【四】アルタイ族の村落

 「あーはっははははっ! おっ? おーい、ハフムードッ! こっち来てお前も飲めよう!」


 酔っ払いがいた。美人がほろ酔う姿には風情があるが、美人なら誰でもそうなる訳じゃ無いということを彼女は身を思って教えてくれている。腰まである艶やかな黒髪、切れ長の目尻、そして桜色の唇。いつもなら綺麗な旋律を奏でる弦楽器の様な美声も、奏者次第ということだ。今やそれはドヤ街の街角で響くダニ声に等しい。悲しい。東方風の出で立ちで赤袴を履いた美人、それがハフムード商会第十席次、桐姫である。


 アルタイ族の村は季節によって移動する。主として家畜を追う生活をしている為だ。冬に近づきつつあるこの時期は南下し、アオルソイ湖畔に村落を開いている。青い屋根の円形の移動式住居が多数並んでいて、その中心には広場が設けられている。


 そこで、この昼間っから酒盛りが開かれていた。どこから持ってきたのか、人の大きさほどもある大瓶が、この地方独特の乳酒が甘い香りを漂わせている。一度飲んだことがあるが、カルピス割りみたいな結構美味い酒だ。度数は高めだが。


 そして大甕の周りには、アルタイ族の若い男たちが死屍累々と横たわっている。その上で凱歌を上げるように、桐姫が乳酒がなみなみと継がれた盃をごくごくと飲み干している。


 あーあ。たぶん桐姫を酔わせて(中略)しようと思ったんだろうな。可哀想に。桐姫はな、結構直ぐに顔が赤らんで陽気になる。だから男たちは勘違いするんだよな。その先がとてつもなく長いんだよ。ボクは桐姫が酔い潰れたところを見たことが無い。酒豪であり、剣豪である。


 「なあなあ随分遅かったじゃないかあ。妻である私をこんなところに置き去りにしてぇ、またササンといちゃいちゃしてたんかあ? なあ、いちゃいちゃしてたんかあ?」


 千鳥足で接近してくる桐姫から逃れようといるボクであったが、しかし酔っ払っていても剣豪。瞬間、その動きが機敏になり、がしっと抱きつかれてしまう。ぷはあと甘ったるい酒の匂いが吹きかけられる。酒臭いなマジで! 百年の恋も冷めるとはこのことだよ。


 「はいはい、いちゃいちゃしてましたよー。ササンはね、お前と違って節度を持ってお酒吞むからね」

「なんだと? 私のどこが綺麗やっちゅうねん!」

「話繋がってませんね!?」

「お前も吞めーッ!」

「ぐふっ?」


 桐姫はボクの両頬をがしっと掴み、接吻してきた。驚く間もなく、桐姫の方から乳酒の甘い液体が注がれてきて、そのまま嚥下してしまう。頬を掴んだ桐姫の細い指、その薬指には紫色の指輪が輝いている。それはボクの指に塡められている九個の指輪の一つと、同じ装飾のものだ。


 「夫婦なのだから愛し合うのは構わんが、人前でというのは慎みが無いな。東方人は皆こうなのか?」

「しらなーい」


 馬を降りたカーシュガリーが真顔で問うが、ササンはジト目でボクの方を睨んだまま答えた。





  —— ※ —— ※ ——





 「約束通り剣は返そう」

「おお、我が愛刀たち。寂しかったぞ」


 小一時間後。カーシュガリーが自分の移動式住居の中から持ってきた二本の剣を、愛おしそうに受け取る桐姫。白い鞘の曲刀と黒い鞘の直刀。桐姫はそれぞれに白姫、黒騎と名付けて大事にしている。何でも「白いお姫様を助けに来た黒い騎士様」がモチーフなんだとか。メルヘンチックだね。まああれで容赦無く人を斬るんだけど。


 ボクの現スポンサーはアルタイ族であり、厳密にはカーシュガリー本人と契約している。彼女が資金を提供し、それを元手にボクが米を買い付けてくる。そういう契約だ。ここで問題となったのは信用だ。ボクは今まで契約を破ったことが無いが、それを他人に証明するとなると中々難しい。


 ペチェネグぐらいの大商人であればその辺りの情報は収集しているし噂も自然と集まってくるものだが、カーシュガリーは商売とは縁遠い遊牧民族だ。さてどうやって雇った商人を信用するか。


 ということで桐姫が人質になっていたわけだ。建前は連絡役だけどね。ボクとしては、桐姫の安全が確保されるかという別の信用問題も発生するが、そこはカーシュガリーを信じた。信用問題は結局、どこかのタイミングで誰かが空手形を掴むリスクを冒す必要はあるのだ。


