鯨音
@itsuki2ki
プロローグ
誰かが僕を呼んでいる。深く、昏く、重苦しい暗闇から。
それは嘆きであり、励ましであり、叱咤にも聞こえる複雑な感情の共鳴。叫び声であれば、ささやきでもあるし、あるいは歌でさえあるかもしれなかった。夢の中でこの声を聞くと、どこか懐かしさを覚える。陽の沈みだす頃に見知らぬ路地裏で夕食の匂いが漂ってきたときのように、神話論的な未知の思い出が、頭の中で弾けては消える。既視感のある風景が走馬灯のように脳内を駆け巡って、気づいたら朝を迎える。全てを鮮明に思い出すことはできない。どんな夢を見ていたのか、そもそも夢など見ていないのか、文字通り夢幻のごとく虚ろな知覚が不明瞭な意識を錯覚させたか。何も。枕元の残り香のように、うっすらと香って、消えていく。
複雑で、高い音だった。どうしてそれが声だと思うのかは分からない。ただ、誰かが僕に必死に訴えかけている。そんな気がした。
ああ、今日もか。そう思うより早く、暗闇の向こうから深く昏い海水が押し寄せてくるのを感じる。声はより大きく、僕の身体に開いた穴という穴から入り込んでは脳内を強く揺さぶり続ける。沈むことも浮き上がることもできず、海中を漂っているような波の揺らぎ。気が狂いそうになるほど僕の知覚を圧迫する一方で、流れ押し寄せてくる巨大な壁への恐怖を押しとどめてはくれない。強い光が迸り明転したかと思うと、僕の体は宙へと放り投げだされるような浮遊感に包まれる。僕の耳に鳴り響く声は、一層強く、がなるように轟く。
お前は誰だ。叫ぶよりも先に、海水が僕の全身を押し流した。
壁掛けの丸時計へと目を向けると、時刻は午前五時を過ぎたところだった。ベージュのカーテンを透かして見る空はまだ暗く、水をつけずに塗りたくった紺色の絵の具を思い起こさせた。
ベッドから立ち上がって自室を見渡すと、昨夜のあらましが窺える。送られてきた資料を表にまとめる単純作業を、つい二時間ほど前まで行っていた。エンターキーよりもデリートキーを押す回数が増えたあたりで、転がるようにベッドへともぐりこんだ。入学当初から勤めていたバイト先が夏休み前に閉店して仕方なく始めた内職は、段々と増えていく書類の枚数と、それに反比例して減っていく納期に、半年で辞職の決意をした。
最後の業務として送られてきた目前の書類は、それ以前の作業と比較して格段に量が多い。当てつけだろう。出来高払いなので文句はないけれど、後で斡旋サイトにはその旨を残してやろうと誓った。
まだ頭は鉛のように重たかったが、続きを打ち込むには支障なかった。送信ボタンをクリックしてデータの転送を確認し、書類の束を拳で蹴散らした。
「っはぁ……」
一度大きく伸びをした。窓の外に薄く橙色の光が差し込んでいるのが見えて、立ち上がる。カーテンを開け、ベランダの戸を開けた。ひゅうと室内に吹き込んだ寒風に身をさするが、寝起きで火照った身体にはちょどいい心地よさだった。書類とともにローテーブルに横たわったバランタインを手に取ると、スリッパを履いてベランダへと出た。ふたを開けて、一口あおる。肌をさらう冷気と、身体を内から加熱するアルコールの循環が気持ちいい。
そのまましばらく昇ってきた朝日を見ていると、向かいのアパートの電気がついたので、僕はそそくさと自室に戻った。加害と被害の違いはあれど、僕と向かいの彼女はお互いに妄想的で、自意識過剰的に接触を避けていた。
ちょうど手持ちのお酒も空になったところだったので、部屋の電灯を消して、買い出しに出る。寝不足による倦怠感が筋肉にまとわりつき、頭髪と顔の皮膚には脂汗がにじんで、油膜のように貼りついていた。久しく人と会っていないので外見に無頓着だったが、十字路のカーブミラー越しに映った自分は浮浪者のようで、いつもより輪郭が霞んでいた。
せめて顔くらいは洗ってきた方がよかったな。誰に見せるわけでもないが、後悔する。素地の美醜に関わらず、不潔は万人を醜くさせる化粧だ。
秋の街は例年よりひと足早く寒くなった。ウイスキーを数口あおって上気した身体はそれを一時的に忘れてくれていたが、小さいながらも回復の早い僕の肝臓が躍起になってその冷気を思い出させた。酔いはすでに冷め切り、血液をラジエーター代わりに急激な身体の冷却が行われる。薄着で外に出たことを後悔した。まだ十月も始まったばかりだというのに。
