第12話 結構な御身分
その後、桜木くんも到着してレッスン開始である。
「そこ、フレーズ感意識してってテスト期間前も言ったと思うんだけど……あ、でもテスト勉強してたから仕方ないか、ごめん」
「いえ、おっしゃるとおりです……」
テストをはさんで、レッスン内容をすべて忘れてしまっているのだろうか。気持ちは分かるけれども……。
「ハイチュウ、あまーい。ウチの先生なら怒鳴ってるよ」
村松さんがレッスンの様子を覗きに来ては、茶化して去っていく。せっかく覗きに来るのであれば、村松さんも何かしらアドバイスをくれればいいのにと思いつつ、でも桜木くんはあたしに報酬を払っているわけだし? いや、でも今日の村松家レッスンはピアノ使用料がかからないから完全無償だな? と思うなどしている。
「よし、じゃあそろそろ次の箇所の譜読みを進めていこうか」
レッスンをしていると、つい細かいことが気になってしまい、1か所に集中しがち。しかしまずは曲全体を弾けるようにならなければ、人に聴かせることはできない(音楽室での戯れは置いておくとして)。曲全体を弾けるようになって、初めてイメージがつかめるようになるってこともあるしね。……というのは、あくまであたしがフォローしているピアノの先生の受け売り。その方は某有名な私立音大を次席で卒業した後、ピアノの講師をしながら演奏活動を行っているという。
まぁ、ある種言い訳である。狭い範囲しか譜読みをして来ず、アドバイスをしても特段進歩も見られない現段階においてレッスンをしたところでほぼ無意味なのかもしれない、と判断したのだ。彼に足りていないのは個人練習の時間である。
あたしは彼を防音室に残し、村松さんのいるリビングルームに戻った。彼女は塾の数学のテキストを開き、難しい顔をしていた。
「ただいま。そこ計算違ってるよ、3行前」
「あ、ハイチュウいけないんだー、生徒見捨てて帰ってきたな」
「違う違う。個人練習の時間あげようと思って」
「そうだね、とりあえず今の状態だとそれが賢明」
「桜木くんはね、昔弾いた練習曲――それこそツェルニーとかさ、そういうのは結構弾けるんだよね。むしろ上手なくらいなんだ。今やってる曲が弾けてないだけ。……だからたぶん、家でほとんど練習できない環境なんだと思ってるよ」
家にはどんなピアノがあるのか。アップライト? それとも電子ピアノ? 練習可能時間帯は、そもそもピアノ自体家にあるのか――いつも訊こう、訊こうと思いながらレッスンに臨むのに、いつの間にか忘れてしまっている。
「桜木ん家、めっちゃでっかいグランドピアノあるよ」
「え」
「しかも、ファツィオリね。だって彼のお母さん、ピアノの先生だよ?」
あたしは頭を抱えるのだった。――オカンに教えてもらえ!!!
