ったから生活には困らなかったけど、それだけじゃ食いつなぐことができなくてバイトを再開しなくちゃいけなくなったときは、眩暈がしたものさ」
「それでも、働いたんですか?」
「接客は好きなんだ。NPCにしか見えない人間が、僕の言葉に質感のある反応を返してくれるから。それに接客業のバイトって、ある意味で完全に他人行儀で働くことができるだろ。まあ、検品や品出しみたいな裏方の仕事を主に手伝ってたけど。手袋越しでも人は無理だから、荷物が届いたら搬入口から逃げて、指示されるまで待ってた。レジに応援呼ばれたときだけ、袋の端をつまんで、どうにか――」
苦笑していると、「頑張りましたよ。本当に、よく頑張りました」と北畝がつぶやいた。
「……ありがとう」
結局、何度かヒヤリハットを経て、バイト先が潰れたのもあって内職を始めることにしたのだけど。礼を述べると、口に出ていると思っていなかったのか慌てたように北畝が反応した。それと同時に、イルカショー開始のアナウンスが流れる。
「……直に始まるようですね。そろそろ行きましょう。立てますか?」
「あ、あぁ」
やや早足で入口へと向かっていく北畝を追いかけようと立ち上がり、手すりに腰をしたたかに打ちつける。痛みをこらえながらひょこひょこと歩くと、振り向いた北畝が「何やってるんですか」と呆れ気味に笑った。
ドルフィンスタジアムは、まるで館内の人間を全員集めたかのような賑わいを見せていた。七角形の内の四面がステージ、三面が観客席に振り分けられたスタジアムは不格好なバウムクーヘンのようだ。観客席前方には二列だけオレンジ色のシートがあり、〈大量の水がかかります!〉と警告文が貼ってあった。まだ席にはずいぶんと空きがあるが、最後列の立見席にも数人、人影があった。柱に被ることのないようにだけ気を配りながら、三面のうち上ってきた階段すぐのシートに腰かけた。お互いイルカショーなど見飽きているので、無理に混んでいる正面に腰かける必要もなかった。
イルカにリハーサルがてらコミュニケーションをとる飼育員の姿を眺めていると、ふと北畝が視線を外さないまま「あの」と声を漏らした。
「……さっきの話なんですけど」
「――二年前の事故について?」
「いえ、それではなく入り口でお話した、あなたについての話です」
北畝がじっと僕の顔を見つめた。言い出すまいか迷っている表情で、何度か小さく息を吐く。
「……あなたが知り合いに似ているというのは、事実です。でも、決定的に違う。それは、あなたに関係のある話ではありませんでしたね。すみませんでした。あんな態度をとってしまって」
ああ、そのことか。思ったよりも拍子抜けな告白だった。そんなこと、とっくに気にしていない。
「いいさ、結果的に北畝と話す機会ができた。僕のことを認めなくたっていいよ。その人をよほど慕っているんだろう?」
「いえ、もういいんです。いつまでも後ろを向いたままじゃいけないってことは、分かっていますから。私も、森崎さんのように、前を向かなきゃいけないんです」
その時初めて、北畝は僕の名前を呼んだ。彼女はそれに気づかなかったようだけど。
ショーが始まった。豪快に水を跳ね上げるイルカたちを目で追いながらも、北畝の心はどこか遠くを見ているようだった。彼女は何度か僕に視線を向け、何事かを言おうと口を開いては、イルカの着水で巻き起こる歓声によって、それを断念していた。飼育員によるイルカの説明もどこか上の空で聞き流す北畝に気づきながらも、僕はどう声をかけていいかわからなかった。
水族館を出ると、イルカショーまでの快晴とは打ってかわって豪雨になっていた。ニュースキャスターの予報通りになったわけだ。日本海特有の突発的な雨は強風をともなって十六本組の傘をもへし折るので、秋以降はダウンジャケットの着用が推奨される。横殴りという言葉がふさわしいほど叩きつける雨は、台風が上陸したときよりも一層激しく強烈に吹きすさんで、まだ屋根の端っこから数メートルある僕たちの足元まで飛び込んできた。
