どうしようもない邂逅

 買い出しを終えて眠りにつき、短針が四つほど進んだ時間に起きた。日が出てから眠れば太陽が顔を照らそうと正午まで眠るのが僕なのだが、どうしたことだろうか。己の体内時計の狂いに首を傾げるも、目が覚めてしまった以上は、水分補給と排尿くらいは済ませなければならない。倦怠感の残る身体を起こし、起き抜けに水道水を飲もうと戸棚を開いた。しかし、百均で買った陶器のコップはあいにくどれもシンクに出張中だった。スポンジを手に取るのも億劫で歯磨き用のコップに水を注いで一口に呷る。水道水特有の生臭さは意識しないようにしていたが、コップの底にたまった水汚れが口内で生ぬるさを感じさせて、たまらず最後の一口は吐き出した。いま口にしていた全てが汚泥だったかのような不快感を覚えて、僕は今度こそうがいをするために水を注いだ。

 蛇口の栓をキュッと閉めた頃、ドアがノックされた。数秒して、インターホンが鳴る。

 ああ、起きたのはこれだったか。気づくより早く、酒が頭の中で暴れまわった。起こされたと分かった途端にこれなのだから、認識とは身勝手なものだ。その痛みに背中を押されるように、誰だか知らないがこんな朝早くに非常識だろう、という苛立ちが僕の足をドアへと進ませる。ドアスコープを覗くこともせず、鍵を外して扉を押し開けた。

「こんにちは。森崎千里くんでよかったかな?」

「……どちら様ですか」

 久しぶりの来客は、しかし見知らぬ男性だった。

 タイトなスーツにロクヨンでかき上げられた前髪は訪問営業を想起させるが、人を殺してきたかのような目つきの悪さに、商品を売りつけてやろうといった計算はない。顧客という一単位ではなく、僕という特定の個人をまっすぐ見つめるその視線に、以前来た警察官の姿が重なった。公務員に訪問されるような生活を送っていた覚えはないのだが、税金の免除申請でも出し忘れたのだろうか。いや、書類には毎日目を通しているつもりだ。大学職員か?

 頭痛を抑えながらそんな推測をする寝間着姿の僕を、男は無遠慮に見つめていた。まるで顔写真と背格好を照合しているかのようで、やはりそれは犯人の特徴が僕と類似していると高圧的に迫ってきた警官の姿を想起させるのだった。

「あの、なにか僕に用ですか」

 酒焼けしているのもあって、口からは想定していたより刺々しい口調が飛び出した。実際、彼には肯定的な感情を抱いていなかったのかもしれない。男の清潔感は、酒で頭を痛めた惨めな僕の現状を浮き立たせているように感じた。

「あぁ、突然申し訳ない。私は吾田清二というものでね。臨時に発足した内閣府危機対応チームの管理下で海洋生物の研究をしているんだけど」

「内閣……?」

 聞き慣れない単語が耳に入ってきたので、復唱してしまう。内閣とは、あの内閣だろうか。

「君が森崎千里くんで合ってるかな」

「えぇ、まあ。おそらくは……」

 おそらくは、ではない。この周辺で僕以外に森崎千里などいるはずもない。ただ、男の用件があるという森崎千里が僕であるかと問われると、簡単に頷けもしなかった。

 打って変わって、今度は僕が男を眺めることになった。ただ、実際それはほとんど無意味な試みだった。審美眼が養われるような環境に僕は育っていない。ノータックのスラックスについたセンタープレスが薄くなっていることだけが、彼がそう頻繁にスーツを買い替えるような人間ではないとだけ示していた。

 吾田と名乗る男はその不躾な視線に嫌な顔一つせず、胸の内ポケットに右手を突っ込んだ。「こちらを」手慣れた動きで差し出されたのは長方形の白いカードだった。名刺だろう。目立つ装飾もなく、フォントとロゴだけが寂しげにあしらわれている。

 ……こんなもの、いくらでも偽造が可能なご時世だ。わざわざ名刺を渡されたことで、むしろ男への不信感が募る。

 そもそも、海洋生物に危機対応チームとはどういうことだろう。『海の底』でもあるまいに、巨大な甲殻類が住民でも襲うのだろうか。

 ――馬鹿馬鹿しい。わざとらしく怪訝な顔で身を引いてドアを閉めようとしたが、吾田が革靴の先を差し込んだせいで、それは失敗した。躊躇なく突っ込まれたビジネスシューズの悲鳴が聞こえるようで、居たたまれなく再度ドアを開く。

「話だけでも聞いてくれよ。私がここに来たのは、森崎くんに協力を仰ぐためなんだ。治験アルバイト、みたいなものに協力してほしくてね」

「アルバイトって、国家が個人に業務を委託しに自宅までやってきたと?」

「そのあたりは、ほら、順を追って説明するよ。まずは君の意思確認をさせてもらいたい。興味はあるかい?」

 意思も何も、業務内容が欠片として知らされていないのに、何を承諾すればいいのだろう。書面を提示し、業務と報酬を告げ、そこから意思を確認する。行政どころか、友人同士のお手伝いだってそれくらいはやるものだ。言質を取った瞬間に何をさせられるか、わかったものではない。

 ――しかし、彼は僕のことをよく知っていた。正確には僕自身についてではなく、僕を取り巻く環境についてだが。

「お金のこと、問題だろう?」核心をついたような表情で吾田はこちらに視線を据えた。

「ここ数カ月で貯蓄を随分と切り崩しているね。卒業まで一銭の稼ぎもないと、さすがに困るんじゃないかい。私たちに協力してくれれば、期間中は勤務の有無にかかわらず、日給一万円支給する。研究所までの交通費は全額支給、施設内では食事つき。その他、各種費用も経費として出る。実働時間は日程によって異なるが、ほぼないに等しい。いい条件じゃないかい?」

「……あまりにもホワイトすぎて、肝心の中身が見えてこないのが怪しいんですよ。書面で提示するのが普通じゃないですか」

「君は契約してくれると、確信しているからね」

 何を根拠に。口からため息が出そうになった。僕は国家公務員を名乗る怪しげな男の言葉を信じるほど純粋ではない。僕の経済状況を把握して人質にするくらいなら、その支援から始めてくれたほうが、よほど信頼できた。いくら自称研究者でも、政府の使いっ走りとしての自覚くらいは持ち合わせて然るべきであって、情報の非対称性をかさに着て交渉を迫るなど言語道断だ。

