【十】アルマトイ会戦
ボクはまた選択を誤ったのだろうか。もし、もう少し早くアパートへ帰ってきていたら。もしあの時村を離れていなければ。もしあの時、ビリグと手を組んでいたならば。もう少しマシな未来があったのだろうか。
薄暗い安置室。燃え盛る村。そして青い空の下、まるで地平線まで続く様な墳墓の列。それらが脳裏にこびり付いて離れない。不意に吐き気に襲われて、路地裏へと駆け込んで胃液をはき散らかす。ひゅーひゅーと荒い息遣い。吐瀉物がまるで底なし沼のように、ボクの脚を捕らえて放さない。
『お前もか、ハフムード』
違うッ! と心が絶叫し、その裏で冷え切ったはらわたがバダフシャンを見捨てたと呟く。彼らは女を殺した。ボクの妻の様に殺した。だから許せなかった。
その結果が、あの墳墓の列だった。真っ先に死ぬのは弱い者だ。老人、子供、女。それをお前は自覚していなかったといえるのか。だからお前はどこまで行っても商人紛いなのだ。
「大丈夫か、ハフムード」
大通りから差し込んでくる春の日射しを背にして、銀髪の女性がボクの肩を抱く。カーシュガリー。なんでここにいるんだ? そんな疑問も消し飛ばして、その胸の中に逃げ込む。分かっている。彼女は優しく包み込んでくれる。だからボクは卑怯者なのだ。カーシュガリーの温かな体温が、ちょっとだけ冷え切ったはらわたを温めてくれる。
「人の手は、目ほど遠くまで届かぬ。それを成そうというのは傲慢というものだ」
「でも、少し伸ばせば届いたのかも知れない」
「そうだな」
ぎゅっと、抱き留める腕の力が強くなる。
「安心しろ、私も同類だ。バダフシャンが早晩ああなることは予想していた。多くの者がそう思っていたんだ」
「みんな見殺しにした?」
「そうじゃない。みな、手一杯なのだ。私も、お前を助ける為なら他を捨ててでも駆け付けよう」
「どうして……そんな……」
「それはお前が、先に、見ず知らずの私に手を差し伸べてくれたからだ。それがたとえ一時の気まぐれだったとしても、私は一生忘れない」
そして二人は黙って、ただ抱き合った。通りの方から雑踏が響いてくる。そのカンクリの路地裏は、少し暖かかった。
—— ※ —— ※ ——
「しかし、カーシュはどうしてカンクリに?」
「名前を略すな。いやなに、御領主とやらの招待だ。話があるそうだ」
「なるほど」
二人でカンクリの大通りを歩いていく。偶然だね、ボクも御領主に呼ばれているんだ。えっと偶然かな?
役所兼、御領主の屋敷は先日の襲撃で焼け落ちていた。相当立派な建物だったんだがな。今は再建中だ。今度の御領主は質素な人物の様だ。過度な装飾は一切無く、煉瓦も木材も地目のままの部分が多い。ちょっと好感度が上がる。カーシュガリーが先に屋敷に入り、ちょっと間を置いてからボクは出頭する。下級役人がボクの符を確認してから、応接室へと案内した。
応接室はさすがにそれなりの装飾が施されていた。黒檀のテーブルと長椅子。床には西方の絨毯が敷かれている。長椅子には銀髪の君、カーシュガリーが座っている。そして彼女の前には丸眼鏡を掛けた男が。恐らくあれが新しい御領主様の様だ。
「おっと、まだご歓談中でしたか、これは失礼いたしました」
なんだよあの役人。まだ先客を応対中じゃないか。ボクは頭を下げて退出しようとしたが、それを丸眼鏡の男が止めた。
「いやハフムード殿。貴殿とカーシュガリー殿、双方に話があって呼んだのだ」
「はあ、そうでしたか」
ちょっとイヤな予感がするが、仕方が無い。一礼をしてからカーシュガリーの隣に座る。どこからか給仕が現れて、茶を注いでいく。みんな無言でボクのことを見ているから、まずはこれを飲めってことかな? なので一口含む。緑茶だ。味は、よく分からんな。美味いんだと思うけど。
