第一夜 女子の平和を守るもの⑧

 三か月後。サイードは再びファリンのヴィラを訪れた。少々時間が空いてしまったが、呪いの廊下の経過報告のためだ。前回と同じく高脚の卓子に案内され、侍女が持ってきたお茶を一口飲むと、口火を切った。

「君の提案した通りだったな。貝粉を撒き始めてから転倒事故が無くなったこともだが、そもそも例の通達から木靴の使用も明らかに減っている」

「それは良かったです!」

 例の通達とは、ファリンに提案された『皇帝陛下がヴィラを訪れた妃は、原則としてひと月のあいだ木靴の使用を禁ず』というものだ。するとまず第六妃パラストゥーが、いっさい木靴を履かなくなった。暗に『私、定期的に陛下にお声がけいただいてます!』とアピールするためだ。すると対抗するかのように木靴を履かない妃が増えて、間もなく流行はすっかり終わりを迎えたのだった。

「妃たちの事故が減ったこと、皇帝陛下も大層お喜びであらせられる」

 きっと彼女も朗報を喜ぶだろうと考えながら、サイードは微笑みかけた。だが彼女は驚いたように目を丸くすると、小さく、だがしみじみとつぶやいた。

「そんなに嬉しそうになさるなんて、本気で陛下のことを……」

「ちっ、違う、そういう意味ではない!」

 そう慌てて否定してから、サイードはすぐに表情を引き締め、言葉を続けた。

「……アルサラーン陛下は真にこの国と民の未来を思う、とても偉大なかたなのだ。ちまたでは血も涙もない野心家などと呼ばれているが、そもそも陛下が諸部族を統一していなければ、今ごろ砂漠の民は西方諸国への隷属を強いられていたことだろう」

 ──三十年ほど前のこと。西方を中心として、世界中で大恐慌が始まった。その時真っ先に打撃を受けたのは、しやひんの交易である。その頃アルサラーンの父が治めていたジャハーンダール族は、収入の大部分をハリジュ湾の天然真珠採取業に頼り切っていた。そこに出現したのが、東方の小さな島国で開発された養殖真珠だ。

 かの養殖真珠は質、量ともに安定し、さらに流通価格は天然真珠の三分の一。それまで真珠の流通を独占し価格を操作していた西方の宝石商たちは焦り、養殖真珠を排除するためのしんがん裁判を起こした。だが宝石商たちの思惑とは裏腹に、当の西方の裁判所において、養殖真珠が『本真珠である』と正式に認定されたのだ。

 折しも、世界は不況である。さらに各国で身分制度の改革も相次いで、それまでの上顧客だった貴族たちは、その地位を急速に失いつつあった。こうしていくつもの原因が重なった天然真珠市場は崩壊し、湾岸の部族は文字通り飢えに襲われた。

 その対応に奔走した父が心労で倒れ、跡を継いだアルサラーンはまだ成人したばかりの十八歳であったが、国内外の情勢もよく学んでいた彼は、真珠に代わる資源の存在に気づいていた。それがハリジュ湾岸で当時わずかに産出していた『燃水ナプトウ』である。

 それは伝統的にくそうずと呼ばれ、いちおうともし油にはなるものの、臭くて煙たくて下等なものとされていた。その一方で内燃機関の発明によりいち早く燃水の真価に気づいていた西方は、それが砂漠の地下に大量に眠っている可能性に目をつける。砂漠ではいまだ安価なそれを買い占めると、さらに資金を出すから共に燃水の出る井戸を掘らないかと、いくつかの部族に協力を持ち掛け始めたのだ。

 だがアルサラーンは、そのに危機感を覚えた。西方に都合よく価格を管理されてしまったら、真珠の二の舞になってしまうだろう。それに早くから西方に目をつけられた国々は不平等な条約を強いられ、その多くが植民地と化しているらしい。

『今すぐ諸部族は結束し、我らのの地を守らねばならない!』

 アルサラーンはそう他の族長たちに訴えたが、変化を嫌う老人たちは、それを一笑に付した。しかし賛同する者たちも、若者を中心に現れ始め──とうとうアルサラーンは、頭の固い者たちとの話し合いをあきらめた。そしてこの世で最も簡単、かつ合理的と思われる方法──武力制圧に踏み切ったのだ。