 話すだけ無駄。飛びつきたくなるようなリターンだが、リスクを提示されない以上引き受けることはできない。ドアノブに力を込めた時だった。

「困ってるよね。頭痛」

「……行政のデータベースには何でも載っているんですか?」

 吾田の顔を見つめると、彼は意味深に微笑んだ。

「調査させてもらった。私たちも、対価を払って協力してもらう以上、中途半端な人材は集められないからね。――森崎くん、君の重篤な頭痛は心的外傷による障害だと診断されているね。同様の症例は多数あるけれど、どの病院にかかっても治らず、回復の見込みもない。精神科も通うのをやめてしまっただろう。よくあることだと、誰もが匙を投げたように経過観察を勧める。不定期に声のような高い音が頭痛とともに起き、頭に響いているような感覚がする。心因的なものと関連があるように見えて、直接の関係性は見いだせない。日昼夜問わず、不定期で不規則な痛みが続き、軽微なものから立っていられないほどの吐き気を催す場合まで様々。その発症は、二年前の冬に遡って――」

「――そこまでで結構です」

 ペットボトルの蓋を閉めるように、無理やり吾田の言葉を遮った。彼は自分の発言を省みたのか、「失礼」と首を傾けた。

「アパートの廊下で話すことではなかったね。ただ、これでその名刺が偽物でないことだけは分かってもらえたかと思う」

「えぇ、まあ……」

 僕は渋々肯く。先ほどのやり取りで、彼が公的機関の使者であることに疑いの余地はなくなった。嫌がらせにしては手が込みすぎているし、頭痛については誰にも打ち明けていなかったからだ。友人を心配させるのは申し訳なかったし、自分たちのことで手一杯の実家には頼れない。ゆえに彼が原因まで含めて症状を言い当てた時点で、自然と僕は彼に対してある種の信頼感を抱いてすらいた。

 ただ、彼とその組織がどんな事態に対応しているのか。それだけが疑問のままだった。治験というからには僕の頭痛に関する研究なのだろう。しかし、国家が当面は危険性もなさそうな症例に対策チームを設けてまで対処するだろうか。国家規模で重大な感染症でも流行していれば話しは別だが。

 アルコールがまた頭の中で暴れはじめた。僕はその吐き気を伴う痛みに、実家のガレージの臭いを嗅いだ時のような懐かしさを覚えた。

 いつまでも、酒に頼るわけにもいかない。

「…………やります。その研究、協力しますよ」

「どうも、ありがとう。断られてしまうんじゃないかと戦々恐々してたよ。――これにて私たちはビジネスパートナーだ。よろしく、森崎くん」

 にこりと微笑んだ彼の手は、がっしりとした現場の人間のそれだった。僕は提示された書類の項目を一つずつ丁寧に読み取り、その最下部の署名欄にボールペンと印鑑を捺した。吾田はそれを受け取ると、印鑑がかすれてしまわないよう二枚の白紙の間に挟んで、透明なクリアファイルへと大事そうにしまった。彼は一度咳ばらいをすると、紺色のネクタイをわざとらしく直した。金色の刺繍で海洋生物が縫われたそれに気づいていれば、僕の警戒心もいくらか薄らいでいたかもしれない。

「では、森崎くん。向かおうか」

「……どこにですか?」

「早速だが、実務さ。研究所で顔合わせをしてもらおうと思ってね。大丈夫、今日中には帰ってこれると思うから」

 能天気に言い放つ吾田に唖然とする。目の前の男は断られることなど想定していないように呑気だった。不幸にもというべきか、僕も今日は全休で、それを拒否するだけの理由もなかった。どうせいずれ訪れることになるのだろう。

 分かりました。小さく呟く。



 シャワーだけ浴びて簡単な身支度を済ませ、用意されていたシルバーのセダンに手荷物を積み込んだ。運転席に乗り込んだ吾田に指示されるまま、助手席へ乗り込む。カーナビの目的地は、新潟バイパス自動車道をひた北上し続けて二十分かかる新潟市東区、その新潟空港だった。研究所のある青森県むつ市には飛行機とフェリーを乗り継いでも十時間近くかかるはずだが、どうやら本来は用意されていない新潟~弘前間便を設置し、僅かだが飛ばしているそうだ。行政の特権を無茶に使うことによって、四時間ほどに短縮しているらしい。

 僕は人生で初となる飛行機を、さほど感動もできない状況で経験することになった。

 弘前空港を出ると再度、吾田の運転でむつ市へと向かう予定だった。駐車場に公用車の影はなかったが、代わりに吾田の自家用車が一台ぽつんと置いてあった。オリーブグリーンのジムニーシエラには何を意味するわけでもないオリジナルのステッカーが各所に貼られている。

「狭い車内で悪いね、時々乗る機会があると思うから、悪いが慣れてほしい」

 助手席に乗り込むと、車内にはとってつけたようなカーフレグランスの匂いが充満していた。自然と嫌でないのは、ホワイトムスクの柔らかい香りだからだろうか。

「森崎くんはタバコ吸うかい? 必要ならどこか停めるから外で吸ってほしいな」

 空港を出てから三十分ほど走っていると、不意に喫煙の有無を確認された。「吸わないので、大丈夫です」短く否定する。実際、僕にはそんな嗜好品に手を出すほどの余力はない。金銭的にも、健康的にも。

 ――車内の芳香剤といい、匂いには気を使っていふんだな。

 吾田の手元を覗くと、メーターパネルの下部に女性とのツーショットが貼りつけられていた。首元で束ねた亜麻色のロングヘア―と、快活そうな笑顔が特徴的な二十代くらいの女性だ。彼女か、あるいは奥さんだろうか。擦れていて見づらいが、仲睦まじげな写真だった。

「この車、他に誰か乗るんですか?」婉曲に尋ねた。

「結構な数の人を乗せるよ。北国はやっぱり四駆が安定だから。女性もよく乗るから、煙の臭いは大敵でね」

「その写真の女性も、その一人ですか?」

 道路全体をボーっと見ていた吾田の目が、やや遠くを向いた。思い出を咀嚼するかのように、喉の奥で低く呻る。

「喫煙を許さないという意味では、彼女が一番の理由かもね。というのも、彼女がこの車の持ち主なんだ。臭いをつけないよう、言伝られている」

「そうですか」深い関係を聞くのは野次馬が過ぎたか。反省する。まだ業務も始まっていないうちから面倒な人間だとは思われたくない。吾田もその気配を察したのか、「仕事の話をしようか」と小さく笑った。

「また資料を渡すけど、君たち被験者は、体調や症状の報告なんかが仕事でね。基本はオンラインやメールでのやり取りが基本だ。サボタージュも結構だが、そもそも労働時間が少ないから、やることはやってくれるとありがたい」

