見紛い

 十一月の初旬に入った頃だった。不意に激しい頭痛がした。

 甲高い音が、頭の中を循環し、滞留する。クラブの縦ノリが脳内で開催されているようで、痛みと音とを分岐しようと研ぎ澄ました神経が、吐き気を催させた。その音は幾度となく感じた懐かしさを喚起するもので、なるほど、鯨音とよく似ていた。吐き気に混じり入った音の階調を分解していると、報告用の時間を確認し忘れたことに気づき、慌てて携帯の電源をつけた。そこに表示されている四桁の数字をメモアプリに打ち込み、もう一度旋律へと耳を傾ける。

 鯨音が小さくなり頭痛が収まった後、僕は耐えかねてトイレで吐いた。中学生ぶりくらいの嘔吐は、頭のせいだと言うのに胃の中が焼けるようだった。

 夕方、報告書を書き終えた僕は、自分の心の内で何者かが海に行くよう拐かしていることに気づいた。予感に背中を押されるようにデスクを離れ、夕日の反射で茜色がかったレンジフードが目立つ台所を通り、ドアカメラを覗いた。

 寒暖差や細かい傷によって靄がかったレンズ越しに、白んだ青空が映っていた。今日は夕日がきれいに見えるかもしれない。

 財布とスマートフォンだけポケットに入れて、アパートの階段を降りた。駅まで歩いて十五分、そこから電車でさらに十五分と考えると、日没の少し前には海に到着する。

 駅についた途端に列車到着のアナウンスが聞こえて、足早に階段を駆け上がった。息を切らしながら改札について、初めて電子マネーを忘れたことに気づいた。きっぷを買っていると警笛が軽快に鳴らされ、帰宅ラッシュの学生たちに揉まれて改札をくぐる頃には、車輪が線路を転がっていく音が聞こえた。

 もう少し早く出るか、出発時刻を事前に調べていれば急いだろうに。そんな反省をしてみて、どうせ次も急がないのだろうなと思う。

 二十二分という平均より長い間隔を空けて訪れた電車に乗り、黒川駅で降りる頃には、すっかり空は赤く染まっていた。海辺につく頃には夕日は沈み切っているだろうが、ここまで来て帰るのも癪だ。夕方と夜の合間の明るい空もいいものだと言い聞かせ、水族館の方へと向かった。

 駅前の交差点を一つ抜けると、大勢の高校生が向かい側から歩いてくる。赤谷高校ではなく、その手前にある商業高校の生徒だろう。輝かしい未来と青春に包まれた彼らと対比するように反対方向へ歩く成人男性という自分に、女性ものの下着売り場に迷い込んだような居心地の悪さを感じて、車道を横切り反対車線へと移った。角にある神社を右折して住宅街を進むと、赤谷高校が見えてくる。下校時間なんてどこの学校も同じものなのだろう。またも多くの高校生が現れ、すれ違っていった。先ほどと違うことといえば、もう学校の門前まで来てしまっている僕は紛うことなき不審者だということだろうか。

 高校生の頃、校舎の前ですれ違う大人たちがやたらわざとらしい驚愕の表情を浮かべていたものだが、あれは偶然を装っていたのだろう。今の僕がそうだから分かる。若人を見るためにこのルートを選んだわけではないのですよ、と目新しいものを見るような表情を浮かべることで、アピールしていたのだ。

 やはり電車になど乗らず引き返すべきだったろうか。後悔先に立たずとはよく言ったものだ。油を直接流し込んだような胃の不快感を押さえながら、通りの先で色を落としはじめた海だけを見つめて歩いた。

 そしてその視線は、七秒も経たずに破綻することになった。消臭ビーズのようにひしめく学生の中に、見知った――しかし脳がその符号を一致させようとしない――顔があったからだった。

 喧騒と哄笑が夕焼けのセンチメンタルを妨害する大通りに、北畝遥の無表情が浮き出ていた。

「そう言われれば……」

 さり気なく周囲の学生を伺うと、すれ違う彼らは見慣れたセーラー服を着ていた。何度か見ていたはずなのにそれが北畝と結びつかなかったのは、それだけ少女のまとう雰囲気と合わなかったからだ。隣駅のトップスクールになら在籍していてもおかしくないが、まさかこんな騒がしいところには、ここだけにはいるはずはないと、思い込んでいた。

