第16話 契りを汚す者あらば。


 その日の夜、俺は夢を見た。


「なぁ、聞いたか? 如月」


 高校生の頃の俺が隣席の男子に話しかけられている。藤谷将生ふじたにまさきは高校で一番仲が良かった男子だ。小学校も中学校も一緒の腐れ縁。だからこそ気兼ねせずぶっきらぼうに「なにをだよ?」と訊き返すことができた。


 生は妙に難しい顔で声を潜めて、


「今日の選択科目で、北沢のやつがリスカちゃんに水をぶっかけるらしい」


「はあ? なんだそれ?」


「噂が回ってきたんだ。習字の時間を狙って、標的は例の包帯だってよ。だからぶっかけるっつっても手首に少量だろうが、これ、なんかあったらけっこうマズいよな?」


 北沢は当時のクラスでは一番蓬田さんの手首の包帯に関心を寄せていた男子生徒だ。同じく馬鹿なことに興味を持った仲間たちと協力して、なんとかして蓬田さんの包帯の裏側を暴こうと躍起になってる、めちゃくちゃ暇なやつらの筆頭。


「先生に言ったほうがいいか? どう思う?」


「どう思うって……」


 面倒な話を聞いてしまった。と思った。面倒事を起こすなら蚊帳の外でやってほしいのに、話を聞いてしまったら当事者になりかねない。


「放っておけよ、そんなの」


 見て見ぬ振りが吉だろう、と俺は判断した。


「でも万が一揉め事になっちまったらさ……」


「俺らには関係ない」


 そっけなく突っぱねて話を終わらせる。


 もっぱらの噂では数人の酔狂な輩たちは女の子の秘密を白日の下に晒そうと、帰り道を尾行したり着替えを覗こうとしたり、いろいろと馬鹿な真似をして画策しているらしいが、いまだなんの成果も得られていない。


 だから今回も何事もなく終わるだろう、そう高をくくっていた。


 だが実際はそうはならなかった。


 習字の授業のさなか、手首を狙って水をかけようとした北沢は足を滑らせ、あろうことか手に持っていた水入れに溜めていた水をすべて、蓬田さんにお見舞いしてしまった。


「あ……ご、ごめ」


 やっちまったと青ざめる北沢の前で、蓬田さんは勢いよく立ち上がった。頭から大量の水をかぶって制服をびしょ濡れにされた蓬田さんは呆然とした顔で教室を見回す。まるで全員の表情を窺うように。そしてこの事態が仕組まれたことであるとどこかで悟ったのか、一瞬にして顔を真っ赤に染めると、涙が流れそうになるのを堪えるように教室を飛び出していく。俺の席の前を通って。


 長い髪から滴った水が顔に飛んできても、俺は身動きが取れぬまま、自分の席で馬鹿みたいに固まって、ただ遠ざかる少女の後ろ姿を見送るしかできなかった。


 その日を最後に、蓬田さんは学校に来なくなった。


 俺はずっと、あの後ろ姿が忘れられない。


 俺がもし、巻き込まれることを厭わず行動に起こしていたら。見て見ぬ振りなんてせず、ちゃんと立ち向かっていたら。あんなことにはならなかったかもしれない。

 そんな後悔がずっとどこかにわだかまっていて、しこりのように残っていて、何年も忘れることができなかった。


 ——でも。


 今俺を動かすのは、あの日の後悔じゃない。


「ほ、ほんとにやるの?」


 竜野家の和室にて。


 まるでこめかみに銃口を突き付けられたような怯えた顔でおどおどと訊ねてくるのは蓬田さんだった。ちょこんと女の子座りで見上げてくる様はさながら子リスか子鼠か。


「なにビビってるんだよ。ここまで来て」


「で、でも、如月くんに言われたのはまだ昨日のことだし、こ、心の準備とか……」


 声を震えてしまって、完全に怖気ずいているようだった。ふわっと癖のある緑髪も今はこころなしか萎えていてなんとも頼りない。


 気持ちはわからないでもない。俺が蓬田さんにやらせようとしているのはそれくらい大胆なことだし話も急すぎる。気弱な蓬田さんにとってはハードルが高いだろう。


「準備なんて、いくらしたって心許ないもんだろ」


「で、でも」


「問題を先延ばしにして、今立ち向かうべきことから逃げて、そういうことを続けてもう何年経ってるか。わかってないわけじゃないだろ?」


「うぅ……」


「俺はさ、蓬田さん、キミに勇気を持ってほしいんだ」


 蓬田さんと海に行った日から数日が経った。ゴールデンウィークはもう今日で終わり。それを契機に菅原さんが引き取りに来るのは今日に決まった。牧子さんから聞いた話では揚羽さんも同行してくるらしく、気弱な少女が一皮むけるには絶好の機会だと俺は踏んだ。


