本日はお日柄も良く

惟風

未だにあなたのことを夢に見る

 生クリームだ、と思った。


 真っ白でふわっと広がった姫乃ひめののドレスの裾は、僕が想像していたよりもずっと柔らかく丸く、ショートケーキの上に絞られたクリームみたいだと。

 彼女の姿が眩しく見えるのは、だから、その白さのせいに違いなかった。眩しくて、眩しすぎて、それが目に染みて、だから。

 視界が滲むのは、そういう理由に他ならない。

 そういうことにしといてほしい。

 綺羅びやかなライティングも手伝って、新郎と披露宴に入場してきた彼女はまさに光り輝く存在として万雷の拍手に迎えられた。

 ありがとう、そのおかげで誰も僕の涙に気づくことはない。

 いや、彼女のおかげで泣いているのだから、ありがとう、はおかしいか。


 姫乃とは幼馴染かと思うくらいにいつも軽口を叩きあって、でも出会ったのは社会人になってからで、SNSのオフ会で意気投合したことから始まった関係だった。趣味が合って、肩肘張らない距離感がどうしようもなく心地良かった。

 どうして、この先もずっと側にいられるなんて思い上がっていたんだろう。


 僕達が出会う前の彼女の恋愛話は酒の肴に散々聞かせてもらったけど、現在恋人がいるかどうか、その肝心なところをついぞ聞けなかった。頻繁にSNSでやり取りして、色んな人達とオフ会で遊んで、だから特定の恋人はいないと思いこんでいた。いや、そう思いたかった。今一番身近にいるのは僕で、何でも話せる気のおけない仲だって。

 ネットで知り合った他の仲間達は、年月を経る毎にライフステージが変わって、遊べる頻度が減ることがあった。社会人になる者、転職して引っ越しする者、結婚・出産する者。

 彼女は、居酒屋でそういう人達の近況を噂しては「変わらず側にいてくれるのは紺ちゃんだけだね」なんてしなだれかかってきた。僕はただ身体を固くして縮こまってしまうばかりだった。真っ赤になった僕の顔を覗き込んで彼女はいたずらっぽく笑った。明らかに僕の反応を見て嬉しそうにしていた。

 決定的な言葉は言ったことなかったけど、きっと僕の気持ちはバレバレだった。

 だから、姫乃がSNSで婚姻届と指輪の画像を上げた時、僕は口でも文章でも「えっ!?」としか言えなかった。祝福の言葉は今も伝えられていない。


 ねえ、どんな気持ちで僕を結婚式に呼んだの?

 僕の想いを知ってて、知らないフリをして振り回すのを楽しんでくれていたんじゃないの?


