憐憫と贋作

 顔合わせから二週間たった金曜日、起き抜けに飛び込んできた快晴に海を感じたくなって、ふらりと電車に乗った。衝動的な大自然への郷愁は、田舎にもなりきれない地元を出てから強まった気がする。通勤通学のピークを過ぎて心なしか安堵している車両の走行音を聞きながら、目的地だった黒川駅で降りる。反対方面の電車が到着するアナウンス音楽は、今日も最後まで流れることなく切られてしまった。

 駅から北上すること十五分ほどで、赤谷高校が見えてくる。県外出身の僕でも知っているその悪名どおり、授業中のはずの校舎からは偏差値に相応しい地を這うような哄笑が窓を伝って歩道まで聞こえてきた。北畝なんかが最も嫌っていそうな人種だろうかという偏見と、予想外に優秀な生徒がいたりするんだよなという経験論が脳内で討議を始めた。

 歩道橋の陰に重なる信号機は、海沿いに生い茂る防風林を切り開いた交差点にあって、眺めていると歩道にまで飛び出した木々の香りがした。目と鼻の先には海が見えて、青色が目に飛び込んでくる。収斂していく道の先に臨む海というのは、どうしてこうも人の心を高揚させるのだろう。濡れたスニーカーを脱ぎ捨てたときのように弾もうとする踵をおさえ、代わりに嗅覚へと意識を集中させた。柔軟剤を入れずに回した洗濯物のごとく無臭の秋風に、潮の匂いが混じっていた。漁港ほど強烈に主張してこない、有機的な温もり。

 海まで伸びた車道に面している水族館は、年間パスポートを購入して頻繁に通っているものの、今日の目的ではない。横目に素通りして、シーサイドラインと呼ばれる、日本海に沿って延びる道路を横切って海岸沿いの石堤に腰かけた。ズボンの裾を揺らす潮風に吹かれながら、なんともなしに水平線を眺めた。フェリー、タンカー、それらと比較するとありんこのような小型船が沖合にぽつぽつと浮かんでいるだけのその光景を、アハ体験でも待つかのように目を皿にして眺める。

 親子や隠居した老夫婦の会話をBGM代わりに盗み聞きして、ずうっと溶けて混じりそうな青を見つめた。

 これが、昨年の春から休日の過ごし方になっていた。起きたとき、使命感とも恋慕ともつかない衝動に突き動かされ、海に来る。何をするわけでもない。防波堤の中年男性のように釣糸を垂らすわけでも、若いカップルのように浅瀬で水を掛け合うわけでもなく、ただ海を眺めた。それはまるで、ハリガネムシのような寄生虫にでも脳を支配されているんじゃないかと思うくらい、不自然な衝動だった。

 海は苦手だ。内陸部に生まれ育ったから馴染みがなかったし、底が見えないのが不気味で、何かが潜んでいるのではないかと怖れていた。トラウマも海洋への恐怖に拍車をかけた。海という存在と、それが産み出す憧憬には関心があったけれど、可能なら目に入れたくもなかった。――そのはずなのに、気づけば海に惹かれるようになっていた。セイレーンの歌声に誘われるがごとく、ふらりと立ち寄ってしまうことが幾度もあった。一、二時間ほど呆然と眺めてから帰ったあとは、今日はよく隣の岸壁から飛び込まなかったものだと不思議に思うのだった。

 赤谷高校からチャイムが聞こえて、いつの間にか正午を迎えたと知った。今日は一時間ほど眺めていたようだ。石堤の上に立ち上がり、ズボンについた小石をはらってから踵を返した。水族館はやめておこう。がらんどうの駐車場を横目にしながら、僕は帰路についた。

 帰りがけに駅のカレンダーを見て、今日が初めての給料日だということに気づいた。スマートフォンを見ると、預金口座には二十数万円が振り込まれていて、それがなんともなしに僕を不安にさせた。六桁ものお金が動いていると、振込先を誰かが間違えたのではないかという憂慮に襲われる。通帳を片手に郵便局へと向かうと、冷や汗が乾いて、秋の涼風すら身体を震えさせた。

 いざ振込元の確認が取れると、途端に現実感が湧いてきた。とんでもない仕事に就いたものだ。喜びと困惑の同居した感情が僕の表情筋を綻ばせた。顔合わせ以降、僕はこれといった仕事をしていなかった。頭痛が起きた時に感じたことや症状を文書ファイルにまとめて送信したくらいのもので、以降は吾田の説明どおりの不労所得。こんな仕事があっていいものだろうか。出社していない分、窓際族よりも良い身分ではないだろうか?

 送信前にバックアップとして残していたメールファイルを開く。

 ――症状には二つのパターンがあった。一方は慢性的な頭痛。先日のスーパーでの一件のような、他人の手に触れたときに発生する頭痛と吐き気。他方は、いつもの夢を見た時に感じる、懐かしさを伴った頭痛だった。知覚を圧迫されて、息苦しさを覚えるにもかかわらず、どこか優しさを感じる頭痛。両者に明確な差異があるとすれば、心因性と予想がついている前者に反して、後者に心当たりがないことだ。他者の感情が頭を突き抜けていく感覚はこれに所以するのだろうか。報告書に要旨を打ちこんで、たいていの人間は他者の感情を察せるものだろうと、それを削除した。

