バレンタイン

東雲そわ

第1話

 朝方に降りた霜が昼前には全て溶けてしまう、暖かな陽気だった。日陰にはまだ先週降り積もった雪が寄せ集められて小山のように残っているが、こんな日が続けばそれもあと数日で溶けてしまうだろう。


「こんな季節に草むしりとは、ご苦労さんだね」


 若葉マークを付けた車から降りてきた姉の言葉は、まるでそれが我が事であるかのように徒労感を帯びていた。「腹隠し」と自称するゆったりとした前掛け姿で、杖をつきながら歩く姿は、正月に会ったときよりも少し重たそうに見えたけれど、それを口にすれば勘気に触れることはわかっているので、代わりに時節柄の挨拶を口にする。


「暖冬様様だよ」


 運転席に座る姉の孫である太一と目が合うと、青年は緊張した面持ちで会釈を寄越す。姉の子供までは付き合いはあったけれど、姪の子供となると、さすがに縁が薄まり過ぎてしまい、他人にも近しい距離間となってしまっている。会釈の代わりに、軽く手を上げて応えると、ラバー軍手にこびり付いていた花壇の土がパラパラと落ちていった。


「よいしょっ……と」


 野良仕事用の折り畳み椅子から腰を上げるためにいちいち掛け声を要する身体にも、今年の暖冬は有難いことだった。若い頃に痛めたあちこちの神経がむずがることなく、この冬を穏やかに過ごせている。今朝、いつもより早く目が覚めて、昨晩の夕食の残りで軽く朝食を済ませ、野良仕事用のジャージに着替えて外に出たときはまだ少し肌寒かったものの、小一時間もすれば身体が汗ばみ、今はもう脱いだ上着を庭のどこに置いてきたのかすら、なかなか思い出せずにいる。


「この歳になると庭が広いってのも考え物だね」


 不自由な身体ではなく、年齢を理由にするあたりが、勝ち気な性格の姉らしいと思えた。


「畑が無くなっただけましだよ。庭ぐらいなら、俺一人でもまだ面倒は見れる」

「昔は土いじりなんて嫌がってたくせに、よく言うよ」


 姉は昔から、弟に対して手厳しい人だった。五歳も歳が離れているのだからもう少し可愛がってくれてもいいものだろうと思ったことは数知れないが、姉に甘やかされたという記憶は忘れる以前に存在しない。


「あれはムカデに噛まれたのがトラウマだったんだよ。子供の頃は家の周りなんて石をひっくり返してもダンゴムシぐらいしかいなかったのに、田んぼに水をひかなくなった途端にムカデが増え始めたの、あねさまは知らないだろ」

「おかあも噛まれたから知ってるよ。おとうがあたしのとこにまで電話かけてきたぐらいなんだから。お母さんがムカデに噛まれた! 大変だー! って。電話の向こうであの仏頂面が血相変えて慌ててる姿が目に浮かんだよ」


 当時のことを思い出したのか、姉が大仰に嘆息を漏らして見せる。晩年の両親が他家に嫁いだ姉をいつまでも頼りにしていたことは、独身のまま還暦を迎えた愚弟としては少なからず負い目を感じていた。その負い目からも解放された今、姉との関係は無垢になり、まるで子供の頃に戻ったような感覚さえ覚えるときがある。


 切り干し大根を干していたざるを脇に寄せて、縁台の中央に腰掛けた姉に、土埃を払い落しながら歩み寄る。


「それで、今日は何の用で?」


 長い時間腰を屈めていたせいで、堅くなった体を伸ばしながら、姉に問う。


「何って、あんたにこれ持ってきてあげたんでしょうよ」


 そう言って、姉は手に提げていた小ぶりな紙袋を差し出してくる。

 ラバー軍手を脱いでそのあたりに放り、まだ汚れていないシャツの胸元で軽く手を拭ってから、それを受け取る。


「……そうか、今日はバレンタインか」


 淡いピンクのラッピングが施された、掌サイズの小さな小箱がその中に入っていた。


「定年迎えて自堕落を謳歌するのはあんたの勝手だけど、こういうことは忘れないようにしなさいよ」


 杖に身体を預けながら、姉がこちらを見据えてくる。説教をする体勢に入ったことを察し、勘気に触れぬように言葉を厳選する。


「毎年忘れずに、ご苦労様です」

「ほんと有難く思いなさいよ。あんたは簡単に礼節とかを疎かにするんだから、私にぐらいはちゃんとお返しを寄越しなさい」

「今年は何か欲しいものでも? 去年はたしか……駄目だな、思い出せそうにない」

「期待してないし、別に何でもいいわよ。──何でもいいから、今度はあんたがうちに顔を出しなさい。太一も四月には東京の大学に行っちゃうんだから、その前にあんたの昔話でもしてやりなさい」


 姉の視線が、自身を乗せてきた車の方に向けられる。その運転席では、所在なさげにスマホを手にする太一の姿があった。


「……うるさいじーさんだな、って思われないかな?」

「私の我儘を聞いて車を出してくるぐらいにいい子なんだから、大丈夫でしょ」


 素っ気ない姉の言葉に、背中を押されたのはこれが初めてではなかった。両親を見送り、仕事を引退し、気まぐれで庭先に訪れる野良猫を話し相手に日々を過ごすようになってからというもの、唯一の肉親となった姉にはあれこれと世話を焼かれている。


 タオルを巻いていた白髪頭をボリボリと掻いてから、意を決して、車の方へと歩き出す。それに気づいた太一が驚いたような表情で手にしていたスマホを助手席に放り、慌てた様子で運転席から降りてくる。太一は姉や自分の血縁とは思えないほど、小綺麗な格好をしていた。


 途端に気まずさを覚えて、背後の姉を振り返ると、すっかり年老いた姉は縁台の上で我関せずと眠りこけていた野良猫の髭を悪戯に突いては、その揺らぎを楽しむかのように、しわくちゃな顔で微笑んでいた。

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バレンタイン 東雲そわ @sowa3sisu

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