【三】ササンとカーシュガリー

 ボクは枕にはちょっと五月蠅い勢だ。トラック運転手の経験から結構どこでも寝られるスキルを身につけてはいるが、安眠するとなると話は別である。今夜の枕は比較的コンパクト、柔らかさの下に固めの層が感じられる珠玉の一品だ。顔を埋めるとその柔らかさを両頬で感じつつ、鼻先は固い胸骨で潰れる。その両方の感触が感じられるのが、良い。


 両手でその脇をさすると、少し浮かび上がっているであろう肋骨に触れる。ササンはまだ成長途上だからな、肉感は少女のものである。ちなみに胸の辺りの肌色は白である。ササンの褐色の肌は日焼けの色なので、衣類の下の肌は元の色の白なのだ。


 そんな訳でボクは今、ササンの胸を枕代わりにして熟睡している。ササンはしなやかな腕でボクの頭を抱いて、すらりと伸びた脚でボクの胴体を締め付け、そして安らかな寝息を立てている。どうだ、羨ましいだろう。これも夫としての特権である。そうなのだ、ボクとササンは夫婦だ。ササンの左手薬指には青い指輪が嵌まっている。勿論ボクが贈ったものだ。


 ササンと知り合ったのは、もう三年は前になる。ササンは中央砂漠を越えた西方地域出身だ。当時はボクはまだ一人で旅商人をしていた。ササンと出会ってすぐに意気投合、結婚と同時に商会を立ち上げた。ハフムード商会の誕生である。


 ちなみに商会主でもあるボクが第一席次。一番新参の桐姫が第十席次になる。どうだい、結構小さな商会だろ? ちなみに商会員は各地に散っていることが多いので、全員が集まることは滅多にない。


 ササンは商会員だが、商才に関しては正直無い。喋るのは数カ国語出来るんだが、文字が西方語しか読めない。あと算術がね……今は随分マシになったが、ボクと出会った時は「いち、に、たくさん!」だったからな。


 但し一点、オンリーワンともいえる能力を持っていて、それ故にボクと共に行動することが多い。秘書的な役割かな? スケジュールの管理はしてくれないけどね。整理整頓が得意なタイプには見えないだろ? 今穿いている下着だってボクが買って来たんだぜ。まあ具合が悪くなるとその愛嬌のある笑顔で一点突破しようとするのは、悪くないとは思っている。


 そんな訳で、ボクは深い眠りからうつらうつらと目覚めようとしている。あー、もうちょっと。もうちょっとこの柔らかさを堪能してから、と寝ぼけていたところへガツンと強い衝撃が襲った。


 「っつう、痛ってえ!」


 眼球の奥に火花が散るとはこのことである。ボクは脳天を押さえて飛び上がった。ササンの腕が、その寝ぼけた肘がボクの脳天を痛打したのだ。丸っきり油断していたから、痛いのなんのって。涙が出てきた。当のササンはごろんと転がりつつ、何事もなかったかの様にすやすやと寝ている。


 そうだった、ササンは寝癖が悪かったのだった。特に目覚め前には。運動神経が良いので、食らうとダメージが半端無い。次からは気をつける様にしよう……。





  —— ※ —— ※ ——





 もう寝ている気分では無い。ボクは小さな天幕から出る。空は片方が星空、もう片方から太陽が登り始めている。青い草原に光が次々と照らされていく。やや冷たく乾いた風が吹く。その匂いを嗅ぐと、北方高原へと入ったんだなと実感する。


 商業都市カンクリを離れてから三日ほどが経過した。ボクとササンは一頭の馬に乗り、一路北を目指している。北には雄大なる北方高原が広がる。数多の遊牧民族が家畜を追いながら、広大な大地を駆け巡る。その舞台だ。


 なぜ北方高原を目指しているのか? それは勿論商売の為。カンクリで買い付けた米を売る為である。実は売り先はもう決まっている。今のボクにはスポンサーがついているのだ。


 商売をするには、商品を買い付ける為の資金が必要だ。商人たちはそれを自分で稼いで用意するか、それとも資産家などに資金を提供してもらうか、大体そのどちらかだ。


 今回、ボクの場合は後者というわけだ。恐らく今年は西方で獲れる麦が不作だ。それも例年に無い大凶作。しかし逆に米は豊作。だから麦の代わりに米を買い付け、麦が不足する北方の遊牧民族に売ると。そういう算段だ。


