第一夜 女子の平和を守るもの⑦

 この国の皇都は、北東に面するハリジュ湾の沿岸に造られた、巨大なじようさい都市だ。その端にあるがけうえに海を臨むように造られた宮殿の気候は、砂漠の真ん中に比べると何倍も快適である。かなり大きな嵐が起こらぬ限り、砂を含む風もこのけんろうな城壁の内側までは届かない。その壮麗さゆえ『金沙タラ・サフラ宮殿』とも称される砂漠の大宮殿は、過酷なオアシス都市で生まれ育ったファリンにとって、まさに地上の楽園パイリダエーザだった。

 その金沙宮殿の最奥に造られた後宮は、海風の通りを重視した無数の小型建造物で構成されている。主要な建物同士は屋根のある渡り廊下でつながっているが、基本的に壁がなく、午後の日差しがしっかりと差し込んでいた。

 ファリンは肩にかけていた薄手のショールを広げると、頭にふんわりかぶり直した。この淡い桃色のショールは、マハスティから『着ようと思って買ったんだけど、やっぱり色味が若すぎたから』と、先日譲ってもらったものだ。初めはちょっと可愛すぎるかなと思ったが、今では一番のお気に入りだ。

 縁取りに縫い込まれた石英のボタンカットビーズが、強い陽光を受けてにじいろにきらめいている。その光を思わず目で追っていると、何かに気づいたらしいサイードが、不意に一歩距離を詰めた。陛下推しのごそんがんそっくりの顔にひとみをじっとのぞき込まれて、ファリンは一瞬で石化する。

「君の瞳……明るい茶色だと思っていたが、今見ると緑だな。その瞳もあのカツラのように、何かで色を変えているのか?」

「ここっ、これは別に細工ではなくて、榛色ヘーゼルの瞳の特性みたいです。太陽の下だと光の散乱の関係で、その、緑がかって見えやすいみたいで……」

「なるほど、光の悪戯いたずらか。透き通るように美しい色だ」

 なんの照れもなく発された言葉に、ファリンは思わずカッと目を見張る。のどの奥から変な音が出そうになって、慌ててき込んでごまかした。ついでに素早く一歩引き、心臓に悪い顔から距離を取る。

「どうした、大丈夫か?」

「だっ、だいじょうぶです! なんでもありません!」

 ──そんなこと言うタイプの性格キヤラじゃないと思っていたから、解釈違いに驚いて!

 などとは言えず、ファリンは口をつぐんだ。さすがに本人に言っていいことと悪いことぐらい、わきまえている。

「そうか、ならいいが……」

 まだどこか釈然としない表情のサイードをうながして歩くこと、しばし。ようやくくだんの呪われていると噂の廊下にたどり着き、ファリンは通路に敷き詰められた石畳へと目をやった。平たく削り出された大理石の敷石は美しいが、れたりすると元からまあまあ滑りやすい。だがこの部分だけ特に滑りやすいのには、理由があった。

「現場はここか。普通の敷石に見えるが……強いていうなら、黒ずみがひどいぐらいか?」

 しゃがんで敷石に触れながら首をかしげるサイードに、ファリンは答えた。

「その黒ずみは、通路に沿うように植えられている木の樹液がたいせきしたものです」

 ここの廊下は後宮でも外廷に近い位置にあるという関係上、外廷にある高い建物の屋上から覗き込めるようになっている。それがこの宮殿のひそかな観光名所になっていることが一昨年に発覚して、通路沿いに目隠し用の樹木が植えられたのだ。

「この黒ずみが樹液だと? この木は特に樹液の出やすい品種には見えないが」

 首をかしげるサイードに、ファリンは葉っぱを一枚ちぎって見せる。そのまま指先で断面をなぞると、たちまち緑の線が肌に描かれた。

「ほら、傷口からあふれ出すほどの品種でなくとも、樹液はどんな木でも少しずつ出ているものなんです。特にここは通路にかからないよう小まめにせんていされているので、余計に断面から樹液が落ちやすかったんだと思います。その樹液のせいで、ここは他の廊下よりも滑りやすくなっているのかと」

「なるほど。だがその理屈では、妃のみが転ぶ理由にはならないと思うのだが」

「答えは、この靴のせいですね」

 ファリンはゆったりとしたバルーン状になっている脚衣シヤルワールすそを軽く持ち上げると、靴を見せるように右足首をかたむけた。青の繻子サテンでできたシャルワールには銀糸で花模様の縫い取りがされていて、布地へつやを与えている。その裾に半ば隠れている靴は、赤い天鵞絨ビロードで覆われていた。

「いま妃たちの間で流行している、西方伝来のかかとの高い木靴……これは靴底が狭く不安定で、かつ軸が硬い木製のため滑りやすいのです。でも使用人たちのように底の平たい獣皮の靴を履いていると、めったに滑ることはありません。それが使用人たちは無事で、妃たちだけが転ぶ理由です」