「大学も三年目ですから、それくらいの責任は果たしますよ」

「それはなにより。僕は研究所に赴任してる形だから、こっちに住居があってね。新潟でそう頻繁にやり取りはできないんだ。時間さえ合えば空港で拾っていくけど、次回からは原則、バスを乗り継いでもらうことになるかな」

「……結局、僕は何の研究に、なんのために参加するんですか?」

 数少ない症例だということは、今朝の時点で察しがついた。プロフィールや経済環境まで調べあげたのだから、僕個人の患う頭痛に理由があることに疑いはない。しかし、いまだに危機という単語が結びつかなかった。個人の精神・身体疾患ごときが国家に影響を及ぼすのだろうか。職員単独での訪問も含め、さして差し迫った研究だとは思えない。実際に見たい光景ではないけど、映画ではヘリコプターやパトカーがわらわらと集まって迎えに来るものだ。

 しばし吾田は視線をやや上に飛ばし、沈黙を保っていた。それは正しい説明のフローチャートを頭で組み立てている人間の表情で、僕は彼の思考の邪魔をしないよう視線を車外の景色へと戻す。電柱を十本ほど過ぎたころ、吾田は道路標識にあわせて速度を落とし、周囲の交通状況を確認してから僕をルームミラー越しに見つめた。

「大融解って、知ってるかい?」

「……まあ、人並みくらいには。十六年前に起きた、あれですよね」

 大融解。二〇〇三年に東アフリカで発生した感染症と、それに端を欲した情勢不安だ。現地語で『錯乱』を意味するヴェルワリングと名付けられたウイルスは、ヒトにのみ感染し、主に大脳周縁から脳幹にかけて影響を及ぼす。視床下部にある視索前野を暴走させる機能がよく知られていて、体温調節中枢と呼ばれるその部位がウイルスによって正常な機能を阻害されると、一般に三六度前後で保たれている体温のセットポイントが四十五度にまで変化するという。高熱は身体機能を破壊し、感染者は自律神経による不随意反応の変化と同時に知覚機能からのフィードバックが阻害され、血管の拡縮やホルモンの伝達に失敗し、短時間で死に至る。急激に加熱された身体はものの数分で宿主の身体機能を停止させるのだ。

 大融解の恐るべきは、症状じゃない。この危険なウイルスが東アフリカの広範な地域で同時多発的に発生したことだ。感染による機能不全は救急医療の暇もなく――実際には医療者も例外なく発症したため手の施しようがなかったのだが――、瞬く間に死体の山を築き上げた。

「発症に地域ごとの時間差がほとんどないことから、生物兵器だという噂が流れていましたね。子供ながらによく覚えています。半年ほどで収束したと聞いた気がしますけど」

「そうだね。暑さでみんな溶けちゃったともとれるから、大融解。東アフリカ全体で四割もの死者を出したことで、収束したと言われている」

「それが?」

「あの感染症がいまだに収束していないと言ったら、君は信じるかい?」

 ルームミラー越しに隣の吾田を見る。彼は変わらず真意をつかみづらい表情で対向車に視線を飛ばした。

「信じろと言われれば信じますけど、疑うことも容易ですね。収束していないなら、どう管理しているのかという話になります」

「つまりはこういうことさ。――そもそも、実際にはウイルスなんて存在していなかった」

「は?」口からおもわず疑問の声が飛び出して、慌てて取り繕おうとしたが、「気にしなくていい」という笑い声がそれを塞ぐ。自分が陰謀論じみた発言をしている自覚があるのだろう。彼は相変わらずこちらに視線を向けることなく、言葉を続ける。

「検死の結果、遺体からは未知のウイルスなんて発見されなかった。ウイルスに限らず、大量の感染者からは、彼らを殺せそうな寄生者は確認されなかったんだ。ただ一つ、視床下部の異常な融解を除いてね」

「融解? 溶けていたんですか?」

「実際に高熱によってそうなったのかは不明だが、様々な部位の入り混じった該当組織からは凹凸が失われ、大きく肥大化していた。過度なホルモンの流出もこれが原因だろう。写真見るかい?」

「……いえ、遠慮しておきます」こともなげに尋ねてくるが、内臓器官が溶けた様など、見るに堪えないもののはずだ。

「その原因を考えるのが、今回の研究という訳さ。えぇっと、ああ、これだ。この図を見てくれ」

 手渡されたタブレットには、東部から南部にかけてのアフリカの地図が写っていた。黒く塗りつぶされたマダガスカル島を中心に放射状のグラデーションが広がっている。右下には濃度別にピックアップされた色見本が配置され、十段階で十パーセントごとに区切られている。表の最上段には図とは対照的に無機質なフォントで〈国民減少率〉と記されていた。

「マダガスカルでは七二パーセント、タンザニア、モザンビーク沿岸部では五八パーセント、内陸でも、二割以上の人々が死亡している。それも医療機関が対応する間もなく、短時間にだ。二割を切ると途端に減衰率が上昇し、ザンビアでは七パーセントまで落ち込んでいる。それでもとんでもない人数だけどね。――――二枚目を見て」

 スクロールした二枚目も先ほどと表示範囲の変わらない地図だ。ただ、デザインは異なっている。白黒の地図の上には時刻が記されていた。

「監視カメラから集めた発症のおおよそのタイミングだ。驚くことに、内陸ほど発症時刻が遅い。致死率と顕著に関係している。まるで地震波のようじゃないか。これはウイルスじゃないんだ」

 吾田のハンドルを握る手に力がこもり、ステアリングのレザーが湿った音を立てる。

「波だよ。それも時差から推定するに、音波の類だ。ある特定の波長がインド洋で発生して、人体に影響を及ぼしたんだ。ウイルスでも生物兵器でもない。まさに天変地異によって、アフリカ東部で、四割以上の人々が亡くなったわけだ」

 吾田は興奮した様子で口の端を歪めた。人によっては不謹慎だと思えるその態度は、おそらく生来の研究者気質が顔を出したのだろう。

「あの、その事実は報道されてませんよね」

「国連が箝口令を敷いたからね。この波長の正体はつかめていない。二〇〇八年に起きたカナダのブリザード、二〇一〇年のブラジルのマラリア流行、いくつかの災害がこの波長によるものだと言われているが、観測データはないも同然だ」