 華々しく始まった披露宴は乾杯やケーキ入刀を終えると歓談の時間になった。

 新郎新婦それぞれの親戚や友人達がこぞって高砂に群がっていくのを、僕はワインをがぶ飲みしながら眺めていた。

 お色直しも、友人達の余興も、親への手紙も、それぞれに感動がこもっていたんだろう。でも僕はすっかり酔いつぶれていて、それ等の尽くを見逃した。

 それなのに、キャンドルサービスに回ってきた彼女の笑顔はくっきりと脳に焼き付いた。

 彼女が着替えたドレスはピンク色で、初めて会った時に着ていたウサ耳パーカーを思い出させた。


 お開きになる頃にやっと人間らしい姿勢を取った。会場の出口で、お見送りに立った新郎新婦が引き出物の紙袋を一人一人に手渡していた。

 フラつく足取りで、着飾った姫乃の方へ向かう。

 残っているのは僕だけで、他の招待客は皆会場を後にしていた。二次会にでも向かったんだろう。僕は出ない。


 馬鹿にするなと招待状を突き返せば良かった。

 もしくは、往年の名作映画よろしく、式場からドレス姿の君を連れ出せば良かった。

 どちらもできないまま、流されるまま僕はスーツを着て、皺がつかないようソロソロと御祝儀袋に札を入れて、ミミズのような字を受付で書いて、着席したんだ。


 後悔ばかりが押し寄せて、苦いものが喉の奥からせり上がってくる。吐き出すのをこらえるために僕は押し黙ったまま彼女の前に立った。

「来てくれてありがとう」

 姫乃は花のように笑った。

 切り揃えた前髪は艶々と光を反射している。他の男のための装いなのはわかっていても、ため息が出るほど彼女は美しかった。それこそ、お姫様みたいに。

 差し出された紙袋は、見た目よりも重かった。

「あっ……えっと……」

 この期に及んでまだ「おめでとう」と言うことができない僕を見て、彼女は顔を伏せた。よく見ると、肩を震わせている。心底おかしそうに笑っているのだ。

「……もう、お祝いの言葉くらい言ってよ」

 そう言うと、顔を上げて、僕を真っ直ぐ見つめて目を細めた。大きく息を吸うのがわかった。


「ね、キミはホントに変わらないね。ふざける時は饒舌なのに、真面目な雰囲気になったら途端に貝みたいになっちゃうの。ねえ、一度でも私に踏み込んできたことある? 恋人がいるか、どんな人が好きか、キミのことをどう思ってるか。何も聞いてこなかったよね。キミが私をどう思ってるかも、話してくれることはなかった。態度に出せてると思ってた? そうね、キミが私を意識してることは伝わってきた、でもそれだけ。ずっと受け身だった。待ってるだけ。私達は友達だった? それ以上を望んでなかった? わかんないから、振り回してみたの。そうしたらキミは嬉しそうだったから。そして、その関係でずっと留まろうとしてたから、置いてったんだよ」


 いきなり捲し立てられて面食らった。僕は、何を聞かされたんだ?