 北畝は彼女の前を行く三人の女子に無言でついていっているようだった。彼女らが向かう方面にあるのは広大だが人気のない神社だけで、放課後に訪れるには寂しすぎる。どうやら仲が良いわけでは無さそうだ。地図を調べるふりをしながら北畝たちの向かった方向を見つめる。追うべきだろうか。おそらく面倒事だ。吾田に頼まれている以上、監督責任はあるが……。

 ――果たして、北畝がそれを求めているか。彼女は僕を毛嫌いしているし、弱みと言えるかはともかく、吾田に告げ口されるようなことを僕に見つかるのは好ましく思っていないはずだ。それに僕は、彼女のプライベートに立ち入るほど仲良くもない。

 見なかったふりをして、携帯の電源を落としたときだった。

 不意に、坂の上の校門から男性教師が姿を表した。その目が一瞬だが、たしかに僕を捉える。

 あぁ、くそ。

「……なるようになるか」

 携帯をポケットに突っ込んで、北畝達の消えた方向へと足を向けた。

 日の落ちた秋空は、群れた紺色のセーラーのように、すっかり暗くなっていた。



 護国神社。区内では国道をはさんだ先の黒谷神社と並び二大神社と呼ばれる巨大な神社の参道を、女子高校生たちは進んでいく。戊辰戦争の従軍者や作家の石碑などが建てられた著名な神社だが、駐車場に停まる車両に比して境内に人影はほとんどない。すっかり暗くなった夜空に少しでも彩りを持たせるように、はるか先まで延びた宮殿の鏡柱のごとく立派なイチョウの黄色が、紺色のセーラー服をなおさら浮き立たせていた。

 その背の一つが、北畝の背中を小突くように押す。終始無言で歩いているだけでも、あまりいい雰囲気ではないと分かる。彼らの人間関係を掴めたら、多少強引にでも割って入るべきかもしれない。

 しかしテニスコートを縦列でいくつも並べられるほど長い参道は、気取られることなく追跡するにはすこし開け過ぎていて、参拝客のふりをするにも不審だった。参道脇の駐車場の陰から四人の後ろ姿を見つめる。今にでもさっきの教師が追いかけてくるのではないかと気が気でなかった。

 参道を囲むイチョウ並木のなかへ彼女たちがすっと消えたのは、時間としては五分も経たない内だった。どうやら空き地に入っていったらしい。一度参道に出てしまったらもう戻ることはできないが、ここまで来てしまったらもう戻るわけにもいかない。

 参道へと身を乗り出して、ゆっくり北畝の消えた方向へと進む。万が一、何事もなく出てきた彼女たちと遭遇して挙動不審になってはいけないと自然体を意識するほど、呼吸の間隔や手足の出し方といった身体感覚がイヤホンコードのごとく絡まっていく気がした。秋風に運ばれた木々の匂いがやけに鼻につく。思えば人に見つからないかと緊張したのなんて、小学校の頃に地元の友人とかくれんぼをした時以来のものだ。

 並木の隙間から紺色のセーラー服が見えた。さっきの張り詰めた雰囲気とは違い、完全に空気が破綻しているようだった。三人が何ごとかを怒鳴るたび、北畝は露骨な嫌気を表情に浮かべながら、伏し目がちに反論しているようだ。それがまた彼女たちを激昂させるようで、状況はみるみるエスカレートしていった。――案の定というか、北畝の対人態度は素だったのか。感動と呆れの入り混じったため息が独り言のように口から漏れ出た。

 グループの一人が北畝の肩に手をかける。その瞬間、僕はとっさに声をかけていた。

「君たち、こんなところで何をしているんだい」

 女子高校生たちの視線がバッとこちらに向けられた。最後にこちらへと顔を上げた北畝の瞳が、僕を認識した瞬間に不快感を露にした。こっちは助けに来てやったというのに。彼女からいったん視線を外して、けん制するように三人を一瞥する。突然の来訪者にバツが悪くなったのか、北畝の肩に置かれていた手がすっと除けられた。

 さて、ここからどうしたものか。当然だが、僕は彼女たちの事情を知らないし、仲裁できるほど人づきあいが得意な訳でもない。考えなしに突撃してしまった僕を皮肉って笑うように、冷風がわざとらしい音を立てて通り過ぎていった。

 イチョウのゲートをくぐって空地へ足を踏み入れた瞬間、「誰ですか?」と言葉が飛んできた。リーダー格らしき巻き髪の茶髪女が警戒するようにぐっと睨む。その視線は彼女の引け目と羞恥を表しているようだった。ただ、しまったな。そう感じた。この状態じゃ僕のほうがよほど不審だ。女子高生の集団に理由もなく声をかける成人男性ほど恐ろしいものもない。

