第二主題

第13話 プレリュードを手に入れる

「いい御身分。――まぁ、そうだよなぁ」


 帰り道、桜木くんがふとつぶやいた。


「ピアノが習い事としてかなり大衆化しているから忘れがちなんだけど、音楽って贅沢品なんだからね」


 あたしは、桜木くんにそう言い含めた。


「宮廷音楽って言葉あるでしょ。バッハもそう、モーツァルトもそう。宮廷でね、貴族のために演奏をしたり、貴族に曲を書いてあげたり、チェンバロやピアノを教えてあげたりね。昔の天才音楽家たちはそうやって生きてたんだ。音楽って、貴族のためにあったんだよね」

「ああ」

「小さい頃とかさ。せっかくピアノを習わせてもらってても練習したくないだの、無理やり習わされているだの……つい駄々こねたくなるわけだけれども、そもそも家にピアノがあること自体ありがたいことである訳で――」

「そうだな。だけど、あのグランドピアノを所有しているのは村松だし、村松にピアノがうまくなってほしいと願ってレッスンにお金を払っているのは村松の親、そのレッスンを一生懸命ものにして、技術を身に付けたのは村松。全部あいつの物であって、それに他人がとやかく言う筋合いはないよなぁ」


 それはそうなんだけれども。あたしは内心頭を抱える。この際、村松さんへのアンチコメントの話は今はどうでもいいのだ。あたしが指摘しているのは、桜木くん、君の話なんだけれども。――どうして、家に(新築マンションの一室が買えるほどの)高級なグランドピアノがあって、親もピアノの先生で、音楽をすることにも理解を得やすい環境でしょうに、あたしみたいなド素人にピアノを習い、しかもちゃんと真面目に練習してこないの? 本当はそう直接言ってしまいたいところをオブラートに包んだら、このざまである。何にも伝わらない。やはり人様に教えるって、難しいぜ。

 桜木くんと別れ、電車に乗る。本日も、さくら先生の動画が更新されている。「エチュードのススメ・ツェルニー30番編」というタイトルが付けられたそれは、今のあたしとしてはやや簡単な内容を扱っていると感じるものの、さくら先生の動画は面白いのでとりあえず視聴する。


「――いや、練習大変だよね、しかも短調な練習曲ってつまんないのも分かる。でもね、そういうつまらない、面倒くさい、大変、みたいなの全部すっ飛ばして『でもピアニストみたいに上手くなりたいです』だなんて、虫が良すぎるよね」


 少し毒舌なさくら先生の言葉を耳にしながら、あたしは深くため息をついた。






 ここのところあたしは、学校が終わるなり教室を一目散に飛び出して、ソッコーで家に帰るようにしている。高中家ルールでは、ピアノは夜の6時まで。学校から家まではそんなに遠くなく、大体4時半過ぎには帰宅できるため、そこからマックスで1時間半練習できる。とりあえずはモーツァルトのピアノソナタを譜読みする。飽きてきたら、スクリャービンの前奏曲の譜読みに移る。

 絶対に、完成させてやる。1曲丸々、例えば突然、何らかのきっかけでステージを用意されて、発表会どうぞって言われても対応できるくらいのクオリティで仕上げてやる。譜読みくらいなら、アップライドピアノでも十分にできる。あんまりグランドピアノをレンタルしに行くと、費用がかさんでしまうのだ。自分の持っているものを最大限に活用し、手に入れたいものを手に入れる。――生徒にそれを求める前に、自分がそれをちゃんとできるようにならなければ、と思ったのだった。


「あれ? なんかまたコンクールでも出るの?」

「……いや、そういうわけではないけど」


 あたしにそう声をかけた母はどういう想いでそう言ったのだろうか。急にピアノを頑張り始めた娘を見て、純粋に「なんかイベントあったっけ」と気になったのかもしれない。あまり裏表のないタイプの母なので、十中八九それだけの意味だとは思うけれども、「コンクールに出るわけでもないのになんで無駄な練習をしているの?」というように受け取ってしまいそうになるあたしは、どうやら認知の歪みが生じていると思った方がよさそうだ。

 譜読みは、あまり苦手な方ではないと自負しているものの、別に得意かというとそこまででもなく、作業としては好きではない。なかなか曲を進めてこない桜木くんの気持ちは、結構分かると思っている。

 ただ、譜読みをしていると、作曲家ごとに色々と特性があって面白いよなぁ、という気にはなる。例えば、ベートーヴェンは和声が美しく、重音が多数出てくることから、一見とっつきにくい雰囲気もある。しかし曲の進行がかなり規則的な傾向にあることから、案外全体としては譜読みは楽。モーツァルトに関しては、ベートーヴェンよりライトなイメージがあるものの、同じ古典派というだけあって、曲の形式としては似たところもある。一見単純なだけに、繊細な音楽表現が必要となる。一定のテンポを保つこと、ペダルを踏みすぎないこと。これらが古典派の音楽を演奏する際の大きな特徴となる。一方で今回初めて挑戦するスクリャービンは、近現代の作曲家である。華やかさだけではない、どこか恐ろしいような、不思議な雰囲気を持つ前奏曲は、ぜひとも何曲かものにしてみたい、と思ったのだった。


 そんなこんなで早くも1週間、桜木くんのピアノレッスンの日がやってきた。


「もしもまだ練習が足りないようだったら、レッスン延期とかでも問題ないと思うけど」


 LIN○にてそう送ったものの、


「今回は結構時間が取れたんです」


 と返信があった。言ったな? 期待するからな? あたしは内心ほんの少しだけ疑りながら、その日のレッスンに向かうのだった。



――――――――――

本日の1曲


スクリャービン 前奏曲 Op.11-18

是非、動画サイト等でチェックしてみてください! 44秒くらいの短い曲なのですが、「おお。。」と言わせるような、難しそうな曲です。(美織が練習している設定の1曲。)

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