第23話 言わぬが花

 三浦さんと別れた後、あたしは何となく、輸入楽譜専門店に足を運んだ。――こうやって、あこがれのピアノ曲の楽譜を眺めたり、次に何を弾こうかな、などと考えている時間はとってもとっても幸せ。この前、村松さんと一緒に楽譜を買いに行ったときに、村松さんが躊躇いなく購入したショパンのバラード集を眺める。いいな。一生のうちに、弾けるようになりたいな。あれからしばらく村松さんとはご無沙汰しているけれど、譜読みの調子はいかがなものだろうか。憧れを胸に仕舞い、あたしは楽譜をそっと閉じて、棚に戻した。そもそも、音楽を本格的に勉強しようと思う人は(もちろん、優秀な講師からの教えは当然乞うとして)こういう海外の楽譜の原典版を購入するものである。あたしにはそれすら、惜しまれる。輸入楽譜って、薄いものであっても3000円はする。そんなお金があれば、3時間も4時間も、グランドピアノが借りられる。でも、こういうのにポンっとお金を出せるような人間でなければ、音楽を勉強できないというのだろうか。――それが、三浦さんの言う本当の音楽、なのだろうか。

 あたしと三浦さんは、レッスン順が前後だったことから仲良くなった。あたしは三浦さんの後だったから、少し早めに教室に到着すると、三浦さんの演奏を聴くことができた。彼女の演奏はダイナミックで、インパクトがあって、いつもあたしはこんなパワフルな演奏をしてみたいと思って聴いていた。


「毎日1時間ちょっと、いつもハノンを最初から最後まで1冊丸々練習するの。そのあとツェルニー50番を5曲程度、全部指定の速さで、もちろん暗記で弾けるようになるまで繰り返すんだからね。それからようやく曲の練習かなぁ。1週間でショパンエチュード1曲と、バッハの平均律1曲ずつ、譜読みを終わらせることもあるよ」


 彼女に、ピアノ練習のコツを訊いたことがあったが、そうしたら上記の答えが返ってきたので、あたしみたいな社宅住まいの、しかも音楽を専門に勉強する予定でない人間には現実的ではないな、と感じるなどした。ハノンに1時間もかけてたら、あたしの場合ウォーミングアップだけで1日の練習時間が終わってしまう。





 家に着くころには、外はすっかり暗くなっていた。


「おかえりー。どうだった? 同じクラスの子と遊ぶのも、久しぶりだったんじゃない」

「楽しかったよ。……そういえば、あそこのショッピングモールに、ストリートピアノ設置されてたよ」

「最近流行りだもんね! 弾いてきた? なんか言われた?」

「まさか、弾かないよ」

「あら勿体ない」


 母の明るい声に出迎えられて、三浦さんに再会した話をするのはよそう、と思った。当時から、母親は三浦さんのことがあまり好きではなさそうな様子だったから。


「あの子、3つも4つも年下の子に向かってマウント取るからなんか苦手よ」


 かつての母の言葉を思い出し、一人、苦笑いをした――


 そんな、ほんの少しだけほろ苦い、春の初めの出来ごとだった。



――――――――――――

本日の1曲

メンデルスゾーン 無言歌集 『春の歌』 Op.62-6

世間は秋の到来を待ちわびておりますが、この話は春休みを迎えております。笑

無言歌集、以前紹介したことありましたっけ??????

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