第19話 それからのハナシ


 本格的な夏がもうそこまで近づいている。


 そう感じたのは六月も上旬、母校である校舎に久しぶりに足を運び、グラウンドで野太い掛け声を合わせながらランニングする野球部員たちを遠目で見たときだった。


 休日の土曜ということもあって校内に生徒の気配はない。吹奏楽部は遠征中か。殺風景なくらい静まり返った校舎に俺は自然と卒業式の日のことを思い出した。


「久しぶりねぇ! 如月くん」


 目的の職員室に入ると、懐かしい顔が出迎えた。


 だれもいない閑散とした職員室で俺を待っていたのは、高校生当時、俺のクラスの担任を務めていた杉内先生だ。


「ほんと、ちょっと見ない間に大きくなるものねえ」


「そう、ですかね」


 俺は気恥ずかしくなって頬を描いた。


 俺と先生は特別仲が良かったわけじゃない。どこにでもある、ありふれた教師と生徒の距離でしかなかった。


 それでもこうして急に会いに来たのは、言ってみれば気まぐれ以外のなんでもない。脈絡もなく先生の顔が浮かんで、なんとなく話したくなったのがすべてだ。


「嬉しいわぁ。如月くんがこうして会いにきてくれて。ほかの子はみんな会ったり話したりしたけど、如月くんとは一度もなかったから」


「俺も嬉しいです。先生が元気そうで」


「如月くんは? 元気にしてる? 今は大学生よね?」


「はい。なんとかやってます」


 久しぶりの再会に不思議な気持ちになりながら、俺は先生と当時の話題で花を咲かせた。


 三年間も同じクラスで過ごしていれば話題も尽きない。あの頃の思い出話は勿論、当時のクラスメイトたちの現在にも先生は詳しくて話は弾んだ。先生にとってあの三年間はすごく大切な日々だったようだ。


 しかし当時のことで一つ、先生には心残りがあったらしい。


「蓬田さんは、大丈夫かしら」


「……」


「先生ね。今でも時々思うのよ。もっとあの子と、ちゃんと向き合ってあげていたらって」


 卒業式の日、教室で会ったときも杉内先生は蓬田さんのことを気にしていた。


「今更後悔しても遅いんだけど……やっぱりどうしてもね」


 あれから四年も経っているのに、先生はまだ、蓬田さんを心配してくれていたのだ。


 そのことを嬉しく思いながら、俺は笑いかけた。


「大丈夫ですよ。これ、見てください」


 しばし指でスマホを操作してから、先生にその画面を見せる。


「あら……これって」


 表示されたのは喫茶『スワローテイル』で働く蓬田さんの写真だった。


 可愛らしいウェイトレスの格好をして、珈琲カップを乗せたトレイをおっかなびっくり運んでいる蓬田さんと、それをカウンターから固唾を呑んで見守る揚羽さんの姿がそこには写っていた。


「あいつ、今母親の喫茶店で働いてるんですよ。丁度最近の話で、まだ全然慣れてないんですけど」


「蓬田さん……」


「ちゃんと前を向いて頑張ってますよ。あいつ」


 杉内先生はしばらく呆気に取られた顔で写真を見つめていたが……、そのうち表情を緩めて微笑んだ。


「良かった……ほんとに、良かった」


「近くの店なんで、よかったらまた足を運んでやってください。けっこう見つけにくい場所にあるんですけど」


「ええ。必ず行くわ」


 少し涙ぐみつつも安堵したように胸元に手を当てる杉内先生の姿に、俺はあの頃に置いてきてしまった心残りにまた一つ、決着がついたような気がした。


「ところで、如月くんもそろそろ就職活動の時期よね? もうどこで働くかは決まったの?」


「……」


「あれ? 急に無表情になっちゃって、どうかしたの、如月くん?」


「……」






「まだなにも決まってませーん! って言っちゃえば良かったじゃないですか」


 その後、学校を出た足で俺は喫茶『スワローテイル』を訪れていた。


 案内された窓際のテーブル席にて。正面に座る汐里ちゃんが、蜂蜜と生クリームがこれでもかってくらいかかったワッフルをナイフで器用に一口サイズに切りながらそう言った。


「あのね、汐里ちゃん。俺はべつになにも決まってなかったわけじゃないんだよ? 内定もあったし、ただ自分からそれを辞退したってだけでさ」


「一緒じゃないですか、それ」


 俺の長ったらしい言い訳をドライアイスよりも冷たくあしらうと、汐里ちゃんはワッフルをフォークで刺し、あむっ、と一口に食べた。「ん~、あまーい!」とご満悦な表情で味わう少女を前に俺は「ぐぬぬ……」と歯噛みするしかできない。