 彼女の言葉を咀嚼する。呑み込むほどに、怒りと屈辱感が僕を満たした。顔が赤くなっていくのがわかる。

 姫乃の隣には新郎が立っている。少し長い髪を後ろで纏めた、高身長の男だった。彼女は面食いのようだ。鋭い視線を僕に向けている。

 やめろ。

 僕を、見るな。

 何か言い返したいのに言葉が出てこない。目を剥いて、ただ魚のように口をパクパクさせることしかできなかった。


「――な」

「うん」

 言葉より先に涙が出そうな僕を尻目に、姫乃と新郎は頷きあった。

「は? ナッタ?」

 やっと発せたのはそれだけだった、それ以上を続ける前に背中に強い衝撃を感じた。


「が……っ……」


 呼吸もままならない焼け付くような痛みが、延髄を通って脳天を突き抜けた。

 肩と額を何かが打ち付ける。当たったのは床で、いつの間にか倒れ込んでいたことに気づく。

 揺れる視界、見上げた天井には浮かんでいた。


 暗い灰色の背中。

 白い腹。

 流線紡錘形の胴体に、尖った頭と尾鰭。

 陸の、それも建物内で見ることはありえないはずの、巨大な一匹の魚。


「出たな、バームクーヘン・シャーク!」

 新郎が弾かれたように叫んだ。


 バームクーヘン・シャーク。

 それは、想い人と結ばれなかった者達の怨念が作り出した、殺戮の化け物。

 僕は何故かそれを即座に理解した。僕から生まれた存在だからかもしれない。


「ごめんね紺ちゃん、あいつを召喚するためにキミをここに招待したの。キミの感情を揺さぶるためにすごくひどいこと言った、ホントにごめん」

 謝罪の言葉を口にしながらも、彼女の視線は僕でなくサメに向いている。

「今日こそお前を仕留めてやる!」

 ドレスの裾を勢い良く捲り上げる。中から出てきたのは、小型のガトリングガンだった。

「ありったけをくらえ!」

 姫乃はサメに向かって躊躇なく撃ち始めた。サメは彼女を見下ろしたまま微動だにしない。

 シャンデリアが粉々に砕けて、キラキラと降り注ぐ。全弾、とまではいかないけれど多数の弾が魚体を穿った。

 血を流しながらサメは彼女に咆哮する。威嚇は会場を震わせる。

 と、サメに向かって飛び上がる影があった。新郎だ。刀のような刃物を振りかぶっている。

 その刃が届く前に、サメが尾鰭で新郎を弾いた。新郎が壁に叩きつけられる。鈍い音に続いて、苦しそうな呻き声。


「ゆっきー!」


 彼女が金切り声をあげる。

 いつも甘くふわふわ笑っていた彼女の、聞いたことのない割れた音。

 そうか、あいつのことをゆっきー、て呼んでるのか。草野だったか草森だったか、そんな名字の新郎。

 僕のことは下の名前で呼んでくれたことなかった。いつも、名字の紺藤から取って、紺ちゃん、って。


 姫乃が新郎に駆け寄る。サメに向かってガトリングガンを手に立ちはだかる。無造作に撃つ。でもサメは怯まない。ゆっくりと降りてくる。

「私が相手よ!」

 彼女の張り上げる声が震えている。僕は、まだ横たわったまま動けない。ただ、見ている。

 サメは姫乃の眼前に迫っていた。ほんのひと噛みで彼女の頭を潰せる程、近く。


「……俺の……女に、手ぇ出すんじゃ……ねえよ」

 姫乃の後ろで、新郎が刀を杖代わりに起き上がった。口の端が切れて血が滴る。荒い言葉遣いも、すっかり汚れたタキシードも、彼の魅力を貶めることはない。

 僕が見つめるのと同じくらい、サメは二人を睨んでいる。

 弾切れになったのか、姫乃はガトリングガンを捨てて胸元から短剣を取り出した。


「待て姫乃! 勝手に動くな!」


 壁に叩きつけられたダメージが残っているのだろう、新郎は身体を動かすのが遅れた。姫乃がサメに飛び掛かるのを止められない。

 サメが口から丸いモノを吐き出した。煙草の煙に似た、巨大な白い輪。

 それは彼女を瞬時に拘束した。柔らかそうに見えるのに、彼女が身体を捩っても一向に緩む気配は無かった。


「ちょっ……何これ!」

「姫乃!」


 サメが大口を開ける様が、スローモーションのように見えた。


 潰れた紙箱が僕の目の前に転がっている。中からぐちゃぐちゃになった洋菓子がはみ出している。

 バームクーヘン。

 結婚式の引き出物の定番。僕にとっては、失恋の象徴。紙箱を引き寄せる。僕は、何をしているんだろう。

 化け物を呼び出すダシにされて、目の前で二人の仲睦まじい様子を見せつけられて、一方的に罵られて。

 彼女のことも、助けられなくて。

 君が好きだと打ち明けられなかったのは、怖かったからだ。

 自分が傷つきたくなかったからだ。

 君を、失いたくなかったからだ。

 そうしてずっと逃げ続けて、他の男に掻っ攫われて。

 さらに、あんな化け物にまで奪われるのか。

 僕だけ何もできずに。


 気がついたら、バームクーヘンの箱をサメに投げつけていた。白い箱の角が、サメの眼球に命中した。サメは身を翻して僕に向き直った。


「バームクーヘンとかけまして」


 自分でもびっくりするくらいに裏返った声が出た。噛まなかっただけ上出来だ。


「は?」

「紺ちゃん?」

「黙って」


 サメは、攻撃してこない。


「恋愛シミュレーションゲームとときます」


 サメはその場でじっとしている。耳を傾けるように、冷たい目を僕に向けている。

 やっぱりだ。こいつは。

 姫乃が“くらえ”と言ったら、全く避けることなく銃弾を受け止めた。

 新郎に“手を出すな”と言われたら、攻撃しなかった。

 “姫乃動くな”と聞いたら、姫乃を拘束した。

 人間の言葉を理解している。そして、その言葉に反応を返している。


「その心は」


 なら、すぐには理解できない言葉を投げかけてやればいい。意味を考えさせて、動きを止める。時間稼ぎをするんだ。そうすれば。


「どちらも」


 視界の端に、動くモノがあった。

 サメの頭上に影が差す。


を思うかは人によるでしょう」

「ちと苦しいんじゃねえか!」


 新郎がそう言うのと、サメの頭に刀を突き立てるのは同時だった。

「ゆっきー!」

 彼女の嬉しそうな叫び声は、サメの断末魔に掻き消された。



「改めて、ごめんね」

 ボロボロのドレス姿のまま、姫乃は僕に頭を下げた。

 彼女を救えて清々しい気持ちと、「あっ煽った発言の撤回自体はしてくれないんだ」という心底残念な気持ちと、「結婚式っていう人生の一大イベントで命懸けのサメ退治しようとしたの?」という気持ちでぐちゃぐちゃだった。

「俺からも礼を言う」

 草ナントカっていう新郎は、彼女の肩を抱いて晴れ晴れとした顔で笑った。


 サメに真っ向から対峙したように、彼女に対してもっと早くぶつかっていたら、隣にいたのは僕だっただろうか。そんなことを考えても、あまりに全てが遅すぎた。


 改めて渡されたバームクーヘンは甘酸っぱくて爽やかで、苦味もちゃんとあるレモン風味だった。




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