「知ってる?」との問いに取り巻きが首を振ったのを皮切りに、巻き髪の警戒心は一層高まったようだった。

 事実をそのまま述べればビジネスライクな関係だと弁明できるが、北畝が業務について公言しているとは思えないし、そのビジネスという言葉はあらぬ誤解を与えるだけだろう。北畝のなにをしに来たんだ、という表情が僕の登場を露骨に嫌悪していた。四面楚歌の真っただ中に飛び込んだようだ。

 ええい、ままよ。

「えっと……僕は、遥の兄、です。北畝千里。いつも妹がご迷惑をおかけしているようで、申し訳ないね。今はお取込み中だったかな」

 ぎこちない虚偽も設定が頭の中で整理されるほどにすらすらと言葉になった。一期一会、負うべき責任などないからだろうか。ぺらぺらと社交辞令を述べ、止めの一押しとばかりに丁寧にお辞儀をすると、三人の少女は罰が悪そうに「いえ……」と身を引いた。その隙を見逃さず北畝との間に割り込むと、さすがに身内の前での暴挙は無理と判断したのか、あっけなく引き下がってくれる。北畝との間で何度か視線を右往左往させるが、僕の纏う雰囲気が北畝と似ていたのか、関係の追及はされなかった。

「すこし北せ――遥に用事があるから、お借りしたいんだけど、いいかな」

 畳みかけるようにそう尋ねると、少女たちはわずかに言いよどんだ後、「別に、どうぞ」と吐き捨て、そそくさと離れていった。こじれてもぼろが出るだけなので、僕は黙ったまま彼女たちの姿が参道の向こうに消えるまで、黙って見送った。

 十五秒ほど見つめ、彼女たちが戻ってこないことが分かると、安堵の息が口から漏れ出た。それは負荷のかかった心臓がポンプ代わりに肺の空気を押し上げた結果で、排気と同時並行で行われる吸気では、隣に立ったまま無表情で黙っている北畝の柔軟剤の香りがやけに強く感じた。

「あぁ緊張した。見てくれよ、まだ手が震えてる。女子高校生の集団と話すのなんて随分久しぶりだ」

「……なぜ、ここにいるんですか?」

 自嘲気味に話しかけた僕の内容などまるで興味ない北畝が、これまた感情の伴わない声音で言い放つ。

「それは、日課の散歩だよ。嘘じゃない。僕が驚いたくらいさ」

「とりあえずその言葉を信じるとしましょう。まあ、あなたがどこにいても私は構いませんけれど」

「ストーカーだと思われなくてよかった、と捉えればいい?」

「どう捉えるかもあなたの自由です。どんな風に考えていただこうが、私には関係のない話ですから」

 相変わらず突き放すような物言いだ。北畝らしいといえば北畝らしいのかもしれないが。

「そういえば、尋ねたいことがあるんだけど」

「なぜ私があんな学校に通っているか、ですか?」

「それもあるけど、なぜ君みたいな美人がいびられているかについてだよ。大体察しはついているけど、まさか僕に向けているような態度を、同級生にも?」

「自分が特別嫌われているという自覚がおありのようでなによりです。安心してください。あなたは偽物だから露悪的にしているだけです。同級生とは、いわゆる普通のコミュニケーションをとっていますよ。愛想はないかもしれませんが」

 かもしれない、ではないだろう。先程の険悪な雰囲気を見れば誰でも分かるが、藪蛇を突く気にはならず、僕は沈黙する。

「顔のいい人間は、どのコミュニティでもうまくやれるものだと思ってたよ」

「お気遣いありがとうございます。気持ち悪いです」

 ……嫌われてるもんだな。呆れて喉までため息がせり上がったが、上目遣いにじっとこちらを見つめられ、今の発言がセクハラだったと気づいた。吐きかけた息を呑み込む。

「そもそも、仲良くしなければいけないとは契約書に書いていなかったでしょう。私はお世辞に浮かび上がるほど幸せな思考回路を持っていないので」

「お世辞ってわけじゃ……、いや、墓穴を掘るのは止めておくよ」

「賢明ですね」

 そう言いつつ、北畝は視線をすっと逸らした。眉毛の一つだって潜められるかと思ったが、邪険にされないのなら儲けものか。あるいは、わざわざ反論する気力も起きないほど、僕への無関心と悪態を貫き通したいのだろうか。相変わらず内心の読めない少女だ。

 さっきまでわずかに色を残していた夜空は、すっかり彩度を失っていた。参道と境内の照明だけが並木の隙間から妖しく漏れて、夏祭りで露店通りの喧騒からはみ出た時のような異質さを感じた。

