第18話 手首のうらには。
「結局、僕は邪魔をしていただけだったのかな」
蓬田さんと揚羽さんの関係が修復したのを遠くから認めていると、菅原さんが立ち上がりながら言った。
「キミは僕を正しいと言ったが、この決着を見ると、間違っていたと言わざるを得ないね」
「菅原さん……」
らしくもなくネクタイを無造作に解き、水を吸って重くなったスーツを脱ぐ。日光に照らされる菅原さんの表情はどこか自嘲ぎみだった。俺はなにか言いたくて口を開くけど、俺が菅原さんそんな表情にさせた元凶であることを思うと、かける言葉が見つからなかった。
「あんたは間違っちゃいないよ」
代わりに声をかけたのは、牧子さんだ。
「孫娘のこと、よう考えてくれはった。ありがとうね」
「牧子さん
「とりあえず風呂でも入りんさい。濡れたもんもどうにかせんとな」
菅原さんは「はい」と素直に頷くと、俺の横を通って玄関のほうへ歩いていく。
その背中を見ていると、やがて俺のなかで罪悪感が遅れて膨れ上がった。「す、菅原さん」仮面の効果も切れて、情けない素顔で謝ろうと声をかける。
「あの、すいません、俺」
「いいさ。気にしなくていい。キミはキミに見えるものを掴もうとしたんだろう。そして見事に望む結果へ導いた。それは誇るべきことだよ」
それよりも、と菅原さんは首だけで振り返った。
「内定を辞退した件、本当に良かったのかい? もし後悔しているのであれば、僕の権限でなかったことにすることも可能なのだが」
ぐっ、と俺は喉の奥で言葉を詰まらせる。たしかにそれは甘い誘いだった。
正直なところ勢い任せに自分はとても大胆な真似をしてしまっている。冷静じゃなかった自覚があるし、未練がないわけじゃない。取り戻せるなら取り戻してしまいたい。……が。
「い、いいです」
「……ふむ。そうかい?」
菅原さんはまだ少し濡れた眼鏡をかけて、「キミはやっぱり大人だな」と微笑むと、今度こそ止まらずに家のなかへと入っていったのだった。
**
「よ、よかったの? 仕事の話……」
その後、しばらくして。
俺は蓬田さんとふたりで和室に座っていた。
和室は以前蓬田さんと菅原さんが話し合っているときに使っていた和室で、木目調のローテーブルにはすでに夕焼け色の斜陽が注ぎ込んでおり、それを挟んで俺たちは向き合っていた。
菅原さんはとっくに身だしなみを整え終えて車で帰っている。揚羽さんはまだ蓬田さんと過ごしたそうだったが、今日のところは一度帰って菅原さんと話したいことがあるらしく、渋々といった顔で菅原さんの運転する車に乗り込んでいった。
「いいわけないだろ。必死に掴み取った第一志望だぞ」
「え? だ、だったら、もう一回あの人に言って取り消ししてもらえば」
「そんなことできるか」
深々と溜め息を一つ。
「俺は本来、今回の件じゃ無関係な第三者だったんだ。なのに横から割って入って、菅原さんに迷惑をかけまくった。だったらその責任は取るべきだろ」
「くそ真面目……」
蓬田さんは苦い抹茶でも飲んだみたいな顔をしている。
「都合よく欲しいもん全部手に入れるわけにはいかないんだよ。子供じゃないんだから」
「子供……」
かと思えば、その言葉が引っ掛かったみたいに萎んでしまった。ローテーブルのあちこちに視線をやっているのを見るに、今回の件で色々と痛感するものがあったんだろう。いつも元気に跳ねている緑色の髪も、今は萎んだキャベツみたくしなしなになっている。
「最初から腹は括ってたからさ。その覚悟を示してやりたかったんだ」
俺もまだまだ幼稚だ。少なからずほかの大人たちから見れば。
だったら、そのうち子供じゃいられなくなってしまう前に、今のうちに大人に一矢報いておくのもいい。なんてことを思ったりしたんだ。
「如月くんは……なんで、そこまでしてくれるの?」
けれど俺のそんな心境なんて知らない蓬田さんは不思議でしかたないだろう。
所在なさげに視線を右往左往させる蓬田さんが、俺のほうを見上げることはなかった。
「乗りかかった船ってやつだよ。蓬田さんが気にすることはない」
「でも……」
「俺さ、今けっこうすっきりした気持ちなんだよ。なんか『やってやった』って気持ち。だから、そんな顔をされると困る」
励ましてやりたくて言葉を費やしても、蓬田さんは納得できない顔で俯くばかりだ。一応こっちも、嘘偽りない本音なんだけど。
「わたし、ずっと如月くんに迷惑かけてばかりで、なのに、自分の大事なもの捨てて、わたしとお母さんとのことも解決してくれるなんて……」
静かな和室に響く声は痛々しく震えていた。