朝方のスーパーの駐車場はがらんとしていて、車を数えるのには両手で事足りる。この周辺で最大規模かつ二十四時間営業のスーパーは、周辺に暮らす大学生にとって最後の砦だ。家計をやりくりする苦学生も、深夜に思いつきで飲み会を始めるサークルも、均しくこの店を利用する。僕は前者だった。
健康な食生活にはお金がかかることを、大学生になってから学んだ。梅干しや海苔だって、子供のころの自分を叱りたくなるくらい、ずっと高額だ。食費だけじゃない。生きているだけでお金はかかる。生そのものが罪悪なのかと錯覚するほどに、あらゆる手段で取り立てが行われて、だからこそ、生きていてもいいのだと思えるように働かなければならないのだろうと、よく考える。実家には支援を期待できそうになかった。
商品棚のウイスキーを選ぶ僕の後ろで、金髪の男女が缶チューハイをカゴにがしゃがしゃと放り投げていく。男の方は手間のかかっていそうな刈り上げとパーマのツーブロックが印象的で、女の方は短く切りそろえられた細い髪がシルクのように輝いていた。男は一人で酒を選ぶ僕の方をちらりと見た後、見せつけるように女のくびれへと手を回し、その身体を抱き寄せて首筋に鼻を寄せた。女はそれを拒否するような素振りも見せず、男の肩に頭を置く。
子供の頃から気づいてはいたけれど、世の中には恵まれた人間とそうでない人間とがいる。彼らは卵が何曜日に安くなるかとか牛乳が最近値上がりしてるだとか、これっぽっちも知らない。口座には月に六桁のお金が勝手に振り込まれ、親が新車でアウディを買い与えてくれる。携帯料金の合算払いかクレジットカードで支払えば立て替えてもらえるから、価格という些事を気にかける必要がないのだ。少子化の渦中で増えた、金と親の過保護な愛情を受けた一人っ子。もちろん、彼らとて望んで裕福な身の上に生まれたわけではないから、一方的に批判してはならない。
僕はできるだけ居た堪れなくなったようなそぶりで、その場を離れた。彼に自身の幸福に思い至ってほしいという、無力な抵抗だった。
彼らは恵まれている。それは先天的な経済格差よりも、むしろその副次的産物――つまりは彼らが同族とつるんで得た経験と自己肯定感――が、貧乏人の努力に比べても非常に有益で損なわれがたいという事実に由来するところが大きい。アルバイトを通して得た経験など、彼らが湯水のごとくお金を消費した体験に比べれば、道端の石ころ同然だ。彼らは海外留学のような、より高価値な経験を語り、何ならそんなものなくともコネで僕より立派な企業に就職するだろう。彼らは自らの貯金額や人生経験を、全て自らの力で得たものだと思っている。そうして得た自己肯定感は、国家からの取り立てに怯える僕のような人間よりも、よっぽど芯が強い。僕が背後でその背を僻んだところで、彼らの方が真っ当な成長を続けていくのだ。
だから僕は、対抗意識の欠片とて持ち合わせず、正直に羨むことにした。彼らが自分は恵まれているのだと気づいてくれれば、それでいい。
目的の食材を買いそろえ、レジで会計をしている間、アプリで預金残高を確認する。刻一刻と無情に減り続ける数値は、将来に一縷の希望も持たせてくれない。うんざりだが、ストレスが増えれば浪費も増える。自分も他人に比べて恵まれているものがあるのだと前向きに肯定していかなければ、とてもじゃないが生きていけない。
会計中にスマートフォンを見つめる僕が気に入らないのか、レジを打つ同世代くらいの女性店員が横目で数度こちらを見た。無表情なその顔の代わりに、彼女の動作が乱雑になる。
向けられた嫌悪感は手に取るように分かった。ここ最近はずっと、肯定的な感情も、否定的なものも、均しく音として頭を突き抜けていくからだ。感受性が豊かなのではなく、病気なのだろう。世界から乖離したいと思う一方で、ありとあらゆる事象が自分に干渉しているような煩わしさを覚える。
「二百円のお釣りとこちら、商品になります」
女性店員が嫌悪感を裏返したような笑顔で袋を差し出した。「ありがとう」彼女の両手の隙間をつまみ上げるようにしてそれを受け取った。
お釣りを右手に受け取り、ズボンのポケットに流し込んだ時だった。
