第15話 あの子のホンネ。
「…………ぶはっ」
あれからどれくらい時間が経っただろう。
水面から顔を出した俺は急いで浅瀬へと向かった。
砂浜は遠くない。どうにか足が着く場所まで辿り着くと、俺は海から上がり、汐里ちゃんが待っているところまで歩いた。
「先輩……」
汐里ちゃんは悲痛な面持ちで砂浜に立ち尽くしていた。
「ごめんなさい、わたし、足が震えて動けなくて……」
応える余裕はなかった。
俺は背中に担いでいた蓬田さんを砂浜に下ろした。仰向けに寝転んだ蓬田さんは血の気のない顔で静かに目を閉じている。気を失っているのは明らか。
茫洋とした海のなかで蓬田さんを見つけられたのは奇跡に近かった。まだ砂浜に近い、比較的に浅い場所だったのが不幸中の幸いだったかもしれない。
だが安心するには早すぎる。
事切れたように眠る蓬田さんだが、その唇の前に手を伸ばす。するとかなり薄っすらとだが、息が当たった気がした。まったく気休めにもならない事実だが、それで俺は決心を固めるとその場にしゃがみ、蓬田さんの顎に手を添えて気道を確保したのち人工呼吸を始めた。
やり方はうろ覚えだが……。
「頼む、目を覚ましてくれ」
数年前に学んだかすかな記憶を頼りに人工呼吸と心臓マッサージを繰り返す。汐里ちゃんは最初固唾を呑んで見守っていたが、途中からハッとした様子で一緒にしゃがみ込むと「目を覚ましてください!」と大きな声で蓬田さんに呼びかけてくれていた。
もし神様がいるのとしたら。
きっとそんな汐里ちゃんの健気な思いに、応えてくれたのかもしれない。
処置を初めて数分が経った頃。
「……こほっ‼」
と蓬田さんは跳ね上がって水を吐き出した。
「こほっ、っ、こほっ……‼」
「蓬田さん、大丈夫⁉」
「センパイ、よかった……」
相当口に含んだのだろう、蓬田さんは苦悶の表情で海水を吐き出し、やがて全部吐き出し終わるとゆっくり時間をかけて呼吸を落ち着けていく。
「……あれ……なんで、あたし…………」
「蓬田さん」
呆けたような顔で俺たちを見上げる。
「とりあえず、無事みたいだな」
「如月くん……」
「はぁ……人工呼吸なんて教習所で習ったきりだから、めちゃくちゃ不安だったよ。なんとか上手くいってよかった、ほんとに」
「…………」
蓬田さんはまるで夢から覚めたような表情をしていた。
けれど徐々に理解が追いついてきたのか、だんだんその表情が歪んでいった。
まるで最後の望みすら絶たれてしまったかのような、そんな絶望の淵に追い詰められてしまったような表情になって「……なんで」と低い声で呟く。
「なんでよ……なんで助けちゃうのよ……」
「蓬田さん?」
「助けてほしいなんて、言ってないじゃん‼ あのままだったら……‼ あのままで、そっとしておいてくれたら、あたしやっと……なのに、なんで……‼」
「……蓬田さん」
「なんでよッッ‼」
蓬田さんはその場で項垂れて、俺の太ももを強く叩いた。
何度も。
何度も。
何度も。
ひたすら「なんで、なんで」と恨みにも似た呟きを繰り返して。
俺は、なにも言わなかった。
助けても、きっと感謝なんかされないことはわかっていた。むしろ余計なお世話だって、ありがた迷惑だって、そんなふうに言われるんだろうなって、わかっていたから。
「なんで、なんで……」
——それでも。
恨まれたって、憎まれたって、
「ねえ、蓬田さん……」
正義感なんかじゃない。見捨てられなかったのにはちゃんと理由があるんだ。
だからどうか聞いてほしい。俺の話を。
「…………うぅ」
「蓬田さん?」
しかし言葉を紡ごうとした矢先、俺の膝の上でだらんと項垂れていた蓬田さんが、ふるふると肩を震わせる。俺はどうしたのかと様子を窺う。
「うぅぅ……‼」
ぽとり、と膝の上になにかが落ちた。
——涙だ。
「うああああぁぁぁぁあ‼」
ダムが決壊するように、そして蓬田さんは大きな声で泣き始めた。
ぺたりと砂浜に座り込んで、空に向かって顔を上げて。滝のように涙を流して、頬を濡らして、みっともないくらい口も大きく開けて、ひたすら泣いて、泣いて……。
「ごわがったぁ……‼ ごわがったよぉおお‼」
まるで、生まれたばかりの赤ちゃんみたいに。
「死ぬのごわいよぉお‼ もうヤだああぁ‼」
「蓬田さん……」
「死にたくないよぉおお‼」
俺と汐里ちゃんは唖然として固まったまま、どうしていいかわからなかった。
その後もずっと蓬田さんは飽きもせず泣きじゃくっていた。
涙が枯れて、一滴も出なくなるまで。
ずっと。
