第17話 五年と二メートルと数センチ
「えぇ……」
後ろのほうから蓬田さんの唖然とした声が聞こえてきた。
「お、おまえ正気か⁉」
揚羽さんもドン引きしていた。
これでいい。やってしまったことへの後悔はない。
……いや、やっぱりわからないけど。あとでするかもしれないけど。正直今のはちょっと勢いに任せて「やっちゃった」感があるし……。
けどまあ、今はこれでいい。
「や、野蛮な真似をするものだ……」
「立つな。立てばまた打つ」
タンクに残る水をこれ見よがしに見せてやれば、菅原さんは「ぬぐ……」と唸り声を発して立ち上がるのを諦めた。
「もはや言葉での解決は望めないのか……」
「なにを言う。先に話し合いを拒絶したのはそっちだ。俺は止まれと言ったはずだぞ?」
「話し合い……?」
濡れた前髪を払いながら菅原さんが顔を上げる。
「キミの言う『話し合い』ならもう終わっているはずだろう? あの子とはふたりきりの機会を設け、僕は最善の案を出し、あの子はそれを拒まなかったんだ。肯定もしなかったが、それを相手にゆだねる時点で、自ら選ぶ権利を放棄しているのと同義だろう」
「あんたは二つ、勘違いをしている」
脅すように男へ向けていた銃口を俺は下ろす。
「一つはそれが話し合いとは呼べないということだ。あんたは拒まなかったというが、蓬田さんはちゃんとあんたを拒んでるよ。あんたは気づいていないだけだ」
「僕が出した案が気に入らなかったと? そんなわけがないだろう。一人暮らしの住居も提供する上に仕事先も紹介しようと言っているのだよ?」
「それが蓬田さんには重い道なんだ」
「理解しかねるね。あの子が意気地のない子なのは知っているよ。自分で決めるのが苦手な子だということもね。だからこそ僕がすべて用意してあげようと言っているのに」
「やっぱり、理解していないな。なにも」
「なんだと?」
一体なにを理解していないのだ? と言わんばかりに菅原さんが眉をひそめる。
俺は淀みない口調で言った。
「蓬田さんはな、あんたが思ってるような意気地なしじゃない」
「如月くん……」
「あんたが思ってる以上の、稀に見るレベルの意気地なしなんだよ‼」
「えっ」
後ろで聞こえる少女の声が上滑りした。
「最低限も生活力もない、他人に頼る勇気もない、空気も読めないし、鈍臭いし、すぐ逃げるし、めちゃくちゃどうしようもない人なんだ!」
「あ、あれ……?」
「そんな救いようもない小心者で腰抜けの蓬田さんが、今更急に一人暮らしなんてできるわけないだろっ‼ ふざけんなっ‼」
俺は怒っていた。とても怒っていた。
俺なんかきっと揚羽さんより牧子さんより下手をすれば菅原さんよりも、蓬田さんとは付き合いが短いだろう。なのにこの数週間で蓬田さんの「どうしようもなさ」を嫌というほど痛感した俺よりも、みんな危機感が薄い。薄すぎる。
「如月、さすがにそりゃ言いすぎなんじゃ……」
「なにも知らないからそう言えるんだ。一度海に連れていっただけで溺れ死にそうになるんだぞ? 一人暮らしなんかしたら社会の荒波に飲み込まれて窒息死するかもしれない」
「いや言いすぎだから‼」
とうとう我慢できなくなった蓬田さんが勢いよく玄関の戸を開け放って現れた。
「どんだけあたしのこと舐めてんのよあんた⁉」
「なんだ。まだ舐められてないとでも思ってたのか?」
「ななっ……」
「俺はこのなかで一番蓬田さんを舐めてる自信があるぞ!」
「なんの自信よそれッ‼」
表情はお面に隠れて見えない。が、今蓬田さんは顔を真っ赤にしている気がした。
にしても本人がこの程度の自覚なら、周りの理解がズレるのもしかたないかもしれない。
まったく、誰も彼も彼女も、分からず屋ばかりだ。
「キミの言いぶんは理解したよ」
菅原さんは落ちていた眼鏡をかけながら俺たちに冷えた眼差しを送った。
「だが、それなら余計に彼女は早いところ独り立ちするべきだろう。自分で生きる力を育むために」
「ああ、その通りだ」
「ん?」
すんなりと肯定されるとは思わなかったのか、菅原さんが目を丸くする。
「あんたは正しい。言っていることも、やろうとしていることも、なにもかも正しい」
「なら……」
「だが言っているだろう。あんたは勘違いをしていると」
理屈なんかどうでもいい。なにが正しくてなにが間違っているのかなんて、あとでいくらでも考えればいい。そんなことよりも今はやるべきことがある。
「話し合いをするべきはあんたじゃない」
俺は一度菅原さんを冷たく見下ろして、そして揚羽さんのほうを見やった。
「如月……」
「そうだろ?」
邪魔なお面を外す。そして俺は後ろに立っている人物を振り向いた。「ぅ……」と、俺の視線を受けて蓬田さんは肩を震わせる。
「待つんだ。それには及ばない。あの子の件については僕に一任されている。僕もその子の父親で娘の将来について責任があるのでね。揚羽が話す必要は……」