ふと、持ち手から引っ込めた彼女の指が、袋をつかんでいる僕の左手にぴたりと触れた。
――――きゅっ。
心臓を握り締められたような嫌悪感が体内を駆け巡った。シャトルランの直後に座り込んだときのような、身体が寒気と熱を同時に溜め込んだ悪寒。反射的に手を引っ込める。
ガシャンっ。
結果、彼女と僕の両者から放棄された商品たちは垂直に落下して鈍い音を立てた。リフターから外れた袋の持ち手がひしゃげて、中身が物置台に散らばる。まるでバケツに入ったペンキをまき散らしたかのように規則性なく散乱する食料品を、しかし僕の左手は追うことなく、震えるだけだった。店員は舌打ちが飛び出そうになるのを抑えるように「申し訳ありません」と小さく告げた。僕は彼女が商品を拾おうとするのを断り、感覚のない左手を無理に動かして、適当に商品を袋へと詰め込んだ。
最後にウイスキーを投げ入れ、逃げるようにその場を離れる。気狂いなどいちいち構っていられないのだろう、店員は「またお越しくださいませー」と投げやりに声をかけて業務へと戻っていった。
店を出てから胸に手を置くと、動悸がしていた。すぐに買ったばかりのウイスキーのふたを開けて、喉に流し込む。四十度のアルコールが喉を焼いて吐き気がこみあげてきたが、そんなものは震える左手に比べればましだった。頭の隅で明滅する光景がアルコールの波に流されていく。ぼうっとした頬に涼やかな風が吹きあたって、左手の震えをゆっくり取り除いてくれた。
少しずつ息を整える僕の隣を、先ほどの男女が怪訝そうな顔で通り過ぎていった。男の方が聞こえるくらいの声で「邪魔くせ」と呟いた。手に持ったビンで後頭部をカチ割ってやろうかという衝動が心の底に沸いたが、すぐに頭痛と吐き気とが襲い掛かってきて、思わずせき込んだ。
――彼に劣等感を刺激されなかったのは、僕にも昔、恋人がいたからだ。
僕に酒の味を教えてくれた女性。初めてで、最後の恋人。まぶたの裏にぼんやりと浮かぶその姿を、大きく息を吸い込んで消し去った。
僕の頭痛とトラウマは、全て彼女が作ったものだ。
樋口紗枝。一昨年の夏に交際をはじめた先輩は、とても不思議な人だった。
口数の少なさに似合わず活力に溢れていて、乏しい表情のわりに感情が筒抜けな女性だった。自信と確信に満ちていて、それが気力となって可視化され、ミステリアスと親しみやすさという相反する評価を同時に獲得していた。新入生の頃、どういう関係の飲み会だったかはもう覚えていないけれど、そこで僕は彼女と出会った。まさしく高嶺の花のごとく遠方の席で輝く女性に、やたら綺麗な人がいるなと目についたことだけは覚えている。彼女との間には物理的な距離以上に、不可視で明瞭な壁が一枚隔たっていて、それがいっそう、その奥にたたずむ彼女を美しく昇華させていた。
無礼講が始まり同期が席を立ち始めても、僕は一人でジンジャーエールをちびちびと飲んでいた。絡みに来る人も、絡みに行く相手もいなかった。ジンジャーエールは、別に好きだったわけではない。どこでも売っているし、コカ・コーラとペプシネックスのように対立を生み出すようなこともない。趣向と妥協の産物は、人の色恋沙汰を盗み聞きながら飲むのにちょうどよかったのだ。
――この数分後、僕は樋口さんと初めて言葉を交わすことになる。人混みを避けた彼女が相席にやって来て、「隣、座るよ」と有無を言わさず腰を下ろした。
同性からのけん制する視線が刺さるようで、居心地が悪かったのを覚えている。さっさとどこかに行ってくれないかと卑屈な自分語りをして、なぜか気に入られてしまった。
「君は寂しい人だねえ。まるで自分こそ世界で一番不幸だと自慢しているようですらある。あるいは、悲劇的に捉えて酔いしれることで、無機質で変化のない現実から目を背けているのかな」
僕の話を聞き終わって開口一番、呆れたように彼女はフランボワーズミルクに口をつけた。乳白色の液体が鏡面を透して揺れ、それが彼女の頬の赤らみを反射した。
「……それ、美味しいですか」反射的に話題をそらした僕に、彼女がグラスを差し出した。味の感想を聞くだけのつもりだった。色々な酒を知っていそうな人だ、美味しいなら帰りにでも買って、初めて飲むお酒にしよう。そんな目論見だったのだが、樋口さんはずいと僕の口元に飲み口を近づけたっきり、引こうとしなかった。
