第30話

「天道くん、そこの醤油を取ってもらえるかしら?」


 築六○年、古ぼけた木造建ての居間には少年と居候の少女の姿があった。二人は食卓を囲んでいる。テーブルの上にはこの家の家主である少年が作っただし巻き玉子が並んでおり、少女はだし巻き玉子に醤油をたらすと言い張っている。


「裏道さん、それはだし巻き玉子だから醤油は邪道なんじゃないかな? せっかくのだし巻き玉子が台無しだよ」

「では一つ聞きたいのだけれど、天道くんは新鮮な魚介類を漁師の方から頂いたとして、これは新鮮だからなにも付けずに食べてみて。そういわれて、天道くんは醤油もなにも付けずにお刺身を食べるのかしら?」

「……」


 少年は睫毛をぱちくり数回鳴らしたあと、一度深呼吸してから「はい、醤油」醤油差しを少女に手渡した。


「天道くん、素直が一番よ。あと、二度と私の下着を盗もうなんてしないことね」

「だからあれは違うってばっ!」


 食卓に手をついて身を乗りだした奏多は、昨夜少女にひっぱたかれた左頬をさすった。まだじんじん痛んでいる。下っ腹の傷は一瞬で消えたのに、少女から受けた強烈な一撃は残ったままだった。


『昨夜、トリック製薬現CEO、裏道京太郎氏が前CEOであった実の兄を殺害した容疑で逮捕されました。それを受け、警察当局はトリック製薬がこれまでに関わってきた大規模な汚職事件の調査に乗り出した模様です。今朝のトリック製薬本社前にいる――』


 居間に設置されたテレビがプツンと音を立ててブラックアウト。少年はテレビのリモコンを手にする少女へと視線を向ける。少女は何食わぬ顔で玉子焼きを頬張っていた。


「もう終わったことよ」

「そうだね」




 アビルから戻った奏多の視界に真っ先に飛び込んできたのは、目元を赤く晴らしたミチルの顔だった。


「裏道……さん」


 苦しいよと言いかけて奏多はやめた。微かに震えたミチルの体から体温が伝わり、奏多の全身を包み込んでいく。奏多は赤子を宥めるようにミチルの背中を優しくたたいた。


「天道くん、無茶をするにも限度というものがあるわ」

「ごめんね、心配かけて」

「許すわ。今回だけ、特別に許してあげることにするわ」


 素直じゃないミチルの素直じゃない言葉が耳に届くと、濡れた睫毛のまま好意を滲ませた視線を向けられ、眼前の美少女は愛らしいかんばせを花のように綻ばせた。


 奏多は思わず見惚れてしまい、一拍遅れて笑顔を返す。


 すると、今度は号泣する千春がボディプレスの要領で飛びかかってくる。


「がなぐ~ん! あだじぃ、がなぐんがちぃんじゃっだがどおもっだよぉ~!」

「千春、鼻水! さりげなく奏多で鼻水拭くなっつーの!」

「ごれははながらでぇだなみだだも~んっ」 

「心配かけてごめんね」


 千春の肩をそっと掴んで引き寄せた奏多は、立ち上がると同時に衣嚢に手を突っ込む。


「ほら、これで顔を拭いて」


 ハンカチを差し出した、のだが……。


「ねぇ~、ごれぇ……バンヅだよぉ?」

「へ……?」


 千春は受け取ったハンカチをびよ~んと伸ばしては、愛らしいピンクのリボンが付いたパンツを広げている。


「それ……私の下着よ」

「え……あっ、その」


 ピタッと動きを止めたミチルと、焦るあまり変な動きを披露する奏多。


 どうしてこんなものが自分の衣嚢に入っているのだと考えた奏多は、ふと思い出してしまう。千春と昇の二人が突然やって来たことに驚いた際、とっさに手に持っていたパンツを衣嚢に押し込んだことを。


「天道くん、どうして天道くんが私の下着を後生大事に右ポケットに押し込んでいたのか説明してくれると助かるのだけど」


 早口に言い切ったミチルの額には、ブチブチと怒りマークが浮かび上がっていた。穏やかに微笑む表情と相まって、余計に恐ろしく見える。


 そして次の瞬間――パンッ! 本日二度目となる凄まじい打撃音が鳴り響く。


「大丈夫か、奏多」


 屋上の隅っこで丸まる奏多に、親友が同情の声をかけていた。


「安心しろ。たとえ親友が下着泥棒だったとしても、俺っちたちの友情は変わらねぇ。このことはクラスの連中には絶っっ対に言わねぇかんな!」

「……助かるよ」


 奏多の首がガクッと折れてしまう。


 そこに騒々しい足音が飛び込んでくる。昇から連絡を受けていたソフィアたちが、次々と屋上に駆け込んでくるのだ。


 ソフィアたちはあっという間に裏道京太郎を確保してしまう。


 といっても、彼に意識はなかった。無防備な京太郎を昇がボコボコに殴りつけていたのだ。そのせいで意識は戻ることはなく、顔面は見るも無惨に変形。もはやこれが裏道京太郎なのかすら奏多には判断がつかなかった。