 かくしてボクがちゃんとアルタイの村に戻ったことで、桐姫のお役目は無事終了した訳だ。桐姫が何かそわそわした視線を送ってくる。ああ分かってるよ、あとで飴チャンあげような。


 カーシュガリーとボクたちの周りに、村落の女たちが集まってきている。男共は放牧している家畜を追っているか、狩りに行っているか、もしくは広場で酔い潰れているかだ。女たちは皆カゴを手にしている。どうやらカーシュガリーから、米を買い付けてきたという話は聞いている様だな。


 「それでは、買い付けた物を見せて貰おうか」


 カーシュガリーが周りに宣言する様に大きな声を出す。女たちはちょっとざわめく。そりゃそうだよな。ボク手ぶらなんだもん。買い付けたという米がどこにもない。


 ボクは咳払いを一つして、人の輪から一旦出る。何も無い空間に向き合って、両手を合わせてしばし沈黙する。カッと目を見開き、んぎぎぎと力を込めて両手を開いていくと、なんとそこに「扉」が出現した。


 大きさは縦横二メートルぐらいだろうか。両開きでドアノブがついている。女たちは驚き、突然出現した「扉」の周囲に集まる。出現したのは「扉」だけ。反対側を覗き込む者もいるが、そちらは黒一色だ。


 ボクはドアノブを掴み、押して開ける。蝶番の音はしない。中は、壁自体が微かに発光している様な不思議な空間だった。「扉」の向こう側の大きさは、たぶん幅高さ共に二十メートルぐらい。そして奥行きは果てしなく続いている。扉の下にストッパーになる木片を噛ましてから中へと入る。入口のすぐ脇には、米の詰まった麻袋の山がある。ちょうど三百石分だ。


 これが金貨三枚の物を金貨三枚で買っても儲かる理由その二。神様?からボクが貰った特殊能力、つまり「倉庫」だ。


 この「倉庫」のメリットは、

 其の一、別空間に存在しているらしく現実空間で場所を取らない。

 其の二、ボクが移動すると「倉庫」も移動する。つまりボクを基点として開閉が出来る。

 其の三、「倉庫」の中に幾ら物を入れても現実空間には影響しない。例え三百石の米を入れておこうが、重さでボクが移動できなくなる、ということが無い。


 と言う点だ。つまりこの「倉庫」を使えば運搬費がゼロ。ついでにいえば倉庫代、保管代もゼロだ。どうだい、商人なら喉から手が出る程欲しい能力だろう? 転生前にあの分厚いカタログを隅から隅まで読んで選んだ甲斐があるというものだ。


 これがどれだけの利益を生むかといえば、今回のケースでいえば、米一石を金貨三枚で買い付けて、それが市況の値上がりで金貨五枚で売れる。本来ならここで運搬費で金貨一枚かかり、更にスポンサーと利益を折半するとすれば金貨半分の利益になる。


 しかしボクの場合は運搬費が掛からないので、スポンサーと折半しても金貨一枚の利益が出る。通常の倍だ。つまりボクはこの「倉庫」の能力だけで、利益を倍に出来る。うっひょー、素晴らしいね。


 ボクは麻袋をとりあえず一袋外へと持ち出す。台の上にあった砂時計をひっくり返し、そして扉を閉める。その姿がゆっくりと消えていくのを見て、女たちはまたざわめく。何かの見世物かと思われているのかも。


 カーシュガリーは袋を開け、中に入っている米を女たちに配っていく。


 「これが米だ。殆どの者が食べ慣れないものだろうが、今年は麦が不作だ。今のうちに慣れて欲しい」


 女たちは戸惑いながらも、不平を鳴らす者はいなかった。物珍しそうに手のひらで米を転がしたり、女同士で調理の仕方を相談したり。そうして麻袋一袋分を全部配り終わる頃には、辺りにはカーシュガリーとボクたちだけになっていた。


 カーシュガリーはふうと溜息をつくと、ボクに向けて口角を上げて笑った。どきっ、良い笑顔だ。やめてくれ、ボクには妻たちがいるんだ。でも新しい妻はウエルカムだが、どうだい?