「もしかして、ここ一年くらいのウイルスの流行もそれですか」

「ん、あれは普通にウイルスだよ。そうか、そういえば森崎くんは一連の流行でバイト先がつぶれちゃったんだっけ」

 でなかったら、新しいバイトなんて始めてませんよ。自嘲するようにそう呟いてから、ある事実に気づく。国民減少率と銘打たれた大融解のグラフだが、実際のところは。

「――カナダもブラジルも依然として沿岸部には人が住んでますよね。危険に晒されたまま、それを知らずに生きている人が何億人もいるわけですけど、どうして避難させないんですか?」

 非難のようになってしまったと自覚する。ただ、訂正するほど的外れではない。とてつもない数の死者を出しておきながら、その危険が秘匿されているのは事実なのだから。幾度か受けてきた批判だろう、吾田は薄目で小さくうなると、窓を少し開けて外気を取り込んだ。その先にある田園風景を指さして、「想像つくかい?」と漏らした。

「大きく分けると二つの理由さ。一つ目に、原因が海洋にあるとは断定できていないこと。たまたま海を中心にして同様の事象が発生しているとも限らないし、我々はその予兆一つ掴まえられない。二つ目に、海洋に原因があるとしても地域住民の避難先が見当たらない。マダガスカル島から五割以上が死亡したモザンビークまでの直線距離は一一一三キロ。本州ではこれに勝る距離の陸地はなく、北海道すらすっぽり収まる。東京を中心とした場合、北海道の九割近くと九州地方がこの円に含まれる。大融解クラスの巨大災害が発生した際、どこにいても結末は変わらず、逃げ場がないんだ。日本人に限ってみても、一億二千万の非公用語話者による集団国外疎開は現実的でなさすぎる。世界中の沿岸地域に居住する人間を移動させれば、実数は十倍では利かない。海洋は人類の文化発展とともにあるからね。もちろん、内陸にもそれだけの人々を養えるようなキャパシティは存在しない」

「何も知らずに、死ぬことしかできないと?」聞き飽きたであろう感情論を、しかし尋ねずにはいられなかった。仮にこの秘密を大融解による死に際に語られたら、きっとやりきれないはずだ。

「それが結局、より多くの人を救うことになる。第三次世界大戦を起こさまいと、みんな必死なのさ」

 その回答は半ば予想通りだった。生き残るための土地が限られていて、そこに全人類が収まらないとすれば、解決策はどうしても限られてくる。吾田とて、それが正義から逸脱していると分かっているだろう。この世には非合理的な正義より、合理的な不平等が必要な瞬間があるのだ。

「現在、国連は先進国政府に命じて、陸・海・空、三つのステージで横断的な研究を続けている。陸地では地震や地殻運動、未知の原生生物の放散。空であれば異常気象や宇宙空間からの放射線、そして私たちの研究する海洋では循環や海洋生物の変化などさ。今のところ最優先で研究されているのは津波と海鳴りの関係だ。良くも悪くも、事件には波が関係しているはずだからね」

「頭痛と海鳴りの関係を調査するんですか?」

「いいや、そっちは政府のもとで正式に研究している神奈川の海洋開発機構の担当でね。頭痛も関係ない。僕たちは本州の端の方で、鯨の研究を続けているだけさ」

 鯨? それは海棲哺乳類の代名詞でもある、あの巨大な海獣だろうか。

「そう。大融解を含めた事件の共通点として、近海で鯨の群れによるスパイホップが確認されているんだ。水中に異様な音が流れているからだとも、逆に大気中の音を聴いているとも言われているが、海洋を伝う波長が異常行動を引き起こしているだけだと重要視されていなくてね。これがその映像なんだけど、森崎くんはどう思う?」

 吾田がカーナビを操作すると、ナビの画面が切り替わり、MP4が再生される。船内の体調不良者と荒れる船体を尻目に撮影されたその動画では、何十頭もの鯨が上半身を海面から持ち上げ、微動だにしない。

 その光景は講堂でオーケストラの演奏に耳を傾けているようにも見えるが、それよりも。

「黙禱、みたいですね」

 死者を弔うために天を見つめているような、そんな雰囲気だった。動画の撮影が落ちつきなく行われているのでその厳粛さを感じられはしないけど。

「……へえ」吾田が薄ら笑みを浮かべながら上ずった声を出す。

「驚いたね。その意見を述べるのは、君が二人目だ」

「二人目、ですか?」

「そう。君は症例としては三人目なんだ。うちの研究所にはもう一名、同様の症状を患っている子がいる。今回もその子の要望があって、君を研究所へ迎え入れたのさ」

 それもそうか。何も僕が抱えている症状が僕特有のものだなんてことはないのだ。仮にストレス性の統合失調症であったとしても、同様の経験をしている人間は必ずいる。

「北畝遥。生粋の鯨オタクさ」

 鯨オタク。その言葉に抱いたイメージとは全く異なる様相の少女と、僕は数分後に対面することになる。



 むつ研究所は青森県むつ市の津軽湾沿いにある施設群だ。世界最大の海洋地球研究船「みらい」の母港として事務所が開設されたのち、国立研究開発法人海洋研究開発機構、略称JAMSTEC隷下の研究所として、同組織の地球環境部門の一翼を担っている。主に津軽海峡や沿岸部の環境変動研究・レーダー観測を行っており、そのために試料分析棟・観測機材整備場など様々な施設を擁している。むつ市から県道279号線を北上して山間部を走行し、日本原子力開発機構を抜けた先の船舶を模した巨大な施設、そこが科学技術館だ。研究所はそこから東に位置する。

 吾田の自家用車が目立つこともあり、施設も顔パスなのかと思ったが、警備員は吾田と僕の顔を数度見返し、手に持った書類と照合していた。簡易的な指紋採取が行われたのち、やっと内部への進入が許される。こういう施設の警備は緩いものだと思っていたが、ずいぶんと大仰だ。

「まあ、色々ね」吾田は表情のない笑顔で愚痴をこぼした。その反応はひどく余裕のないもので、過去になにかしらの事件が起きたと察するのは容易だった。組織・国家間での対立やデータの強奪など、珍しくはないのだろう。多くの命が係っていても――あるいは係っているからこそ――、その名誉を独占したいあまりに進歩を阻害する連中はいる。

 正門からまっすぐ伸びた大通りをすぐに左折すると、複数の施設に囲まれた駐車場が見えてきた。駐車場といっても十台程のスペースしかなく、白線が引かれているだけの簡素なものだ。すでに白枠は満席に近い状態となっていた。入り口右手の砂利だらけの駐車場の方が広々としていた気がするが、警備上の問題だろうか。エンジンを止めて降車した吾田が目前の建物を指差す。