「そんなことしてもらう資格、わたしになんか、ないよ……」
「蓬田さん」
だんだん頭を沈ませていく蓬田さん。綺麗なつむじがこっちからは見える。そのつむじに俺はなにを言ってやればいいんだろう。
「なんにも返せるものがないよ。なんにも……」
「いやいや、そんなことは」
「じゃあ言ってよ! 如月くんがしてほしいこと、なんでも! わたしができることだったらなんでもするから!」
やがて顔を上げた蓬田さんは縋るような眼差しで俺を見つめた。捨てられた子猫が拾ってくれた飼い主に精一杯尽くそうとしているかのような、そんな切実な献身の心だけがその眼差しには宿っていた。
でも俺にはこれといった願いがない。べつに俺は今日、損得勘定で動いたわけじゃなかったから。だから割の合わない賭けだってできたんだ。
「してほしいこと、か……」
「なにもないよ」なんて答えるのは蓬田さんは求めてないんだろう。むしろこんな精一杯の気持ちをすげなく断ったら、余計にショックを受けるんじゃないか。
そんなふうに思って、俺はない頭を捻って必死に考えた。でもすぐに「願い」なんて出てこない。それも蓬田さんが可能なことで、かつ今すぐ叶うような「願い」なんて……。
俺は悩ましい顔で蓬田さんに目を向ける。
——あ。
と、そのときあるものが視界によぎって、おかげで俺はやっと思いついた。
「じゃあ、それ見せて」
俺が指差したのは、蓬田さんの手首、そこに巻かれた包帯だった。
「えっ? こ、これ?」
自分の手首を胸元に持っていきながら蓬田さんは怪訝そうにする。
「うん、それ」
「な、なんで」
「ずっと巻いてるだろ。それ。必死に隠そうとしてるんだろうけど、いつまでもそんな物騒なもん見せてたら、みんな怖がって逃げてくぞ」
「それは……」
単なる思い付きだった。
べつに女の子の秘密を暴いてやりたいとかじゃない。
あの頃、学校の奴らはみんな蓬田さんのそれに興味津々だった。急に手首に巻かれた包帯、刺激に乏しい学校生活を送るみんなにとっては物騒な想像を抱かせるに十分な代物だ。だからあいつらもそれを暴こうとした。そしてそれがきっかけで蓬田さんは学校を辞めた。
この包帯はすべての元凶と言える。この包帯の存在が、あのときの事件が、蓬田さんの物語を決定づけ、それが地続きで今の状況に繋がっている。
だとしたら、最後にこの騒動の「元」を暴くことが、あるいは一つのけじめになるんじゃないだろうか。
なんてことを、思った。
「べつに、見ても楽しくないよ」
「それでも、おれは見せてほしい。……いい加減、そろそろ前を向いてもいいだろ」
小動物の警戒心を解すように笑ってやると、蓬田さんは苦々しい顔で、自分の手首に巻いた包帯を指先で撫でた。
「それに、さ」
俺は明後日の方向をむいて頬を掻きながら、
「蓬田さんのそれ、学校の奴らみんな気になってたからさ。蓬田さんのことであいつらが知らなくて、俺だけが知ってることが、まあ、欲しいっていうか」
「……そう、なの?」
「うん」
ぶっちゃけてしまえば、簡単すぎる話で。
要するに俺は蓬田さんから「特別」なものが欲しかったんだ。
「そ、そっか」
蓬田さんは微かに頬を朱色に染めると、自分の腕をぎゅっと豊かな胸に抱きしめた。
「う、うんっ、わかった」
校舎裏で告白でもするような顔つきで何度も頷くと、手首の包帯に指をかける。
ごくり、と俺は息を呑んだ。
「き、嫌わないでね?」
「そういうのはいいって」
俺もずっと気になっていたからか、ついつい急かすように言ってしまう。
蓬田さんはやがて、それはそれは嫌そうな顔つきで包帯の止め具を外した。
それから先を摘まんで手首を回していく。
するすると白い包帯が解かれていく。
拍子抜けするくらい、いとも簡単に露わになっていくその因縁の部分に、俺は心の準備なんてする暇もなく、ただ見入っていとぁ。
そして邪魔なものはすべて取り去られ——、
「え……?」
まぬけな声が、喉の奥から漏れた。
ずっと日光を遮られていたからだろう、包帯に覆われていた部分の肌は、新雪のように真っ白だった。元々肌が白い蓬田さんだから、いっそう不健康なくらいの白さだ。
そして秘められていた手首の裏の、真ん中辺り。
そこには――無残な傷痕が残っていた。
……とても、小さな。
「な、なんだこれ? 入れ墨?」
「ち、違うし。……
「やけど?」
もう一度見ると、たしかにそれは傷痕よりも火傷痕と言うべきものだった。なにかとても熱いものにでも触れたのか、白い肌に痣のような痕が刻まれてしまっている。ただそれは本当に小さな痕だった。