「まあ、金になるなら何でもいい」

 悩みのタネが解決して、お金ももらえるなら、それに越したことはない。諦めていた車の購入も可能かもしれないのだ。大学入学時に取得した免許は、本人確認書類以外の効果を発揮する機会は滅多になかった。

 朝ごはんを兼ねた昼食にトーストを焼きながら、マーガリンの箱を手で温めていると、郵便が届いて、厳重な包装で分厚い書類が手渡された。封筒に書かれた吾田清二の文字は、機密保持の関係で個人名を記したのだろうか。トーストを食べながら書類の封を切り、束になったそれらを流し見する。研究所の概要、所長や九名の研究者を含めた職員のリスト、オゼビクジラと呼ばれる新種や五十二ヘルツのクジラにまで、詳細に記載されていた。

 テレビを点ける。海洋生物のドキュメンタリー、水族館のCMや太平洋沖でのタンカーの事故。カラーバス効果によって、海に関係するものがやたらと目についた。

 海、か。

 すっと立ち上がり、本棚から一冊のアルバムを取り出す。卒業アルバムとは違う、業務用ファイルみたいなそれをぱらぱらとめくる。樋口紗枝の文字が目について、指を止めた。安っぽいフィルムカメラで撮影した先輩の姿が、そこには何枚も記録されていた。彼女の笑顔の軌跡を追うたび、感傷が胸を裂くように暴れまわり、まるで今もその笑顔の隣に自分がいるような気がして、胃が空っぽになったような不調を感じた。春に喫茶店で撮った気取った顔から、夏の儚い笑顔を辿って、紅葉を背景にしてロープウェイに揺られる写真へたどり着き、僕はアルバムを閉じた。

 そういえば、海で泳いだことはなかった。カメラは大事にしなさい、と水着を見る機会を与えられなかった。下着も裸も見たことがあるのに、水着を見ることはなかったなんて。やたらと滑稽な気分になった。彼女と別れて二年近く経っても、僕は今だにその姿を鮮明に思い描けてしまう。愛情の意味をお酒とともに注ぎこみ、酩酊させるだけさせて去った樋口さんのことを、すっかりアルコール依存症になった僕は、忘れられずにいた。




「突然で悪いんだけど、この土日、研究所で過ごしてくれるかい?」

 僕は締めきられたカーテンに伸ばした手を止めて、ホワイトスクリーンにフック棒を引っかける吾田へと振り返った。ベージュのドレープカーテンの隙間から漏れる昼下がりの日光に照らされて、オーバーサイズのダブルジャケットを彩る緑色が目についた。彼は引き下ろしたスクリーンの下端にフックを引っかけて、こちらを振り向く。その視線がこちらをとらえる前に、茫然としていた自分に気がつき、慌ててカーテンを開けた。飛び込んできた日光にもともと悪い吾田の目つきが、輪をかけて鋭くなった。

「泊まるのは構いませんけど、急ですね。着替えとかありますか。あと、お風呂も」

「話が早くて助かるよ。研究所には洗濯機しかないけど、市内にコンビニがあるから大丈夫。後で送ってくよ。お風呂はシャワーしかないけど、それで我慢してもらえるかい」

 それは問題ない。一人暮らしを始めてから、浴槽なんてほとんど使っていなかった。

「そうか、森崎くんも大学生だもんな。浴槽なんかめったに入らないか。お金かかるし。――そうそう、お金といえば宿泊は夜間手当がつくよ。君の日給はコアタイム八時から十七時までの計算だから、それを超えたり深夜の業務となると二十五パーセント付加されるんだ」

 おどけたように吾田が笑った。ほとんど一月ぶりだというのに、こうも前回から態度の変わらない人間を、僕は初めて見たかもしれなかった。

 タッセルでカーテンをまとめると、窓ガラスの表面を伝って海の音が聞こえてきた。海まで百メートルもないのだから届いてもおかしくないが、この前は気にかけてもいなかった。林と海のちょうど境界にあるこの施設は、たしかに本を読むには最適の場所かもしれない。少女の水彩画のような儚さも、より美しく映えるというものだ。

「なぜ急にこんな話をしたかというとね、北畝ちゃんと、コミュニケーションを図ってほしいんだ。鯨音の患者同士、というのもそうだけど、ここには、年齢的にも距離的にも気軽な相談相手がいないからね。大人には話せないことって、あの子くらいの年頃だとあるものだろう?」

「そういうのを探られること自体、ああいう子は迷惑に感じると思いますけど」

「そこは君の実力次第さ。まだ学校にいるけど、夜になったら泊まりに来ると思うから、ぜひよろしく」

「はあ、善処はしますけど……」

 公務員の指示で高校生を夜に連れ回すのは如何なものだろうか。未成年者の深夜労働なんて、国が厳に監視している分野だろうに。ただ、吾田は僕の言わんとするところを見誤ったようで、あきれたように眉尻を下げた。

「もちろん、夜勤と警備の人が施設にいるから、さすがに男女ひとつ屋根の下で二人きりになんて状況にはならないよ」

「それは心配していただかなくて結構です」

「……まあ、新しい恋を始められるなら、そもそもここには来ていなかったか」

 吾田が射るような視線を飛ばす。それは事情を知っているがゆえの牽制でもあり、信頼でもあった。その期待を遮るように目をそらして、僕は長机に並んだパイプ椅子の一つに腰かけた。僕は言い返すような立場にないし、その必要もない。脅迫のごとく発せられた確信は事実だからだ。僕が北畝に手を出すことは絶対にないのだ。