「そこに見えている施設が交流棟だ。分かりやすく言えば、事務棟みたいなものかな。作業以外のほとんどの業務がこの施設で行われてる。僕は所長に顔を出さないといけないから、先に三階へ上がってもらえるかい? 北畝遥が先にいるはずだから」

「顔合わせなんですよね? 僕は行かなくても大丈夫なんですか」

「あー、そうだった。まあ、また後で紹介するよ。実のところ、今回の顔合わせは北畝遥との顔合わせなんだよね。謁見というかさ」

 謁見。その言い方によって、脳内の少女のイメージに王冠が付け加えられる。よほど高飛車で傍若無人な女性なのだろうか。途端に、うまくやっていく自信がなくなってくる。うるさい女と派手な女性は苦手だ。中学校の同級生を想起させる要素――つまりは作り物のような金髪、カマキリのように食い入る瞳、他人に存在を主張するためだけの異臭――の全てが鼻につく。

「仲良くできるように、善処します」

「いやに消極的だね」

 自動ドアを通った先、エントランスには受付の女性が一人立っていた。挨拶をはじめた吾田に指示され、僕は一足先に階段へと向かった。エントランスの右手、小綺麗に整頓された通路の先にそれはあった。わずかな埃と錆の匂いが、ふわりと漂って、窓から差し込んだ光が優しく照らしていた。ワックスを最近塗りなおしたのだろう樹脂製の階段を踏みしめると、スニーカーの靴底との間で、生乾きの雑巾で擦った時のような音が鳴った。開けてはいるがやけに音がこもる場所で、作業音もほとんどないので、歩くたびにいつまでもグギュッと湿った音が反響していた。公共施設の階段は、初めて訪れるその空間のなかで最も親しみ深いものかもしれないと、こういう場所に来るたびよく思う。

 三階に上がると、通路の両わきにいくつもの部屋が見えた。どの部屋にも【会議室】のネームプレートが貼られていて、どの部屋が本当の会議室かは分からない。目につくドアはどれも酷似しているから、北畝遥が普段どの部屋にいるのか、皆目検討もつかなかった。

 一番近い部屋のドア前に立ち、聞き耳を立ててみる。話し声は聞こえないが、人の気配をドアの向こうから感じる。開けてみる気分には到底なれなかった。じきに吾田が来るだろうか。しばし階下に耳を澄ましていたが、受付につかまっているのか談笑しか聞こえない。

 仕方ない。フロアを散策しようと改めて俯瞰した。

 平成を残した通路だった。掲示板には数年前に開催した町内催事のポスターが貼られているが、潮風と光でとっくに色あせていた。電灯はLEDに置き換わっているが、蛍光灯時代の色焼けが天井に残って、通路全体を黄色っぽく塗りたくっていた。観測施設というだけあって備品には気を配っているようだが、それゆえか施設の補修・改築までは手が回っていないみたいだ。

 一室だけ、ドアが開いたままになっているのが目に入った。風に押されたのか利用者が閉め忘れたのかはともかく、人がすり抜けられるほどの隙間が空いて、小刻みに揺れていた。

 このままフロアをうろつくのは芳しくない。人がいなければドアを閉めて音を鳴らそう。来訪者の存在に気づけば、向こうから顔を出してくるかもしれない。打算的な希望とともに部屋に近づき、揺れ動くドアの隙間から室内を覗いた。

 ――真っ白なその部屋の中で、浮き出たような濡羽の黒髪と紺色のセーラー服とが視線を引きつけた。

 想像していたような印象ではない。しかし、彼女が北畝遥だと直感的に理解した。

 泡のようだ。整った容姿を人形と表現したりするが、彼女はそれほど無機質ではない。透き通るような存在感とその揺らぎを繋ぎとめている白色の輪郭。仄暗く冷たい氷柱のような視線が、儚く華奢な彼女の肢体を繋ぎとめていた。それはまるで、ヒトの形を模した泡だった。

 僕はしばらく、彼女がこちらに気づいていないのをいいことに白昼夢のようなその姿を見つめていた。なにかの弾みで消えてしまわないように注視していたような気もすれば、単にその美しさに見惚れていただけかもしれないが、なんにせよ細部まで焼きつけようと注視していた。癖のあるショートカットは前髪の両サイドだけ不均等に長く、肩に尾を垂らしていた。窓際で文庫本に没頭する少女の瞳は視界に入り込んだであろう男には注がれず、世界には自分と本の二者間しか存在しないとばかりにその文字へと向けられていた。

 その蜜月に横槍を入れるのは無粋だったが、しかし彼女に話しかけないわけにもいかなかった。こんな姿を吾田に見られたら何を言われるか分かったものではない。変に彼女を刺激してしまわないようにゆっくりとドアを開け、小心者を装って半身を乗り出した。

 キィ、とドアの軋む音が静謐に亀裂をつくる。横恋慕によって二者の世界の熱は急速に冷めていき、ついに少女の瞳が本から離れた。不愛想で迷惑そうな視線が侵入者へと向けられる。彼女の横顔はこの一瞬間に随分と見つめたが、その正面も同様に端正な造りだった。色白の肌と対照的な黒髪は電灯のもとに強調され、明確なコントラストを作り上げていた。座っていてもわかる高身長に支えられた小顔。

「なにか用事です、か――――」

 一瞬、僕を見た少女の瞳が、まるで家を出ていった飼い猫が戻ってきたときのように見開かれた。ぱちり、と瞳孔の奥まで拡大されるのが、空気の揺らぎを通して伝わってくる。

「君が、北畝遥?」

 ――が、すぐに自らの注意を引いたものがビニール袋であったと気づいたのか、その瞳孔は縮んでしまう。

「今日からお世話になる、えっと、吾田さんに、ここに迎えと指示されて、来たんだけど」

「……あぁ、そうですか」

 ふい、と北畝は熱を失った瞳を僕からそらす。不審者と目が合ったことへの怯えではなく、汚いものに蓋をするがごとく、その顔を背けた。見たくもないという拒絶が、彼女の希薄な空気感と対照的に――いっそそれを塗りつぶすように――、滲み出ていた。振り返ってみれば、今の僕は徹夜明けで酒と頭痛のダブルパンチを受けてぼろぼろの状態だった。シャワーだけは浴びてきたから露骨に不潔ではないだろうが、猫が蛇でなくとも線状のものを恐れるように、彼女も僕の外見に理屈ではない欠点を見出したのかもしれない。

「まずは名乗ってくださいよ。素性を知らない成人男性に名前を明かしたくありません」透き通る声とは対照的な刺々しい口調とともに、少女は読みかけの本を閉じ、視線で僕を威嚇した。色素の薄い肌から表出するぶっきらぼうな言葉は、いっそう鋭利さが増して、他者を遠ざけるには十分すぎる切れ味を誇っていた。