「鯨音の頭痛です」

 ふと漏らした北畝の言葉に、一瞬戸惑う。すぐにそれが今流れているのではなく、彼女が話を始めようとしてくれたのだと気づき、周囲に研ぎ澄ました意識を目の前の少女へと向ける。

「持病持ちでうまくクラスと馴染める人間なんて、一部ですよ。仮に喘息であれば、発症するタイミングや危険な行動の予測が立つでしょう。でも、体育とか緊張とか、私たちは無関係じゃないですか。楽しい行事の真っ只中にいきなり頭痛で動けなくなる。教師も他の生徒も、誰も事情を知らない、知り得ないから慌てて、イベントどころではなくなる。そんなの鬱陶しいでしょう。謎の公欠ですぐ休むサボり魔がクラスの輪を乱せば、目の敵にされるのは必至です」

 それは、そうか。思い返せば、義務教育を受けていた頃にもそういう生徒がいたものだし、僕も彼に呆れていた一人だった。いつも教室にいない冴えない生徒が時々登校しては、不調を訴えてその場を去る。僕たちと、より長い時間を過ごしているはずの教師がそんなお荷物を可愛がるものだから、なおさら気分が悪い。良くも悪くも義務教育は個々人の知能差を綯い交ぜにした環境を生み出し、生徒たちはその人間の背景だとか環境を考慮するほど成熟してもいないから、全体を乱す個人は忌避されていたように思う。

 僕は比較的軽症であることが多いけれど、鯨音の波が及ぼす頭痛は日によって痛みが異なり、今日のように、時には耐えがたい吐き気を催す日だってあった。

 だけど、そんなことは他人にとって、知ったことではないのだ。

「……あと、妹は無理があると思いますよ。私ひとりっ子って知られてますし」

「それは存在自体が無理なお兄ちゃんとか、なんかいい感じに納得してくれるんじゃないか。北畝くらいの子って、兄と仲悪いだろうし。それに、親子とかの方が無理がある」

「無難に友人とか、……友人とかあったでしょう。気遣うなら、細部まで気にかけてください」

「悪かったよ」

 その先の展開を考えずに突撃したのはたしかに失敗だった。うまく舌が回ってくれたからよかったものの、北畝の援護が期待できない状況では不審者といじめられっ子という最悪の三竦みもあり得た。

「あんな露骨な虐め、今もあるんだな」

「彼女たちもフツーに真面目な生徒でしたよ。みんな学費免除の特待生ですし。段々と、私が〈そういう相手〉になったからエスカレートしてしまったんです。バンドワゴン効果みたいなものですよ。攻撃される理由は、既に攻撃されているからです」

 事も無げな彼女の表情は、強がりというよりむしろ諦観によるもののようだった。本来であれば全うに悩むべき懸念をぞんざいに扱えてしまうのは、持ち前の頭の良さゆえか、それとも。

「吾田さんには内緒にしておいてください。あの人には、学校のことで迷惑をかけたくありません」

「弱みを握るつもりはないから安心してくれよ。高校生なんか、友人関係のいざこざくらいあってしかるべきだ」

「……では、私はこれで」

 北畝は足元のリュックを背負い直すと、まるで何事もなかったかのように歩きだした。その背を追ってケアするべきか、あるいは不審者だと思われないよう間を空けてここを去るかと思案していると、紺色の制服がすっと振り返った。

「一応、礼を言っておきます。ありがとうございました。偽物さん」

 さも興味ないといった表情で、彼女は感謝を口にした。




 呼び鈴のなった音で目を覚ました。なぜ目覚めの理由が分かったのかといえば、それがメトロノームのごとく正確に、それでいて押し手の苛立ちを表すように等間隔に繰り返されたからだ。こんなことをする人間に心当たりなんて――僕には一つしか――ないのだけど、彼女が僕の住所を知っているはずもないし、こんな早朝にわざわざチャイムを鳴らされる謂れもない。

 気だるい身体をベッドから引き剥がして玄関にのたのた向かっていると、チャイムはやや強いノックへと変化した。続いて「北畝です」という声が聞こえた。分かってるよ。そう返事をするよりも鍵を開けた方が早かった。

 ガチャリ。ロックを外したのとドアが開かれたのはほぼ同時だった。

「チェーンをかけてたら壊れるところだ」

「大袈裟ですね。あなたが返事を寄越さないからですよ。吾田さんからの連絡、さては見ていませんね」

 吾田? 連絡もなにも、本当に起きたばかりで携帯すら開く猶予を与えられていなかった。自室の枕元に置いてある携帯を取りに戻ろうとした僕の眼前に、スマートフォンの画面が差し出される。