 なるほど。我がスポンサー様はかなりの情報通である。麦が不作になるという情報は一般的にはまだ出回っていない。もし本当に麦が不作なら、今の内に米を買い付けておけば大商いが出来る。需要が増えるから米の価格も上がるだろう。本当に麦が不作ならね。


 これが金貨三枚で売っているものを金貨三枚で買っても利益が出る理由、その一だ。商品の値段は状況によって大きく変わる場合がある。それを見極めて買い付け、そして売るのだ。たぶん一石当たり金貨五枚ぐらいまでは高騰するんじゃないのかな。特に北に運ぶのには運搬費もかかるしね。


 そんな訳で、買い付けた三百石の米を持参して北を目指している。解体した天幕を括りつけた一頭の馬にボクとササンが乗り、ゆっくりと街道を行く。米はどこにあるかだって? それはもう少ししたら分かる。


 北方高原を南北に貫く街道といえば聞こえは良いが、実際には二本の轍が続いているだけだ。これが戒の国であれば要所要所で石畳だったり橋が架かっていたりするのだが、この辺りは街道を整備する様な大きな国家は存在しない。辛うじて大商人たちが自前で道標を設置する程度だ。


 なので、こんなことも稀に起きる。


 「あ」


 最初に気づいたのは前に乗っていたササンだった。右手遠方、三頭の馬が駆けてくるのが見える。当然人が乗っている。あまり良い予感はしない。でもこちらは一頭に二人乗っている。駆け出して逃げられるとは思えない。


 予想通りというか、三頭の馬はボクたちの行く手を遮った。二頭は前、もう一頭は後ろだ。馬上の人間は全て漢。髭面で、腰には剣を差している。身につけている革の鎧は、この辺りの遊牧民族特有の物だが、さて。両肩には動物の毛が生やしてあって、その色は赤だ。


 「お前、どこへ行くつもりだ?」

「アルタイ族の村まで。商人なんだ」

「この街道を整備したのはバダフシャン族だ。通りたければ通行税を払うことだ」


 ボクはちょっとだけ眉を動かす。バダフシャン族。通称赤族とも呼ばれる。北方高原に棲む遊牧民族の中でも、最北域を遊牧地とする民族だ。最近は南へ進出しているとも言われる。なるほど、その格好から見ても彼らがバダフシャン族と見えなくも無い。


 「税はいかほどで」

「金貨一枚」


 ボクは眉間に皺を寄せる。大きく出たね。馬一頭と二人分の通行税としては高すぎる。その空気を察したのか、後ろの漢は剣の柄に手を掛ける。


 「暴虐王の名を知らぬでもあるまい。大人しく従った方が身の為ぞ」


 前に陣取った男が諭すように告げる。まあ実際は脅しているんだけどね。バダフシャン族の暴虐王といえば、もうその字面で大体お察しである。他の部族を侵略し、慈悲とは程遠い仕打ちをすることで有名だ。つまりオレたちは乱暴者ですよ、素直に出すモノ出しやがれと言っているのだ。


 「ねえ兄い」


 ササンが後ろに乗ったボクに顔を向ける。目を丸くし、ちょとんとした顔をしている。


 「こいつらバダフシャンじゃないよ。春先にカンクリの酒場でくだ巻いてたもん」


 ぴくりと、男たちの表情がざわめく。


 「な、何を言うか! バダフシャンに冗談は通じぬぞ」

「『最近商売上がったりだなー、なんかいい話ねえのかよ』『んなもんあったら、オレが自分で稼いでるぜ。お前等になんて言うもんかよ』『ヒデえな兄弟、そんなんだから女にも逃げられるんだぜ』『うっせい』」


 男の声色を真似て、ササンがすらすらと一人芝居を始める。男たちは最初ぽかんとしていたが、途中で何かに気がついたのか、顔がさっと青ざめる。


 ササンのオンリーワンな特殊能力。それは異様に記憶力が良いことである。一度見た顔、聞いた言葉を忘れない。瞬間記憶能力者とでもいうのかな? 例えば証文とかが後で改竄されたとしても、ササンは最初の文面を丸ごと憶えているので通じない。非常に頼りになる能力だ。


 なるほどね。この男たち、たぶん商人崩れの野盗といったところか。バダフシャンの威を借りて偽の通行税を巻き上げているのだ。バダフシャンや暴虐王の名前は口にするが、自分たちがそうであるとは微妙に言っていない。そんなところが小賢しくて、元商人っぽい。