「あいにくの天気になっちゃったな。さっきまではそんなに酷くなかったのに」
「この調子では止むまで待っていたら、夜になりそうですね。暗くならないうちに帰ろうと思います」
折り畳み傘を引っ張り出す北畝に、思わずその肩を呼び留める。
「まさか、歩いて帰るつもりか」
「……? ええ、この調子だとバスに乗る人は多いと思いますし。並ぶよりも早く帰って乾かした方が建設的かと思いまして」
ここから駅まで二十分は歩く。僕も頻繁に歩いているからわかるが、住宅街にはとても雨を塞いでくれるような屋根はない。海辺が近い分風も強いし、靴は諦めるとしても、ひざ下と袖はずぶ濡れになるだろう。
「送っていくよ。市内なんだろう」
「え」
北畝のぎょっとした表情に、自分の失言に気づいた。吾田の送迎で慣れていたけれど、仮にも女子高校生を気軽に誘うのは軽率だった。
「あ、いや、ごめん。その、完全に善意であって変な意味は……」
「弁解する方がよっぽど怪しいですよ」
北畝があははと小さく噴き出した。初めて見る系統の笑顔だった。彼女ははにかんだまま、ワンプッシュ式の折り畳み傘を開く。僕の失言で歩く覚悟を決めさせてしまったのだろうか。失敗したなと反省を始める目前で、彼女はその傘を頭上に掲げて小さく振った。
「駐車場まで行きましょう。どうぞ、お入りください」
それは明確な、承諾だった。
おずおずとその中に入り、ぴったり一センチの隙間を開けて僕たちは駐車場へ歩いた。五十五センチの小さな傘に収まらないお互いの肩は濡れていたけれど、僕たちは不用意に気を回したりはしなかった。ハスラーのロックを解除して助手席のドアを開けると、北畝は茶室にでも入るかのように「失礼します」と丁寧な礼を述べた。車内に充満していたクッションシートの革の匂いは好きだが、今だけは吾田のように芳香剤を設置しておくべきだったなと思った。
エンジンを始動させて、空調を回す。自動車学校でのマニュアル車の運転はなかなかだと褒められたが、講師でもなければMTとATの違いにすら興味のなさそうな少女を隣に乗せていると、いつもよりシフトショックには慎重になった。免許を夏に取ったせいで悪天候や夜間の運転をほとんど経験していなかったこともあって、僕は可能な限り丁寧な運転を心掛けた。
駐車場出口で優先道路の車を先に通していると、赤谷高校の方面から見覚えのある顔が複数歩いてきた。以前見かけた北畝の同級生、巻き髪たちだ。部活帰りだろうか、重そうなスポーツバッグをぶら下げて土砂降りの中を傘もささずに歩いていた。
「北畝、君の同級生だ。一応、頭を下げておいてくれないか」
「どうしてですか?」
「……北畝も見つかりたくないだろ」
「私は別に構いませんよ。森崎さんの妹、ですからね」
そういって意地悪く笑う北畝に、僕は諦めてアクセルを踏み込むのだった。
水族館横を通る国道四〇二号は柏崎市から新潟市までを結んでおり、一部の区間はシーサイドラインとして知られる。右折して萬代橋を渡り、初見殺しの紫竹山ICから姥ケ山を経由した亀田バイパスを茅野山ICで降りて、新津バイパスをひたすら直線に二十分も走っていると、北畝が住んでいるという秋葉区に入った。主要道路は整備されているものの、二本もわき道に入れば昭和の面影を残す町並みが見えてきて、思わずステアリングを握る力が強くなる。紫竹山ですら心臓が跳ねあがりそうだったのに、新津に入ると途端に新潟特有のずさんな道路計画の被害に遭い、小道という小道をすり抜けるはめになった。
商店街を抜け、交差点や踏切を越えて路地を進んだ先が目的地だった。ガレージのついた古い一軒家は、裏手側から伸びた階段が公道にまで飛び出ていて、家屋が建てられた時代の建築法の緩さを感じさせた。北畝の指示通り排水溝に沿って停車すると、フロントガラスから『古染』と彫られた表札が見えた。
「……ここで合ってる?」
「はい、私の住居です。叔母に許しをもらって、高校から一人暮らしをしているんです」