 ――誰かを愛するなんて、その喪失を経験していればおいそれと手を出せるものではなくなる。少なくとも、僕はもう誰にも深入りしたく ない。人生を賭けるなんてまっさらごめんだ。

「だから、その辺は心配していないよ。君も分別ある大人だろうしね。――さて、ちょっと時間がかかったけど、本題に戻ろうか。この前は時間がなくて簡潔にしか説明できなかったから、今日は我々の活動について説明させてもらうよ。郵送した資料は読んでくれたかい?」

「五十二ヘルツの鯨が大融解を引き起こして、その個体が見つかっていないという話までは。なんとかクジラの一個体なんじゃないか、ってはないでしたよね」

「オゼビクジラの話はもうしてたか。そう、そのオゼビクジラが問題でね。十二年前に発見されて以降、生態の解明が試みられて、多くのことが判明した。それでもなお、未知のことだらけさ。潜水時間が極めて長いせいでプロジェクタイル式の生体検査は通用しないし、海底面ぎりぎりを擦るような潜水深度だから、写真識別しようにも目測じゃ船が追いつかない。衛星テレメトリーも同様の理由で厳しい。生息範囲が全海洋にわたっているせいで、調査費用もバカにならない。頭が痛くなるね」

 持参した資料をめくると、いま吾田が述べた内容が資料付きで記されている。つまりは、ずっと潜っているから観測も、まして外皮などの採取も難しいということだ。オゼビクジラが発見されるまでの最長潜水記録はハクジラ類に属するアカボウクジラの一三七分だったそうだが、オゼビクジラは優に三時間も潜っていられるという。一日の八分の一をも海上で油を売るのもつらいが、どこに浮上してくるかわからないとくれば尚更だろう。気が遠くなるようなモグラたたきだ。

「成体は体長二十五メートル以上にもなるから、見つけやすいはずなんだけどね……、なにぶん海は広く、深い。アクティブにソナーを打たないと見つけられないんだ。それだって、三時間も追いかけると彼らのストレスになるから休み休み継続する必要がある。その辺は日鯨研の業務だけど。――この研究所の仕事はソナーの解析で、各地に敷設したソノブイから送られてきた音源に五十二ヘルツのクジラのものが含まれていないかを調査しているわけだ。ほんとはもっと広い分野で海洋研究をするわけなんだけど、僕が管轄役になってからは鯨だけに注力してる。目くじら立てられてるかもね」

 上手いことを言ったような顔をする吾田。思わず愛想笑いが漏れる。

 日本鯨類研究所の報告書は、資料にも載せられていた。オゼビクジラの体長や遺伝情報はナガスクジラ科のそれに近いこと。一方で、その生態やソングはザトウクジラに酷似しており、両種のミックスのような特徴が散見されること。ライオンと虎のミックスであるライガーのような異種交雑は、鯨類においてもみられるらしい。ただし、それらは基本的に同属内において行われるのが一般的だというから、オゼビはやや特殊な成立ちを持つのかもしれない。

「ソングがザトウクジラのそれであるというところが最も不可解なんだ。基本的に、同一種内のソングは似る傾向があるから、仮に五十二ヘルツのクジラがオゼビなら、他のオゼビがザトウクジラのソングなんて奏でるはずもない。かといって、五十二ヘルツのクジラの回遊パターンや大融解に伴うオゼビの異常行動を無視するわけにもいかないし……。とにかく、わかっていることが少なすぎてね。そこで、君たちが第二のソナーになるわけさ。五十二ヘルツのソングを頭痛の強さとなって感知する若者たち。先日聞いてもらった音源――つまりは大融解を引き起こした元凶だと考えられるソング――が、鯨音と呼ばれるそれなのか。仮にそうであれば、人に固有の感情を与える特有の振動は発声と同一なのか、別の器官で発出させられているのか」

「鯨音が僕に影響しているかはともかく、十二年あっても、遅々として進まないものなんですね」

「飼育できない生物は、どうしても研究に遅れが出るね。それが海となればなおさら金と人が必要になる。シャチだって戦後から研究が始まって七十年も経つというのに、十年前の資料に今の定説と全く異なる情報が載っているなんてザラさ。ある意味ではフロンティアに立っていられる名誉はあるけどね。――とにかく、彼らが異常行動を起こすとき、五十二ヘルツの鯨が同様の海域にいるかもしれないという推測しか、僕らには立てることができない」

 資料には例の集団スパイホップの写真が載っていた。海上に頭だけを突き出し、天を仰ぐクジラの群れ。異質な光景だ。

 海。クジラ。その光景が今もなお脳裏を離れない悪夢と結びつこうとして、僕は頭を軽く振った。奇怪な動きをする僕に気をとられた吾田と目が合って、顔を伏せる。

「当面の課題は五十二ヘルツの音源の正体と、もし予想通り鯨だった場合、どうしてソングを奏でているか、原因の究明だ。ソングは求愛のディスプレイなどと呼ばれているが、それにしてはこの五十二ヘルツの音源があまりにも少なすぎる。なにか理由があって奏でていると考える方が合理的――――」

「あの、そろそろ聞いてもいいですか」

 吾田の話を遮った。

「その五十二ヘルツのソングと僕の頭痛に、何の関係があるんですか?」

 単刀直入に切り出した。吾田の再生した音源は、彼にも聞こえていた。世界を揺るがす大事件の鍵が鯨にあるかもしれないという話も、理解はできた。しかし、それが僕に何の関係があるのか、そこだけがつながっていない。引いてはあの北畝という少女がなぜ重宝され、僕をクビにしようとしたのかも。この仕事は、僕でなくともできるのではないか?