「あぁ、それは悪かった。僕は森崎千里だ。会議室で待ってるよう言われたから来たんだけど……」

「私が、北畝遥ですよ」不満げに返答しながら、北畝はパーツの整合性でも取っているかのように無言で僕の顔面を見ていた。無関心と強い興味の同居した瞳だった。海岸でシーグラスを見つけた時のように、警戒と好奇とが織り交ざったような。

 僕が来ることは伝えられてなかったのか? 吾田の失態を疑う。いや、車内では「北畝自身の要望があった」と聞いた。顔写真や日程までは用意されていなかったのだろうか。

 いずれにしても。

「えっと、北畝さん」

「呼び捨てでいいです。さん付け辞めてもらえますか。年長者なんだから」

「じゃあ、えっと、……北畝」

「できれば名前を呼んでほしくすらないのですが」

 取りつく島もなく、彼女は僕の発言を遮った。ここまでされると多少の反感を覚えずにはいられないが、制服を身にまとう相手は年下の少女だ。態度に出すのはさすがに大人げない。自分を落ち着かせる。

 少女のそれは我儘ではなく、むしろ錯乱しているかのようだった。加えて、僕を遠ざけようとしているのではなく、むしろ自ら距離をとっているようだった。彼女の拒絶は孤高よりは孤独のそれで、他人から隔絶されるのではなく、彼女が進んで他人を隔絶する。そんな主体と客体の逆転した関係が形成されていた。ガラスでできた身体が砕かれるのを恐れるように、北畝は机上の両腕を引っ込めてリュックサックを抱え込む。

「プロジェクトについて質問があるなら、このあと吾田さんに聞いてください。私から貴方に伝えるようなことは何一つとしてありません」

 ……何一つとして、か。

 内心で吾田に謝罪する。仲良くするどころの話ではなさそうだ。



「やあやあ、仲良くやってるかい?」

 諸手を挙げ、サーカスの座長のごとく登場した吾田は、しかし僕と北畝がほぼ対極に座している光景にあらましを把握したのか、無音の会議室の中で小さく咳払いをして腕を下ろした。彼は文庫本から顔を上げない少女に眉尻を下げると、同情を求めるように僕へと視線を移した。

「森崎くん、彼女が北畝遥。顔合わせはしたかい?」

「済ませました」

 さすがに数メートル先に本人がいる状況で、先ほどの態度を告げ口するのは酷だ。僕はさして興味もないふりをして、肯く。済ませた、という表現に吾田も意図を察したのだろう。小さく頷き返す。

「私たちが鯨の女王と呼ぶ少女さ。名前は仰々しく感じるかもしれないが、仲良くやってくれ」

「鯨の女王……」

 仰々しい、というよりも奇特だ。当然だが、僕が見る限り鯨には見えないし、その存在感の希薄さはむしろクラゲに近い。刺すような視線は雪の女王のようだが、海にはライオンも王様もいない。北畝は自らが雄々しい名前で呼ばれることに慣れているのか、興味無さそうに文庫本のページをめくっていた。会議室に入ってきた吾田に挨拶をしないどころか、完全に無視を決め込んでいる。

 余程仲がいいのか、それとも無礼なだけなのか。

「北畝ちゃんは? 森崎くんとうまくやっていけそうかい?」

「……別に、何の感想もないですね」

 紙面から目を離すことなく、感情のこもっていない声で返答する北畝。先ほどの敵意を鑑みれば、「何の感想もない」ことはないはずなのだが、無関心な相手にはああも排他的なのだろうか。僕が「さん」付けで呼んだときには不快そうにしていたのに、より年の離れた吾田に「北畝ちゃん」と呼ばれることは受け入れているらしく、うまく整合性が取れなかった。

 ただ、吾田も気難しい親戚の子をおもりするような注意を向けていることは伝わってきた。刃物を取り扱うような、と言い換えてもいいかもしれない。

「たしかに、それは追々でいいか。まずは挨拶から始めよう。改めて、むつ研究所へようこそ、森崎千里くん。我々は君を歓迎するよ」

 我々と呼ぶには既に一人、出ていけと言わんばかりの少女がいるような気もしたけれど、僕はその歓迎を素直に受けとっておくことにした。

「ケーキの一つも欲しいところだけど、いきなり仕事について話させてもらうよ。森崎くんにはなにも説明することなくここまで来てもらったものだし」

「それは全くもってその通りですけど……」

 いきなり連れてこられたかと思えば、先客には刺々しく拒否される。知識だけでもイーブンになれば、この居心地の悪さも多少は緩和されるだろう。吾田がカバンから紙束を取り出すのをおとなしく見守っていると、隣の北畝がおもむろに手を上げた。

「私はもう聞いてるので、参加しなくてもいいですか」

 初めての能動的なアクションは、しかし対照的にひどく消極的な内容だった。

「話し半分でいいから聞いておいてくれるかな。口出ししてくれるとなお良いね」

「……分かりました」

 不服そうに視線を落とす北畝に、こういう手合いが大学のグループディスカッションにいたな、と思う。どういう意図で拒否したのかは知らないが、自分の情報の優位性を維持したいばかりに進んで孤立していく。前提知識の再確認と捉えれば有用だろうに、それを無駄だと切り捨ててしまう。

 わずかな苛立ちが奥歯をむず痒くさせる。大人ぶった子供は嫌いだ。それはおそらく自己嫌悪でもあるが。

「まず大融解を引き起こした波の正体についてだが、我々はある仮定にたどり着いている。先程車中で話したそれを、我々は鯨音と呼んでいる」

「鯨音?」

「物理学において波は多様な性質を持っている。音もそうだし、光もそうだ。振動が一番波のイメージに近いけど、想像以上に世界は波で構成されている。この鯨音と呼ばれる波は、感情に関連すると仮定している。感情発露の結果出力される波であり、それ自体が感情を含有している。怒りや悲しみの感情を抱いている人と同じ空間にいるとき、その人の表情や言動を知覚できなくとも、ある程度の感情の想起はできるだろう? それがこの鯨音によるものだと暫定する。物理的な特性としては音波と似ていて、振動によって生じ、減衰し、人間に影響する。周波数ゆえか人間の内臓器官と共振を引き起こし、加熱する。大まかな説明はこんな感じ。どう?」

「国家の役人から説明されれば、そういうものがあるんだなと認識くらいはできますが、納得はできませんね。曖昧な暈し方をしているのは、予防線ですか?」

 その疑問は、常識外の返答でかき消されることになる。

「それなんだけどね。僕たちは鯨音を観測できた訳じゃないんだ」

「観測、できていない?」

 こともなげに笑い飛ばした吾田に、思わず眉根がピクリと反応する。妄言の域を出ない、存在しているかも分からない事象が世界の命運を握っていると?