「蓬田さんの父親はあなたじゃありません」
今度は素顔で菅原さんと対峙する。お面の効果が切れて弱い心が戻ってきてしまうかと思ったけどそんなこともなく、不思議なくらい心は穏やかだった。
「少なくとも、蓬田さんのなかでは」
「責務は果たしているはずだ。父親としての」
「あなたじゃ務まらないって言ってるんです。娘の名前すら、一度だって呼ぼうとしないあなたには」
キミ。
あの子。
娘。
菅原さんが蓬田さんを呼ぶときはいつもそんな冷たい呼称で、一度だって「りすか」と名前で呼んだところを聞いたことがなかった。
そんな人が義理とはいえ蓬田さんの父親を名乗る資格なんて、あるわけがない。
「関係のないやつは黙っててくれよ。家族のことは家族で話すべきなんだ」
「……」
俺が臆せず見つめ返すと、菅原さんはやがて観念したようにふっと息を零した。
菅原さんが諦めたのを確認してから、俺は蓬田さんのところへ向かう。
「蓬田さん、ほら」
「で、でも……」
なおも不安そうに見上げてくる蓬田さんの背中を、俺は極力優しい力で叩いた。
「大丈夫。俺も見てるから。言いたいこと言ってやればいい」
励ますように頷いてやると、蓬田さんは弱弱しい眼差しの奥のほうにかすかに決然とした光を灯して、やがて、揚羽さんのところへ歩き出した。
「りっちゃん……」
いつのまにか玄関近くまで出てきていた牧子さんが心配そうにその光景を見守っている。
地べたに座っている菅原さんも静謐なまでに澄んだ表情でふたりを見ていた。
やがて庭の中央辺りでふたりが対峙する。
「……」
「…………」
「あー、ええと……」
「…………」
むっつりとした顔で黙り込む蓬田さんと、気まずい顔でぽりぽりと頭を掻く揚羽さん。
どちらとも知り合いの俺には、こう言っては難だが、まったくと言っていいくらい似ていないように見えていた。少なくとも昨日までは、似ても似つかないふたりだって。
けれどこうして並んで向き合っているのを見ていると、どうしてだろう、やっぱりこのふたりは「親子」なんだと感じざるを得ない。
「……久しぶりだな。こうして顔合わせんのは」
「……うん」
「げ、元気してたか? ご、ご飯とか、ちゃんと食ってんだろーな? あんま夜更かしとかして、婆ちゃんに迷惑かけてちゃ、だ、ダメだぞ?」
必死に親子としてふさわしい会話を試みる揚羽さんだが、その表情はぎこちない。
正面から向き合っていても、顔を合わせて喋っていても、ふたりの間には数メートル足らずの果てしない距離が開いていて、その空間を埋めるのがままならない。
「まあ、それでなんだ……家のことなんだが」
「……」
「あ、いや! って言ってもあれだぞ? おまえの一人暮らしの話とかじゃないぞ! 家ってのはうちの話で……って、ああいや、それだとこの家のことも含まれんのか? いや……」
「……どうでもいい。家のことなんか」
「え? ああ……そ、そうか? ま、まあでも、大切なことなんだぞ? おまえがどの家に住むかってのはさ、おまえの、これからの人生にかかわる……」
「それだけ?」
「えっ?」
「今話すべきなのって……それだけなの」
「ええ? なんかほかにあったか……?」
「……」
「…………」
数年ぶりの親子の対話はまるで拙く、掛け違えたボタンみたく噛み合わない。やがてふたりの間を支配していく沈黙が、痛々しいまでに遠ざかってしまった親子の心の距離をありありと表すようだった。
「……どうして離婚したの」
沈黙を割ったのは、蓬田さんの呟き。
「えっ?」
「どうして、離婚しちゃったのよ」
予想外のことを聞かれたように揚羽さんが動きを止める。
「な、なんだよ、急に」
「……急じゃない」
蓬田さんは自分の足元を見下ろしながら「急じゃ、ないもん」と漏らす。
「あたしにとっては、ついこの間の話」
「いやいや、あれはもう五年くらい前じゃ——」
その言葉を遮るように蓬田さんが不意にお面を外す。
露わになった娘の顔を見て、揚羽さんはハッとした顔になった。
「りすか……おまえ」
蓬田さんは涙ぐんだ顔で実の母親をにらんでいた。それはこころなしかなにかに堪えているような、はたまた子供のように拗ねてもいるような……そんな「幼さ」と「大人っぽさ」とが綯い交ぜになった、とても複雑な表情だった。
「っ……!」
きっと揚羽さんは気がついただろう。
蓬田さんの時間が、あの頃からずっと、止まったままだということに。
「どうしてなにも言ってくれなかったの。なにも言わずに決めちゃったの。あたし頑張ってたのに、パパとママがもう一度仲良くなれるように、頑張ってたのに……」
消え入りそうな声は、少し離れたところに立つ俺の耳にもしっかり聞こえてきた。