「大丈夫。そこまで頼れる仲間じゃないけど、一応一人じゃないから」


 鉄砲玉をつとめるのは俺だ。俺が邪魔な隔たりを排除する。そして切り開いた活路を渡ってもらって、蓬田さんは立ち向かうべき壁だけに専念すればいい。


「俺は蓬田さんを信じてるから。蓬田さんも俺を信じてくれ」


 そう言って俺はまだ怯えて目尻に涙を溜めている蓬田さんに、あのひょっとこのお面を被せて、ついでに頭のうえに数秒、ぽんと手を乗せた。


「お兄さーん、もう来はったでえ」


 戸の向こうで牧子さんが報告してくれる。敵が到来したらしい。


「よし、じゃあ、見てて」


 俺は後ろポケットに入れていたもう一つのひょっとこのお面を取り出すと、自分の顔に装着した。視界が狭くなって目の部分の小さな穴でかろうじて視界を確保する。


 壁に立てかけていた『ソレ』を手に取ると、俺はすたすたと玄関のほうへ向かった。






 玄関を出たところで、門の向こうに車が止まっているのが見えた。


 黒塗りの見るからに高級っぽい車は以前には見なかったもので、その車の持ち主が義理の娘と「話す」ためではなく「引き取る」ために来訪したことをありありと伝えていた。まず間違いなく菅原さんの車だ。その証拠に門の奥では菅原さんの話し声が聞こえる。


「なあ、やっぱ考え直したほうがいいんじゃないか? こんなこと……」


「どうして止めるんだい? キミも僕に任せると言ってくれたじゃないか」


「頼りにしてるって言ったんだよ。なにもかもぜんぶ任せたわけじゃねえ」


「そう言ってもね。今回の件はあの子も了承しているんだ。なにを言っても今更だろう」


 どうやら同行してきた揚羽さんと揉めているらしい。揚羽さんが一緒に来るのは聞いていたが、もしかすると蓬田さんの一人暮らしは夫婦の総意ではないのか。話の内容から察するに揚羽さんは反対派に寄っているようだった。これは好都合と言っていい。


「ここまで来て戻る選択肢はないよ。とにかくキミは車に戻っておいてくれ」


「なんだ、一人で行く気か?」


「キミはあの子と話すのを怖がっているだろう? なんとかキミが顔を合わせずに収拾をつける方向で僕が話を進めてみせるから、ここで待っていてほしいんだ」


「なっ……! べつに怖がってねえよ!」


 菅原さんの足音が近づいてきた。このままでは埒が明かないと判断したのか、揚羽さんを放って家に入ってくるようだ。


 やがて門扉が開かれ、きりっとしたスーツ姿の男が庭に入ってくる。


「……ん? 君は」


 そして気づく。自分の行く手を阻む者の存在に。


「お、おまえ……如月か?」


 菅原さんの後ろに続いて入ってきた揚羽さんが目を丸くする。


 今、ふたりの目には、玄関先で待ち構えるようにして仁王立ちするお面をかぶった番人の姿が見えていることだろう。


「如月くん……来ていたんだね」


「知らないな。だれの名前だ?」


 ああ、なんというか。


 こんなときに難だが、このお面の力を俺は今更理解していた。なぜだか、こうして視界まで覆ってしまう勢いで深くかぶっていると妙に自信が湧いてくるのだ。まるで現実感が遠ざかって場違いなくらいの高揚感が胸を占めている。緊張している自分とか、声が震えそうになる自分とか、そういうのぜんぶ他人事みたく思えて、なんというか、


