第3話 6年分のエチュード
ソナタ集を閉じ、1度譜面台の端に退ける。代わりにツェルニー30番の楽譜を真ん中にセットした。
「……もしかして高中さん、『悲愴』弾いてました?」
「ああ、うん……教えるにあたって多少は弾いたことないと困るなって。第1と3しか弾いたことなかったので」
「なるほど、そこまでしてくれてありがたい限りです」
「じゃあ、時間ももったいないし早速始めましょっか。
彼とLIN○を交換したときに知った彼の名字をそのまま呼びかける。中高一貫校生活の4年目も終わろうとしている。そんな中、いくら同じクラスになったことがないからといって彼の名字すら知らなかったというのはいささか失礼に当たると思ったのだ。
「分かりました。……ああ、これか、懐かしい! よく覚えていますよ、音の粒を揃えて弾くのが地味にむずいんですよねー」
彼はそう言いながら、1曲目を弾き始めた。
その演奏を聴きながら、あたしは数か月前、自分がピアノを再開したときのことを思い出していた。一般に、ピアノというものは1日たりともその練習を休むことはあってはならないという。1日練習をサボれば、「弾けなくなったな」というのを自身で感じることができ、3日サボれば演奏を聴いた他人にもバレるだとか、あるいは1日練習をサボれば3日分の練習がパーになるとか……。しかし、クラスにピアノを弾ける子がいないことが分かり、合唱の伴奏を受けざるを得ない状況になったあたしは、そのときすでに2年ほどピアノに触れていなかった。6年分の練習が消えた? それってもう、初心者では? そう思いながら鍵盤に触れたあたしの指は、案の定その重みに耐えられていなかった。もちろん、単に音を鳴らすという意味では演奏は可能なのだが、長い曲を一気に弾ききる体力や、連続するスケールを一様に弾くだとか、オクターブの跳躍だとか、そういうテクニカルな面がかなり衰えていた。そういった状況を脱するために使ったのがこのツェルニーの教本だった。中級者向けの、シンプルな練習曲すら綺麗に弾けなくなっていたあたしは、数か月かけてようやく、ようやく少しずつ感覚を取り戻してきた。当初、練習する際に余計な力が入りがちで、軽い腱鞘炎になったりもした。――こんなにも苦労して、ようやく、ようやくショパンのエチュードを少しずつ弾ける程度まで復帰したというのに。
あたしにピアノを教えてくれとのたまわった、目の前の「生徒」は、とても軽やかなタッチで、安定したリズムを保ちながら、この練習曲を弾ききったのだった。
「OK! ウォーミングアップは終わりかな。とりあえずツェルニー30番の楽譜は当面貸すので、苦手な曲があったら重点的に練習する感じで行きましょっか。じゃぁ、さっそく曲に移ろう」
「ツェルニーなら30番から60番まで家にあるので大丈夫ですよ!」
「そうなんだ、じゃあ次回からは持ってきてもらおうかな」
努めて明るく声をかけながら、内心、ちょっと打ちひしがれていた。結局、ここでも才能なのである。歴史に残る音楽家や世界で活躍しているピアノ奏者は、幼き頃の天才エピソードに事欠かない。一度聴いた楽曲を簡単にピアノで再現するだとか、リストの超絶技巧練習曲(注5)に収録された曲を小学生にして弾きこなすだとか。そしてこれはあくまであたしなりの分析なのだが、これらの天才エピソードは主に ①卓越した記憶力 ②運動能力の高さ(「手の器用さ」と言ってしまっても良い) ③優れた絶対音感 の3つに分けられると思うのだ。記憶力、絶対音感に関しては、正直あまり苦労したことはない。特に音感に関しては、ピアノを演奏する程度であれば、せいぜい「今ミスタッチしたな」ということが分かればそれで充分なのである(おそらく、バイオリンやトロンボーンだとそうはいかないのではないかと思う)。記憶力だって、あまりに複雑なフレーズは暗譜に時間がかかるけれど、毎日それなりに繰り返し弾いていたら覚えるし、本番までの時間を多めに取ることでいくらでも補うことはできるのだ。――結局、この中で一番厄介なのが、運動能力に結び付いたテクニカルな面なのである。彼のピアノ歴のブランクの長さを考慮するに、少なくともこの点において、彼はあたしより才能があるのではないか? と思うのだ。
なんだか、そんなあたしが彼にピアノを教えるだなんて愚かだな、と。
――――――――――――――
本日の1曲
リスト 超絶技巧練習曲 第4番 「マゼッパ」
(超絶技巧練習曲の話題が出てきたのでとりあえず。おそらく、一番有名な一曲。技巧だけでなくメロディーラインも親しみやすく聴きごたえがあるのでぜひ聴いていただきたい。ちなみに、筆者がざっと動画投稿サイトで検索した限りだと、15歳でマゼッパを弾く天才ピアニストがいらっしゃった。)
(注5)リストの超絶技巧練習曲集
ピアノ界の超絶技巧といえば、やはりリストというの作曲家が有名。
「子犬のワルツ」「華麗なる大円舞曲」「革命のエチュード」「別れの曲」で知られるショパンと同世代(ロマン派)の作曲家。なんなら二人には親交があったとか。そんな彼、リストの残した、信じられないくらいに難しい練習曲集が「超絶技巧練習曲」と呼ばれている。音大卒業者ですら演奏をあきらめる方もいるような、そういう鬼のような難しさ。うっかり挑戦なんてしようもんなら指が裂けそうである。
※音楽豆知識
【有名な作曲家が活躍した時代について】
おおまかに並べると、古い方から
バロック:バッハ
↓
古典派:ハイドン、モーツァルト、ベートーベン
↓
ロマン派:ショパン、リスト、グリーグ
↓
近現代:ドビュッシー、ラヴェル
といったところである。
これはあくまで一般論であるが、より新しい(近現代に近い)作曲家の作品の方が、演奏の際の自由度は高くなる。より古い(バロックや古典派)作曲家の作品は、とにかく楽譜に忠実な演奏を求められることが多い。
この物語の主人公・高中美織ちゃんは、近現代の曲にあこがれを抱きつつも、演奏するのは古典派辺りが得意で、バロックはかなり苦手という設定である。
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