古染というのは、叔母の名字だろうか。排水溝に近づけすぎたため、北畝の降車補助に回り、傘を差したついでに玄関まで送ることにした。敷地は思ったよりも広い。大雑把に刈り取られた雑草と、アクセントになっている松の木、低木や花を全部引っこ抜けばかなりの面積になることだろう。ガレージと完全に隔離されている母屋も、車内から見た外観より大きく見える。これは二階建てで奥行きがあるからだ。
しかし、これだけ広い家に住むとなると、管理が大変そうだ。外から難なく外せる門の打掛錠といい、防犯面での心配が湧いた。研究所に泊まることもあるとはいえ、平日の夜一人でこの家に住むには、多少の胆力か無関心が必要だ。隣を歩く女子高生は思慮深いように見えて自分を顧みるのが苦手な部分があるようだから、いささか不安になった。
北畝が鉄製の引き戸をがらがらと開けた。一人暮らしでは長らく見ることのなかった広い玄関だ。箪笥サイズの靴箱と傘立て、観葉植物があってもなお広々とした足元には、ローファーがぽつんと置かれていた。民家特有の香りが鼻腔をくすぐって、分譲住宅の実家では嗅いだことがないというのに、どこか懐かしい気持ちになった。
「どうぞ、上がっていってください。何もないですけど」
「いや、さすがにそれは悪い。帰るよ」
「さっき携帯で調べた限り、雨、さらに強くなるみたいですよ。森崎さん、出発から結構ふらふらしてたのに、またバイパス運転できますか?」
「それは……」
痛いところを突かれた。正直に言えば、バイパスに合流する速度感や、もっと言えばワイパーやエアコンの起動手順までほとんど忘れていた。ここまで来れたこと自体がすでに奇跡で、これから取って返すのは実際厳しかった。
「夜には雨もおさまるみたいですし、帰宅ラッシュが落ち着いてから帰ったらどうですか」
「……ご迷惑でなければ」
事故を起こしたとなると、北畝にとっても後味が悪いはずだ。それらしい言い訳をつけて、家主の言葉に甘えることにした。シューズを脱いで玄関に上がる。
廊下の右手にある居間へ案内されると、そこは六畳ほどの畳敷きだった。三面が障子に囲まれており、残り一面の襖は隣の部屋に繋がっているようだ。玄関から見た限り通路ではない。居間には、テレビとテーブルだけが寂しげに配置されていた。北畝自身か、古染という家主かはともかく、よほどのミニマリストなのだろう。畳の緑と障子がなければ殺風景に過ぎる。
暖房を入れてコートをハンガーにかけた北畝は寸断なく障子を開けた。玄関からは見えなかったその一面の先は、どうやら台所のようだ。
「いまお湯を沸かすので、待っていてください」
振り返りもせず台所に向かった北畝に、不用心だなという感想が浮かんだ。
ただ、この一軒家は女子の家に上がったと思うにはやや実家過ぎるし、内装も奥ゆかしいものだった。この家に呼ばれても、彼女の自宅に上がった感動より父親とエンカウントする恐怖が勝つだろう。手持ち無沙汰に部屋を見渡す。古い液晶テレビの――電源を点けるのは流石に行儀が悪いと思い、――裏側を覗くと、三色ケーブルとVHFのケーブル線が繋がれた裏側と台座は、居住者の性格が出ており、丁寧に掃除されていた。
「あんまり見ないでくださいよ。そんなに家に帰れてないので」
「むしろ逆だよ。こまめに掃除してるもんだ」
「……どうも」
部屋に戻ってきた北畝がコップにお茶のパックをいれてケトルのお湯を注いだ。くすみカラーのケトルが建物の外見に反してやけに若いのは、家主の趣味なのだろうか。
「北畝は、ここに居候を?」
率直な疑問だった。よしんば表札についても聞けるだろうかという思惑もあった。案の定、彼女は僕が尋ねた理由について察したようで、「あぁ」と短く声を漏らすと、お茶に一口つける。
「そうですね、森崎さんには、話しておきましょう。というより、ぜひ聞いてほしいです」
彼女は意を決したように立ち上がると廊下に出ていき、すぐに一枚の写真をもって部屋に戻ってきた。