「パパはいつのまにかいなくなってるし、いつまで経っても帰ってこないし、ママはすぐほかの男見つけて、一人でどんどん変わってっちゃうし……」
「りすか、それは……」
「だれも、なにも話してくれない……わたしだけ置いてかれて、ひとりぼっち……」
蓬田さんの肩が小刻みに震えているのがここからでもわかる。
「違う、そんなつもりじゃ」
「じゃあ、なんで……なんでなにも話してくれなかったの」
「そ、それは……ええと……」
揚羽さんは困ったような顔で明後日の方向を見やる。やがて「んぅ~……‼」と妙な唸り声をあげながら頭を掻きむしった。まるで散らかった部屋からなにか大切なものを探そうとするように、視線をあちこちへ飛ばして、逸らして、それでも最後は諦めたような仕草で弱弱しくため息を吐く。
「すまん……覚えてない……」
「おい」
思わず俺は割って入った。
「覚えてないってなんだ。忘れてんじゃねーよ。一番大切なことだろ」
「だ、だってもうけっこう前の話だし」
「あんたなぁ……」
「しゃ、しゃーねーだろ!」
追い詰められた犯人みたいな顔で揚羽さんは言い訳し始めた。
「あ、あの頃はあたしも必死だったんだよ‼ あの野郎いつのまにか姿を消しやがるから、もうあたしがなんとかしてりすかを食わせていくしかねえって思ったから!」
「え……?」
「だから身内の仕事先とか頼りまくって、金の問題とかもいろいろ整理して……そうしてたら寝る余裕もなくなってきて、もう婆ちゃんの家に預けるしかねえってなって……」
まるで初耳だったみたいに、蓬田さんはただ圧倒されている。
やがて、
「忙しくなったから、あたしを預けた、の……?」
ぽつり、と、唇の隙間から漏れるような呟きが聞こえた。
「ん? ああ、もちろんそうだが……」
「……厄介払いじゃ、なくて?」
「は、はあ? なんでそうなんだよ?」
「だって……あ、あたし、迷惑かけてばっかりだったから……パパとも別れて、新しい仕事も見つけて、ママはもう、あたしのこと邪魔になったんだって……」
「ばっ、馬鹿言うんじゃねえ! そんなわけねえだろ!」
ふたりは同時に「信じられない」と言った顔つきでお互いに見つめ合った。
——やっぱり。
そこまで聞いて俺もようやく自分の目論見が的を射ていたことを悟った。
このふたりにとにかく足りないのは「会話」だったのだ。
「あたしのこと、嫌いになったんじゃないの?」
「いっ、いやいや! むしろ嫌いになったのはそっちのほうだろ?」
「そんなこと、あたし言ってないけど……」
「それを言うならこっちだって……」
娘のために頑張るあまりその娘との距離が遠ざかってしまい、忙殺される日々についぞ大切なことを口にできなかった母親と、待つばかりでなにもできず、そのうち母親を「裏切者」と言って自分から遠ざけてしまった一人娘。
絶望的なまでにふたりにはお互いへの理解が足りていなかった。
「じゃあなにか……? ぜんぶ勘違いだったってのか? ただお互いに思い込みすぎたってオチなのか……?」
「……」
「嘘だろおい……」
そうやってどちらもお互いの大切な本音を知らぬまま、ついに五年の月日が過ぎ、そして今日を迎えてしまった。そのことをきっと今ふたりは理解し始めている。
「……マジかよ……五年もこんなことで……」
「ご、ごめんなさい」
「謝んなよ……」
謝りてぇのはあたしのほうだ……、と揚羽さんは項垂れてしまった。
「くそっ……‼ なんでもっと早く話さなかったんだ……‼ 娘に嫌われんのビビッてる場合じゃなかった、なにやってんだ、あたし……」
「あ、あたしも、逃げてばっかりで、その……」
蓬田さんがまた涙ぐむ。さっきまでより今のほうがずっと泣きそうだった。
どっちも似たり寄ったりの、なさけない表情だ。
意気地がなくて、他人に頼ることを知らなくて、いつも肝心な部分が抜けていて。
どうしようもなく、このふたりは「親子」だった。
「……やめよう。後悔してても今更だ」
それでも親としての責任感か、大人としての矜持か。
一足先に立ち直ったのは揚羽さんだった。ふるふると
「とりあえず仲直りしねえか、りすか」
「ママ……」
「不甲斐ねー母親だが、おまえに嫌われんのはけっこう痛ぇんだ」
ゆっくりと揚羽さんが蓬田さんへ歩み寄っていく。
「寂しい思いさせた分、埋め合わせはするからよ……頼む」
長く果てしない空白を埋めて、
ふたりはようやく「親子」の距離に立った。
「っ……えぐっ……」
蓬田さんはもう泣きべそを掻いて、まるで絵にならないぐらい鼻水やらなんやらで顔をぐちゃぐちゃにして、正直女の子としてどうなんだと引くくらいの有様だったが……。
「………………うん」
長い長い数秒ののち、小さく頷くのだった。
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