「読んでください。すぐに」

 射殺すような眼光に追いたてられて、僕はまだピントの合いづらいままの眼球を、画面の文字列へと滑らせた。

「ええっと、太平洋沖合いに、――巨大クジラ?」

 体裁の整った書式は、文屋のネットニュースではなく、公的機関のプレスリリースだ。紺碧の海洋にぽつんと白い楕円形の物体が浮かぶ。波打ち際のしぶきや層雲のサイズと比較しても、それがかなり巨大だということは分かった。ただ、題目を除いて文中に正確なサイズの記載はない。

 海。白い巨体。記憶の中に浮かぶ映像と輪郭が重なる。スクロールされたように脳裏を特定の光景が駆け巡って、僕は立っていられなくなった。玄関のドア横にもたれかかると、北畝が訝し気に眉を上げた。

「どうかされましたか。体調でも悪いんですか?」

「ちょっと立ち眩みがね。持病みたいなものさ。吾田さんからは聞いてないんだっけ」

「……私たちは実験の参加者でしかありませんから。お互いのことを知る必要も、その事情を慮る必要もありません」

 北畝の不干渉を貫く態度は、実のところ僕にとっても都合がよかった。仲良くはやっていきたいけれど、人の内情に深入りするのは得意ではないし、僕はそれについて手ひどい失態をすでに犯していたからだ。

「それより、招集がかかっています。早く準備してください。サボり魔の迎えなんて来るつもりもなかったのに……」

 ぶつぶつと呆れ気味に呪詛を吐く北畝に急かされながら準備を進めた。寝酒をせず昨夜の内に風呂に入っておいてよかったと、二年ぶりに思った。玄関に出ると、北畝が呼んだタクシーが駐車場前に待機していた。北畝がうちに来るまでも足として使われたのであろう壮年の男性は、待たされたためか若干疲れが見えたが、北畝が「空港まで」と告げると喜んで車を出してくれた。距離が長いからなのか、北畝の容姿によるものかは分からない。

 空港につくと、ちょうど搭乗便のチェックインが始まった。北畝も急かすわけだ。僕に荷物を持たせると彼女は自動発券機へと小走りで向かい、チケットを二枚持って帰ってきた。その手際の良さは彼女がどれだけの期間この研究に協力しているかを示していた。

「まだスカスカでしたので、適当に席を予約しました。一名は窓側に座れるので、よければどうぞ」

「北畝のなかで僕は小学生と同列なのか?」

「通路側より雲を見れる窓側の方が楽しいでしょう。文句があるなら私が座ります」

 二枚のチケットが連番であることを僕は指摘しないでおいた。彼女が取ったものだから、やっかまれる筋合いはないはずだ。

 搭乗後、案の定北畝は何も言ってはこなかった。挑発的な態度や露悪的な反応もないのは新鮮だったが、彼女は自らの発言通りずっと空を眺めていたので、それを揶揄う気にもなれなかった。青森空港について発車寸前に飛び乗ったバスも相席で、やはり北畝は気にしていないようだった。ただ、それを気にする僕の態度は気に入らないらしく、「……なんですか?」と嫌そうな顔はした。

 むつ市の停留所では、初めて研究所を訪れた際に受付をしていた女性が迎えてくれた。パーキングに向かいながら、彼女は研究所がてんやわんやの大騒ぎであることを教えてくれた。今朝から電話が鳴りっぱなしで、研究員の往来も多いのだという。

「私たちは現在、鯨類研究の一端としても活動しているわけですし、連絡が来るのは当たり前でしょうね」

 研究所に到着して、事務棟の最奥、広めの会議室へと案内された。訪れたことはなかったが、他の部屋と違う観音開きの扉とドアの間隔からして、室内はかなり広いようだった。案内してくれた女性に会釈して、北畝はノックもせずそのドアを開け放った。中には吾田と深沢、井ノ下のほか、書類に載っていた研究員と普段顔を見ることすらなかった事務員たち、そして宮古野所長の顔があった。会議室の長机を集めて作られた巨大な一枚のテーブルの上には書類が散らばり、業務用の複合機やプロジェクターが総集結していた。

