第21話 森下音楽通り
妙な老人は決してあたしを追いかけるようなことはしなかったけれど、席に座ったまま、何か怒鳴り続けていた。ドアが閉まり、何を言っているかはもう分からない。
乗っていた電車は勝手に出発した。あたしは今、どこの駅で……? 周囲を見渡すと、そこそこ見覚えのある景色。あたしの自宅の最寄り駅から2駅ほど手前で降りてしまったのだが、奇しくも、ここは中学2年生の途中まで通っていたピアノ教室の最寄り駅であった。交通費の節約と思い、歩くか。改札口に向かう。
「森下音楽通り」と書かれたアーケード街をまっすぐ歩く。ギター・ウクレレ専門の中古楽器店に、ほとんど楽器は置いていないけれどかなり珍しい楽譜までそろえてある小さな楽器店、そして主にシニア層を対象とした、ジャズギター教室。そういった町だから、ここには音楽好きと見受けられる方々が多く歩いている。背中に大きな楽器を背負っているから、分かる。――彼は、ギター。いや、ベースかもしれない。彼女は……チェロかな。サイズ的に、コントラバスではないと思う。小さな女の子がお母さんと手をつないで歩いている。お母さんは、どうやら女の子のものと思われる小さいバイオリンケースを背負っている。ある程度音楽に興味のある人なら、チェロかコントラバスか、バイオリンかヴィオラか、ベースかギターかなんてすぐに見分けられるのだろうけれど、あたしは結構、ピアノ以外の楽器に疎かったりする。
ピアノ弾きとしては、そういう、「持ち運べるタイプの楽器」に強い憧れを抱いている。「自分の好きなものはこれです」、「自分はいつもこの楽器と共に時間を過ごしています」というのを周囲に分かってもらえるというのは、きっとワクワクするだろう。もしもピアノがめちゃくちゃ小さく折りたためて、持ち運べる楽器だったら。もしかしたら、街中で声をかけてもらえるかもしれない。「あ、あなたもピアノ弾くんですか? 高校生でもがんばってるなんて珍しいね」「何の曲が得意なの? ロマン派? 古典派?」「えー、どこのピアノ使ってるの、見せて。……ヤマ○派か! うちカ○イ派」みたいな会話ができるかもしれない。そういうの憧れる。
「ねえ、もしかして、美織ちゃん?」
ふいに名前を呼ばれた。振り返るとそこにいたのは、懐かしい顔だった……が。
誰だったっけ?
あたしに声をかけてきた彼女のことを一瞬、思い出すことができなかった。しかし、ここが森下音楽通り、かつて通っていたピアノ教室の付近であったことと、あたしより数歳年上だ、という情報から、何とか記憶を掘り返すことに成功した。
同じピアノ教室に通っていた、
「三浦さんは、今も……そこのピアノ教室に通ってらっしゃるんですか」
ピアノを続けているのか、と訊きそうになって、慌てて修正する。
「うん、そうね。でも、月に1回しか通ってないよ、基本的には大学で習ってるからさ」
ということは、ちゃんとあの後音大に進んだのか。良かった。ピアノって、どんなに本格的に続けていても、あるとき挫折して、ぱったりと辞めてしまうなんてことはよく聞くから。なんか、でも、ピアノを早々に辞めたあたしが勝手にこんな心配をするなんて失礼な話だな、と思った。
「美織ちゃんは? その後何してるの」
何してるのって。何って……普通に相変わらず中高一貫校の学生やってるけれど、三浦さんが訊きたいのって、たぶんそういうことじゃないよね。
「えっと……高校生になりまして、次2年生です」
「うん?」
そんなことは分かってるが? みたいな顔をされた。
「えっと、それで……何ら特別なことは何もないのですが、そういえば最近、合唱祭の伴奏者やりました」
こういうとき、部活の1つでもやっていたら良かったのだろうけれど。
「あら、ピアノ、続けてたの?」
「あの……お教室辞めてしまってから、ずっと弾いていなかったんです。でも、クラスにピアノ弾けるって子がいなくて、仕方なく」
言い訳がましくて、ちょっと聞き苦しいかな。そもそも、ピアノを愛し、ピアノの道に進んだ人間相手に「仕方なく」ピアノを弾きましたなんて、失礼じゃないか?
「あ、でも、いざ弾き始めてみたらやっぱりピアノって楽しいなーなんて……だから、最近またちょっとピアノの練習再開してみたんですよね」
「まさか……独学でってこと?」
三浦さんが、ほんの一瞬、眉間にしわを寄せたような気がした。……そうか、この人そういうタイプの人だったもんな……
あたしは気まずそうに、小さく頷くのだった。
――――――――――
本日の1曲
プロコフィエフ 束の間の幻影
1分程度の短い曲が20個集まって1つのアルバムを成しているのですが……
これを演奏するときって、原則20曲全部演奏するものってマジですか? そんなん個人のリサイタルでしか無理じゃないですか……
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