一人の女性が写っていた。窓際で椅子に腰かけて本を読み、柔らかい視線だけが撮影者に向けられていた。それがむつ研究所内で撮影された写真だというのは背景から容易に推測できたが、なによりも僕を驚かせたのは、その容姿に見覚えがあることだった。亜麻色のロングヘアーと快活な表情。それは吾田の車内メーターに置いてあった写真の人物と同一だった。
「この方は古染優莉さん。吾田さんの恋人で、私の恩人で、私たちにとっての先輩です」
「先輩……?」
「はい、彼女こそむつ研究所の方向性を指し示した第一人者であり、頭痛と感情の相関に気づいた女性。――――一人目の鯨音患者です」
一人目。
その言葉に、全ての合点がいく。振り返ってみれば、それは気づいてもよさそうなほど周囲にばらまかれていたメッセージだった。
「水族館で話した、私の恩人。彼女の話を少しさせてください」
「古染優莉――優莉さんと会ったのは二年前、中学三年生の頃でした。私は物心ついたころには叔母と暮らしていました。その理由については、吾田さんからお聞きしましたか?
――いえ、謝るようなことではありませんよ。本来であれば、初対面の時に開示しておくべき情報ですから。とにかく、その頃の私はここ新津ではなく、中央区の方に住んでいました。優莉さんとは、そこで出会いました。
両親の死後、私を引き取ってくれた叔母はとてもやさしい人でした。子供を設けないまま旦那に先立たれてしまい、再婚よりも妹の娘を引き取ることに決めました。彼女はまるで実の娘のように私を愛してくれました。親という存在を知らない私と、子供という存在を知らない彼女が親子になったのは、ある意味では皮肉といえますね。
あぁいえ、仲が悪いわけではないです。結果として別居という形をとってはいますけど、今も時折、顔を見せに行きます。お互いのことを心配しているし、大事に思っていると思いますよ。ただ、私には、母という存在が分からないんです。見ず知らずの子供を愛することって、血のつながっていない親を愛することに比べたら簡単なことだと思います。子供はかわいいものですから。……何ですか、その反応。私だって人並みには愛でるという感情を理解しているつもりです。
……ですが、子供から親に向ける感情はそうもいきません。人間関係の数的不足や保護被保護という関係性ゆえなのか、子供は一度親の愛情を得る機会を失うと、二度とは正常に獲得できないんです。少なくとも私には無理でした。
親がいなくて寂しいと思ったことはありません。そもそも親が何かすら知らなかったんですから。私は自己愛の強い捻くれた性格に育ち、友達も作りませんでした。叔母さんを心配させないように学校では優秀な生徒を演じながら、休日を図書館で過ごしました。部活動は所属しましたが、ほとんど参加しませんでした。人間関係や、そこにある様々な愛情が怖かったんでしょうね。
二〇一七年の夏でした。ある日、頭痛の激しい日がありました。夏休みが始まる頃でした。学生が増えて図書館の冷房がフル稼働していたせいもあって、保冷剤をタオルにくるむことなく頭に突っ込まれたような、そんな痛みでした。痛みだけじゃなく、心のなかにぽっかり空いた空白が私の精神をも蝕みました。鯨音は感情を与えてくれますけど、その時の私はセンサーが過敏過ぎたんでしょうね。私は、逃げ込んだ化粧室のガラスの前でしゃがみ込んでいました。
気づきましたか? 鯨音は、より複雑で入り組んだ建造物ほど聞こえづらくなるんです。回折の際に衰弱するんでしょうね。ともかく、そこにやってきたのが優莉さんでした。自身も頭痛でやってきたというのに、彼女はすぐに私の顔色に気づきました。非常任の養護教諭で臨床心理の資格も持っていましたから、無視できなかったんでしょうね。