「北畝、到着しました。森崎千里も一緒です」

 北畝がそう告げると、事務員に指示を出していた宮古野がこちらに気づいて近づいてきた。何気に顔を合わせるのは初めてだ。小さく頭を下げると、毛深い手を差し出してきた。

 僕がその手を握り返せないでいると、彼は「おっと、これは失礼」と言い、その手で自らの名札を掴んだ。

「話すのは初めてだね、森崎千里くん。この海洋研究所所長の宮古野だ。朝っぱらから呼び出してしまってすまないね。今から情報の総括をするところだったから、その辺にでも腰かけて待っていてくれたまえ」

「所長、今回の件ですけど――――」

「資料は後で渡すよ、クジラの女王。気が急くのは理解するがね」

 納得のいかない表情の北畝をなだめながら事務員に案内されるまま席に座ると、照明が切られた。プロジェクターがスクリーン一面に映し出され、吾田がその隣に立った。

「やあ、北畝ちゃん、森崎くん。よく来てくれたね。今から今朝の発見について説明するよ」

 吾田が台座の上のノートパソコンをいじると、プロジェクターが見覚えのある写真を写しだした。青の下地に目立つ白い塊。アパートで北畝が僕に見せてくれたもので、画像の下には【撮影:海上自衛隊】の文字がある。

「これは今朝、政府から送られてきた画像だ。海上自衛隊の哨戒機が撮影した画像で、現在国内の特定の研究機関にしか送られていない」

 北畝がアパートで見せたから、てっきり公表されている画像だと思っていたが、あれは吾田が北畝に転送していたのか。タクシーの中で見た僕へのメールには載っていなかったので、そういうところに信頼感の違いが出ているわけだ。まったく悔しさも僻みもないけれど。

「発見時刻は日本時間で午前七時、沖縄東南東八十キロの太平洋沖合だ。海上で確認された八分後、潜航し、行方が追えなくなった。撮影以前にも哨戒機のカメラに同様の物体が映っていることから、実際は長時間浮上していたと思われる。このクジラの特徴として、形態はザトウクジラに酷似しており、確認された噴気からオゼビクジラだと推測された。しかし、何より特筆すべき点として――」

 吾田が眉根をぐっとひそませた。

「――――確認された体長は、約二百メートルにも及ぶ」

 我慢しようとして呑んだはずの息が、喉奥でつっかえて、小さな鼻息として出ていくのを感じた。

 二百メートル?

 聞き間違いか、と短期記憶で吾田の声を反芻するが、巨大な数的事実が確定するだけだった。

 現実味のない数字が理解を妨げて、それが五十メートル走のトラック四本分だと脳内の空撮マップで徐々に図式化されていく。そしてサイズ感が光景化されていくほどに、とある光景と合致していった。途端に、フートポンプで自転車のタイヤに空気を送り込むように、気管がすっ、すっと圧迫されて動悸がする。

 それはありえない。

 ――――それは、僕の妄想のはずだ。

「従来の最大体長を誇るクジラ目の生物は、シロナガスクジラの三十三メートルだった。この白鯨は、実にその六倍近い大きさを持っていると推測されている」

「観測していた自衛官の測定ミスという可能性はないんですか? 当初発見したのは哨戒機の窓側で監視していた自衛官でしたよね?」

 深沢がおずおずと尋ねた。

「そうだ。当初、当該機は転覆した船舶を発見したものと思い、状況を確認するため近づいた。しかし、その海域に周辺を航行予定の船舶はなく、噴気によって生物と確認された。そして深沢研究員への回答だが、機体搭載の光学機器を使用して測定したところ、当初の自衛官の予想と大きくずれることはなかった。二百メートルというのは、その光学機器による測定情報だ」

 データがあるという事実は、研究員を黙らせるのに十分だった。彼らにとっては、そこにあるものこそが根拠であり、推測や予想は真実に影響してはならないからだ。

「生物学の専門家にも報告はいっているだろうが、静止画像一枚では判断できることも限られるだろう。我々においても、海洋学研究について判断できることはほとんどない。どうしてこのような巨大生物が今まで見つかることがなかったのか、重力をどのように回避しているのか、採餌、代謝、疑問を上げればキリがない。この点について、なにか意見ある者はいるか?」

 参加者へと視線を飛ばすと、その中でひときわ目立つ長い腕が空へと伸びた。井ノ下だ。

「一点、推測される原因は存在します」

「というと?」

「二週間ほど前、太平洋沖合でタンカーの横転事故がありましたよね。あの事故によって周辺の海域が富栄養化した事実は、頭に入れておいてもよいのではないでしょうか。周辺には実際のところ、プランクトンやオキアミを捕食しにクジラが集まってきていることですし……、もちろん、二百メートルという数字は法外ですけど」

 タンカーの事故。そんなものもあったな。燃料流出による海洋汚染が取りざたされていたが、クジラを呼び込むことはあるのだろうか?