丸眼鏡の男は新しい御領主、名をアンカンと言った。ちょっと驚いたのは、先のバダフシャン襲撃時に死亡したマオ・ハンの後任としてもう一人御領主がいたということだ。その者はマオの死後直ぐに着任したが、「戒」の軍勢が敗北した責任を取って早々に解任されたとのこと。
「単刀直入に申し上げれば、私はこの混乱を収拾する為に本国より派遣されました」
「ほう、混乱とは?」
「この北方高原における全てです。先々代の領主がバダフシャンと組んで私腹を肥やしていたこと、そして本国の余剰の武具が横流しされて騒乱の元凶となったこと。その全てです」
おっと、いきなり初手から認めたな。なるほど、ビリグが憤怒してカンクリを襲った訳だ。グルだったんだな、あの禿中年。
「ならば正直に言おう。我々は「戒」が意図的にやったのではないかと疑っている」
カーシュガリーの綺麗な眉間に皺が寄る。ボクも正直そう思っている。北方高原の遊牧民族たちが混乱していれば、「戒」に攻め込んでくる確率は低くなる。だからバダフシャンやキルメリア、ダリアといった部族を使って混乱の種を捲いたのだと。
アンカンはカーシュガリーの視線を真正面から受け止め、臆すること無く言葉を紡ぐ。
「大変失礼な物言いだが、本国は北方にまるで興味を持っていません。数年越しの内乱が終結し、航路の安全が確保された南方諸国との貿易で栄えております」
「貧しい北には興味が無いと」
「そういうことです。港には南方からの大型船が次々と到着し、豊かな物資が陸揚げされている。本国の上層部は、日々積み上がる賄賂の勘定に忙しいことでしょう」
アンカンの口元が皮肉っぽく釣り上がる。どうやらアンカンは有能だが非主流派であるらしいな。カーシュガリーは鼻息を鳴らす。一応、納得した様だ。
「それで混乱を収拾するといったが、実際どうするつもりだ?」
「カーシュガリー殿。貴殿が復興させたクリルタイ連合と、我々「戒」は同盟を結びたいと考えています」
「同盟……?」
あー、なるほど。クリルタイ連合を支援し、彼らに北方高原を治めさせるっていう腹か。同盟を結べば、北方の国境線を安定させられると。しかしなあ、それって。
「我らに今一度、バダフシャンを滅ぼせというのか」
そういうことだな。ビリグ改め暴虐王の率いる軍勢は「戒」の遠征軍を撃破したのち、再び北方高原全域で略奪を始めている。しかも「戒」の国に不満を持つ部族、又は食い詰めた者たちを取り込んで往年以上の勢力へと拡大中だ。新生バダフシャンといったところか。
「私たちの利害は一致していると思いますが」
「しかし、我らだけを矢面に立たせる気であろう?」
カーシュガリーは気づいている。「戒」は再度討伐軍を派遣する気がないのだ。豊かになると、大抵厭戦気分になるものだからな。大堤防の内側に籠もるつもりなのだろう。本当にバダフシャンが再度攻めてきたら、大堤防の外側にあるこのカンクリは見捨てられる。
「そうです。が、貴殿等が望むものは用意しましょう」
「望むもの?」
「米五千石。そしてクリルタイ連合が北方高原を統治した暁には、安定的な食糧の供給を」
ぴくりとカーシュガリーの指先が動く。アンカンは訪れつつある饑餓から遊牧民族を救えるだけの食糧を出すと言っていた。
「今年だけか?」
「三年」
「悪くない話だ。だが空手形ではどうしようもないが?」
アンカンはすっと首元に手を当て、上着の中に隠れていた首飾りを取り出した。青い、透き徹る様な宝石が輝いている。その表面には双頭の龍の紋様が刻まれている。双頭の龍。それは「戒」の皇帝一族の紋章だ。
「皇帝シエンヤンが一子、第四皇子アンカン・ウル・グイヤンの名において約束しよう。祖霊に誓い、約定違えた時はこの首を持って償うと」