 「ハフムード、よくやってくれた。これで来年は飢えずに済む」

「どういたしまして。米はどこに置いておくんだい?」

「少し離れたところに蔵を作らせた。明日にでも納めに行こう」

「蔵か。そうすると夏に移動できなくなるな?」

「仕方あるまい。飢えるよりはマシだ」


 カーシュガリーはそう苦笑いする。遊牧民族にとって、高原を回遊出来ないのはさぞかしもどかしいだろうな。ボクも元トラック運転手。移動するのに慣れると、もう事務所で事務仕事は出来ないよ。


 しかし聡い娘だ。麦の凶作の情報を得て、代替え食糧を調達し、保存する場所も確保する。手筈も良いし、よく先のことが見えている。どうだい? うちの商会に入ってみない? 女性の多い、フレンドリーな職場です。


 でもアルタイ族が順風満帆という訳でもない。


 「ついてこい。族長に紹介しよう」


 カーシュガリーがその銀髪を翻して先導する。どうやらボクは隣人として信用されたらしい。それでもササンと桐姫は同行を許されなかった。まあ仕方が無い。ボクがカーシュガリーの後ろをついていくと、馬に乗った男たちの一団と擦れ違った。狩りに出ていた連中か。馬の背に狩られた鹿が乗っている。


 「……ちっ」


 男たちに舌打ちされました。理由は簡単。ボクは最初、カーシュガリーの愛人という身分で村落への入村を許可されたのだ。アルタイ族、結構閉鎖的なんだよね。でも、だからといって愛人ならオッケーっていうのも、よく分からない。カーシュガリーによれば、アルタイ族は血縁と誓いを重視する。愛人は、その形は歪であれ愛を誓った関係だから、商人よりランクが上らしい。商人としては悲しいなあ。


 しばらく行くと一回り大きな移動式住居が見えてきた。あれが族長の住居だね。入口に青い旗が揺らめき、歩哨が立っている。


 「姫」


 カーシュガリーが入口に近づくと、中から一人の若い男が姿を現した。カシムだ。短く刈り揃えた頭髪、鷹のように鋭い眼光、そして高い背。ボクより頭一つ高い。カシムはカーシュガリーと言葉を交わした後、ぎろりとボクのことを睨んだ。正に獲物を狙う鷹のような眼だ。いやー、まあ舌打ちされないだけマシか。


 カシムは若い衆の筆頭、副族長的な存在だと聞いている。あれだ、多分ゆくゆくはカーシュガリーと結婚して族長になるとか、そういうのだろ。羨ましいね。それ故、名目上とはいえその愛人と紹介されたボクを厳しい目で見るんだろうね。残念ながらね、肌一つ触ってはおりませんよ。


 住居の中は薄暗い。世話役だろうか、何人か老婆がいる。そして建物の一番奥に大きな寝台が据え付けられ、そこに族長が居た。


 寝ている。面会といっても、本当に面を合わせるだけだ。族長は、今は安らかな寝息を立てている。噂には聞いていたが、病魔に冒されているという話は本当だった様だ。まだ四十歳そこそこのはずだが、まるで老人のような肌をしている。生気が感じられない。


 「父上、紹介する。ハフムードだ。我らアルタイの新しい隣人にして、恩人だ。彼のお陰で、来年は飢えずに済みそうだ」


 カーシュガリーは父親の耳元で、そっと囁く。しかし反応は無い。彼女は目を伏せ、そしてボクの方を見る。ボクは寝台に伏せた族長に対して一礼をし、名乗る。


 「私の名はハフムード。カーシュガリーの愛人にして商人。そしてアルタイの新しい隣人です。これからも末永く良き友誼を」


 そうしてボクら二人はゆっくりと寝台から離れ、住居を後にした。


 「では、私の家で一旦精算をしようか! それと報告もな」


 何かを吹っ切る様にカーシュガリーが大声を上げる。歩哨がびくっと反応する。カーシュガリーはまだ若い。年齢は聞いてないが(死にたくない)、成人してまだ間もないはずだ。少女といえる年齢である。そっと肩を抱いて慰めたくなるが、ちらっとカーシュガリーが腰に差した小剣に手を伸ばしかけたのを察して、やめた。


 「私の取り分を使って、お前には買い付けてきて欲しいものがある」

「ん? まだ何かあるのか。米なら、まだ追加で調達出来るが……」

「剣と鎧、そして弓矢。利益の全部を使ってもいい」

「それは……」


 カーシュガリーが振り返る。銀色の髪が花の香りを運んでくる。


 「暴虐王さ。来年には戦争になるだろう」





  —— ※ —— ※ ——





 暴虐王。バダフシャン族、その族長の異名だ。


 アルタイ族と同様、ここ北方高原の遊牧民族の一つだ。アルタイが南部を遊牧地とするのに対し、バダフシャンは北限に位置する。元々は貧しい矮小部族に過ぎなかったが、約二十年前に現族長に代替わりしてから急進した。今では高原北部をほぼ支配下に納めている。


 暴虐王の名前の通り、粗暴残虐なことで有名だ。従わぬ者は容赦無く殺し、従う者も気に入らなければ殺す。相手に財があれば殺して奪い、女は略奪して殺し、子供は洗脳して配下に加えるか殺す。そんな恐怖統治でやってきている王である。