 ——無敵だ。


「私は主の子分だ。そしてこの家の番人でもある」


「主……?」


「如月……おまえ、どうしちまったんだ?」


 なんとも微妙な顔つきのふたりに比べて、俺はどんどん調子に乗っていく。


「この家の、主の安寧を脅かす客人には悪いが門前払いさせてもらおう。貴様らは早く帰って、ふたりして乳繰り合っているといい」


「う、うちの店員が壊れた……」


「……如月くんは僕の邪魔をする、ということでいいのかな?」


 きらり、と菅原さんの眼鏡が妖しく光る。俺は構わず、


「邪魔なのはキミたちのほうだろう。こちらは防衛の構えを取っているにすぎない」


「……前に言ったよね? 邪魔をするなら面接の合否もどうなるかわからないと。せっかく勝ち取った内定の件もなかったことになるかもしれないよ?」


「なっ……」


 揚羽さんは初耳だったんだろう、弾かれたように顔を上げて菅原さんの顔をまじまじと見つめる。菅原さんはどこ吹く風だ。


 俺のほうはお面の内側で冷や汗を掻いていた。憧れの相手から脅しをかけられるのはお面ブーストがかかっていても怯んでしまうくらいだ。


 そのとき不意に背後の、開けたままの玄関のほうから「如月くん……」と不安げに揺れる声が聞こえた。戸の影に隠れておくよう俺が言っておいたのだ。


 ——大丈夫だよ。蓬田さん。


 心のなかで語りかけた。俺がスーツの似合う大人になるのを夢見ていることを蓬田さんは何度も聞いている。だから菅原さんの脅しに不安が込み上げたのだろう。


 だがすでに覚悟は固めてあるのだ。


「なんだ、知らないのか」


 呆れたように肩をすくめてやれば、菅原さんは眉をひそめる。


「先ほどあなたの会社に連絡を入れておいた。こちらから内定は取り下げにさせてもらうと」


「な……まさか」


 菅原さんが目を見開く。これにはさすがの鉄面皮も維持できなかったか、少しの揺らぎもなかった表情に反応があって俺は少し愉快な気持ちになった。


「疑うなら会社に確認するといい。事実だということが理解できるだろう」


「キミは……」


「せっかくの脅しもこれで意味を成さない。残念だったな」


 同時に不可解な色が菅原さんの目に宿った。


「キミが求めているのは、なんなんだい?」


「邪魔者の退場、そして、そっちの女だ」


「あ、あたしか?」


 水を向けられた揚羽さんが自分を指差す。


「あんたが娘と一対一で話す。それがこちらの要求だ」


「……それは」


「できないのか? 自分の娘だろう?」


「家内はあの子と話すのを怖がっている。キミの要求には時間が必要なんだ」


「無関係なやつは黙れ」


「僕だって曲がりなりにもあの子の父親だろう」


「関係ないと言っている。これは蓬田さんと揚羽さんの問題だ」


 口調が戻ってしまうが、それが俺の真意だった。


 しかし揚羽さんは強張った表情で黙りこくったまま、見慣れた実家の庭へと視線を落として俯いてしまう。悔しげに噛んだ唇が揚羽さんの臆病な心を表していた。勇気が必要なのは蓬田さんだけじゃない。この人もだ。


「はぁ……話にならないね」


 埒が明かないと言わんばかりに大仰にため息をつき、菅原さんは歩みを進めてきた。


「止まれ。ここは貴様の出る幕ではない」


「まったくキミも幼稚な真似をするものだね。正直言って失望したよ」


「止まらないと……大変なことになるぞ?」


「待て幹彦、なんか様子がおかしいぞ」


「キミもなにを言っているんだ。子供の言うことなんてたかが知れているだろう」


 菅原さんに止まる気配はない。こちらを侮っているのは明らか。


 ……仕方ない。


「忠告はしたぞ」


 冷たく言い放ち、俺は手に持っていたソレを掲げた。


「な、なんだそれ」


 俺が持っていたのはカラフルな色をした長いウォーターガンだった。


 あの日、蓬田さんと心を通わせた日、絆の証としてもらった玩具の水鉄砲だった。


「契りを汚す者あれば、迷わずその引き金を引け」


 たっぷりとタンクを満たす水を揺らしながら俺は銃口を敵へ向けた。


 迷いはなかった。


「ちょっ」


「食らえッ……‼」


 躊躇なく引き金を引く。同時に大量の水が発射された。


 ―—菅原さん目掛けて。


「なっ……⁉」


 眼鏡の男の表情が驚愕に染まる。


 所詮は社会に生きる一介のビジネスマン。戦場の心構えも、飛んでくる銃弾を避けるすべも知らない。知るべくもない。それが大量の水であってもだ。


 容赦なく発射された水の塊を、果たして男はまぬけなぼっ立ち状態で受け止めた。受け止めるしかなかった。おろしたてだろう、ぱりっと糊の利いた黒スーツが無残にびしょ濡れになっていくさまが妙に爽やかだった。咄嗟に腕でかばおうとするが虚しい努力、やがて水泡の勢いに負けて地に倒れ伏していく光景は殉職シーンさながらだった。



 

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