カーシュガリーは一度北方へと戻った。クリルタイ連合の総族長とはいえ、これだけの大事を一人では決められない。各部族の了承を得る必要がある。カーシュガリーは一週間ほどでカンクリに戻り、同盟は締結された。
アンカンの行動は早かった。すぐさま米五千石が提供された。「戒」が保有する蔵の半分が開放される。運ぶのはボクだ。「倉庫」の扉を開けると、荷役の逞しい男たちが次々と米の詰まった麻袋を中に運び込んでいく。ボクは扉の隣に座って、ぼんやりとその作業を眺めている。これってさ、多分一日じゃ終わらないよね。ちょっとげんなりしてきた。
「なるほど、確かに面白い。呪術の類か何かか?」
アンカンが目を輝かせて「倉庫」の扉を見回したり、中と外を出たり入ったりしている。
「なんでしょうね。ボクも理屈はよく分からないんですよ」
転生とか特殊能力とかの話は、しても混乱するだけだろうだから割愛する。まあ実際、呪術なのか魔法なのかそれ以外なのか、ボクに分からないしね。
「御領主様はこの戦い、勝てると思っているのですか?」
「アンカンでいいよ。……そうだね、そこそこ勝算はあると思っている」
「そこそこですか」
「正直戦のことは分からん。だから勝てそうなヤツに掛け金を積む。それだけのことさ」
「しかし、なんでボクなんですかね」
先日ボクが御領主に呼ばれた理由。それは同盟の目付役に任ずる為だった。つまりクリルタイ連合軍に同道して、戦の結果を見届けろと。もちろん助力しても一向に構わん。そういう話だった。まさかカーシュガリーの前で断るわけにもいかない。ボクは了承した。
「なんだ噂を知らんのか。アルタイ族をバダフシャンから救い、龍を狩った強者たちを率いた稀代の軍師と言われてるぞ、お前」
「……えー」
それは誇大広告では? 訴えられない? 大丈夫?
「そういう威名で味方の士気は上がるし、敵は怖じ気づく。その程度は私にだってわかるさ」
「なるほどね」
ボクは深くため息をついた。まあバダフシャンとの決戦に顔を出す、口実が得られたと思えばいいか。報酬も出ることだし。
『お前もか、ハフムード』
もう一度、顔を合わせる機会はあるだろうか。もう過去には戻れない。だがもう一度会って話がしたい。ボクは遠くまで続く青空を眺めていた。
—— ※ —— ※ ——
春のうちは、ボクは各部族を巡って米を配る作業に従事した。部族の村に立ち寄り、「倉庫」を開いて米を降ろし、また次の村へと向かう。その繰り返しだ。目立つ荷馬車での移動じゃないからね。護衛はつけてもらったが、結局盗賊との小競り合いが数回起きたぐらいで済んだ。
まあそれは、クリルタイ連合の勢力圏内だからというのも大きい。北方高原をざっくり南北に分けると、南がクリルタイ連合、北がバダフシャンの勢力圏だ。北は酷い有様だと聞く。バダフシャンに襲われるか、もしくは傘下に入るか。そして粗方獲物を狩り尽くせば、次は南へと侵攻してくるだろう。
カーシュガリーは戦の準備に忙しい。各部族の戦士を纏め上げ、武具を与える。そして万が一に備え、戦士以外の民は逃げる準備をさせる。
そうやって春は過ぎていき、そして初夏を迎えた。
——広大なアルマトイ平原に対峙する、クリルタイ連合軍とバダフシャン軍。
軍規の違反者を処刑した後、ボクはカーシュガリーと共に櫓の上へと移動した。ササンと桐姫も一緒だ。ボクとカーシュガリーは単眼鏡で戦場を見渡す。左翼側ではもう既に戦闘が始まっていた。赤と青の騎馬軍勢が絡み合う様に交差している。中央と右翼は動いていない。
「左翼の連中は血気盛んだね」
「左翼の主力はキルメリアとダリアだ。仕方あるまい」
カーシュガリーは後ろに控えた伝令たちに次々と命令を下していく。伝令たちが連合軍全体へと散っていくと、やがてゆらりと軍勢全体が動き始めた。右翼が前進しつつ横へと隊列を伸ばし、バダフシャン軍の側面を捕らえようとする。