 よくもまあ二十年も保っているよ。悪知恵だけは働くんだろうな。周辺の民からはすごく嫌われているが、表立ってそんなことを言えばすぐに攻めてくるので、みんな黙っている。商人からも当然嫌われている。信用と契約が通じぬ相手は商人の敵である。


 ——翌日。買い付けた米を、その新設したという蔵に納める為に村落の外へと出た。ササンはボクが肩車をし、桐姫は後ろをしずしずと歩いている。カーシュガリーは村の男を五人ほど引き連れている。荷役だ。ボクの「倉庫」には約三百石の米がある。一人じゃ無理だ。


 「あれは?」


 ボクの視界に、柵のような物が見えた。よく見ると男たちが柵を作ったり、またその柵の前に空堀を作っている。まだ一部分だけだが、それらはぐるりと村落を取り囲む様に作られているように見えた。


 「馬防柵だな。出来れば砦も作りたいが、さて。人出があっても木材が足りぬ」


 カーシュガリーが手を振ると、柵を作っている男たちから歓声が上がる。カーシュガリーの人気は高い様だ。ボクは舌打ちされるので、相変わらず好感度ストップ安である。


 「本当に戦争なると思っているんだ」

「ハフムードはどう見る? 商人としての見解が聞きたいな」

「商人の動き次第だな。どこぞの目端の利く商人がバダフシャンに米を売りに行けば、まあすぐ攻めてくることはないでしょうね」


 麦の凶作。北であればあるほど厳しいだろう。飢えると分かれば、略奪しに来る可能性は高い。他部族に頭を下げて食糧の融通を頼む人柄であれば、暴虐王なんて名前はつかないだろうしね。


 「お前はどうなんだ? 売りにはいかないのか?」


 カーシュガリーの何気ない言葉に、ボクはピタリと足を止める。しまった、顔の表情が消えてしまったか? ぽんぽんとササンがボクの頭を叩くと、腹の底が少し暖かくなる。再び足を進める。


 「商人で、バダフシャンと取引したいと思う奴はいませんよ」

「そうか。私としては、このまましばらく我らと取引してもらえると有り難いよ」

「一年ぐらいなら専属契約してもいいですよ?」

「ほう? 見返りには何を欲する?」

「一晩閨を共にする」


 と言ったら、カーシュガリーの連れていた五人の男に囲まれた。手出しはしてこない。こないが、超ガンつけられた。男たちの鼻息が噴き掛かる。更に頭の髪の毛は引っ張られ、何やら背中には鋭く固い物が突きつけられている。いやー人気者はつらいね。


 カーシュガリーはというと、真剣に悩んでいた。


 「それでいいなら安いものだが」


 お嬢さんお嬢さん。言い出したボクが言うのもなんですが、もう少し自己評価は高く見積もった方が良いですよ。


 「しかしそうなるとお前には次期族長になって貰わんとな。それで良ければいいぞ」


 思わずイエスと答えかけてしまった。だれがボクの自制心を褒めて欲しい。だから髪を引っ張らないでお願い。あと背から血が出てませんか? 大丈夫?


 「ま、まあ。冗談はさておき、しばらくは付き合いますよ」

「そうか? 助かるな」


 そう言ってみせたカーシュガリーの笑顔はとても輝いていた。そうそう、そうやって笑顔だけで人を動かすんだよ。自分に備わっているものは最大限利用しなくちゃ。


 まあそんなこんなで。少し離れた林の中にある蔵に辿り着くと、ボクは「倉庫」を開いた。そして男たちが中の荷物を蔵へと移動させていく。男たちだから、なぜかボクも含まれている。おかしいな? こういう時は、普通商人は監督役なんじゃないの。それをササンと桐姫の笑顔が許してくれなかった。


 太陽も頭上を過ぎて傾いて来た頃。作業はようやく終わり、ボクたちは元来た道を戻っていく。その途中、例の馬防柵の建設現場で何やら男たちが騒いでいるのが見えた。すぐさまカーシュガリーが駆け出していく。速いなあ。


 「ここは我らアルタイの土地だ。余所者は去れ!」


 男たちは、馬上の若者を取り囲む様に槍を構えていた。浅黒く焼けた肌、逞しい胸板。短く切り揃えられた白髪。駆け付けたカーシュガリーが眼を細めたのは、その若者が着ている革鎧の装飾だった。肩口に獣の毛が揺らめいている。その色は、赤い。


 「頼む! 親友が死にかけている! 助けてくれ!」


 馬の背には、確かに誰かが積まれている。そのぶらりと下がった指の先から、血が滴り落ちている。


 「どこの部族の者だ! 言え!」

「……北は、バダフシャン族の戦士。名をビリグと言う」


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