「なんだ、そんなもの、その靴を履かなければ良いだけじゃないか。知っていたのなら、なぜもっと早く皆に注意しなかったんだ?」

「それは……かかとの高い靴って、脚をとても長くれいに見せてくれるんですよ。その代わりに履いて歩くと指先がとても痛むのですが……その痛みに耐えて、滑りやすいことも薄々気づきながらも、皆さま好んで履かれているのです。それなのに『危ないからやめろ』だなんて言ったら、絶対にウザがられるじゃないですか」

 今回の噂の出どころは、おそらく後宮で働く使用人たちだ。危険なことに気づきつつ、それでも必死に自分を美しく見せて、少しでも皇帝の気を引こうとする妃たち。その様子にあきれとねたみが混じり合い、面白おかしいヒソヒソ話にされているのを……実は通りがかりに、聞いてしまったことがある。それが口から口へと伝わるうちに形を変えて、今のような呪いの噂となったのだろう。そんな状況で『危ないからやめましょう!』なんて言った日には、『あいつ何様だ』と次はこちらが妃たちの陰口の的になるのは、火を見るよりも明らかだ。下手な正義感で目立って損するぐらいなら、それぞれの自己責任ということでいい。かつて義父や義妹に正論を言って火に油を注いでしまった経験が、ファリンに口をつぐませていた。

「まさか……滑ると分かっていてあえて履くなど、俺には理解できん」

 呆れたような顔をするサイードに、ファリンは再び、困ったような笑みを返した。

「そこは価値観の違いでしょうか」

「君も、そうなのか?」

「それはまあ、せっかくいただきましたので……」

 実のところファリン自身には特に皇帝の目を引きたいという動機はなかったが、今履いているのは木靴が流行し始めた頃にデルカシュが贈ってくれたものだ。せっかくもらったのに履かないのは申し訳ない気がするし、なによりみんな履いているのに、一人だけ履かずに浮きたくないという気持ちもあった。

 実家からの支援がなく、流行はやりの靴をすぐに手に入れるのは難しかったファリンには『この色、貴女あなたにきっと似合うわ!』とデルカシュから笑顔で手渡されたことが、本当にうれしかった。それで少々痛くても、履き続けているのだ。

「分かった上での行動なら、改めて禁止したところで反発を生むだけだろうな……」

「ですね……」

「とはいえ、大事な身である妃たちが転びやすい状況はかんできん」

 サイードは深くため息をつくと、困ったように腕を組んだ。今はその治世を盤石にしたい時期なのに、皇帝にはまだ幼い皇子が一人と、皇女が二人しかいない。妊娠初期の妃が気づかず転んでしまう事態は、極力避けたいことだろう。

「ひとまず出来るのは……樹木に代わる目隠しの代用品が見つかるまで、廊下に樹液がまらないよう小まめに除去させることぐらいだろうか?」

 彼の口から出てきた策は、正しいが労苦を伴うものだった。

「古い樹液の汚れはかなり頑固ですから、除去にはひとを集めねばなりません。そうでなければ、現在の清掃担当者だけでは負担が大きすぎてしまいます」

 ファリンもかつて同じような黒ずみを落とせと義父から言われたことがあったが、表面を削り取るように力をこめてこそげ落とさねばならず、とても難儀した覚えがあった。なまじ使用人側の苦労が分かってしまうから、簡単に『やれ』とは言いにくい。

「なるほど、一理ある。だがよくそんなことを知っていたな」

 サイードに不思議そうな顔で指摘され、ファリンはぎくりとした。ここで妃として優雅な暮らしが出来るのは、ロシャナク族の人質として価値があると思われているからだ。もし使用人以下の扱いを受けていたなんて知られたら、今の待遇ではいられないか、最悪あの実家に返品される可能性もある。

「それは、ええと、実家でお世話になった使用人のおかみさんから聞きました!」

「そうか。では他に、早急に取れる策はあるだろうか?」

 ファリンが笑ってごまかすと、どうやらサイードはすんなり納得してくれたようだ。

「策というか、とにかく滑らなければ良いということであれば、焼いた貝殻を細かく砕いた粉を数日おきにけば滑り止めになり……なるらしい、です」

「なるほど、貝粉ならば倉庫を探せば在庫があるだろう」

 真剣な顔でうなずいているサイードは、どうやら本当に妃たちの身の危険を案じてくれているようだ。使用人の負担増もすんなり考慮に入れてくれたし、陛下の信任厚い内小姓頭という現在の地位を得られた理由は、この点でもやはり血縁だけではないらしい。

 そう考えると、なんだかもっとお役に立ちたくなってきたが、何か良い方法はないだろうか。そもそも妃たちが木靴を履くのは、皇帝のちようを争うためということは──。

 ──あ、この方法なら、流行を変えられるかも!

「他の策として、妃たちへの注意喚起のに、ひとつ提案があるのですが──」


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