「いや、森崎くんの考えていることは分かるよ。無理に事象については説明するつもりはないし、説明のしようもない。一般相対性理論と量子力学みたいなものだ。存在を仮定することで成立しうる概念、法則でしかない」

「……超ひも理論みたいな」

「さすが大学生、理解が早いね。とにかく、その秘密を明かすカギが彼女で、君には補助をしてもらいたいと思っているんだ。まあ言葉をいくら費やしたところで実感は湧かないだろう。まずは、これを聞いてくれ」

 吾田は先ほどまでキーボードを叩いていたノートパソコンの画面をこちらに向けると、小さなウインドウで開かれたMP3を再生した。放熱フィンが回転するとすぐに、高い音が流れ始める。

 洞穴を録音したようなバックグラウンドに、時折ノイズがかって低い音が流れる。高校生の頃、吹奏楽部の友人がチューバの音を徐々に高くして慣らしを行っていたが、その吹き始めと似たような音だ。ともすれば雑音にも聞こえるが、同時に腹の底を揺らし、原始的な恐怖を焚きつける不協和音。

 しかし僕の意識はすぐ別の箇所へと引っ張られていった。

 その重低音の振動を伝って喉奥の後ろが熱を持ったように痛んだのだ。同時にその痛みを抑えようと、懐かしい温かさがモルヒネのように体へと浸透する。そうして首元にだけ残った違和感はゆったりと大きくなっていった。真綿で締め上げられるように徐々にせり上がるそれが、記憶の類だと気づく。それも、つい最近の記憶だ。この音を、僕はどこかで――、

「……これは?」

「これが大融解を引き起こした音だとされている。あぁ、安心してくれ。これは音だけを記録したものだ。音波という物理現象しか観測できないヒトの作ったマイクじゃ、完全には融解を再現できない。さて、森崎くんはこの音になにか感想を抱いたかい?」

「感想、ですか」

 そんなもの、あるはずもない。不安を抱かせる音ではあるが、機械が再生していると思えばその感情すらも錯覚だと思える。楽器のように有機的な音ではなく、あくまでパソコンという媒体を通して出力されたそれには、今ひとつ感じるものが欠ける。どこか懐かしい音だが、感情と呼ばれるものが生起するほどではない。

「……吾田さん、いいですよ。他の人員なんて、やっぱり必要ありません」

 返答に迷っていると、隣で本をぱたりと閉じた北畝がため息交じりに呟いた。

「なにか役立つかと思いましたが、これなら一人でも変わりません。正直、一人の方が楽ですらあります」

「宮古野所長がメンバーを集めろと指示を出したんだ。君一人では有効性が検証できない」

「……過去のデータなら、あるでしょう。私だけでいいですよ」

 畳みかける北畝に、参ったな、と頭をかく吾田。流れがつかめない僕をよそに、話題は僕の要不要へと至ったらしかった。実務無しで契約書だけ書いて退職になるのか? 帰ったら労基に駆け込もうかと考えていると、不機嫌な少女をなだめるように無理やり話題が変更される。北畝は不貞腐れたようにまた読書へと戻った。

「――とにかく、ここからが本題だ。さっきの音は東アフリカの海洋監視局の監視カメラで偶然録音されたものなんだが、なんと、その高さが五十二ヘルツなんだ」

「五十二ヘルツ……?」

 どこかで聞いたことはあるが、何を示しているかまでは思い出せない。僕の怪訝な顔に吾田が両眉をあげた。

「海で五十二ヘルツと聞いて、思い当たる節はない?」

「人間の可聴域でも下の方です、よね」

 人類の可聴域は他の哺乳類に比べて狭く、低音域に特化している。二十から二万ヘルツ。その中での五十二という数字はかなり低い方ではあるのだが……。

「五十二ヘルツの鯨も知らないんですか」

 突然、文庫本から目を上げることなく北畝が言葉を挟んだ。そうか、五十二ヘルツの鯨。その語感には覚えがある。大ヒットしていた小説のタイトルがそんな名前だった。ただ、その数字が鯨の何を示すかまでは知らない。

「いや、小説に書いてあったでしょう」

「あいにく読んでないんだ」

 ウイルスの感染拡大による自宅生活の反動で鬱屈した名作が景気回復という名分にプッシュされて世に出つづけているが、現代において本は嗜好品であり、僕には精力的に読む余裕はなかった。琴線に触れたあらすじの本をフリマアプリで購入する程度が精々であり、それすらも部屋の本棚をこれ以上圧迫したくなくて控えていた。先述の本も例に漏れず、SNS上の、他人の投稿からそのままコピペしてきたようなランキングで目にした程度だった。

「五十二ヘルツの鯨は、世界で最も孤独だと言われてるクジラですよ。一般的にヒゲクジラ類がコミュニケーションに用いる周波数は二十ヘルツ程度ですが、五十二ヘルツの鯨と呼ばれる一個体のみ、異名通り、倍以上の高さで鳴き声を発しています」

 北畝はさも厭々ながら、という表情で説明したが、そこには得意分野を話すとき特有の、深い理解によって成型された説明の順序が組み込まれていた。鯨オタクという吾田の呼び名も、なるほど的外れではないらしい。

 本から目線を上げないまま滔々と語った北畝の言葉を、吾田が引き継ぐ。

「この個体、本来は北半球で観測されていたはずなんだが、二〇〇〇年代から活発に動き回っているようでね。その鳴き声の観測地点・時期が大融解と重なるんだ。回遊パターンからナガスクジラ科の個体だと考えられているけど、詳しくは不明」

「ビデオに映っていたあのクジラは、違うんですか?」

「あぁ、オゼビクジラのことかい? オゼビも同じくナガスクジラ科に属するから可能性はあるけど、全然解明が進んでなくてね。というのも、君たちが黙祷だと判断した集団スパイホップが特徴の彼らは、大融解の際に発見された新種なんだ」

 わずかにやり切ったように緩んでいた北畝の口元が「君たち?」と小さく繰り返した。その冷たい視線が僕をスッと突き刺す。奇遇だね、なんて軽口を叩けるはずもないので、話を本筋へ戻すことにした。