「燃料の流出自体は小規模なものでしたから、運搬されていた貨物が飼料であったことが問題なんだと思いますよ。事故時の衝撃でコンテナに変形が生じ、内容物が流出したのかもしれません」

 僕の疑問を見透かしたように、北畝がぼそりと呟いた。

「なるほど、井ノ下研究員の推測は横浜に進言してみよう。たった二週間で生育するとは考えられないが、予想くらいは欲しいはずだ。――しかし、話は大きさだけにとどまらない。ここからが本題だ」

 まだ前座だったのか。そう思った矢先、波長グラフがスクリーンに映し出された。複数の事務員が疑問符を浮かべたような表情をする一方で、研究員たちの息を呑む音が聞こえた。隣の北畝も同様に小さく声を漏らすが、僕にはわからない。

「自衛隊機の報告を受けて、ただちにブイが投下された。その結果、周辺からはソングと思われる特定の配列で構成された――、」

 吾田が一度息を吸う。

「――――五十二ヘルツの音源が確認された」

「……それって」

 五十二ヘルツの音源の観測。それはつまり。

「ああ。この巨大クジラこそ五十二ヘルツのクジラの正体であり、大融解を引き起こしている個体であると見て間違いない。断言するにはデータが弱いかもしれないが、我々はこのクジラを発見し、調査しなければならない。それだけは確かだ。この辺りは、宮古野所長から」

 話を投げられた宮古野は、そのがっちりとした体を椅子から起こし、のそのそとスクリーンの前へと移動した。吾田から受け取ったマイクを軽く二度叩き、息を吸う。

「まず伝えておくと、政府は大融解の原因をこの個体に求めてはいない。判断できる情報が音源だけじゃ、吾田の言った通りデータとしては弱いからな。しかし生物学的な異常があるのは確かだと、JAMSTECと日鯨研にこの個体の調査を依頼してきたわけだ。そして横浜本部は鯨類調査が主体ではないから、こちらに丸投げしてきた。そういう流れだ。俺たちはJAMSTEC管理下のもと、政府に要請を出しつつこの個体を研究することになる。音源データの採集なども続けながらね」

「その個体、生かして捕らえますよね」

 口を挟む北畝に、一瞬宮古野の表情が消える。鯨類のこととなると他人の発現を遮りもする北畝に慣れているのか、彼は指摘することなく「ああ」と肯く。

「無論、我々としても貴重なサンプルだからな。進化の定説を覆しうる存在だ。可能な限り、殺さない方向で処置をするべきだと、そこは一致している」

「……良かったです」

 自分が出しゃばったことを自覚した北畝が、小さく呟く。何がよかったのかはともかく、星空を見た夜から五十二ヘルツのクジラが彼女の特別だとは分かっていたので、その生死を気にかける北畝の行動は予想の範疇だった。

 ――僕にとっては、どうだろうか。少女と同様、あの夜と回答が変わることはないと思った。

「我々はこのクジラを、鯨王と呼ぶことにした。オピオセトゥス、脊椎動物の常識を超える、圧倒的な王だ。これから厳戒態勢で我々は事に臨む。無論、他言も無用だ。研究の進捗は原則、政府にもしばらくは秘匿しておく。各自、命を尽くして取り組んでくれ」

 そうして壇上から宮古野が降りるのと、部屋の照明が再点灯したのは同時だった。研究員たちがそれぞれパイプ椅子を立って談議を始める。

 僕はしばらく天井を見つめていたが、頃合いを見計らって吾田へと近づいた。多数の関係者との打ち合わせからすり抜けてきた彼から、抱えきれなくなった資料の一部を借り受ける。

「あの、政府に報告しないって、なぜですか? 鯨音が北畝や僕に特定の感情を与えるのは与太かもしれませんが、音源が大融解に影響している可能性については、十分に論じる余地のあるものだと思いますけど」

 うーん、と唸る吾田は感情のない笑顔をつくった。嘘をつこうとしているのだと、直感的に理解した。

「クジラには声帯がないんだ。より正確に言えば、確認されていない。ソングはヒゲクジラ特有の現象だが、現状、かの巨体を生きたまま観測できるような施設が存在しないんだ。だから、確証がない。彼らに人間を虐殺するような理由があるとも思えないしね」

