第6話 学生の本分は勉強
テスト期間中のレッスン中止を提案すると、桜木くんはそうですかぁと幾分残念そうに、しかしちゃんと承諾してくれた。
「まぁ、学生の本分は勉強なのでしゃーなしですか」
「案外ピアノ、やる気あったのね」
「やる気ない人は、自ら同級生にレッスンを頼んだりなんかしません」
まあ、それもそうか。あたしは顎に手を当てる。本日もまた、2行だけ譜読みを進めてきた桜木くんだった。本当に譜読みが苦手なんだろうな。
「ところでひとつ質問なんだけど、桜木くんってどうしていつも敬語なの? そういうキャラ? ……まあ、あたしも初対面のときは一応敬語使ってたけど、そろそろ解除しても良くない?」
「だって、関係としては師匠と弟子じゃないですか」
「その前に、同級生では……」
「あ、スタジオ出たら普通の同級生として接するつもりですよ」
そう言われて、あたしは桜木くんとほとんど防音室の外で関わりを持ったことがないんだなと改めて実感した。学校で話したのは、初対面でレッスンを依頼されたときのみ。ピアノレンタルルームまでの道のりを共に歩いたこともないし、レッスンの後、お会計を済ませたら即さよならである。あたしは、彼が学校でどんな生徒なのか知らない。優等生? それとも問題児? 成績は良いの? 悪いの? 友達は多いの? 少ないの? 一般的な「ピアノの先生と生徒」の関係であれば普通のことだが、同級生としては相手を知らなすぎる。
別にそのことが、ピアノのレッスンをする上で大きな問題かというと、決してそんなことはない。ないのだけれど、それって桜木くんがわざわざ同級生にレッスンを依頼するメリットがなくなってしまうんじゃないかと思うのだ。プロでもなんでもない、なんならつい最近までピアノを弾くのを辞めていたあたしのようなズブの素人がレッスンをするにあたって、生徒のニーズを最大限に汲み取ることくらいしかプロのレッスンに近づける術はない。その努力を怠るのは良くない。
「……そうね、この辺、伴奏が和音なのに旋律が単音で、音量バランスが悪くなりがちだから気をつけて。右手が左手の大体3倍くらいの音量になるイメージで弾いてちょうど良いかも」
「わかりました。結構音量差つけるんですね」
「そのくらいじゃないと、どこにメロディがあるか分からなくなっちゃうからね。ただでさえピアノって、低い音が大きく出やすくなってるから、そのくらいの気持ちでちょうどいい」
へえ、学びを得ました。桜木くんは納得した様子で頷いた。
「それと同時にもうひとつ気を付けないといけないことがあってね。さっき、この右手小指部分がメロディだよって話をしたと思うのだけれど、ここが綺麗なメロディに聴こえるように、『スラー』に気を付けないといけないんだよね」
「あー、もしかしてぶつ切りになってました? 俺の演奏」
「多少ね。今はペダル無しで弾いてるのもあって仕方ないと思うんだけど、意識して音を繋げるように努力してみて。あとは音量が凸凹しないようにって感じかな」
はじめてのレッスンのとき、旋律を「よく聴いて」という、ありがちなアドバイスの意味がわかっていない、と言われた。言われてみればあたし自身、幼い頃にこのアドバイスを受けてその意味を理解していたかというと、甚だ微妙である。当時のあたしは同様のアドバイスを受けたときに「そうか、聞けばいいのね」と浅く納得しつつ、聞かなければいけない音は大きくした方が聞きやすいだろうと勝手に判断し、ボリュームを上げたりしたものだ。そうすれば先生は「良くなった良くなった」と褒めてくれたし、つまりはそういうことなのだろうと簡単に片付けてしまっていた。その感覚は半分程度正しかったとは思うが、今になって、先生の言いたかったことをきちんと整理するとそういうことになるのかと思ったのだ。
たぶん、あたしが桜木くんにピアノを教えるメリットのひとつが、これなんだと思う。――世間のピアノの先生は、それこそ音楽の道で食べていくことができている「天才」たち。そんな彼女たちとあたしは違う。あたしはあくまで凡人で、だからこそ天才の言葉がいかに凡人に伝わらないかよく知っている。それでも、多少なりとも食らいつこうとした過去があるから、その仲介役を少しは担うことができるのだ。
1時間のレッスンを終え、あたしたちは防音室の外に出た。
「そういえば、テストの時間割発表されたよね」
正直、この季節になるといつもなら、あたしは勉強のことしか頭にないタイプなのだ。
「ああ……うん」
「まあでも、桜木くんは普段からちゃんと勉強してそうなタイプだし、時間割ごときに左右されないかー」
「いやいや」
この軽い受け流し方を見るに、そこそこ好成績なタイプなのだろうな……と察するのだった。
――――――――――
本日の1曲
バッハ インヴェンション 1番
美織が幼い頃にピアノレッスンを受けていたシーンで弾いていた(という裏設定の)曲。
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