第4話 アリアをよく聴いて

「悲愴、第2楽章から始めるんでしたよね。難易度的にも簡単な方だしいいんじゃない? 譜読みはどのくらい進めてきました?」

「ああ、2行弱……」

「マジか。じゃあ、とりあえず弾いてもらおうかな」


 わずかな驚きと共に、あたしは演奏を促した。2行って。悲愴の第2楽章は小規模ロンド形式――つまり、現代の歌謡曲風に言えばAメロ→Bメロ→Aメロ→Cメロ→Aメロ という流れの楽曲である。Aメロの半分だけ弾いてきたってことか。曲の難易度にもよるが、経験上、1週間もあればA4片面3ページ前後は譜読みが可能である。さらに、ピアノの先生から与えられて無理やり弾かされる曲でなく、自らが弾きたいと思った曲を演奏するのであればモチベーションも違う、それなのに1週間でその量か……練習曲をそれなりに器用に弾きこなす姿を見たせいで、妙に期待値が上がってしまったのかもしれない。よくないよくない、相手は小5からピアノに触っていないんだぞ。それにこの1週間、忙しかったのかもしれないじゃないか。――それに、そもそもこの子の家にピアノがあるかどうかすら、分からないじゃない。

 彼がピアノを弾き始めたとき、一瞬、何の曲を弾いてもらっているのか分からなくなりそうだった。譜読みが不十分なため、スピードが足りていないというのはもちろんなのだが、例えば有名なピアニストがあえて楽曲をゆっくり演奏する(注6)ことはよくあるものの、だからといって、それが何の楽曲か分からなくなるなんてことはない。スピードの問題ではないということである。

 つまりというか、まぁ、この楽曲の一番のポイントでもあるところであるが、重音(和音)の音量バランスが極度に悪いのである。多くの楽曲においては、メインとなるメロディーがあって、そのほかの部分は伴奏としての役割を果たすのだが、その場合、やはりメロディーは一番目立つように演奏されてしかるべきものである。しかしながら、桜木くんの演奏の場合、伴奏部分、特に右手親指・人差し指で演奏をする内声部分の音量が強すぎるために、メロディーが聴こえづらいのだ。


「桜木くん桜木くん。あのね、この曲はメロディーを際立たせないといけないんだ」

「はい」

「右手の小指で弾いている音が、メロディーだよね。小指って、一般的に細いし短い指だから、なかなか難しいところではあるんだけれど……この部分のフレーズを『よく聴いて』」


 いざ指示を出してみると、なんだかこっぱずかしい。あたしだって素人だ。本当にこんなことを言っていいのだろうか。まぁでも、この点に関しては動画投稿サイトでも、いろんなプロの先生が言っていたことだし、当然のことだし……


「『よく聴く』……? 昔、ピアノを習っていた時にもよく先生に言われたフレーズなんですけど、実はいまだにその意味が分かっていないんですよね」

「うん、じゃあ、桜木くん1回メロディーラインだけ弾いてみて。右手の小指だけでね。あたしが左手部分と右手の親指・人差し指を担当するので」


 これはあたしがまだ小学生だったころ、バッハの曲を練習した時の練習方法である。そのときはあたしが左手担当、先生が右手を担当し、「左手で演奏するメロディー(注7)を意識する」練習をしたと記憶している。








 たった1度のレッスンでも学びを得たな、あたしが。帰り道、電車の中、妙に充実した気持ちであった。人によって、得意・不得意は違う。指を早く動かすことが得意であっても、ゆったりとした曲を音楽的に演奏することが苦手な人もいれば、逆のパターンもある。バロックや古典派が得意で、ロマン派以降の楽曲が苦手な人もいれば、その逆も然り。譜読みが得意な人や、初見演奏が苦手な人――当たり前のことなのに、忘れていた気がする。ひとりで練習してばかりいる弊害だろうか。