「そうだね、森崎くん。君の心配はもっともだ。でもね、この仕事は君にしかできないんだよ」

 まるで本当に気づいていなかったかのように、吾田が片眉を上げた。

「海難事故で恋人を失った、君にしかね」

 気づけば、立ち上がっていた。怒りでも驚きでもない。脊髄反射的に、脚が地面を、手が机を叩きつけていた。顔色一つ変えることなく「落ち着いてくれよ」と諭す目の前の男に、内心空っぽになっている自分に気づいて、いそいそと座り込んだ。

 事情を把握されていると、知っていた。だからこそこの仕事を引き受けたのだ。しかし他人の口からあの日について語られることが、こんなにも動揺させるとは思わなかった。

「君たちに共通しているのは、海上で一人だけ生き残ったという点さ」

 君たち。その括り方に、引っかからずにはいられなかった。その言い方は、まるで――。

「ああ、そうだ。北畝遥は、海上で両親を失っている。それも、彼女がこの世に生を受ける以前、まだ母胎にいた頃に」

 吾田は抑揚のない声で、感情を抑えるように呟いた。生徒会長が卒業式で答辞を読んでいるような、そんな気持ちの抑え方だった。

「沖合で停止したボート上で、夫婦が不審死しているのが確認された。理由は不明だが、大融解の被害者と同様、大脳周縁系が壊死していた。ただ、母体の子宮からは出産間近の赤子が見つかり、彼女だけは一命をとりとめた。無事に誕生した少女は、幼少期から原因不明の頭痛と耳鳴りを定期的に訴えた。ここまでは彼女自身の疾患でしかなかった。しかし、別の事例が現れた。同じく海難事故で恋人をなくした君にも、頭痛と耳鳴りの症状が見られた。ここで一つの仮定が生まれるわけだよ。君たちの頭痛は、事故の残滓だ。五十二ヘルツのソングを聞きながら生き残ることができた、イレギュラー」

「僕は、鯨の鳴き声なんて聞いてませんけど」

「北畝ちゃんも聞いた覚えがないというから、たしかにクジラの鳴き声が原因かは分からない。ただ、君の事故は鯨に関係があるだろう? 可能性はある」

「だから、君なんだ」念を押すように吾田が語気を強めた。

「君たちが一番深く、五十二ヘルツのクジラと繋がっている。君たちの耳鳴りが何を意味しているのか、それを理解すれば、多少は目的がつかめるかもしれない。だから、君が必要なんだ」

 突き放すように、業務的な口調で淡々と告げた吾田が、寂しさを含んだ笑みを浮かべた。

「北畝ちゃんと仲良くしてやっておくれ。君ならきっと、彼女のことを分かってあげられる」

 自分をその勘定に入れていないような口調だった。そこに深入りするべきか迷って、僕は部屋を出ていくその背中を静かに見送った。



 夜が更け、吾田に送られてきた北畝は僕を見るなり、「うわ……」と声を漏らした。事前に吾田から話があっただろうに、ご丁寧なことだ。着ているセーラー服よりも、時期の早いマフラーに挟み込まれた髪が学生らしく感じた。北畝は彼にぺこりと一礼だけしてさっさと階段の方へ向かってしまう。どこか他人行儀な少女だ。

 吾田をエントランスで見送って、少女の後を追って居室代わりの会議室に向かった。与えられた個室はだだっ広いが、一つしかない正規の休憩室は夜勤職員が使うことになっていた。

 ついさっきまで食べていたコンビニのおにぎりのごみをレジ袋に入れて、口を縛る。備え付けのくずかごは生ものを捨てることが禁止されているので、明日の朝に食堂へ持っていく手はずになっていた。ごみ袋のようなものは持っていなかったが、北畝も学校終わりに来たというのだから飛行機の前後で食べて来たのだろう。彼女がいるはずの隣の会議室からは物音ひとつしない。それはこの部屋も同様だった。

 本当に夜をここで過ごすだけなのか。

 見ず知らずの建物、それも公共施設に泊まるという体験はいくつになってもワクワクするものだが、こうも寂しくては面白くなかった。北畝は普段、こんなところに泊まって何をしているのだろう。携帯をいじる以外にすることがない。大学の図書館ならともかく、ここでは僕が勝手知ったる物など何一つないのだ。コンビニで小説でも一冊買ってくればよかった。

 いよいよ暇が極限を突破したので、カーテンと窓を開けてみることにした。海の音を聞けばもの寂しさも紛れるだろう。からりと開けた窓の隙間から、想像を絶するほどの波音とむせかえるような潮の匂いが夜の海風にのって部屋へと吹き込んできた。新潟のアパートも海まで十五分とかからなかったが、全く異質だ。昼のなだらかな風とは打って変わり、下手をすれば波しぶきまで部屋に入ってきそうだ。風にまくられるカーテンの隙間から空を見上げると、夜空には点々と撒き散らされた金平糖のような星が見える。研究所の明るさによる光害はすさまじいものだろうと思っていたが、そうでもないようだ。あるいは周囲が暗すぎて、この施設だけでは霞ませられないほどに星の明るさが一層際立っているのか。