 「そういうことなら、通行税を払う必要はなさそうだね」

「そうだな小僧」


 三人の男たちが一斉に剣を抜く。どうやら強盗に転職した様だ。一本の剣先が突きつけられる。その先にあるのは、ササンの鼻先だ。


 「有り金置いて去れ。そうすれば命までは取らないぜ」

「……それはつまり、有り金置いていかなければ殺すという意味ですかね?」

「そういうことにな」


 るな、とまでは言い切ることが出来なかった。ぎょっとした表情で男がボクのことを見つめている。男の馬がひひんと小さく嘶いて横移動すると、ササンに突きつけられた剣先が遠のいた。


 ボクは何もしていない。ただ、腹の底が心底冷え切っただけだ。もうこれはどうしようも無い。これでも自制しているんだ。『ひょっとしてお前、この子のことを、ササンのことを殺すと言ったのかな?』という言葉を飲み込んでいる。


 そこまで言って、もしイエスという回答が返ってきてしまったら、ボクは一線を越えてしまうだろうから。


 ふと、ボクは視線を上げた。どこまでも続く薄い青空。その丁度ボクらの上を、白い鷹が旋回している。それを見て、ボクは人の心を取り戻した。良かった、どうやらお迎えが来てくれた様だ。


 とすっ、と男の馬の足元に矢が突き刺さった。馬が動揺し、立て直す為に男が必死に手綱を握る。剣は地面に落ちた。


 「あ」


 ササンが再び呟く。その視線の先、丘の向こうをこちらに向かって疾走する騎馬の群れが見えた。総勢五名程度か。僕の目では遠くてよく見えないが、しかし馬に騎乗した人物たちが何やら青色に染まっているのは分かった。そういえば突き刺さった矢の羽の色も青である。


 「アルタイだッ!」


 男の一人が叫ぶと、三人は皆慌てて馬首を返した。そして騎馬の群れとは反対方向へ向かって遁走していく。剣は捨てていったので、三本の剣が残された。ササンが馬を降り、剣を手にする。何やら鑑定士の真似事をして眉間に皺を寄せていたが、結局ボクに渡してきた。良い品には見えない。しょんぼりとするササンだが、持っていくことに決めた様だ。さて運搬費が出ればいいが……。


 騎馬の群れは二群に分かれた。四騎はやや方向を変え、男たちが逃げていった方向へと駆けていく。残る一騎はゆっくりとこちらへと向かってくる。もうこの距離であればボクの視力でも良く見える。こちらに向かっているのは、銀色の髪を草原の風になびかせた美しい少女だった。騎乗する馬も純白。ササンで無くても一度見たら忘れられない。


 「すまんな、出迎えが遅くなった」


 彼女の名はカーシュガリー。この一帯を遊牧地としているアルタイ族、族長の一人娘だ。そしてボクのスポンサーである。


 「いやなに、丁度良かったよ。荒事になっていたら身ぐるみ剥がされてたよ」


 ちなみにボクは腕っ節はからきしである。ササンも猫のごとき運動神経を持つが、戦い向きじゃない。


 「用心棒ぐらいは雇うべきだな」

「その用心棒さんは、おたくの村で飲んだくれていると思うんですが」

「あ、なるほど。そうだったな、はっはは」


 愉快そうに笑っているけど、笑い事じゃないよ。アンタが人質にって取ったんじゃないか。酷い話だ。あれだよね。腕っ節に自信がある人は、どうも他人も同じぐらい力があると勘違いしている節があるよね。このお嬢さん、この細い身体で剣術も弓術もすごいんだよなあ。


 白い鷹は悠々と上空を舞っている。しばらくすると先の四騎が、元商人現盗賊の男たちを全員捕まえて戻ってきた。カーシュガリーはボクから話を聞いた結果、四人を放免にした。但し馬は没収された。


 「バダフシャンの名は使わない方がいい。連中に捕まったらこうはいかんぞ」


 カーシュガリーが最後にそう忠告すると、男たちは愛想笑いを浮かべて逃げていった。これでカーシュガリーの名も世に広まっていくだろう。商業都市カンクリでも、北方の部族に絶世の美姫がいると噂になり始めているからな。比較的穏便な対処をしているから、商人たちのウケはいいだろう。


 もっとも、そんな美姫ならば捕らえてみようかという粗暴な連中も出てくるかも知れないな。ボクは辞めとけと忠告しておくぞ。カーシュガリーとはまだ短い付き合いだが、急所を潰された

男を二人知っている。詳細は(中略)だ。分かるだろ、大体。


 「さて、ではそろそろ村に向かおうかハフムード」

「そうだなカーシュガリー」


 そうしてボクたちは白い鷹に導かれて、一路アルタイの村を目指して進み出した。


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