「どいつもこいつもグランドピアノ持ってるな……いいなぁ」
「ハイチュウの家はアップライトだったよね」
「まあ、長年弾いているとさすがに愛着も湧くけどさ」
村松さんがあたしの家の練習環境を知っているのは、かつてその話題で盛り上がったからだった。学校の音楽室のグランドピアノを触って遊んだ後、「家ではグランドピアノに触れないから楽しい」と言ったときに、彼女は目を丸くしたのだった。「ピアノ習うときって、強制的にグランドピアノ買わされるもんだと思ってた」と言い放った彼女の姿に、あたしは「そんなことあるわけないじゃん」と爆笑していたのだが、一緒に話を聞いていた友人が後々、「あれ、すっごくイヤミだよね」と眉間にしわを寄せていた。いや、そんなにイヤミなつもりはなかったはずだ。自分が与えられた環境は、当然他の人にも与えられているものだろう、と思ってしまうことは往々にしてある。塾に通う、習い事をする、部費の高い運動部に所属する――村松さんだって、そう勘違いしてしまっていたというだけの話だ。
「後でさ、ハイチュウもなんか弾いてよ」
「なんか弾いてよってセリフ、あんまり弾ける子が言わないような気がするんだけど。それに、こういうところでゆっくりと聴かせてあげられるようなレパートリー、無いよ」
そうなの? と彼女は目を丸くした。
「大曲を弾ききるほどの時間もないし、レッスンも受けてないしさ……いろんな曲をちょこちょこって齧っているだけで、ちゃんとしたレパートリーはないんだ」
村松さんはふうん、と言いながら斜め上を見上げる。
「そんな忙しいハイチュウには、『前奏曲』をオススメするよ」
「前奏曲? 誰の」
「そこはハイチュウが好きなのでいいよ。ショパンの前奏曲が有名だけど、他にもドビュッシーとか、ラフマニノフとか、スクリャービンとか……なんでもある。1曲あたりがとっても短い曲が多いんだよね。1分ちょっと、みたいなのもある」
「へえ、子ども向けの練習曲みたい」
「長さとしてはね。だけど、それなりにテクニックが必要な場面もあったり、華やかな部分もあったり、結構面白いよ」
あたしは村松さんの豆知識をふむふむと聴きながら、今度スクリャービンの前奏曲を聴いてみようと思うのだった。
桜木くんがリビングに加わり、皆で持ち寄ったおやつを食べる。
「あ、そういえば村松、動画上げてたな」
「そうなの?」
「そうなのって……自分の演奏動画だろ」
「あれはママが勝手に上げてるだけだからなー」
桜木くんのストレートな物言いにあたしは言葉を失う。――いや、でも、本来こうあるべきなのか。同級生がSNSになにかをアップしていたのを見たら、「見たよ」
と伝える。むしろそれが礼儀なのかもしれない。でもあたしにはできない。村松さんの演奏動画は、実はあたし自身いつもこっそり見ている。アカウントはどうやら母親管理のようで、村松さんは特段関与していないらしい。彼女はそもそもスマホも自由に使えるパソコンも持っていないのだ。
「ねえ、桜木。ウチの動画、見せてよ」
「良いけど……お前の演奏はお前が一番知ってるだろ」
「いいから」
動画投稿サイトを開いた桜木くんのスマホを半ば強引に奪い取る村松さん。――スマホから流れる美しい音楽をよそに、彼女は必死で画面をスクロールしていた。
そのとき、はっとした。彼女が見たいのは、動画それ自体なんかじゃない。世間の反応だ。そのことに気づいた瞬間、あたしは思わず村松さんの手から桜木くんのスマホを奪おうと一瞬手を伸ばし、しかし引っ込めてしまった。それを2回ほど繰り返し、桜木くんに「何をしているのか」という怪訝な目で見られる。
「ありがと」
少し硬い表情で、村松さんは桜木くんにスマホを返した。
「……やっぱり書かれてたね、色々。『結構な御身分』だって、笑っちゃう」
そう言って彼女は苦笑する。村松さんの動画には、好意的なコメントを残してくれる人もいるが、(おそらく大半は嫉妬から来るものだとは思うが)結構アンチコメントも多い。先日アップされた、ショパンのエチュードの見事な演奏に対して寄せられたコメントがとても印象的だった。
「どうせプロになれるわけでもないのに、こんなことにお金や時間やらつぎ込んで……結構な御身分だよな、音楽家って」
有名なコンクールで最高位を獲得しても、そう言われてしまうんだ、と内心衝撃を受けたのだ。
――――――――――
本日の1曲
ショパン 前奏曲 Op.28 15番 『雨だれ』
とりあえず、ショパンの前奏曲の中で一番有名なものを一曲。雨の多いこの季節にぴったりですね。雨だれの前奏曲は、比較的眺めの曲かなと思います。
美織が「聴いてみよう」と言っていたスクリャービンの前奏曲については、今後また紹介します。お楽しみに!
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