 生まれてこの方、光害の強い地区でしか生きてこなかったから、その宝石を振りまいたような星空は全く別物に見えた。

 宇宙の奥行きが見える。初めて液晶テレビから有機ELに切り替えた時のような深い黒が空全体に広がっていた。星の一粒一粒が手に取れるような――――。

「あの、窓開けないでください」

 舌先まで心臓が飛び出たような気分だった。飛び跳ねるようにして振り向くと、動きの騒がしい僕に対して怪訝な目つきをした北畝の姿があった。先ほどのセーラー服ではない。学校指定なのだろうジャージ姿だった。首にかけた白いヘッドフォンが濡れ羽のような黒髪と紺色の布地の間で輝き、ややオーバーサイズだというのに、――あるいは、ゆえか――衣服にできたしわで着用者の体型が浮き立って見えた。

「……こんばんは。できれば音を立てて入ってきてくれるとありがたい、んだけど」

「屋内設備が錆びるので」

 僕の言葉など聞こえなかったかのように、北畝は法外な返答をした。ただ、彼女の指摘に従わず言外に責めてさえいるような返答をした僕に間違いなく非があった。

「――ああ、窓。悪いね」

 しどろもどろになりつつぱたりと窓を閉じた僕を見て、北畝はくるりと踵を返した。文句を言いに来ただけだったのか、彼女はすたすたと出口の方へ向かった。親睦を深めるために世間話でもしようかと思ったが、北畝は引き止められたくないだろうし、僕も女子高生の寝間着――なのかはともかくラフな――姿を見るのは罰が悪かったので、引き留めないでおくことにした。

「――――あの、」

 しかし、ドアの付近で立ち止まった北畝は、再度僕の方に振り返った。

「星、見に行かないんですか?」

「ほし?」

 思わずフリーズしてしまった。星とは、先ほどまで見ていたこの夜空のことだろうか。

「星を見てたんじゃないんですか?」

 その通りなのだが、だから何だというのだろう。僕のことなど視界にも入れたくないといった様子の北畝が、まさか僕を誘ってくれているのだろうか。僕の動揺は彼女にも敏感に伝わったらしく、北畝は面倒そうに眉をひそめて、これ見よがしにため息をついた。

「窓を開けないでほしいだけであって、見るなとは言ってませんよ。外で見ればいいじゃないですか」

 そう言って彼女は部屋を出ていった。

 ――ああ、たしかに彼女は「一緒に見ましょう」などとは言っていなかった。

 屋上なり港なり見る場所ならあるだろと、そう教えてくれたのだろう。気を許されたつもりになって、なにをボケたことを考えていたのだろう。僕は己の早とちりを恥じながら、彼女に続いて出口へと向かった。

「研究所から出なければ移動は自由です。駐車場へ行きましょう」

 そしてそれが早とちりで無いとも、すぐに気づいた。施設出口でスニーカーに履き替えた北畝は後ろを振り返ることなく、まるで施設案内でもしているかのように淡々と行程を進行していた。疑問の声を上げることだけは絶対にしてはならないと直感が訴えてきて、僕はその後を黙ってついていった。会話はなく、彼女の一挙手一投足を捉えようとする緊張感が、誤って施設のにおいと静けさばかり敏感に知覚へ届けてきた。

「これ、どうぞ」

 靴を遅れて履きはじめた僕に、一足先に出ていた北畝が出口の自販機で買ったらしき缶コーヒーを差し出してくる。このあたりであまりの気遣いに寒気すらしてきたのだが、意図を聞くことなどできようはずもなかった。

 ――ただ、結局はその缶コーヒーを受け取ることはできなかった。

「…………あぁ、ありがとう」

 半月前のスーパーでの出来事がフラッシュバックした。お互いに端っこを握り合うとはいえ、何かの拍子に触れないとも限らない。そうなったらアルコールを持たない今の僕に逃げ場はなくなる。

「靴ひもを結びたいから、隣に置いてもらえるかい」

「いらないなら、別にいいです」

「いや、いただくよ。ちょうどのどが渇いてたところだったんだ」

 北畝はまた怪訝そうな顔で僕の座っている隣に缶を置いた。あまりに無理のある拒否だっただろうか。

 彼女は自分の缶コーヒーで手を温めながら、先に屋外へと出て行ってしまう。ポケットから取り出したアンドロイド製のスマートフォンで通話を始めた相手は、吾田か警備員だろうか。液晶に照らされた横顔は、そのヘッドフォンに負けないほど白く透き通っていた。

 適当な頃合いで屋外に出ると、まだ北畝は電話中だった。やはり相手は研究所の人間で、外出の連絡をしているようだった。とても高校生とは思えない、事務的で落ち着いた口調だった。

「お待たせした」扉を開けた僕に、北畝は「いえ、別に」と短く答えた。

「施設のはす向かいにある駐車場へ向かいます。ここは建物に囲まれていて見づらいので」

「わざわざ連れ出してくれてありがとう。この辺りはお気に入りのスポットだったりするのかい」

「変な勘違いしないでください。窓を開けられると困るから教えているだけですよ。迷惑してはいます」

 そう言いつつも、彼女は案内を続けてくれるようだった。

 主要通路を跨ぐと、施設の大きさを改めて実感する。大型トレーラーがすれ違えるように作られたのだろう規格の車道は、並みの高速道路よりも広いように思えた。機材を運搬するためだろうか。子供の頃訪れた自衛隊の航空祭で、こんな広い道を通った気はする。