「さっさと次の内定決めないと、今度は如月先輩が引きこもりになっちゃいますよ」


「は、はは……冗談やめてよ」


「もしくは蓬田先輩に養われることになるとか」


「それだけはなにがあっても阻止する!」


 明日からの就職活動に心を燃やす俺だった。


「でもま、それなりに頑張ってますよね。あの人も」


 つまらなそうに汐里ちゃんが流し目で見やった先では、今もなおウェイトレス姿の蓬田さんが現在進行形で悪戦苦闘していた。


「おいりすか! 三番テーブルのパンケーキはどうした⁉」


「い、今やろうと思ってたの!」


「つーか注文もこれ間違ってんじゃねえか! 藤原さんはいつもホットじゃなくてアイスなんだ! 覚えとけ!」


「だ、だれよ藤原さんって! 名前で言わないでよまだうろ覚えなんだから!」


「わかったからおまえはアイスコーヒーでも作っとけ! やり方はわかるな?」


「え、ええと、先にトレイを出して、それからコップに氷を……あ、あれ? やっぱり珈琲が先だったっけ? あれ、えっと……」


「なにやってんだよおまえ‼」


 汐里ちゃんがアルバイトを辞めた穴を塞ぐため急遽雇われた蓬田さんだったが、初めての接客業にはなかなか苦労していた。揚羽さんにこき使われながら、泣きたいような顔であくせく働いている。そんな親子ふたりで頑張っている光景を眺めていると、俺はなんだか嬉しい気分になった。


