第14話 北極星が手の届く位置に

 桜木くんの言ったとおり、たしかに今週の彼はかなりの伸びを見せていた。譜読みの方も一気に1ページ進んだ。今まで地道に少しずつ進めてきたものと合わせると、かなり終盤に近付きつつある。あたしが今まで楽譜に書き込んできた注意点(これはあくまであたしが自身で考えたというより、有名なピアニスト動画配信者の受け売りの注意点だったりもする)もかなり改善されたようで、なんだ、早くこれをやってきてくれれば、とすら思った。まぁ、人には人の事情があるってものなので、多くを求めてはいけない。

 なんなら、あたしが何かを求めること自体、間違っているのだ。桜木くんが、あたしのピアノ練習代を出すことで、あたしが桜木くんにピアノを教える。桜木くんがあたしに何かを求めることはあっても、あたしから桜木くんに何かを要求することはないはずだ。


「うん、かなりよくなった! 桜木くんの言ってたとおり、結構練習したんだね。特にこの部分? 表記としては確かにピアニッシモなんだけど、主旋律部分は最低限よく聴こえるように弾いてくれてたのめっちゃわかるよ。バランスとしてはマジで最適って感じだった」

「ありがとうございます。……でも、ピアノの先生って、そんな感じで褒めるものでしたっけ?」

「ピアノの先生である前に、同級生なので」


 これは教室の方針にもよるとは思うのだが、ピアノのレッスンって、結構厳しいことも多い。短い時間の間で、なるべく多くの教えを詰め込もうとすると、どうしても注意ばかりになってしまいがちなのだ。

 あたしは、そういう厳しめの指導にも耐えられるタイプであった。しかしそれでも、お叱り、あるいは注意ばかりのレッスンは必ずしもプラスにはならないのではないか? と思っている。――それは、本人が「ここはこの弾き方でよいのか?」と疑問に思いながら弾いている部分に関するフィードバックが得られないから。悪いところは悪いと言ってくれても、何も指摘を受けなかったところが結局良いのか、それとも普通なのか、あるいは悪いのだけれどもあきらめた上で放置されているのか、生徒からすると分からないのである。






 レッスンを終え、ともに防音室を出た。


「こんばんは。――陽人はるとの同級生の方?」


 声をかけてきた女性のことを一目見たあたしは「あっ、えっ」と声を漏らしたきり、動くことも、言葉を発することもできなかった。人間って驚きすぎると固まるんだ。目の前の女性は、すごく光って見えた。いつもきれいに栗色の髪を巻いて、時にポニーテールに、時にハーフアップにしている彼女。目が大きく鼻の高い、整った顔立ち。だけど輪郭にちょっとだけ丸みもあってとてもチャーミングな印象を与える。

 さくら先生が、そこに居たのだ。なんで? そんな疑問は、どうやら隣にいた桜木くんも抱いたようで。


「……あー、なんでここに居るんだよ、もう」 


 彼が頭を抱えている。しかし、彼のそれはあたしとは全く違ったテンションだった。桜木陽人、それが彼の名前か。さくら先生は彼のことを陽人、と下の名前で呼んだ。桜木くんは、そんなさくら先生に対して、横柄というほどではないにしろ、そこそこ親しみと甘えを含んだ、雑な態度で接している。彼のお母さんは、ピアノの先生。――ああ、そういうことか。そういうことか!!?

 いや、まあね。確かに分かるけどね。目元の感じとか似てるけどね、でも「言われてみればそう」っていう程度だけどね? そもそもさくら先生って、旦那さんとか子どもとかいたんだ? よく今までバレずに動画配信やってこれたな?

 一通り驚いたあとに、あたしの頭によぎった言葉は「どうしよう」だった。状況を理解すると同時に、とてつもない罪悪感がよぎったのだ。ピアノの先生(しかも、ただの先生じゃない。生徒がいろんなコンクールでバンバン賞を受賞しているような、かなりエリートな類のピアノの先生である)の息子にピアノを教えているだなんて。しかも(レンタル代を払ってもらっているだけなので、直接受け取っているわけではないが)報酬ありで。こんなド素人のあたしが。考えが甘かった。そうだ、レッスン料、返せって言われるのかも。今まで何回レッスンしたっけ、7回くらい? そうすると、1回あたり2時間分のレンタル料を払ってもらっているから、800円×2×7=11200円……よし、それくらいならお小遣いとお年玉の貯金でいける。

 でも、そんなあたしの心配をよそに、さくら先生改め桜木くんのママはにっこりと笑ってあたしのことを見るのだった。


「いつも陽人にピアノを教えてくれていたのはあなただったのね! ありがとう。お礼にって言ってはなんだけど……夜ご飯、ご馳走させてもらえません?」






 ファーのついた、真っ白なダウンコートを着て歩く桜木くんママは、街を歩いていると誰よりも目立った。彼女は動画でも、かなり派手な服装を好んで着る。


「変なことお伺いするのですが……良いんですか、顔、丸出しで。動画配信されてますよね」

「大丈夫。動画の視聴者数もそんなに多いわけではないし、私のことを知っている人なんてそんなにいないわ。いても、私くらいでは興奮して声をかけてきたりなんてしない。――クラシック音楽業界って、美織ちゃんが思っている何倍も狭くてマイナーな世界なのよ」


 そっか、とあたしは口を尖らせた。確かにあたしの周りの友だちも皆ポップスが好きで、クラシックを聴いている人なんてとても少ない。そのことをあえて突き付けられると、ちょっと寂しい気持ちになるのだ。

 ちょっと高級なステーキハウスでメニューを見せられても頭に入ってこない。お腹は空いている。


「遠慮なく頼んで」


 そう促されたあたしは、やけになって桜木くんと同じものを指さした。


 それからあたしたちは、他愛もない話をした。おおむね週1回ピアノのレッスンをしていること。あたしが普段、部活や委員会はしていないこと。桜木くんはC組の学級委員なんだって。知らなかった! この間、合唱祭とバスケットボール大会が終わったこと。高校2年生で行く予定の修学旅行を楽しみにしていること……その間、桜木くんは少しバツの悪そうな顔をしていたけれど、なんとなく様子を見るに親子関係は悪くなさそうだな、と思うなどした。


「やっぱりさぁ、学校行事とか、そういうの大事だよね。この世界って、ピアノばっかりじゃないじゃん? 私も美織ちゃんみたいに、バスケットボールとかやってみたかったなぁ」


 やはり、この方もそうか、と思うなどした。


――――――――――――

本日の一曲

クララ・シューマン 『3つのロマンス』


シューマンという作曲家はご存じでしょうか。トロイメライが有名ですかね。その妻こそが、クララ・シューマンです。彼女は幼いころから天才ピアニストとして活動しており、生涯演奏活動をメインに収入を得ていたのですが、実は作曲の才能にもあふれていました。そんな彼女の書いたピアノ曲の中でも有名なのが「ロマンス」と呼ばれる作品です。ちなみに私(まんごーぷりん)は、Op.21-3(3曲目)が好きです。さくら先生、改め桜木くんママは、天才ピアニスト。そんな彼女とクララ・シューマンをなぞらえて選択した1曲です。






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