第11話 あこがれのバラード
「あたしは……それこそ村松さんくらいのテクニックがあれば、好きな曲なんでも弾けるんだろうなって、羨ましくは思うよ」
「いやいやとんでもない」
そういう村松さんは、何の楽譜を買うか迷ってるの、と訊いてみた。
「それがね、無いんだよね」
「弾きたい曲が?」
「うん。今まで、そういう視点で曲を選んだことなかったからさ。大体、コンクールの課題曲か、先生から与えられた練習曲ばっかり」
そういうもんなんだ、とあたしは相槌を打った。
「じゃあさ、あたしからリクエストしていい?」
「うん、いいよ。それなら選べるだろうから」
「結構難しいの行くよ。――ショパンの、バラード1番から3番(注8)のどれか」
「ヤバ。かなり難しいじゃん」
「いや、だからそう言ったじゃん」
村松さんは苦笑いを浮かべた。
「……でも、来年のコンクールの自由曲にも良さそうだし、練習してみたいな」
「たしかショパンが一番好きだよね、村松さん」
「うん、そうだね」
彼女は頷いた。過去にそう言っていたのだ。
「バラード、憧れだったんだ、本当は。忘れてたんだけどね……。ウチ、先生に憧れの曲を弾いてみたいって言ったことが無くてさ、なんだかちょっと怖いけれど」
先生に内緒で練習するんとちゃうんかい、と心の中でツッコミを入れつつ、でも憧れの曲は大切に弾きたいよなぁ、と共感もする。
「まぁ、あたしは特段急がないので、指が治ったら練習してみてくれたらいいよ」
クラスの違う村松さんの演奏を聴くことは、今後あるのだろうか――一瞬疑問に思ったが、(直接ではなくとも)彼女の演奏を聴く機会はある。今は誰でも、SNSを通じて発信ができる時代である。村松さんも――正確にいうと、村松さんのお母様も、その一人だった。彼女の演奏は、ネットの海にいくつも転がっている。
各々が欲しい楽譜を購入し、村松さんの家に向かった。東京都からは外れるものの、神奈川県の大きな駅の近くに綺麗な一軒家を構える村松家は、あたしからすれば憧れの的である。
「この防音室の中にピアノがあるの。後で使ってね。まずはとりあえずお茶かコーヒーでも」
「あたし、コーヒー派」
家の中に防音室があるなんて、と驚きつつ、やはり住宅地にグランドピアノを置くとなると、(マンションやアパートではないとしても)防音設備にまで気を遣わないといけないのか、と絶望する。――こんなの、どんなに土地があっても足りない。小ぶりのアップライトピアノでいっぱいいっぱいの、2DKの古い社宅(楽器演奏可能時間は規約上、夜8時までだが、高中家ルールにより夜6時までということになっている)に住むあたしには想像もつかない。
紺色のダッフルコートを脱いだ村松さんは、小花柄の、ベージュのワンピースを身にまとっていた。今日のあたしは、襟付きのペールブルーのブラウスに、ネイビーの膝丈スカートという無難な恰好をしていたのだが、たぶん、あたしと村松さんは好きなファッションの系統も似ていると感じる。スタンダードで、女の子らしい恰好。
「でもさ、同級生にピアノを習うなんて、桜木も面白いことを考えるよね」
「本当に。面白いんだけど、あたしとしては本当にこれでいいの? って思いながら毎回レッスンしてる」
「実際、人に教えるってめっちゃ勉強になるでしょ」
「まあねぇ……あたし、悲愴の第2楽章弾いたことなかったってのもあって、もう最近ずっと音楽のことばっか考えてる」
「いやぁ、いいな、羨ましい。めっちゃいい機会だと思う、人に教えるのって」
「恐れ多さが勝つよね、あたしなんかだと。村松さんくらい弾けるならまた別なんだけど」
「でも、桜木はウチじゃなくてハイチュウに声をかけたんだからさ。せっかく選んでもらったんだからそこは堂々としてなよ」
あれ? と思った。――あの日、初めて彼からピアノレッスンの依頼を受けたとき、村松さんの方が適役だと言ったあたしに対して、彼は「断られた」と言っていたと記憶している。あたしの覚え違いだろうか? そんなはずはない。
まぁ、どんなことでも多少の行き違いや矛盾はしょっちゅう生じるもので、村松さんや桜木くんに対し、あえてそこを突いたりする必要はないと判断する。往々にしてそういう矛盾は、どちらかの勘違いによって引き起こされるものであり、また、仮にどちらかが何らかの理由で嘘をついていたとすれば、それにあたし自身が触れるのは藪蛇になりかねない、と思うのだ。
――――――――――
本日の1曲
ショパン バラード1番 ト短調 作品23
バラードの中でも一番有名なのは、上記の1番でしょうか。
物語、文学的な作品として有名なショパンのバラード集。技巧的なだけでなく、音楽的にも高度な表現を求められる、難曲、名曲ぞろいです。
(注8)
美織は、ショパンのバラードのうち1番から3番のいずれかをリクエストしましたが、じつはこのバラード、4番まであります。クラシックオタクの美織に限って、4番まであることは知らないわけはないとは思うのですが……おそらく、バラード4番は圧倒的に長い(10分近く!)ため、さすがに人に弾かせるのは躊躇したものと思われます。
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