「まあ今のところ、まったく使い物になってないみたいですけどね」


「辛辣すぎる」


 その通りなんだけどさ。


「そう思うなら手伝ってあげてくれない? 蓬田さんのこと」


「ヤですよ。あんな人と一緒に働くなんて。ストレスで禿げそうです」


 そこまで言いますか。


 まあ鈍臭いところは相変わらず、今も怒られっぱなしの蓬田さんは、確かに見ていて色々とはらはらするけど。


「もういい! そっちはあたしがやる! おまえはあのふたりにカフェオレ持ってっとけ!」


「わ、わかった」


「ああ! んだその口調は!」


「ハ、ハイ! わかりました!」


 蓬田さんは慌ててトレイにカフェオレ(俺が頼んだやつだ)を乗せるとそれを片手で持ち、まるで綱渡りでもしているかのような足取りでおっかなびっくり歩いてきた。


「よ、蓬田さん落ち着いて。両手で持っていいから」


 流石に声をかけるけど、必死な形相の蓬田さんはなにも聞こえていないみたいだ。


「お待たせしましたっ。ごごご注文のっ、ししっなああああああああッ‼」


 案の定、足がもつれて蓬田さんは前のめりに倒れ込んだ。


 予想外だったのは——倒れ込んだ先に俺が座っていたことだ。


「え」


 ひっくり返ったカフェオレが狙い澄ましたかのように俺のほうに飛んできて……、コップから放たれた薄茶色の液体を、ものの見事に俺は上半身で受け止めた。


「な、なにやってんだりすか!」


「ごごごめんなさい如月くん!」


「あちゃー……」


 びしょ濡れになった服から、ほのかに甘い香りが漂う。


「……はは」


 台無しになった一張羅を見下ろしながら、俺は無性に、笑えてきた。


「ははは……びしょびしょだ」


「な、なに笑ってるんですか、先輩」


「だってさ……っ、ははは……こんなの、ははは……」


「きっ、如月くんが壊れちゃった!」


 ドン引きする汐里ちゃんと。

 焦りを浮かべる蓬田さんと。

 状況はもうめちゃくちゃ。


 けれど……俺はやっぱり、笑いを堪えることができなかった。


「やっぱ、罰って当たるもんだな」


「な、なに? 如月くん、どういうこと?」


「なんでもない。ありがとな。思い切りかけてくれて」


「な、なぜか感謝されたわ⁉」


 もうなにもかもがおかしくて、俺はその後もずっと笑い続けた。


「蓬田さんの気持ち、やっとわかったよ」


 ずっと、笑い続けた。






 **






 それから二週間後。


 俺は朝早くから、とあるマンションを訪れていた。


 五階の外廊下を歩き、目当ての部屋を見つける。


 ドア横のチャイムを鳴らすと、奥のほうで呼び音が響く。けれど家主は一向に現れなかった。しかたなく俺はスマホを操作して通話をかける。しばらくして通話相手は出た。


「おーい。起きてる?」


「……ぅん、おきてるぅ……」


 その声はまだ微睡むかのよう。


 絶対今起きたな、これ。


「今玄関の前にいるんだ。とりあえず開けてくれないか」


「……はい」


 通話を切ると、かすかに、部屋のなかからごそごそと物音がした。


 やがて……がちゃり、と扉が開く。


 癖のある緑色の髪をした少女が、寝ぼけ眼を擦りながら現れた。


「おはよ。蓬田さん」


「……おはよう」


 マンションの一室に住んでいたのは——蓬田さんだった。


 あんなに家から出るのを拒んでいた蓬田さんがどうして今、こんなマンションで一人暮らしをしているのか。その答えは、ほかならぬ本人からの申し出だったりする。


 数年間ずっとあの家で引き籠っていた蓬田さん。最近はリハビリと称して揚羽さんの喫茶店で働くようになり、徐々にその引きこもり根性は改善されていっている。けれど、それでも長年の日々によって身体に染み込んだ習慣はそう簡単には消えてくれなかった。


 家から出るたびに足が竦み、アルバイトでは接客するたび顔が強張る。ずっと外に交流を持たなかった蓬田さんの身体は俺たちの想像以上に世間に追いついていなかったのだ。


 これを問題視し、第一回『蓬田さんをどうするか会議』が開かれたのが、つい一週間前のこと。揚羽さんと牧子さん、そして汐里ちゃんまで入れた数人で、どうするのが最善なのか話し合ったのだが……、結局これといった案は出なかった。


 そんなとき、自ら相談を持ち込んできたのが、ほかでもない蓬田さんだった。


『わたし、もっと社会の荒波に揉まれるべきだと思うの』


 フンッ、と鼻息を荒げて蓬田さんはそう言った。蓬田さんは蓬田さんで、ちゃんと自分のことを真剣に考えていたらしい。その態度は少し猪突猛進ぎみで空回りしているように見えなくもなかったけど……、蓬田さんなりに一歩踏み出そうとしているその心意気は尊重すべきだろう。


 そして白羽の矢が立ったのが菅原さんだった。


 正確には以前菅原さんが蓬田さんに用意すると言っていた知人のマンションに目星を付けたのだ。竜野家からも喫茶店からも近い住居は蓬田さんの引きこもり脱却からは絶好の場所だった。揚羽さんに相談され(脅され)、菅原さんはスマートに手続きを進めてくれて、すぐに蓬田さんにそのマンションの一室が与えられた。