「──だが拙速を必要とした統一事業は、我ら砂漠の民にとっても大きな痛みを伴うものとなった。ゆえに今もなお、陛下に恨みを持つ者は多いのだ。俺はいずれ大宰相となり……そんな陛下の治世を、かげ日向ひなたになりお支え申し上げたいと考えている」

 そこまで熱心に語ってから、サイードはようやく目の前の少女がどこか元気を失っていることに気がついた。

「すまない、女性にはつまらない話をしてしまったか」

「いえ、そうじゃないんです。私の父はエルグラン人なんですけど、その、砂漠には、地下資源の調査に来ていて……ごめんなさい」

 エルグラン王国は、さきの戦争で西方諸国連合の旗手となっていた国だ。その血を引くファリンにこんな話をしたせいで、肩身の狭い思いをさせてしまったのだろう。うつむいて小さくなっている彼女の淡い髪色に、なぜ気づけなかったのか。

 サイードは思わず、彼女の暖かな色の髪をでようとして……慌てて手を引っ込めた。

「すまない。君や、君の父親を責めているわけじゃない。それが経済というもので、どの国も生き残るために必死だというだけだ。それに西方諸国も、かの東方の島国も、今では燃水を高く買ってくれる上得意様だしな」

 ようやく顔を上げた彼女に、サイードは困ったように笑いかけた。

「だからどうか、そんな顔をしないでくれ」

「はい……」

「要は何が言いたいのかというと、陛下がいかに大局的な視点を持ち、先見の明があり、かつ民の未来を想う素晴らしい御方なのかということだ。本当に、俺なんかに同じ血が流れているとは思えないほどの、な。そして今回の問題が速やかに解決したのは、全て君のおかげだ。だからまた後宮の平穏を乱すような問題が発生したら、どうか力を貸してくれないか。共に、陛下の治世をお支えしよう」

 そう言ってあえて明るく笑いかけると、珍しく彼女はほんのり頰を上気させ、生真面目に、だがうれしそうに言った。

「私なんかでお役に立てるなら、がんばります」

「ならば他にもこれまでに気づいたことなどあれば、ぜひ教えてくれ」

「それは……特にないです」

 つい先ほどのがんばるという言葉とは裏腹に、ファリンは自信なげに目をらして小声で答えた。彼女の受け身な性質は、どうやらかなり根深いらしい。この先も自発的な報告は、あまり期待できないだろう。仕方ない、やはり定期的にこちらから確認に来なければならないか──そうサイードが考えていると、彼女は感慨深げに口を開いた。

「そんな風に、ひたむきに慕える方がいるのは……本当に幸せなことだと思います。きっと私たちは、そんなサイード様と陛下の互いを想い合うさまに、こころかれてしまったのでしょう」

「想い……いやだから、そういうものではないのだが……」

 思わず複雑な顔をしてしまったサイードへ向かい、ファリンは慌てて否定するように、ブンブンとそのきやしやな両手を振った。

「ああ、そういう意味の『想い』じゃないです! 本当にすみません、人間的に信頼し合っているという意味の話です! 妄想と現実の区別はちゃんとついてます!!」

「そうか……ならば良いのだが」

 思わず噴き出しそうになったのをこらえるために真顔になると、彼女は気まずそうな笑みを返した。

 問題が起こったゆえのことなのに不謹慎だと思わなくもないが、こんなに楽しいひとときは、何年ぶりのことだろう。実のところ以前のサイードは、なぜあの合理的、かつ先進的な皇帝陛下が前時代的な後宮など設けたのかを理解できずにいた。後宮の管理に異邦よりかんがんを徴する制度は否定したにもかかわらず、だ。いっそ無くしてしまえば面倒が減るのにと、何度思ったことだろう。だが皇帝にとっても後宮ここが何らかの癒しになるのなら、まだあっても良いのではないか──そう、思えるのだった。

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金沙後宮の千夜一夜 砂漠の姫は謎と踊る 干野ワニ/角川文庫 キャラクター文芸 @kadokawa_c_bun

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