第一夜 女子の平和を守るもの⑥

 話を終えて帰ってゆくデルカシュを見送ると、ファリンは卓子に残っていたお茶を手にしてほっとひと息ついた。なぜデルカシュは、あんなにも人に優しくできるのだろう。ファリンはしばし救われた思いに浸っていたが、間もなく次の来客が告げられて、はじかれたように立ち上がった。慌てて侍女に茶器の交換を頼むと、ピンと背筋を伸ばして訪問者を待つ。間を置かずに応接室に入ってきたのは、内小姓頭のサイードだった。

「その、例の件の裁定が下されたのでしょうか……」

 ひとまず型通りのあいさつを済ませて来客用の椅子をすすめると、ファリンはその対面に着席し、戦々恐々としながら返答を待った。再び床に下ろされた子トラはなにやら抗議の視線でこちらを見上げていたが、さすがに時と場合と相手が良くないだろう。

 その時、不機嫌そうにすみっこで丸まった毛玉の存在に気がついて、サイードはしばし、じっと視線を送った。

「あれは、猫か? いやしかし……」

 ──あれ、やっぱり勝手に飼うのはマズかった!?

 そう心配になり始めたところで彼はようやくファリンに視線を戻すと、何ごともなかったかのように、ひとつせきばらいをしてから言った。

「裁定を伝える前に、本日はアーファリーン妃に協力を頼みたいことがあって来た。陛下のご許可はいただいているから、少し時間をくれないか」

 先日内廷で捕まえられた時とは打って変わって、その口調は静かなものだ。

「頼みごと、でございますか?」

「ああ。だがその前に、妃である君が臣下である俺に対して敬語を使う必要はない」

「しかしながらサイード様は、陛下のおいでいらっしゃいますので……」

 だが仮に皇帝の甥でなくとも、ただの側室が玉璽を預かる内小姓頭より偉いとはじんも思えない。一体誰がそんな気まずい制度を決めたのか、ファリンは問い詰めたかった。

「そうか……ならば強制はするまい。気が向いたらサイードと気軽に呼んでくれ」

「は、はい……」

 ──気軽に呼べと言われても、なかなかできる気がしないんだけど……。

 そう思いつつも無難な笑みを浮かべて黙っていると、ようやく本題が始まった。

「それで、協力を頼みたいと言った件なのだが。あの日内廷で俺が陛下に報告していたこと、君も聞いていただろう?」

「いいえ内容までは。それどころではなくて……」

「それどころではない? 何かあったのか?」

「その、お二方のご様子を目に焼きつけるのが忙しくて、話の内容までは聞いていませんでした……」

 それを聞いたサイードは、思いきりあきれたような顔をする。

「それは、偽りなき本当のことなのか?」

「はい、本当です。なんだか、すみません……」

 ファリンが肩をすくめて小さくなると、彼は嘆息して言った。

「……まあいい。では、この後宮にまつわる呪いの噂を知っているか?」

「はい。存じております」

 後宮の外に出回っている噂は、『皇帝が過去に殺した者たちの呪いで、妃や子に不幸が絶えない。だがそれも表向きの話で、本当は皇帝に首をねられている』というものだった。しかし実際には事故と病で一人ずつ妃が亡くなっていただけで、もちろん処刑などという事実はない。だが後宮という秘された花園は何かと想像をき立てる場所ゆえに、この砂漠にあった古い王朝の崩壊が後宮から始まったという伝説と混同され、ちょっとしたことも誇張されて伝わったのだろうか。

 だが実際に後宮に来てみると、中でささやかれる呪いの噂は、外に聞こえるものとは違っていた。例えばぼうを自慢していた妃の顔が突然れあがったとか、流産したばかりの妃のヴィラからじゆ人形らしきものが見つかり犯人探しで険悪になったなど……ささいではあるが、確かに呪いと呼んでもおかしくない問題が続発していたのだ。

「ならば話は早いな。では第十六妃アーファリーンへの裁定を言い渡す。君には、それらを『呪いではない』と証明する手伝いをしてもらいたい」

「お手伝いを? なぜ突然、私なんかに!?」

 あまりにも予想外の言葉に思わず声を上げたファリンに対し、サイードはにこりともしないまま、だが丁寧に理由を教えてくれた。

「君は派閥を超えて、多くの妃たちと交友があるのだろう? あれほどの数の妃が揃って一人の下級妃のために頭を下げるなど、前代未聞のことだ。だから俺では警戒して口をつぐんでしまう妃たちからも、君ならば自然に話を聞き出せるのではないかと考えた」

「しかしながら、とても私なんかがお役に立てるとは……」

 交友があるとは言っても、それはあくまで例の『物語』を介してのことだ。そのついでに普通の雑談も少しはするが、本来は口下手なのに『話を聞き出す』なんて出来るだろうか。戸惑ったファリンはおずおずと断ろうとしたが、サイードはぴしゃりと言った。