「つきました。ここです」

 北畝が黙々と案内してくれたその場所は、予想を外れないというか、ロープを均等に貼っただけの野原だった。おそらく来館者が利用する第二駐車場なのだろうが、砂利と刈り取られた雑草、あとはトラロープの巻かれたペグが所々に刺さっている以外、何の手も施されていなかった。

「さすがに寝転がれるほどきれいではないので、すわりましょう」

 北畝は石の少なそうなところを見つけると、軽く靴で地面を均したあと、指で地面をさわって湿り気を確認して僕を手まねいた。

「どうぞ、ここなら綺麗に見えますよ」

 彼女の指示に戸惑うこともできず、僕は指定された場所に腰を下ろした。彼女が薦めた通り、地面は乾いており服の汚れの考慮は最低限で済みそうだった。それよりもわずか二十センチほどの距離に座り込んだ北畝の存在が僕の心を騒がせた。意図を推し量ろうと横目で見ると、こちらをじっと見ていた北畝と目が合う。

「どこ見てるんですか。空を見てくださいよ、ほら」

 緊張を見透かしたようなため息混じりの声に、彼女の白く細い指を追うと、無限遠のピントが即座にその指の先へと合った。

「……すごいな」

 頭上には満天の星空が広がっていた。黒い絨毯に砂糖をこぼしてしまったかのように、ぱらぱらと輝く光の粒たちは、色とりどりの宝石のようだった。先ほど研究所の中から見た時よりもいっそう、黒と光のコントラストが夜空というスクリーン上で明瞭に映し出されていた。

 星の輝きを瞬きと表現した人は天才だろう。それが人間の知覚機能に由来した現象だとしても、星は確かにそこで瞬いているのだから。

「新潟の海辺でも、こんなに綺麗には見えなかった」

 ほとんど見ず知らずの、それも自分を嫌っているはずの女子と二人で夜空を眺めているという光景に我を忘れて、半ば自然に北畝に話しかけていた。ただ、北畝もそれは同じだったようで、フラットなトーンで「そうですね」とつぶやく。

「どうしても中央区の光害が凄まじいですから。弥彦山の頂上とか、村上や魚沼くらいまで行けばこれくらい綺麗に見えますよ。天候が荒れてなくてよかったですね。風が強い日だとこの辺りまで波しぶきが飛んできますから」

「北畝は星が好きなのか?」

「落ちつくんです。海といっしょで」

 やたらロマンチックなその言葉に北畝の顔へ視線を移すと、彼女はジャージのポケットからなにやらごそごそと取り出していた。引っ張られたズボンの裾と白いスニーカーに浮き出た黒いくるぶしソックスとの間に覗く白肌が目を引いた。

「これ、聞いてください」

 慌てて顔をあげると、北畝はポケットからポータブルオーディオを取り出していた。電源をつけてカチ、カチと何度か操作をした後、ジャージの裾でイヤーピースを拭いてからこちらに差し出してきた。

「どうぞ、汚いかもしれませんが」

「いや、お借りするよ」

 こちらこそ女子高生のイヤホンなんか耳に突っ込んでもいいのだろうかと躊躇する。おずおずとつまむように受け取り、耳の輪郭に引っかけるように耳に入れた。北畝はもう片方を自分の耳に装着すると、プレーヤーの再生ボタンを押した。

「再生しますね」

 ブツッ、と短くなにかが途切れる音がしてから、聞いたことのある音楽が流れる。

「これって、大融解のときのソングだろう?」

「ええ、先日あなたが聞いたものとは違う音源です。前回と聞き比べてみて、どうですか?」

「どうって……」

 やはり特別なにか強い情動は感じられない。頭痛や体調に不調をきたすわけでもなく、ただ懐かしさを覚えるだけだ。真綿で首を絞めるような温かい痛み。入道雲が立ち上る夏の山間を思い起こさせる、どこかで経験したような記憶。つい最近同様の経験をした気もするし、それは遥か昔のことだったような気もする。

「悪い、やっぱり懐かしい以外の気持ちはないよ。どこかで聞いた気もするけれど、思い出せなくて――」

「――懐かしさ、ですか。それはどんな?」

 僕の謝罪をかき消すように、北畝がぐいと顔を近づけてきた。そのクイズの答えを待つ子供のような純朴さは油となって僕の唇に塗りたくられ、ついでに舌まで滑らせた。僕ははじめてソングを聞いたときに感じたことを、記憶のかぎり漏れなく伝えた。北畝は口を挟むことなく、視線と相づちだけで話を進めた。

「やっぱり、感情が関係しているんですね」

 僕が話しきると、北畝はなにやら慎重な面持ちでぽつりと呟いた。

「えっと、僕のは大して参考にならないというか――」

「あなたの感じる懐かしさは、二つあるということですよね」

 北畝の言葉を咀嚼していると、ようやく理解できた。ソングを聞いて感じる懐かしさには、頭痛同様に二種類存在している。一つは、そもそものソングに対する懐かしさだ。どこかで聞いたような声だと感じる、脳的な懐かしさ。もう一つは、見たこともない景色に親しみを覚えるような心の懐かしさだ。未知の既視感とも呼ぶべき感覚。