最初に彼女が声をかけてきた時、私はひどく警戒していました。なんというか、優しい人間が苦手だったんですよ。心根が屈折していたんです。自分と心の底から繋がっていない他人から向けられる心配や配慮が、私にはどうしても疑わしく、心苦しかった。これはたぶん、叔母に対して思っていたことなんでしょう。結局のところは親子ではなく他人じゃないか、そこに無償の愛はないだろうと、どうしても思ってしまったんです。
母親は子供を産んだ時点で親子になるでしょう。でも、叔母さんは違う。旦那さんとの間に子供をもうけていたら、私とは親子にならなかったでしょう。私たちには絶対的な繋がりというものが欠けていました。
ただ、優莉さんとの間にあった奇跡は、彼女が私と同じく、不定期かつ急性の頭痛に悩んでいたということです。私はいま思えば笑ってしまうほどにころりと、優莉さんを信用しました。生まれて初めての理解者だったんです。前にも話しましたけど、私は学校で少なからず疎まれていました。偉い学者先生も原因を突き止めることができず、親のいない環境で育った精神性のものだと安易に結論づけられました。私だけに聞こえる音の存在なんて誰も気にかけませんでした。
私が叔母以上に優莉さんを慕っていたのは、私の悩みだとか全てを理解したうえで認めてくれて、なにより先天的な関係の一切ない外部の人だったからでしょうね。聖母にすら見えましたよ。優莉さんは私の母になろうとしていない。だからこそ、私は歪んだ自己肯定と向き合わずに済みました。
吾田さんと出会ったのもこの頃ですね。すでに大融解への対策としてむつ研究所に回されていたあの人は、私という二例目の患者を、自身の研究対象ではなく一人の少女として見てくれました。
決して親しくあろうとしないその距離が、どれほど嬉しかったことか。
ただ正直、妬いたこともありました。思春期特有の独占欲と性知識の結晶といいますか、優莉さんの症状や悩みは私が一番よく知っているのに、その心も、まして身体の奥深くまでもが恋人である吾田さんのものなんです。――もちろん、恨みはしませんでしたよ。吾田さんは、私を優莉さんの妹のように可愛がってくれましたから。二人とも、ご結婚されていれば子煩悩に育っていたと思います。
優莉さんは人間の認知機能に造詣が深く、彼女の人徳も相まって研究所の中心になっていました。鯨との接触が原因となっていると仮説を立てたのも、彼女が最初です。先ほど森崎さんからお話を伺う限り、正しいことも実証されました。彼女がいても鯨王という根幹は発見を待つしかなかったと思いますが、症状や感情の理解については数年分のアドバンテージを稼げたでしょうね。
私という被験者を中心になされた研究報告はすぐに横浜のJAMSTECと政府に挙げられ、評価されました。今も変わりませんが、少しでも可能性があれば国連は検証してみたいばかりでしたから、研究が順調に進んでいればむつ研究所と北畝遥という被験者、なにより発案者の優莉さんと吾田さんは教科書に載っていたかもしれません。
――――でも、その未来は私が奪ってしまいました。
忘れもしない中学三年生の冬、優莉さんと会って半年も経たない頃でした。吾田さんが優莉さんにクリスマスプレゼントをあげたいということで、私たちは新潟で合流しました。青森には百貨店なんてありませんからね。吾田さんにとって私が優莉さんの妹のような存在だったというのは、何も私の妄想じゃありません。あの人は結婚を考えていると私に打ち明け、許可まで請いました。
「いいんじゃないですか」
そうとだけ私は返しました。二人の祝福を遮る権利なんて私にはありませんでしたし、なんならさっさと結婚してほしいくらいでした。
吾田さんは浮かれたように笑って、プレゼント選びに戻りました。
……ちょうどその時、優莉さんの命が奪われたなんてこと、露と知らずに。
最後まで名前も、国籍も教えてもらえませんでした。報告によれば、一人の男がむつ研究所に侵入し、その場にいた優莉さんを拳銃で四発、撃ちました。胸部に三発、頭部に一発。即死だったでしょうね。男はその後、優莉さんの遺体を車で運びだして南下しているところを、応援に来た三沢基地の警備隊に止められ、車内で服毒自殺したそうです。あまり詳しい話は、聞かせれていません。