「どうやら不満があるようだが、これは打診ではなく決定事項だ。異論は認められない。本来ならば、許可なく後宮から抜け出した妃が受ける刑罰のうち最も軽いものを受けてもらうところだが……どんな刑か、知っているか?」

「ひゃ、百たたき……」

 最も軽いとはいえ、百叩きの刑は生易しいものではない。り下げられたまま一昼夜もむちで打たれ続けるので、体力のない者はそのまま衰弱死してしまうこともある。

「処罰の代わりに、少々調査に協力してくれるだけでいい。悪い話ではないと思うが」

 冗談が一切通じなそうな真顔で、サイードは言い放つ。ファリンには選択肢などないも同然だったが、確かに悪い話ではない。これまでも後宮で何か問題が起こるたびに犯人探しが始まって、長期間ギスギスすることが多かった。ならばこの平和を守るためにも、協力を惜しむ理由はないだろう。

「一つ確認なのですが、サイード様は『呪いをかけた犯人をさがす』のではなく、『呪いではないと証明する』ことをお望みなのですね?」

「その通り。呪いだのという不確かな存在を、陛下は信じておられない。だが超常の力が働いていると妃たちに思わせ、不安を抱かせること自体、後宮という組織を運営する上で厄介なのだ」

「分かりました。私なんかでお役に立てるのでしたら、精一杯務めさせていただきます」

 ファリンが姿勢を正して頭を下げると、サイードは満足そうに頷いた。

「そうか、それは助かった。陛下より、アーファリーン妃が協力してくれるのならば、必要に応じて特別な便宜をはかってもよいとの仰せだ。例えば俺の同伴であれば、男装で後宮から出ることも許す、と」

 古の王朝では後宮から徹底的に男を排除していたらしいが、ここにはそれほど厳密な立ち入り制限はない。後宮には内小姓の少年たちが出入りしていて、衛兵も二人一組で敷地内を巡回している。たまに出入りする典医や商人たちも、基本的に男性だ。だが妃は常に複数の使用人たちに囲まれているので、間違いは起こりようがないとみなされているのだが……二人っきりで行動してよいなどと、サイードはどれだけ皇帝から信頼を寄せられているのだろう。

 ──なにそれ推せる……なんて、単にサイード様が私なんかを相手にするわけがないってことだけど。

 そう考えてファリンは内心苦笑したが、表向きは神妙に頷いた。

「それは……有難いことです。では、何かお力になれそうなことはありますか?」

「ああ。最近囁かれている、歩くと霊に足をすくわれて転ぶという、呪われた廊下の話は知っているか? しかもその霊の正体は妊娠中の事故で亡くなった第四妃で妃たちに恨みを持っているという話だが、まずはその聞き込みを頼みたい」

 内廷の頂点であるサイードが後宮のそんな細かな問題まで把握していたのかと、ファリンは内心で驚いた。だが、この問題の原因は、実はもう知っているのだ。

「そのことなら聞き込みはしなくても、原因は分かります。ただの事故が、皆の疑心暗鬼を誘っているだけですよ」

「なんだって!? どういうことか教えてもらえるか?」

 驚きの声を上げるサイードに、ファリンはすまなそうにまゆじりを下げて話し始めた。あの廊下は後宮内でも移動の要所にあって、実際に二か月ぐらい前から妃たちの転倒事故が相次いでいる。だから転んで怪我をしたという妃の話はよく耳にするのだが──。

「ですが不思議なことに、後をついて歩くはずの侍女たちは誰一人として転んでいないのです。それは単独で廊下を通る使用人たちも同様で、妃たちだけがあそこで転ぶんです。だから妃に恨みを持った霊の仕業だと、噂になってしまっているのでしょう」

「なるほど。だが妃だけが転ぶなど、本当にありえるのか?」

 いぶかしげな顔をするサイードに、ファリンは少し困ったように笑ってみせた。

「現場を見ていただいた方が分かりやすいので、今から行ってみましょうか」

 サイードと共にヴィラの入口に向かうと、ファリンは不織布フエルトの内履きを脱いで木製の靴に足を伸ばした。その瞬間、横をスルリと通り抜け、小さな影が外に出る。

「あっ、待って!」

 ファリンは慌てて手を伸ばしたが、影はたちまち通路の向こうに消えて行った。

「ああ、さっきの猫か。心配せずとも、腹が減ったら戻って来るだろう」

「そ、そうですね……」

 ──そういえば精霊様って、ごはん食べるのかな?

 どこに行くのか気にはなったが、そういえば封印が解けたばかりだし、身体を動かしたいだけかもしれない。ファリンは自分を納得させると、ヴィラを出て歩き出した。

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