「でも、提言するくらいの価値はあるでしょう。たったそれだけでも――」

「――それよりも、北畝ちゃんを頼むよ。君くらいしか、今はいないから」

 遮るように笑みを浮かべる吾田に、それ以上何も言えなくなる。「分かりました」と声音だけで反抗する。こういうところ、僕はまだ子供だ。姿勢の安定した吾田に資料を返す。

 室内を見渡すと、いつの間にか北畝は大会議室を出ていったようだった。大人たちはまだ忙しそうなので、僕も扉をすり抜けて通路へと出る。どこへ行ったかと見渡していると、いつも利用していた会議室の扉が開いていた。

「北畝、いるか?」

 ノックして入ると、北畝が椅子に座ったまま上目づかいで僕を見ていた。

「なにか用事ですか。吾田さんが呼んでましたか」

「部屋を抜け出すのが見えたから追ってきただけだよ。いなくていいのか」

「私は被験者であって、研究者ではありませんから。あの場で役に立つことは当分ありませんよ」

 その言い草は研究の中核だと自負していそうな彼女にしては珍しいものに思えたが、その通りだった。サッカー観戦が趣味だからと言ってサッカー選手になれるわけではないし、ガン患者がガンの研究をするわけでもない。

「まさかあんな大きなクジラが存在してるなんてな。北畝も予想外だったか? みんな息を呑んでたみたいだけど」

「それは、あなたの方でしょう。随分と動揺されていたみたいですが、なにかあったんですか」

 その質問に、逡巡した。僕の記憶にあの怪物の存在は、確かにあった。そしてその怪物こそが、今に至るまで僕を苦しめるトラウマの正体でもあった。真っ青な海に反り立った白壁。

「午前中もそうです。あなたは随分、五十二ヘルツの――いえ、鯨王の存在に動揺されていました」

「それは……」

 口に出していいのだろうか。同じ頭痛に悩む少女なら、話が分かるか? 北畝のくっきりとした目立ちを見ると、そんな弱気な信頼が生まれてきそうだった。

「僕は――――」

「――――まあ、あなたは彼を殺したいようですし、どちらでも構わないんですけれどね」

 口から漏れかけた依存は、寸前で北畝が退いたことでどうにか彼女にたどり着かずに済んだ。彼女は非難するように吐き捨てると、リュックサックから文庫本を取り出し、挟んだ栞をたどり始めた。

「北畝は、どうしてそこまでこだわるんだ?」会話を遮断するために読書を始めたような気がして、僕は以前から気になっていたことを聞いてみた。案の定、彼女は視線も身体もぴたりと硬直させ、すぐに栞を外すこともなく本を閉じる。

「こだわる、とは?」その応答は、内容を理解した上でのそれだった。

「どうしてあの巨大クジラ――鯨王の生存に、そこまでこだわるんだ?」

 僕の質問に、彼女は目を細めた。絵を描いている最中に何を描いているのか尋ねてくる同級生や、ただバイト先が一緒なだけの年上に進路を聞かれたときのような、煩わしいものを見る目だった。

「――吾田さんも言っていたでしょう。貴重なサンプルですから。クジラの生体の観察は非常に難しいと考えられてきましたが、あれだけのサイズであれば体内の観測は極めて容易です。シロナガスクジラは軽自動車ほどの心臓を持っています。ならば二百メートルの生物はどれほどの臓器を抱えているのでしょうか。あれだけの巨体では、浮力では到底支えられない自重があるはずです。鯨音の仕組みは? 感情の波という仮説はあっているのでしょうか。知りたいことは山ほどありますよ。人類にとって災厄であるとしても、殺してしまうには、もったいない」

「それは、都合の話だろ」

 クジラのことになると饒舌になる癖は変わらないが、それらは便宜であり、建前だった。そこに彼女の意思はない。

「五十二ヘルツのクジラが巨大クジラだと判明する前、星を見せてくれた日には、もう鯨王を駆除するという考えは君の中になかった。いま述べたのは、建前だ」

「……あなたには分かりませんよ。偽物には」

「言ってみないと、分からないかどうかも分からないだろ。僕じゃ理解できてないことがあるのか?」

「当たらずとも遠からず、です。でも、それでいいんですよ。私は誰かに理解してもらいたいわけじゃありません。私は、ただ……」

 はっとしたように口をつぐんで、北畝はリュックサックを持って席を立った。僕の横をすり抜けるようにして、部屋を出ていった。拒絶ではなく、まるで引き留められるのを待っているようでもあるその後ろ姿に、それでも僕は、手を伸ばせなかった。

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