「あぁ、たしかに。言われるまで気づかなかった」

「じゃあやっぱり、あなたもクジラに感情を刺激されてはいるわけですね」

「まあ、そうなるのか、な……」

 懐かしさを喜怒哀楽の感情に分別することは至難の業だ。ノスタルジーのほろ苦さと比較して肯定的な感情だと言われるけど、鯨音を聞いている時の感覚には郷愁も混じっていて、悲喜こもごもなのだ。

 ……とにかく、これで僕は認めてもらえたのだろうか。いったいどの部分が彼女の琴線に触れたのかは不明だが。

「ところで、なんで感情がそんなに大事なんだ? 音に感情を刺激されるなんて、全くありえないことじゃない。久石譲のsummerを聞いてたって、夏を思い浮かべるだろ。それとも、北畝もなにか感じるのか?」

「あなたにとっては懐かしさを想起する、というのがネックなんですよ」北畝がどこか遠い目でボソッとつぶやく。「懐かしさ?」と問う僕を、北畝は遮るように咳払いをした。

「とにかく、鯨音は感情に関連している。ここは揺るがない事実と考えられます」

「鯨音とやらが感情に作用するのが事実だとしても、それをクジラが意図的に起こしているというのは、突拍子がないように感じるけど」

 動物がなにを目的にわざわざ人類とコミュニケーションなんて取るのだろう。他のクジラと話せないから? そんな理由で選ぶなら人類が相手でなくてもいいはずだ。

「私、思うんですよ。私たちに感情の波を届けられる五十二ヘルツのクジラも、また同様に人間から感情を受け取ってるんじゃないか、って。現代人のストレスは第一次世界大戦の兵士並みだといいます。仲間の声は届かず、聞こえる声は悲鳴ばかり。それを慰めようとして、彼は鳴いているんじゃないかって」

「……仮説の有効性は?」

「ありません。ただ、鯨音が感情を伴う現象である以上、否定できない仮説ではあるはずです」

 否定できない、か。たしかにありえないと断言はできない。でもそれは、明日地球が突然爆発すると予言するくらいの妄言だ。エンジニアが技術的には可能と言うようなもので、本来は鼻で笑うような代物だ。

「吾田の言っていたことは、君が発端なのか。観測不能なものを暫定するのはいい。だけど、症例は僕たちたったふたりだけ。それじゃあ証明にはならない。それに、そのクジラがなにを理由に鳴いているとしても、僕らに被害を及ぼすという事実は変わらない」

「私たちにずっと声を届けてくれる存在ですよ。対話を模索できます」

「その声を聞いたら人は死ぬのに?」

「……ずいぶん、彼を嫌っているんですね」

 北畝は立ち上がると、むっとしたように視線を投げ掛けた。まるで僕が差別主義を声高に吹聴してるかのような反応だった。だけど、大融解が仮に五十二ヘルツのクジラによって引き起こされている現象だとするならば、そんな存在と声を交わすなんてのは自殺行為に他ならないはずだ。

 ――それに、僕にとってクジラという生物は、どうにも天災に近いものを感じざるを得ない。

「対話をしようなんて、思えるはずもない。事情は聞いているんだろ」

「……事情?」

 まさか、聞いていないのだろうか。クジラの女王になら何でも伝えていそうなものだったが、吾田も他人の過去をおいそれとばら撒いたりはしないのか。

「まあ、とにかく。そのクジラがどんな秘密を抱えているにせよ、駆除するべきだと僕は思う。それが無知なまま命を脅かされている人類のためであり、頭痛に悩む僕たちのためでもある」

「……そう、ですか」

 北畝は失望したように目を伏せ、小さく息を吐いてからイヤホンを外した。僕もケーブル部分を持って差し出す。北畝はイヤホン部分をつまんで受け取り、無愛想にポケットへ突っ込むと、すっと立ち上がった。

「消灯時間があるので、そろそろ戻りましょう」

「あぁ、今日はありがとう」

 来たときよりもずっと早い足取りで前を歩く北畝の背を、足音を消して追いかけた。会議室へつくまでの間、僕たちの間には気まずい沈黙が流れた。あるいは、それは僕だけが感じていたのかもしれないけれど。

 ただ、自室のドアを開けた彼女は、一度だけ振り向き、同じくノブに手をかけた僕を見つめた。

「……やはり偽物です、あなたは」

 それをおやすみの代わりにして、北畝は隣の部屋へと消えていった。



 翌朝、北畝は昨夜の気さくさなどなかったかのように、自然な態度に戻っていた。僕と椅子二つ分の距離を開けて座り、職員が僕と彼女を引き合わせて会話をさせようとすると、嫌悪感を露にした。昨夜の一件でなにか地雷を踏んだのだろうと、容易に推測できた。彼女の見慣れない私服にコメントもできず、僕は一定の距離感を保つように心がけた。

 午後を回り、天井を眺めるのも飽きて会議室を出ると、隣の部屋の鍵がしまる音がした。

 昨夜もそうだが、お風呂に入る時も含めて彼女は僕に存在を関知されたくないようだった。静かにドアを開け、足音を消し、用がないときは鍵をしめていた。拒絶ではなく、忌避するかのようだった。

 彼女が昨夜別れ際にいった偽物とは、何を指すのだろうか。彼女にとって当然の要素が僕からは欠落しているのだろうか。鯨音を聞く者として、僕は贋作たりうる不足を有している?