バダフシャン軍も動き始めた。先に戦闘を始めた彼らの右翼は放置し、中央と左翼が集まりつつ急速に前進し始める。真っ直ぐこちらの中央、本陣を目指して突撃する体勢だ。側面から激しく弓矢で射かけられるも、バダフシャン軍の勢いは衰えない。草原を勇猛な騎馬軍団が突撃していく。
クリルタイ連合軍の中央は迎撃しながらも後退していく。軍勢を左右の伸ばし、突撃してくるバダフシャン軍を包み込んでいく。ボクとカーシュガリーは櫓を降り、馬で移動を開始する。中央の後退速度が速い。元々櫓と本陣は放棄するつもりだったが、予定より早いな。
「それでは手筈通りに」
「ああ」
カーシュガリーと別れる。白馬に乗った銀髪の美姫が手勢を従えて遠ざかっていく。ボクの元に残ったのは同乗しているササンと、黒馬に乗った桐姫のみだ。ボクたちは戦場を大きく迂回していく。後背の河を渡り、小高い丘を楯にして走る。戦場は見えないが、風に乗って金属音や怒声が流れてくる。時折、本隊から逸れたのか、それとも戦場から逃げ出したのか、少数のバダフシャン兵と遭遇するが、桐姫が即座に斬り捨てる。手早いね。
太陽の位置も随分と下がってきた。桐姫がすんと鼻を嗅ぐ。
「随分と遠ざかったな」
「匂いで分かるの?」
「血の臭いを嗅ぎ分けるのは得意だ」
ボクも嗅いでみるが、草原の青い匂いしかしない。ササンも真似をする。きっと焼肉の匂いなら嗅ぎ分けそうだ。
「こっちだ」
桐姫が馬首を返す。近くに森と呼ぶにはやや密度の低い林が広がっている。桐姫に続いてボクの馬も続く。林の中をゆっくりと馬を進めていくと、桐姫は馬を止めた。ボクも馬を止め、前方を注意深く見つめる。
前方には木々が開けていて、そこに荷馬車がずらりと並んでいた。簡単な天幕が設置されていて、血塗れの、恐らくは負傷兵が担ぎ込まれていく。その旗印は赤。間違いない、バダフシャン軍の輜重部隊、その駐留地だ。
ボクの今回の役目。それはバダフシャン軍の後方を攪乱すること。相手の補給線を絶つことは、いつの時代でも戦争の常道だ。その為に味方部隊を敵の後方へと送り込みたいが、無論敵だって黙って見ている訳はない。お互いの動きに合わせて部隊は動き、結果膠着する。
だが数人程度の少人数であれば、気づかれることなく敵の後方に回り込むことも可能だ。そしてボクには「倉庫」がある。予め三百名の騎馬部隊が「倉庫」の中で待機している。少数でバダフシャン軍の後方に出て補給線である輜重部隊を発見し、それを騎馬部隊で襲撃する。これが今回の作戦だ。
「さて、それじゃあやりますかね」
ボクは馬から下りると「倉庫」を開く為に念じる。扉がここには無いどこかから浮かび上がっている様なイメージ。それが具現化する直前、ボクを激痛が襲い、そのまま転倒した。
「ッ!」
なんだ? 声にならない悲鳴を上げる。気がつけば右の太股に矢が生えている。立ち上がれない。ボクは咄嗟に身体を捻り、
「行けッ!」
と叫んだ、視線の先には、こちらに駆け寄ろうとした桐姫とササンの姿があった。二人は一瞬躊躇した後、しかし下馬しようとした馬に駆け上がって一目算に来た道を逃げて行く。ボクの耳元を幾つもの矢がすり抜けていき、二人の馬の居た場所を貫く。良かった、間に合った。
ボクは、矢が飛んできた方向へと視線を巡らせる。少し視界が霞む。ゆっくりと木々の間から、大きな赤毛馬に乗った戦士が現れる。
「……よくここに居ると分かったな」
「お前の「倉庫」の能力は知っている。そしてオズグが死んだ戦いの状況。龍の一件。なるほど、そういう使い方もあるのかと感心したものだ」
傾いてきた夕陽が戦士の顔を照らし出す。顔の十字傷。それは今は暴虐王となったビリグだった。
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