ですが、男は受付の方や研究員の深沢さんに「北畝か?」と問いかけていました。私を狙ってたんですよ。どこかの国の小さな研究所が成果を出してしまうかもしれない。それを妬んだ国によって、被験者の殺害が提案されたわけです。
あの時の吾田さんの顔は忘れられません。電話をとった瞬間から無言になったあの人は丁寧に包装されたネックレスも取り落として、あまつさえそれにも気づかず屋外で右往左往していました。事情を知らない私は、その光景を滑稽がってさえいました。今なら分かります。すぐにでも駆けつけたかったんでしょうね。空港へ走っていくには遠すぎるし、タクシーや電車では気が急いて仕方なかったでしょう。そうやって悩む時間ももったいなく、どれを選んでも間違っているような気がして、進めなくなってしまう。一分ほどうろたえてから、吾田さんはいつものように冷静な表情で、「空港に戻ろう」と言いました。
飛行機に乗っても、あの人はずっと黙っていました。空港に迎えに来ていた自衛隊の車両を見て、私は何かが起きたのだと知りました。
事実を知ったのは、研究所についた時です」
一呼吸おいて、「これが、私の知る古染さんの全てです」と苦笑した北畝の頬を、つぅと、一筋の涙が伝った。彼女はそれに気づいていないふりをして、手元の写真を眺めた。
「結局、研究は頓挫という形で内々に処分されました。患者が死亡したんじゃ進められないし、継続しているとあればいつ同様の事件が起きるか分かりませんから。事件報告について、私は聞かされていません。ニュースだって、詳しくは掘り下げませんでした。何事もなく、全てがまるで最初からそうであったように、事態は沈静化しました。鯨音が大融解に紐づいている可能性だけが残され、患者の存在は秘匿されることになりました。優莉さんは、最悪なタイミングで巻き込まれました。吾田さんがいたら、優莉さんを守ったことでしょう。私が研究所にいれば、犯人は間違えることはなかった。そうすれば、あの人は死なずに済んだ。すべてが最悪でした。私のせいなんです。そもそも私がいなければ、研究はただの仮説のまま、進展することもなかった。あの日優莉さんと出会ったから、……私のせいで、優莉さんも、吾田さんも不幸になったんです。私が、人に心を開いたから……」
反射的に喉から飛び出そうとした否定を、息を吸って抑えた。
そんなことはない、なんて無責任に言えるはずもなかった。慰めのどれもがあまりにも空虚で、渇いた音しか立てそうになかった。
北畝が狙われていたことは事実で、それが公表されていなかったもう一人の被験者の死によって防がれたのも事実なのだ。そして彼女の存在が、研究が成立した一手であることも。
北畝はこの苦痛を何年抱えてきたのだろう。確固たる愛情を得られず、やっと手に入れたそれを自らのせいで奪われ、そのことを打ち明けられる相手は、自分よりも深い傷を負った男だけ。自責と後悔に苛まれながら、せめてもの償いに結果を残そうと考える日々。それが十七歳の少女にとってどれほどの重荷になったことか。
「人から距離をとるようにしていました。巻き込んでしまうのが怖かったし、それ以上に、依存して弱くなった自分を自覚したからです。他人を拒絶していた方が心地よかった。その生き方にも慣れていたし、私は知らないほうが似合っていたんです」
北畝の言葉が、痛いほどわかる。愛情というのは喪失するとその部分だけ空っぽになって、自分という存在そのものが脆弱になってしまうのだ。愛情の収まった穴はそれまで空いたままでも機能していたはずだし、愛情によって完全に埋められるわけでもない。だというのに、移植された臓器が周囲の細胞と癒着してふさがっていくように、一度中身が満たされてしまえば、引き剝がしたときに出血を起こす。
その痛みは幻肢痛となって感じるほど、僕の胸にもこみ上げた。