「飲んでみなよ。この場で君一人だけが、自分に酔っている」
大学生になっても、退廃の象徴であるとして飲酒を避けていた僕は、彼女が勧めてきたそれを断れずに一口飲んだ。その途端、口の中に重い甘みとアルコールの熱が染み渡った。その生ぬるさは熱いお茶を飲んだ時のそれとは全く異質でありながら、想定していたよりもずっと不快だった。
「卒業おめでとう。少しは考えが広がったかい?」飲酒が未経験であったことを見抜かれた理由は明確でないが、顔にでも書いてあったのだろう。彼女は意地悪い笑みを浮かべて、そのグラスを引ったくった。
この飲み会の後も間々あったことだけど、彼女はよくそうやって僕の卑屈さを叱った。それは中年期の女性のような、他人を指導する自分への陶酔ではなく、不潔で歪んだものを許さない美意識に由来するようだった。彼女は世界を斜め上から見ようとする人間を嫌い、蔑んでいた。なぜ彼女がその代表格のような僕をかまってくれるのかは最後まで分からなかったけれど、たぶん、彼女はそんな風に生きる人々を蔑みながらも、愛しく思っていたのだろう。
不器用だとか偏屈だとか、彼女は自分と同じように生きることができない人間の存在を、ちゃんと理解しているようだったから。
「どちらもですよ」異性の飲み口に口をつけた――間接キスなどという甘酸っぱい言葉には、これまでの人生でもちろん縁のなかった――ことで動転していた僕は、最初の質問に半ば脊髄反射で反論した。
「下を見ればもっと大変な人がいることくらい、よくわかっているつもりです。でも、だからといって、今ここにいる僕が不幸に感じているという事実は揺るぎません。僕の世界の中では、僕が最も不幸なんです」
僕は確かこんなことを言った。今でもこの考え方は変わっていないと思う。人間は、自身の不足にはよく気がつくけれど、恵まれた部分はほとんど意識しない。ゆえに常に不幸だと錯覚する。それは自然なことで、どうしようもないことなのだ。下を見ると涙がこぼれてしまうから、上を向いて羨むことしかできない。
「自分に酔っている方が、目の前の悲劇を直視せずに済む」
「目の前の悲劇って、こんな美人を隣にして? 刺されるよ」樋口さんが薄い笑みを浮かべる。
「誰にですか」
「私にさ」彼女はグラスを揺らしながら、雪のような微笑を浮かべた。
樋口さんはいつも笑っていた。歯を見せることのない、静かな笑みだった。僕は彼女の真っ当さが好きだった。彼女は世界を別の観点から見ていたけれど、それを偏見という歪んだレンズに通すことなく、真正面から楽しんでいるようだった。人混みも、つまらない映画も、彼女はそれを切り捨てるのではなく、そこから何かを得ようとしていた。批評と実益を完全に分けて考えることのできる人間だった。
僕たちはいずれ飲み会を欠席するようになり、二人で図書館や喫茶店を訪れ、お互いの家のベランダで夜を感じ、いつしか情を交わした。彼女に恋愛感情なんてものがあったのかは定かではない。僕たちの空白はたぶん空いている場所が似ていて、それぞれの特徴がそれぞれの穴を埋めるような形状の突起だったのだろうと思う。孤独と感傷は似ているようでまったく別物だ。僕たちは互いの痛みを直感的に理解していた。
惜しむらくは、彼女にとってその空白を埋めるパーツには代替品があったということだ。そしてその代替品こそが僕だった。
「初めてでは、ないんですね。なんだか、残念です」秋の終わり、街路樹の葉が完全に枯れきった頃。幼稚な独占欲から口を突いて出たむき出しの言葉に、やはり樋口さんは落ち着き払ったように笑った。
「あはは、君はそういうことを言えない人間だと思っていたよ。後悔したかい?」
彼女に勝てないことをよく理解していた僕は、反論するようなことはなかった。それは彼女とたった二カ月一緒に過ごしただけで身についた思考の枠組みの変化だった。
「まさか、嬉しい限りですよ。あなたが経験者だったから、初めてを失敗せずに済みました」
強がりだった。
「君は優しいなぁ」
彼女の安心したような笑顔を、僕は今も覚えている。
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