 その日から、蓬田さんの一人暮らしが始まったのだ。


 ……が。


「おい。なんでまだゴミ袋あんだよ! 昨日出すって言ってたよな⁉」


「わっ、忘れてたのよ。いいじゃない。次の日出せば」


「あーあー! リビングも散らかりまくりだし。ソファーに着替えた服置きっぱなしにするなって何回言えばわかるんだよ!」


「だ、だって、便利だから」


「冷蔵庫も全然整理できてない……ん? おいこれ消費期限切れてんじゃねえか‼」


「うう……」


 蓬田さんの生活力は思った以上に壊滅的だった。


 だからこうして俺が頻繁に訪ねては、毎日のように通い妻よろしく世話を焼いているのだった。


「あ、洗い物がこんなに……信じられない」


「ごめんなさい……」


 流し台に溜まった大量の食器類を前に俺は戦慄した。


「はあぁ…………もういいから、蓬田さんはさっさと着替えてアルバイトの準備をしてくれ」


「わ、わかりました」


 てとてとと裸足で床を踏みながら、蓬田さんは別の部屋に消えていく。


 こんな有様で、この先やっていけるのかな……。


 早くも不安が募る俺だった。






 そして俺が作った簡単な朝ご飯を済ませ、諸々の準備を終えた俺たちは、すぐにマンションを発つため、玄関までやってきた。


「忘れ物とかない? 蓬田さん」


「うん。大丈夫」


 その場に腰を下ろして俺は先にいそいそと靴を履いていく。


「ねぇ、如月くん」


「ん? なに?」


「その……ずっと思ってたんだけど。如月くんってあたしのこと、ずっと前の苗字で呼んでるよね」


「え……? あ、あー……」


 確かに。そうだ。


 蓬田さんが『蓬田』だったのは、高校の頃、まだ両親が離婚する前のことだ。今はもう苗字が変わってしまって、竜野りすかとなっている。すっかり忘れていた。


「……やっぱり、直したほうがいいか?」


 訊くと、蓬田さんは二つ結びの緑髪をぶんぶんと横に振った。


「ううん。そのままがいい」


「そう、なのか?」


「うん。あたし、如月くんにそう呼ばれるの……好き」


 どき、と心臓が軽く跳ねる。


「元の苗字はなくなっちゃったけど……そう呼ばれると、あたしはパパの娘なんだって、実感できるから」


「あ、ああ……そういう意味か」


「……? ほかにどんな意味があると思ったの?」


「いやいやべつになんでも」


 気持ち焦りぎみに靴紐を結んだ。


 そして蓬田さんも靴を履き終えると……、彼女はそのまま家を出るのでなく、靴棚のうえに縁起物のように飾ってあった、ひょっとこの仮面に向けて両手を合わせた。


「今日も行ってきます」


 どうやら蓬田さんはこの変なお面に多大な感謝を覚えているらしい。今やお守りのように扱われている。ただのお面からずいぶん出世したもんだ。


 まあ俺もそれなりに助けられたし、今日くらいは俺も手を合わせておこう。


「じゃあ、行こうか」


「うん」


 玄関の扉から、ふたり並んで出ていく。外の景色が目に映った。


 五階の外廊下から見渡す町の全景には、まぶしいばかりの陽光が差す。まだ青みがかった朝の空気に混じるのは、蒸し暑い、けれどどこか爽やかな夏の気配だ。


 なんとなく俺はたそがれて、その場で軽く息を吸った。


 その隣に、気づけば緑髪の少女が立っていた。


「ねぇねぇ、如月くん」


「なに?」


「あたし考えたんだけど。もし如月くんがこのまま大学を卒業しちゃって、路頭に迷っちゃうことになったら……、あたしが、如月くんが養ってあげてもいいわよ」


「なっ……」


 にひひ、と初めて見る悪戯っぽい笑みを浮かべて、蓬田さんが外廊下を駆けていく。


「ちょ、調子乗んな! そんなもん絶対阻止してやるわ! こらぁ!」 


「わー! 怒ったー!」


 朝から近所のことも考えず、俺たちはやかましく追いかけっこ。


 まるでどこぞのバカップルだ。なんて不本意な。


 けれど今日だけはこの新しい門出を祝福させてほしかった。


「あはは! 如月くん顔こわーい!」


 無邪気に逃げていく小柄な緑髪の少女。


 その大きく伸ばされた腕が朝の光に照らされる。


 真っ白な手首、その裏には、もう包帯はなくて。


 まるでなにかを象徴付けるみたいに、痛々しくもどこか誇らしい火傷の痕が、右に左に揺れては、ほのかに一瞬輝いて見えたような、そんな気がした。





 

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りすかさんの手首の裏には。 伊草 @IguSa_992B

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