第一夜 女子の平和を守るもの⑦
この国の皇都は、北東に面するハリジュ湾の沿岸に造られた、巨大な
その金沙宮殿の最奥に造られた後宮は、海風の通りを重視した無数の小型建造物で構成されている。主要な建物同士は屋根のある渡り廊下で
ファリンは肩にかけていた薄手のショールを広げると、頭にふんわり
縁取りに縫い込まれた石英のボタンカットビーズが、強い陽光を受けて
「君の瞳……明るい茶色だと思っていたが、今見ると緑だな。その瞳もあのカツラのように、何かで色を変えているのか?」
「ここっ、これは別に細工ではなくて、
「なるほど、光の
なんの照れもなく発された言葉に、ファリンは思わずカッと目を見張る。
「どうした、大丈夫か?」
「だっ、だいじょうぶです! なんでもありません!」
──そんなこと言うタイプの
などとは言えず、ファリンは口をつぐんだ。さすがに本人に言っていいことと悪いことぐらい、わきまえている。
「そうか、ならいいが……」
まだどこか釈然としない表情のサイードを
「現場はここか。普通の敷石に見えるが……強いていうなら、黒ずみが
しゃがんで敷石に触れながら首をかしげるサイードに、ファリンは答えた。
「その黒ずみは、通路に沿うように植えられている木の樹液が
ここの廊下は後宮でも外廷に近い位置にあるという関係上、外廷にある高い建物の屋上から覗き込めるようになっている。それがこの宮殿の
「この黒ずみが樹液だと? この木は特に樹液の出やすい品種には見えないが」
首をかしげるサイードに、ファリンは葉っぱを一枚ちぎって見せる。そのまま指先で断面をなぞると、たちまち緑の線が肌に描かれた。
「ほら、傷口からあふれ出すほどの品種でなくとも、樹液はどんな木でも少しずつ出ているものなんです。特にここは通路にかからないよう小まめに
「なるほど。だがその理屈では、妃のみが転ぶ理由にはならないと思うのだが」
「答えは、この靴のせいですね」
ファリンはゆったりとしたバルーン状になっている
「いま妃たちの間で流行している、西方伝来のかかとの高い木靴……これは靴底が狭く不安定で、かつ軸が硬い木製のため滑りやすいのです。でも使用人たちのように底の平たい獣皮の靴を履いていると、めったに滑ることはありません。それが使用人たちは無事で、妃たちだけが転ぶ理由です」
「なんだ、そんなもの、その靴を履かなければ良いだけじゃないか。知っていたのなら、なぜもっと早く皆に注意しなかったんだ?」
「それは……かかとの高い靴って、脚をとても長く
今回の噂の出どころは、おそらく後宮で働く使用人たちだ。危険なことに気づきつつ、それでも必死に自分を美しく見せて、少しでも皇帝の気を引こうとする妃たち。その様子に
「まさか……滑ると分かっていてあえて履くなど、俺には理解できん」
呆れたような顔をするサイードに、ファリンは再び、困ったような笑みを返した。
「そこは価値観の違いでしょうか」
「君も、そうなのか?」
「それはまあ、せっかくいただきましたので……」
実のところファリン自身には特に皇帝の目を引きたいという動機はなかったが、今履いているのは木靴が流行し始めた頃にデルカシュが贈ってくれたものだ。せっかくもらったのに履かないのは申し訳ない気がするし、なによりみんな履いているのに、一人だけ履かずに浮きたくないという気持ちもあった。
実家からの支援がなく、
「分かった上での行動なら、改めて禁止したところで反発を生むだけだろうな……」
「ですね……」
「とはいえ、大事な身である妃たちが転びやすい状況は
サイードは深くため息をつくと、困ったように腕を組んだ。今はその治世を盤石にしたい時期なのに、皇帝にはまだ幼い皇子が一人と、皇女が二人しかいない。妊娠初期の妃が気づかず転んでしまう事態は、極力避けたいことだろう。
「ひとまず出来るのは……樹木に代わる目隠しの代用品が見つかるまで、廊下に樹液が
彼の口から出てきた策は、正しいが労苦を伴うものだった。
「古い樹液の汚れはかなり頑固ですから、除去には
ファリンもかつて同じような黒ずみを落とせと義父から言われたことがあったが、表面を削り取るように力をこめてこそげ落とさねばならず、とても難儀した覚えがあった。なまじ使用人側の苦労が分かってしまうから、簡単に『やれ』とは言いにくい。
「なるほど、一理ある。だがよくそんなことを知っていたな」
サイードに不思議そうな顔で指摘され、ファリンはぎくりとした。ここで妃として優雅な暮らしが出来るのは、ロシャナク族の人質として価値があると思われているからだ。もし使用人以下の扱いを受けていたなんて知られたら、今の待遇ではいられないか、最悪あの実家に返品される可能性もある。
「それは、ええと、実家でお世話になった使用人のおかみさんから聞きました!」
「そうか。では他に、早急に取れる策はあるだろうか?」
ファリンが笑ってごまかすと、どうやらサイードはすんなり納得してくれたようだ。
「策というか、とにかく滑らなければ良いということであれば、焼いた貝殻を細かく砕いた粉を数日おきに
「なるほど、貝粉ならば倉庫を探せば在庫があるだろう」
真剣な顔で
そう考えると、なんだかもっとお役に立ちたくなってきたが、何か良い方法はないだろうか。そもそも妃たちが木靴を履くのは、皇帝の
──あ、この方法なら、流行を変えられるかも!
「他の策として、妃たちへの注意喚起の伝え方に、ひとつ提案があるのですが──」
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