 スマホの通知を見ると、動画投稿サイトのお気に入りチャンネルが更新されていることに気が付いた。『さくら先生のピアノ教室』と題されたそれは、ここ最近あたしが参考にしている音楽チャンネルである。動画投稿主のさくら先生は、有名音高・音大の講師を歴任し、今ではフリーランスのピアノ講師、そして定期的に演奏会を開催し、毎回満席となっている超エリートピアニスト。動画投稿頻度は決して高くはなく、多くて隔週、少ないときには3か月ほど空いてしまうこともあるのだが、ピアノ演奏に必要となるテクニックのコツ、おすすめクラシック曲の紹介など、ためになる動画がたくさんある。動画内容はもちろん、本人の美貌と、ちょっと厳しめの言葉もかなり人気(たぶん、実際にレッスンを受けたらちょっと怖いと思う)。


「皆さん、こんにちは。さくらです。本日は皆さんご存じ、バッハの名曲を紹介します」


 明るく耳に優しい彼女の声をイヤホン越しに聴きながら、あたしはほう、バッハか、と心の中で呟いた。正直、バッハの楽曲に良い想い出があるかというと、あんまりない。コンクールの課題曲としてもしょっちゅう選定されるのだが、正直、あたしからすると何が魅力的なのか分からない。淡々としていて華やかさがない、しかもそのくせ演奏は難しい――そういったろくでもないイメージが付きまとう。

 でも、さくら先生が演奏すれば、そんな思い込みは払しょくされるのである。


「本日紹介するのは、『ゴルドベルク変奏曲』です」


 そう言って、さくら先生は楽曲の最初の部分『Aria』を演奏した。ゆったりとした、歌うような、美しいメロディーライン。テクニック的にはなんら難しいことはないのに、彼女の演奏が天下一品だということはよく分かる。彼女の私物であるというベヒシュタインのピアノの音色を、ぜひとも生で聴いてみたいといつも思うのだ。


――――――――――――――


本日の1曲


バッハ ゴルドベルク変奏曲


 バッハ(バロック時代の作曲家)が書いた、全部で60分以上にもわたる変奏曲である。変奏曲とは、短めのフレーズを題材に、それをいろんなパターンで演奏することを繰り返していき、最後にはとても豪華な変奏でフィニッシュする……という形態の楽曲である。筆者のこんな分かりにくい説明を読むよりは、バッハのゴルドベルク変奏曲や、モーツァルトのきらきら星変奏曲を聴いてもらった方が早いと思う。


(注6)「……有名なピアニストがあえて楽曲をゆっくり演奏する……」

 実際の有名ピアニストでいえば、バッハの楽曲演奏で有名なグレン・グールド氏は、かなりテンポで遊んでいるイメージが強い。彼はバロックや古典派といった、かなり形式ばった(つまり、演奏者による解釈やアレンジの幅がかなり狭い)楽曲をたくさん演奏しているにもかかわらず、その辺りかなりいろいろと工夫しているように思われる。

 バッハの『ゴルドベルク組曲』の録音ひとつとっても、グールド氏が若かりし頃の演奏と、晩年の演奏とを比較すると、スピード感が全く異なる。

 グールド氏は他にも、ベートーベンのソナタの収録を行っているが、「この曲そんなスピードで弾くんだ!」という驚きが多く大変興味深い。彼の演奏は、各種音楽サブスクや、Youtubeにもたくさん登録されている。


(注7)「……左手で演奏するメロディーを意識する……」

 またまたバッハの話で恐縮である。

 通常、クラシックを弾くにしても現代ポップスを弾くにしても、ピアノの演奏は「右手でメロディーライン、左手は伴奏」となっていることが普通である。

 しかしながらバッハの曲は例外で、右手も左手もメロディーなのである。類似したメロディーラインを、右手と左手のタイミングをずらしながら演奏することによりひとつの曲とするという、なんとも脳トレチックな楽曲が多いのだ。かえるの歌等を題材に行われることの多い「輪唱」を想像してもらえれば良い。右手と左手が輪唱するのである……

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