第9話 ソフトキャンディのような

 改めて、村松さんにあたしから直接声をかけたところ、「そうなの。桜木くんからお願いされて、勝手にOKって言っちゃったんだけど、むしろハイチュウはそれでよかった?」なんて言われてしまった。ハイチュウというのは、中学1年生の頃、同じクラスだった子たちが呼ぶあたしのあだ名。名字をもじったものであり、highチュウ。とても安易なネーミングである。中2以降に知り合った友人は、大体「美織」と下の名前で呼ぶ。どう考えてもその方が可愛いだろ。

 あだ名はさておき、村松さんの反応を見るに、桜木くんに対しても相当安易に承諾したようである。……本人が良いなら良いんだ、たぶん。


「いや、本当にありがたい。ごめんね、村松さんも色々忙しいだろうに」

「久しぶりに人が家に来るのは嬉しいから良いの。……ところでハイチュウって、ウチのこと名字で呼んでたっけ?」


 あたしは、はて、ととぼけた顔をして見せた。村松さんの指摘の通り、中学1年生のころは彼女のことを下の名前で呼んでいた。「奏音かのん」ってね。だけど、ずっとクラスが離れ離れになってしまって(しかも今の今まで二人で話すこともなかった)、それに、村松さんがいつの間にかすごい人になってしまったような気がして、なんだかあたしの中で「奏音」じゃなくて「村松さん」になってしまったのだ。これは村松さんが悪いわけではない――いや、そもそも悪いことですらない。村松さんが、あたしの中で尊敬の対象となってしまったってだけだ。いいじゃん、昇格したんだから。


「それでさ、明後日うち来るじゃん? その前に川崎駅で待ち合わせして、楽譜見に行きたいなって思うんだけど」

「おお、いいね。丁度あたしも入手しないといけない楽譜があって」

「ハイチュウ、もしかしてピアノレッスン再開した?」


 村松さんが少しうれしそうに目を輝かせる。


「違う違う。依頼を受けてるの」

「?」

「うちのクラスの子ぉがさ、モーツァルトのソナタの330番? が好きらしくて。1回弾いてみろと言われてる」

「す、すごいね」


 友人の依頼を受けてはいはい、と曲を練習するあたしのスタイルは、村松さんからするとかなり新鮮なのだろう。先生の指示通り、順序良く曲をこなしていくのが普通のピアノ弾きだ。


「……でも、そういうの、なんかいいね」

「まぁ、どうしても1曲あたりは雑になっちゃうけれど、楽しいは楽しいよ」


 ウチも先生に内緒で好きな曲なんか弾いてみよっかなー、と村松さんはつぶやいた。





 川崎駅で村松さんを見つけ、あたしたちは近くの楽器店に移動した。


「うわ、久しぶりに来たなー。こんだけいっぱい楽譜があると、目移りする」

「ハイチュウはどの作曲家が好きなんだっけ? やっぱ今もラヴェルとかその辺?」

「うーん、そう思ってたんだけどね……なんか今、どういうわけか古典派が来てる」

「モーツァルトだっけ」

「いや、あたし自身はどちらかというとベートーヴェン派。なんかさ、弾くとやっぱり『帰ってきた』感がすごいんだよね」


 自身のピアノ歴を振り返ったときに、圧倒的にたくさん弾いているのがベートーヴェンである。特に、ピアノ中級者に差し掛かり、ソナチネアルバム・ソナタアルバムを弾いていたころの自分を振り返ってみると、古典派楽曲を多く練習しており、その中では(元々の曲数が多いというのもあるとは思うが)ベートーヴェンの曲が良く選ばれていた(これはあたしが、というより、当時師事していた先生が選んでいたのだが)。

 それはそうと、村松さんの口から「ラヴェル」という言葉が出てきたことに、ドキッとした。――覚えているんだ、と。言われてみれば当たり前で、むしろ彼女はあたしのことをピアノ友だちとして認識している可能性が高い。先日も、「ピアノレッスンを再開したのか」と問われた。じゃあ、あたしがコンクールに出場したことは覚えているのだろうか? 他に、何を覚えているのだろうか。

 各々好きな楽譜を見る。あたしはこっそりと村松さんを盗み見た。楽譜を見ながら左手を動かす様子を見て、妙に羨ましくなった。きっと、あたしより何倍も譜読みも速いのだろう。

 そんなことより、モーツァルトの楽譜を探さなきゃ。ソナタ K.330。

 曲だけは知っている。ハ長調の、一見簡単そうながら、実はスピードも速いし、うまく音楽表現をしなければ曲の魅力を出し切れない、やっかいな曲だと踏んでいる。

 モーツァルトのピアノソナタはテクニック的には難しい曲は少ないものの、綺麗に聴かせることが難しい曲がたくさん収録されている。「ドーミーソーシードレドー」と言えばある程度伝わる、あの超有名曲もそのうちのひとつ。子どもが弾く曲と思われがちであるが、あれを綺麗に弾くことができる人間は、意外と少ない。今回依頼を受けているソナタ K.330は、そんなモーツァルトのピアノソナタの中では少々難しい部類に入ると思っている。

 無事にモーツァルトの棚を見つけ、その中からお目当ての曲が収録されている本を眺める。――さすがに、ソナタ全集を買うのは違う気がするな。あたしは、『モーツァルト ピアノソナタ 名曲集』と書かれたそれを選んだ。


 あとは、今まで弾いたことのない作曲家の作品にトライしてみたいんだよな。あたしはひたすら楽譜棚の前で考え込む。そもそも、有名作家でも弾いたことのないものはとても多い。手が大きくないと弾けないことで有名なラフマニノフ、バレエ音楽で有名なチャイコフスキー、それに幻想的な雰囲気と技巧の難しさで知られるスクリャービン。それに、あたしはせっかく日本人だというのに、日本人作曲家のクラシック音楽に疎い。湯山昭に三善晃、平吉毅州などをはじめとし、子ども用の練習曲から、近現代の難解な楽曲まで、様々な作品を残した日本人がいるのである。

 それらを知らずして、あたしは一生を終えるわけにはいかない。――最近、マジでそう思っている。



――――――――――――

本日の一曲

モーツァルト ピアノソナタ K.330

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