第16話 面倒ごとが増えていく!
たまには綺麗で大きなグランドピアノを触った方がやる気も起きるだろうと、久々にレンタルスタジオに足を運び、みっちり3時間の練習を終えて帰るころだった。
自分が使っていた隣の防音室から、わずかに音が漏れ出てくる。――あたしは、この漏れ出てくる音楽をこっそり聴くのがとても好きだ。ピアノ弾きとしては少し意外だったのだが、こういう状況でよく演奏されているのは、有名なポップスのピアノソロアレンジだったりする。ピアノを習うとき、おそらく多くの人がクラシック曲からスタートするにもかかわらず、だ。少しネットで調べてみると、今や確かにポップスやジャズ演奏を習うコースも設置されているピアノ教室が増えている。その影響もあるのかもしれない。
だからこそ、その日聴こえてきた音楽が、ベートーヴェンのピアノソナタだったことに驚いたのだった。有名な、月光の第3楽章。これはあたしもかつて弾いたことのある楽曲だった。どんな人が弾いているのだろう? ふいにそんな疑問を抱き、防音室の小窓をそっと覗く。中では、スーツを着て、髪の毛をハーフアップにしたOLが一生懸命練習していた。――あの人の職業は、間違いなくピアニストではない。業界は分からないけれど、昼間は普通のOLとして働いていて、仕事が終わったら会社を飛び出し、予約してあるピアノレンタルスタジオに駆け込むのだろう。あたしも、あんなふうに一生ピアノを弾き続けるのだろうか、たとえそれで食っていけないとしても。そんなことを考えた。あたしは、あたしが大人になった姿を全く想像できない。
「ねぇー、最近付き合い悪いって」
「そうかな? そんなことないと思うけれど」
そして、学校ではこれである。何時も仲良くしている親友グループから、ついに苦言を呈された。最近、ピアノの練習や桜木くんへの指導案の作成のために、皆を置いて一目散に帰宅したり、ピアノレンタルスタジオに駆け込んだりしているため、実際皆と遊ぶ時間を十分に取れずにいた。おまけに、金欠なのだ! レンタルルームも、自分で借りればそれなりにお小遣いを消費する。計画的な御利用を……
でも実際、とあたしは思い直す。あたし自身、そんなに長い時間をピアノに割いても良いのだろうか。ピアノが飯のタネにならないのは、桜木くんだけではなく、あたしだって同じ。思春期の大事な時期をピアノから離れて過ごしたあたしがピアノに関連した職業に就くことはまず不可能だと分かっているのに、親友たちに寂しい思いをさせてまで一生懸命取り組まなければならないことなのだろうか?
「ねぇ、もしかして……」
親友が、ぐっとあたしに顔を近づけて渋い顔をする。
「もしかして、何……?」
「もしかして、今度こそ桜木くんと付き合い始めたでしょ」
的外れな指摘に、昭和レトロなノリでずっこけそうになる。
「無いです。なんならつい3日ほど前に初めて下の名前を知りました」
「どういうきっかけ?」
「彼のお母様に偶然遭遇したのよ」
「親公認?」
「違うって、そういうことじゃない」
面白い戯れなのだけれど、親友の追求があまりに長時間に渡り、少々面倒になってきた頃だった。
「失礼しまーす。高中さんって子、いますかぁ?」
少し間延びした女の子の声が聞こえた。
「あたしですが」
「ちょっと、来てくれる?」
小柄で、目が大きくキュートな雰囲気をまとった彼女は、唐突にあたしの腕をぎゅっと掴んで、ずんずんと歩き出した。あたしはあわてて立ち上がると、彼女についていくほか無かったのだ。
「……で、人様の彼氏に手を出すなんて、本当にどういうつもり?」
「だから誤解ですって」
桜木くんの彼女を名乗るその女の子に詰問され、あたしはもうタジタジである。
「そんなこと言ったって、私知ってるんだからね! 毎週金曜日、陽人の奴、急に一緒に帰れないとか言い出して、いったい何なのかって……後をつけたら、ピアノスタジオ? に入っていくからさ」
でも、あたしと桜木くんが一緒にピアノスタジオに入ることはほとんどない。帰宅部で、委員会もやっていないあたしが先にスタジオ入りしていて、後から桜木くんが加わることがほとんどである。
……ということは。恐ろしいもの見たさ的なノリで訊いてみる。
「そのスタジオに、どうしてあたしがいることを」
「そんなの! 陽人が出てくるまで、前で待ってたに決まっているじゃない!」
ああ、やっぱり。――1時間も2時間も、あたしたちのことをただ待ち伏せしていたという彼女さんの執念に、あたしはあたまを抱えるしかなかったのだ。
――――――――――
本日の1曲
ブラームス 2つのラプソディ Op.79-1、2
ブラームスといえば、ロマン派を代表する作曲家のひとり。当時の人気ピアニスト・クララ・シューマン(この方は以前紹介しましたね)とのプラトニックな友情関係で知られておりますが、ちょうど美織と桜木くんの間の関係を疑われていることから、なんとなくこの話を思い出して本日の1曲に選択させていただきました。
2つのラプソディ、おそらくピアノ弾きがブラームス作品に取り組むときに最初に挑戦する曲なのではないかと思います。そう聞くと、子ども用の作品なのかな? と勘違いされそうですが、まったくそんなことはなく……ブラームスは、難しい曲ばっかりなのです。私、まんごーぷりんはブラームスの楽曲は1つたりとも弾けません泣
2つのラプソディのうち、1番は、途中でなぜか日本の童謡「さくら」みたいなフレーズが出てくることで有名です。2番もとても良い曲です。ちょっと古典派っぽい雰囲気があるかもしれないです。
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