「辛かったら、泣いてもいいんだ」
「私の罪を、私が辛いだなんて言えるわけないじゃないですか」
「……罪だなんて、好んで重く引き受けるもんじゃない。ただ、不幸が重なった。君はその歯車の一つだったかもしれないけれど、全てが君のせいじゃない」
ああ。これはきっと僕が言われたかったことなんだろう。口にしながらそう思う。不幸な事故だったと、樋口さんが死んだのは僕のせいではないと、そんな頭では理解できても認められない慰めは、他者から与えられなければ受け入れることができないから。
だから、次に続く言葉は簡単だ。
「前を向いて生きなよ。それが、きっと君にとって大切な人が望んでいたことだ」
樋口さんなら、きっとそう言っただろう。墓前に立つ僕に「律儀だねぇ」と笑みを浮かべているに違いない。
「北畝はまだ子供だ。過去に縋ったっていい。そうしたいなら、それがいいと思う。でも、前を向いて歩いたって、罰は当たらないよ」
「……森崎さんには言われたくないですよ」照れ隠し、あるいは拗ねるように北畝が苦笑した。
「僕はとっくに成人してるよ。君を支えてあげるべき、大人だ」
きっと違う。それでも、今だけはこう言ってあげよう。
「そうなんですか。――では、」
すっと北畝が頭を僕の胸に預けてきた。僕の手に触れないよう慎重に脇から腕を回し、背中を抱きしめた。
「じゃあ、少しの間だけ、支えていてください」
突然のことに跳ね上がる心臓の鼓動は、耳のいい北畝に筒抜けだっただろう。でも、今だけは恥を忍んでされるがままにしてやることにした。
少女はやっと肩の荷を緩められたのだ。それくらいの褒美があっても、文句は言われないだろう。
僕たちはその後、すっかり夜まで寝入ってしまった。
泣き疲れた北畝はともかく、僕だけは意識を保っておこうと思ったのに、不甲斐ない。「夕食を食べていってください」という北畝に、これ以上お世話になるわけにはいかないと断り、古染の門を後にした。見送りに来た北畝は初めて見る寂しそうな顔をしていて、すこし良心が痛んだ。
車に乗り込んでエンジンをかけると、助手席の窓を北畝が叩いた。ヘッドライトをつけながらパワーウインドウを開けると、空いた窓の隙間から北畝が車内へ顔をのぞかせた。
「森崎さん」
「忘れ物でもあった?」
「いえ、そういうわけではないのですが。――私、卑下せずにちゃんと向き合ってみます。自分とか、愛情とか、ずっと悩んで、自棄になって結論を出してきたものに、もう一度」
北畝の髪が夜風になびいた。
「……悩んだら、相談に乗るよ」
「はい、ありがとうございます。……それとなんですけど」
付け加えるように口を動かした北畝が「えっと……」と、もごもご口ごもった。彼女は深呼吸をすると、照れくささをかみ殺すように口を曲げた。
「森崎さんの事故について私が言えることはありません。ですから、これは私の決意表明というか、身勝手な応援でしかないんですけど」
北畝がくっと僕の瞳を見つめた。
「私は離れませんよ。森崎さんが放り出してしまっても、またその手を掴まえます。だから、安心してください」
言い切った北畝の頬が紅潮しているのに見惚れて、思わず二の句が継げなくなってしまった。遅れて、彼女なりの激励だということに気がついた。
「……ありがとう。海で遭難したら、よろしく頼むよ」
「ええ、はい。……いや、その、いえ、できれば遭難は……はい。……おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
歯切れの悪くなった北畝が半ば気がかりながらも、彼女の言葉が僕の心を内側から蹴り上げていた。腕から心臓を通って脳にかけて、筋肉に依存しない不思議な力が湧いているようだった。僕たちにとって先輩であった女性の家をゆっくりと離れていく。角を曲がる寸前まで、北畝は見送ってくれていた。
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