「じっ、自分の誕生日に、初めて料理を作ろうと思って……でも上手くいかなくて、沸騰したお湯がかかっちゃって、それでこんなふうになっちゃって……」
「……」
俺は空いた口が塞がらなかった。
「いや、え? お湯? 火傷? え……マジで?」
「な、なによ。その反応」
「や、だって、俺はてっきり……」
「……?」
俺の妙な反応に、蓬田さんは小首を傾げて「なんだこいつ?」とでも言わんばかりに眉をひそめる。
その表情を見て、俺の脳内に浮かぶ記憶があった。
それは揚羽さんの言葉だった。
『落ち着けって。りすかだぞ? あんな包帯も、どうせ大したもんじゃないって』
喫茶『スワローテイル』で、俺は。そんな揚羽さんの言葉と態度に見切りをつけて、蓬田さんのことは自分に任せてほしいと啖呵を切った。
あのとき、俺は揚羽さんのそれがとても呑気な言葉に思えたから。
だが、実際は……。
「い、いや待ってくれ」
慌てて首を横に振る。
そう、まだ解消していない疑問点はある。
「こんな小さな傷、どうして隠そうとしたんだよ?」
思わず責めるような口調になってしまう。蓬田さんは「えっ、だ、だって……」視線を泳がせてもじもじと身をよじった。
「こ、この傷、ハート型なんだもん」
「ええ」
たしかによく見ると。
それは歪なハート型に見えなくもない傷痕で……。
え?
じゃあ、なに?
包帯で隠したのって……まさか。
戦慄する俺を余所に、蓬田さんは顔を真っ赤にして言った。
「こ、こんな傷、見られたら恥ずかしいじゃん」
俺はそのとき。
思い切り膝から崩れ落ちた。
「そ、そんな理由で……」
俺も、高校の奴らも、振り回されたっていうのか。
「そんな理由ってなによ! せっかく見せてあげたのに! ……ま、まあたしかに、包帯とか巻くのもかっこいいかなとか、最初は思ってたりもしてたけど」
「もういい。それ以上は黙ってくれ」
今ちょっと、どころかかなり打ちひしがれてるんで……。
「な、なによ、その態度。あたしだって、恥ずかしいの我慢してるのに」
蓬田さんも不満そうだが、構ってやれる余裕はなかった。
俺たちは手首の裏に巻かれた物々しい包帯に、勝手に想像を膨らませて、勝手に劇的な妄想をして、馬鹿みたいな衝動に突き動かされていた。
というのに結局蓋を開けてみれば、そこにあったのは、小さな火傷痕と中二病じみた思い付きだったなんて。
「……」
ちらり、と蓬田さんを盗み見る。
蓬田さんは釈然としない様子で自身の手首を見つめていた。
「なんかよく見るとハートでもなんでもないわね、これ……やっぱりやめようかしら、毎朝取り換えるのめんどくさいし、なんかいつも痒いし」
その様子を見ていると。
俺は、なんだか、
「……ぷっ」
ついに、呆れを通り越してしまった。
「ぷっ、ははは! くっ、あはは……‼」
「な、なによ、急に笑い出して」
「いや、もうなんか……ぷっ、はは……わからない、けど、ふふ……」
この締まらない結末が、どうしようもなく、俺たちらしく思えて。
「……はー、笑った。もう疲れた。俺帰るわ」
「ええ……⁉」
驚愕する蓬田さんを尻目に、俺は一人立ち上がって和室を後にしようする。
「ちょ、ちょっと待って!」
蓬田さんは慌てて声をかけてきた。
「なんだ? まだなにかあるのか?」
首だけで振り返ると、蓬田さんはなんだか神妙な表情でこっちを見ていた。
「如月、くんは……後悔してない?」
なんだ。そんな今更な。
「してないよ。まったく」
俺は笑って「でもまあ」と頭を掻きながら、
「我ながら、らしくないことをしたなとは思ってるな。前までの俺だったらあんなことしなかったし、案外あとで冷静になって、めちゃくちゃ後悔はするかも」
「そ、そう……」
「でもいいんだ。ぜんぶ俺が決めて、俺がやったことだしな。そもそも一目惚れなんかしたほうが悪いんだから、最初から蓬田さんに落ち度はないんだ」
「そ、そっか」
一度納得顔で頷いた蓬田さんだったけど……。
すぐに「ん? え……?」と大きく目を膨らませた。
「ひとめぼ……え? ご、ごめん、如月くん今なんて」
「じゃあまたな」
「ちょ、ちょっと」
「またそのうち来るよ」
俺は戸を閉めて和室をあとにした。
「え? うそ? どういうこと? ええ⁉」
和室のなかからは蓬田さんの小さな悲鳴が絶え間なく聞こえていた。
俺はそれを満足げな表情で聞くと、軽やかな足取りで家を発つのだった。
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