 トイレを済ましたついでに研究所を徘徊していると、食堂の片隅に人影が見えた。その内の一人と目があって、なんともいえない気まずさを覚えた。僕はこの施設でもっとも赤の他人に近いのだ。通り過ぎようとすると、ちょいちょいと手招きされて、食堂に呼び込まれる。

 呼んだのは研究員の紅一点、深沢だった。唯一の女性研究員だったのでよく覚えていた。バスケ部を思わせる短く切り揃えられたショートカットと、コントラストのはっきりした化粧が特徴的だ。すれ違いざまに挨拶をするくらいしか交流はなかったはずだが、ずいぶんとフレンドリーな人らしい。

 小さく頭を下げて部屋に入ると、もう一人は井之下だった。身長が一九〇センチもある巨漢で、一五五センチほどの深沢とならんで座っていると、親戚の子供を預かっているかのようだ。

 深沢は座ったまま腕だけ伸ばし、手近なラウンドテーブルの椅子を引ったくり、僕に座るよう促した。「飴しかないけどお食べよ」と机上の紙箱を指差す。

 飴を一つつまみながら椅子に腰かけると、「それで」と深沢が白衣に包まれた肘をついた。ひし形の光が目元で輝いているのが視えるほど、彼女の瞳には爛々と好奇心が満ちていた。

「北畝ちゃんとは仲良くなれた?」

 予想通りの質問だった。

「……それがまったく」正直に返答する。

「取りつく島もないですよ。顔見るとすぐ逃げていきますし」

 昨夜の天体観測を加味しても、現状北畝との間に深い溝があることは間違いない。それどころか彼女を不快にさせたらしき僕は、現時点で初対面より低い評価を受けている可能性すらあった。

「森崎くんも撃沈かぁ。これでほぼ全滅だね」

「……まるで皆さんも同じかのような言い方ですね」

「まさしくその通りだよ。特に男性陣なんか歯牙にもかからない。アクリル板越しに話してる気分さ」

 井之下が自嘲を混じえた呆れ顔を浮かべる。

「この研究所の人は付き合い長いんですよね。それでもあんな感じなんですか」

「それなりに話す時間はあるけどね。もともと知り合いだった清二くん以外には、あんな感じだよ」

 清二。わずかに思考が停止して、それが吾田を指していることに思い至った。それと同時に新たな疑問符が脳内にポップアップする。

「北畝がこのプロジェクトに参加して、吾田さんはその立案者なんじゃ」

「ああ、それは順序が逆かな。北畝ちゃんがプロジェクトに参加する数年前から、清二くんはここの担当なんだよ。その清二くんがある日連れてきた子が北畝ちゃん」

「『この子を軸に研究方針を立てようと思う』なんて言い出したときは、みんなで彼の正気を疑ったね。当然、反感も多かったし、それは所長の宮古野さんもそうだった。人類を救う鍵が一人の女子中学生だなんて、主張するほうがどうかしてる」

 井之下が深沢にかぶせるようにして、手のひらを振った。呆れたような動作だが、彼らはその文言に従って今までやってきたわけだ。僕の疑問符が思ったより目立ったのか、その意図を察した深沢が笑った。

「実は、大融解の調査を政府が決定したときね、神奈川に予算と人員が集中して私たちは半ば放置されたんだよ。通常業務をやっていればいいんだ、ってさ。そのくせ日々手掛かりになりそうな事象を探せってお達しが出て、本当に大変だった」

「でも、北畝さんが来て、鯨音の仮設検証っていう一つの方針のもと研究ができるようになった。海洋研究は業務と一緒くたになって行われるから、ちゃんと名目を得て研究できることはすごくうれしいのさ」

 二人の口調からは、吾田への積み重なった信頼が垣間見えた。この研究所において、彼の存在は間違いなく重要なパーツとして構成されているようだった。――そもそも内閣の危機防衛をあの若さで任されるなど逸材のはずか。この施設とて、普通に生きていれば中を見る機会もない。

 だからこそ、あのように厳重な警備が敷かれているわけで――――、

「そういえば、この施設で昔なにかあったんですか?」

「なにか、っていうのは?」

「いえ、僕が世間知らずなだけだと思いますけど、この施設の警備はやけに厳重だなと思って。こういう施設って、顔パスで通れたりしないんですか。吾田さんは何が起きたか教えてくれませんでした」

 なぜ吾田が乗り気ではなかったか、正直よく分からなかった。ただ、深沢と井之下が彼と同じ反応をするのを見て、それが思い出したくはない出来事なのだと察した。 

「……うーん、それは気にしない方がいいよ。もう起きないと思うから」

 消極的な深沢の返答は、喉に引っかかるものだった。起きないと思う?

 不明瞭な返答だった。セキュリティに関係することなら、起きないなんて断言はできないはずだ。

「誰も語ろうとしないなら、そういうことだよ」

 井之下が子供を諭すようにそう言い、気にしなくていいとばかりに手をひらひらと振った。それが解散の合図である気がして、僕は「それもそうですね」と納得した顔で席を立った。

 自室に帰ってからスマートフォンで周辺の事件を検索してみたが、関連しそうな出来事はなに一つなかった。どころか、むつ研究所に関わる記事は不自然なほど少ないように思えた。それはつまり、何事も起きていないか、公表できない何事かが発生したかのどちらかだった。

 その夜、会議室の前で北畝とすれ違ったが、彼女はぴたと合った目を露骨にそらすだけだった。

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