「でも、大融解が起きた場所には必ずオゼビクジラがいるんですよね。それは確証にならないんですか?」

「確証よりもなお強い反証があるからね」

「オゼビのソングは、フィリピン海で確認された四例しかありませんが、そのいずれも五十二ヘルツには程遠い、ザトウクジラのソングでした」

 北畝がまた口をはさむ。

「鯨は、いくつかのユニットで構成されたフレーズをさらに組み合わせることでソングという鳴き声を作ります。これらは流行や群れ同士の交流によって変化が見られ、いくつかのタイプが存在します。ただ、異なる種族間では可聴域や音域が異なるため、同一のソングを奏でることはありません。人間じゃないんですから、同属内でのコミュニケーションツールで他のクジラと連絡を取る必要なんてないんですよ」

「分かりやすく言えば、大融解とは異なるザトウクジラのソングを持っている時点で、オゼビは五十二ヘルツのクジラの正体から外れたんだ。じゃあなぜ彼らが五十二ヘルツのクジラと同様、大融解の起きた場所にいたかと言われると、それも分からない」

「……水中マイクで鳴き声を観測して、その個体だけを捕獲するとか」

「無理ですよ。鯨とはいえ広大な海で一匹を、それもターゲティングも同定もできていない個体をしらみつぶしに探すのは、浜辺で特定の砂粒だけを拾い集めるのに近い作業です。ソノブイは世界中の海を観測するには少なすぎます。日本近海にはいくつか投下してありますが、ぽつぽつと置いたところで正確な位置情報が把握できません。クジラも常にソングを垂れ流しているわけじゃないですから」

 それもそうか。小学校の頃、プールで小さなボール一つ探し出すのすら苦労したのだ。北畝の例えよりも、実際はもっと難しいだろう。小学校の屋上から、五十メートルプールに撒かれた砂一粒を探すようなものだ。

「それに、国連は一連の異常事態の元凶が宇宙から飛来していると考えていてね。その結果としてクジラが異常行動を起こしているのであって、逆ではない、と推測してる。だから伝説のクジラ探しのためなんかに資金を下ろしてはくれないんだよ」

 道化のごとく大げさに肩をすくめる彼の意図は測りかねるが、お役人ゆえの苦労があるのだろう。東北の最北端から自分で車を運転しなければいけない官僚など、大学生が憧れるようなホワイトなお役所仕事からは程遠い。それは彼の表情も同様だった。誰にでもできるわけではない仕事だと、彼の精悍な目つきが語っていた。

「全てが仮説だ。実証するためには再び大融解が起きるのを待つしかないが、それをみすみす見逃すわけにもがない。人類の未来のために、どうか力を貸してくれよ」



「それにしても、北畝ちゃんは随分と森崎くんにあたりが強いね。ファーストインプレッション失敗?」

 北畝が会議室を出たタイミングで、吾田が軽薄な声音でそう尋ねてきた。後片付けをしながらこちらに視線を向けない彼から、声音の軽さとおおよそ異なる気迫が漏れているのを感じる。僕が彼女に粗相をしでかしたとか、彼女の機嫌を損ねるような行為に及んだと思っているのだろう。

「……部屋に入る前に様子をうかがってたのがよくなかったんですかね」

「声もかけずに?」

「想像よりも綺麗な女の子だったから、呆然としただけです。他意はありませんよ」

 感想は包み隠さずに打ち明けておくことにした。彼女の容姿にノーコメントを貫く方がかえって不自然だ。それに、恋愛感情以外でさえあれば、彼女への好印象を抱いている方が、彼にとっても都合がいいだろう。やっと見つけた派遣社員が主力メンバーとそりが合わないなんてのは、人事としては最も避けたい状況だ。

「吾田さんに対しては普通なんですね」

「……まあ、僕はそれなりに付き合いが長いから。職員に対しては誰にもああだから、彼女の気質なのかもしれないね。特に森崎くんは自分以外の患者だからさ。ほら、あの年頃の子って、自分だけが特別だと思いたがるだろう」

「そんな単純な話ですか?」

 彼女の嫌悪はもっと個人的な、僕にのみ向けられたそれだったように感じた。もし彼女が同様の嫌悪感を隠すことなく発しているとすれば、穏便な社会生活を送れているとは到底思えない。吾田に見せているそっけない態度ですら、学校生活では浮きかねない要素だ。

 本来は旧帝大に行くつもりだった。口癖、あるいはうわごとのように呟きながら、他者を見下し、壁を作り、隔絶されようとする。そういった大学の同期はえてして後期には姿を見せなくなり、留年なりして人生に失敗していた。

 交友関係の減少によって学業に支障をきたすタイプかは判断できないが、北畝は間違いなく人間関係を絶とうとする側の人間だ。

「まあ、問題がないなら、それでいい。めげずに仲良くしてやっておくれよ。数年前からの付き合いだけど悪い子じゃないんだ。ちょっと事情が特殊でね」

「気を害さないくらいには仲良くするつもりですよ。自分のためにも」

 片付けを終えた帰りの車には北畝も乗っていた。相変わらずむくれたように黙したままで、車内は空港につくまで静かだった。駐車場でお礼を述べて一足先に降車した彼女は、ついてくるなとばかりに振り返ることなく早足で去っていった。トランクから荷物を下ろす吾田は困った顔でその姿を見送る。

「北畝ちゃんの要望で、帰りの便の席は離してある。さっき仲良くしてと言っておいてなんだけど、向こうが望まない限りは、できる限り放っておいてあげてくれ」

「それは、ええ」

 言われなくとも、あの敵意に好んで突っ込んでいく勇気はない。

「……北畝も新潟から来てるんですか?」

「そうだよ。こちらに住居を用意したこともあったんだけど、叔母の教育方針と、まあ彼女の要望でね。自由にさせてる」

「叔母?」

 吾田の顔を見ると、彼は心あらずといった表情で北畝の後ろ姿を見つめていた。数瞬してこちらに気づくと、半ば無理やりに笑顔を作ったので、僕はそれ以上質問することもできなかった。

「顔合わせと言っておきながら、北畝ちゃん以外の都合を取れなくてすまないね。渡した書類に名簿が載せてあるから、名前だけでも覚えておいてくれ」

「いえ、人見知りが激しい方なので、むしろ助かりますよ。送っっていただいてありがとうございました」

 会釈してロビーへ向かおうと後部座席のドアを閉めると、手持ち無沙汰に鍵を弄っていた吾田の手が止まった。

「北畝ちゃんをよろしく頼むよ、森崎くん」

「ええ、吾田さんもお気をつけて」

 ジムニーが走り去るのを見送ってから入った空港のロビーで、北畝はやはり本を一人読んでいたのだった。

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