 ミチルからトリック製薬に関するデータが入ったUSBと、裏道宗次郎殺害を裏付けるスマホを受け取ったソフィアは、二人の伸びている男を警察に引き渡すため連行していく。


「んっじゃ、俺っちたちも帰るか」

「そうだね」

「うん、あたしもうお腹ペコペコだよぉ~」


 昇の瞬間移動で自宅に帰ろうとする奏多たちを、少し離れたところから遠巻きに見つめるミチル。その顔は少し悲しそうだった。


 奏多は二人にちょっと待っていてくれと伝えてから、ミチルへと歩み寄った。


「どうしたの……? 帰らないの?」


 声をかけられたミチルは奏多から視線をそらすように俯いてしまう。


「私は天道くんたちを危険に巻き込んでしまったのよ。私には天道くんの家に、あの家に帰る資格なんて……もうないわ」


 手を伸ばせば月に届きそうな空の下、月光とアビルの光に照らされたミチルがとても儚げに微笑んだ。


「だから、天道くんとはここでお別れよ」


 気丈に、精一杯強がる彼女の目尻には、夜に垂らした星のような輝きが光っている。


 そんな彼女に、奏多は言う。


「祈りは天に達し、神のお慈悲に訴えかけ、すべての罪は赦されます。皆様も罪の赦しを請われるからは、ご寛容をもってどうかこの身を自由に」

「ウィリアム・シェイクスピアの……テンペスト」

「僕は悲劇が好きじゃない。彼が最後に一人で書き上げた作品が悲劇で終わらなかったのは、きっと、彼も穏やかな幸せを望んでいたからなんだと思うよ」

「……」

「僕たちの物語はこれから先もずっと続いていく。大切なのはどう死ぬかではなく、どう生きるかなんだ。その果てしない道の先に、僕たちのハッピーエンドが待っている。それに――」

「それに……?」

「まだ裏道さんにはちゃんとした謝罪もしてもらってないからね。約束はしっかり守ってもらうよ」


 満天の星空の下、一滴の涙をこぼした彼女のはにかんだ笑顔はとても穏やかで、美しかった。


 ただ一つ奏多に気がかりなことがあるとすれば、アビルゲートの存在だ。


 朝のニュースではさすがにアビルゲートのことや【人類永久計画】のことは流れなかった。

 奏多はホームルームが始まる前に、それとなく昇に聞いた。


「ソフィア姐さんたちが破壊したんじゃねぇか?」と昇からは曖昧な答えが返ってくる。

 とはいえ、アビルス教団がアビルゲートを破壊しない理由はどこにもない。


 ミッシェルの企み通りアビルゲートは破壊されてしまったのだろう。


 奏多はもう二度とパンドラボックスを使わないと心に決めている。仮にもし、また彼がミッシェルと会うことがあるのなら、それは何十年も先、天道奏多が天寿を全うしたときだろう。


 今回の事件の発端でもある裏道ミチルの父、裏道宗次郎がミッシェルと共謀していたのかについてはわからずじまいだ。


 誰もあの空に揺らめくカーテンの向こう側に行くことはない。よって知る必要のないことだと奏多は思っている。


 ミチルが引き起こした火災については、ソフィアたちアビルス教団の裏工作によってガス漏れによる火災ということで落ち着いた。


 神秘的なアビルのカーテンをぼんやりと見上げる奏多の斜め前の席には、千春と話し込むミチルの姿がある。その表情はすっかり憑き物が落ちたようだった。


 ふと二人の視線が重なると、少女は小首をかしげながら悪戯に微笑んだ。


 少年は机に頬杖をつき、また空を見上げる。


 どこまでも続く濃緑色に揺れるアビルのカーテンをぼんやりと眺め回し、「まだ……謝ってもらってないな」つぶやき、少年は笑った。



「ま、いっか」







――――――――


 最後までお読みくださり本当にありがとうございます。m(_ _)m

 本作品はとりあえずここまでとさせて頂きます。

 二章の構想もあるにはあるのですが、今作品はWEB小説のテンプレートからは少し離れている作品なので、読んでくださる方がいるのかわからないということもあり、一旦ここで締めさせて頂きます。

 誰にも読まれない作品ほど悲しいものはありませんからね。


 最後まで読んでくださった皆様方には、改めてありがとうございます。

 それではまた、次回作でお会い致しましょう。

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