第15話 音楽は飯のタネにならないか?
桜木くんがふいに「ちょっと」と言い、席を立つ。おそらくお手洗いだろう。どうしよう、すげぇ気まずい。
「そう、陽人が帰ってこないうちにお話ししておきたいことがあって」
「……すみませんでした! そうですよね、さすがに素人がピアノレッスンをするなんておこがましいというか、本当に申し訳ないです。すぐに辞めます! ピアノスタジオのレンタル料もお返しします」
「ごめんね、そういう意味じゃないの。……むしろ、美織ちゃんには感謝しなきゃ。陽人からも聞いているけれど、せいぜいスタジオのレンタル料程度でしょう? 美織ちゃんの貴重な時間をたくさん奪っていると考えると、安い方だと思うの」
金銭が絡むことについては、大人の了解は得た方がいいと思うけどね、それはむしろ、美織ちゃん自身を守るためにもね、と付け足され、おっしゃるとおりですと首を垂れる。
「楽譜への書き込みも見せてもらったけど、ものすごい予習しているよね。本を読んで調べたり、解説動画観たりして頑張ったのかな」
黙ってうなずく。楽譜、もう1回見せてよ、と促され、あたしはスクールバッグから、自分の楽譜を取り出す。桜木くんの楽譜と、あたしの楽譜には、ほぼ同内容の書き込みが行われている。なぜなら、予習の際に、自分の楽譜に指導内容をメモしておき、後日のレッスンでそれを桜木くんの楽譜に書き写すからである。
「うん。そういうの、本当にすごいと思う……あ、でも私、この小節こういう弾き方好きじゃないんだけど」
やっぱりこの曲は古典派だから、情感たっぷりに揺らせばいいって感じじゃないのよね、とつぶやくその姿は確かに「さくら先生」だった。
「まぁ、それは置いておくとして。それでもやっぱり、ピアノレッスンを続けるのはあまりお勧めできない」
「素人にはやっぱり限界がありますか」
「そういうことじゃないの。……ピアノ、正直しんどいって思わない?」
まるで、曲に恋するように演奏をする「さくら先生」の姿を見て、あたしはこの人の演奏、動画、コンテンツを好きになった。そんな彼女が、ピアノを「しんどい」と表現するのは不思議に思えた。
一方で、彼女が強い調子で「虫が良すぎるよね」と呟いた、最新動画のワンシーンを思い出す。さくら先生はきっと、ピアノの酸いも甘いも嚙み分けてきているから。
「陽人はね、小学5年生くらいかな。そのくらいまでピアノを習っていたの。でも、辞めさせた。頑張ればそこそこ有名な音大に入ることくらいはできるかもしれない、だけどそれで食べて行けるかっていうと、陽人には正直無理だなって思ったし、何より、この厳しくてつらい世界で生きていくメリットが無いなって思ったの」
桜木くんが小学生でピアノを辞めたきり、再開できなかった理由になんとなく納得がいった。桜木くんママが辞めさせたのだ。それは、彼女なりの優しさとして。
「やっぱり音楽って、素敵だし、華やかだし……憧れる、じゃない。陽人も現に、ベートーヴェンの悲愴に憧れて、美織ちゃんに教えてほしいって頼みに行ったでしょう。……もしくは、美織ちゃんの合唱祭での演奏に憧れたのかもしれない。その憧れが、後々しんどくなるんだ。この世界を知っているからこそ、私は息子にピアノをお勧めすることはできない」
桜木くんママの言葉は、あたしの胸に妙にストン、と落ちたのだった。
さて、桜木くんになんて言ってレッスンを中止させようか。その日から、あたしは毎日そのことについて考えた。――やる気になっている彼にストップをかけるのは、とても心苦しい。しかし、彼を愛情もって育てた親の御意向を無視するわけにはいかないし、彼のやる気に中途半端に火をつけてしまった責任くらいは負わなければならない。だから、この師弟関係はなんとしてでもあたしから終わりを告げなければならないわけなのだけれども、いったいなんて言えばいいんだ?
しかもそれに伴い、なんだか、あたし自身のピアノへのモチベーションが少し落ちつつありまして。ピアノで食っていけるだなんて微塵も思っていなかった、それは本当だったはずだ。でも、理性と心の動きが逆行することは誰しもあって、中学生の頃にコンクールに出場するくらいは本気でピアノに向き合ってきたからこそ、改めて厳しい現実を突きつけられると、うーんってなってしまうのだった。
――――――――――――
本日の1曲
ショパン 『華麗なる変奏曲』 Op.12
本編には全く関係ありません! 個人的に、中学生のころに演奏したものの、タイトルを忘れ、しかもほとんど弾けなくなっていた曲がなんだったのかずっと引っかかっておりました。そこで、曲の雰囲気から作曲年代を推測し(ロマン派)、さらに変ロ長調だということはなんとなくわかったので、その2つの情報からなんとか自分で曲のタイトルにたどり着いた……ということを夜通しやっておりまして、その達成感から本日の1曲とさせていただきました。
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