**
諸々の片づけや着替えを済ませ、車に乗り込んだときにはもう夕方だった。
正直そんなに遊んだ気もしないが時間は時間だ。色んな意味で疲労感が重く肩に圧し掛かってもいるし、寄り道する気にもならなかったので直で帰ることにした。
「……よく寝ていますね」
車を走らせてしばらく、助手席に乗る汐里ちゃんが、後部座席で泥のように眠っている蓬田さんを見てそう呟く。俺はハンドルを握りながら答えた。
「ずっと泣いてたからな。疲れたんだろ」
「なんだか子供みたいですよね。本当にあの人って如月先輩と同い年なんですか?」
「ははは……俺も時々、忘れそうになるよ」
高校一年生の一年にも満たない期間、俺は蓬田さんと一緒の教室で過ごしたはずだけれど、時折そのときの記憶が幻のように思えてくるときがあった。
「汐里ちゃんのほうが、蓬田さんよりよっぽどしっかりしてるよ」
「ふうん。そういうところが、わたしにない部分なんですかね」
「どういうこと?」
「いえ。べつに」
赤信号に車が捕まり、俺は助手席を盗み見てみた。汐里ちゃんの視線は外に行っていて、口元も笑っているが、なぜだろう、それはまるで諦めのような表情だった。
「あの人を助けたときの如月先輩、今までで一番かっこよかったですよ」
「そ、そう? あのときは必死だったから、よく覚えてないんだけど」
「先輩はかっこいい人です。わたしの目に狂いはありませんでした」
なぜ過去形なのか。一瞬疑問に思ったが、きっと深い意味はないだろうと俺は思い直した。
「これで喫茶店のアルバイトも辞めれます」
「えっ、や、辞めるの⁉」
「ええ。ほんとはさっさと辞めたかったんです。あの店無駄に忙しいくせにバイト代も少ないですし、店長は空気読めない人ですし」
「じゃあ、なんで今までいてくれたの?」
「諸事情がありまして。しばらくは働くしかないなと。まあ、先輩だけには絶対話せない事情ですよ。……でも今日やっと吹っ切れました」
「今日……?」
はて。今日起きたことのどこかに、汐里ちゃんがバイトを辞めるきっかけになるようなことがあったのか。まったく思い当たる節がないが。
「わたし、けっこう頑張りましたよね」
「え? あ、ああ……すげえよく働いてくれたと思うよ」
そう答えたとき、汐里ちゃんの笑みが増した気がした。
「ええ。頑張りました。わたしなりに」
なんだか話が大団円というか、むしろもう次の段階に進もうとしているような気がする。そんな空気を察して俺は焦った。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。たしかに、いろいろ踏ん切りが着いたのは良いことだと思うけど、その、汐里ちゃんに今辞められたらうちの店、けっこうヤバいっていうか」
「んー、でももうわたし的にはどうでもいいことですし」
「いやいや! 汐里ちゃんがそうでも、揚羽さんが大変で」
「そんなことより、如月先輩」
汐里ちゃんは急に真面目な声になった。
「お店のことより、考えるべきことがありますよね。先輩には」
「汐里ちゃん……?」
「蓬田先輩のこと、どうするんですか?」
そう訊ねながら、汐里ちゃんはつまらなそうに後部座席の蓬田さんに視線をやった。
「わたしはあんな巨乳惰眠女のなんかどうでもいいですけど、先輩がこれからどうするかはとても気になるんです」
「なんかいつになく辛辣じゃない? 汐里ちゃん……」
急に棘が増したというか。
ちらりと助手席を見やれば、汐里ちゃんは、ぷい、とそっぽを向いていて、真っ赤な唇を子供みたく尖らせていた。
しばらくののち、俺は咳払いを一つ。
「コホン……蓬田さんのことなら、もう決めたよ」
「決めた、ですか?」
「うん。俺も、今日のことでいろいろ吹っ切れたんだ」
信号が青に変わる。アクセルを踏むと車が走り始めた。
「……そうですか。お互いに心境の変化があったみたいで、なによりです」
汐里ちゃんはまた窓のほうへ顔を向ける。
「先輩の馬鹿」
どうしてそんな呟きが聞こえたのか、もしくは俺の幻聴だったのか、はたまた汐里ちゃんが本当に言っていたのか、本当だったらなんでそんなことを呟いたのか。
訊きたい気持ちはあったが、それ以上は聞いちゃダメな気がした。
俺はハンドルを握る手に今一度力を入れる。
ふと、ルームミラーから後部座席を盗み見た。
遊び疲れた子供のように、蓬田さんは静かに胸を上下させて寝息を立てている。その目元には泣き腫らした跡がまだ残っていた。
いつまでもいつまでも泣いていた蓬田さん。生きることを怖がって死ぬことも怖くなって今やもう八方塞がり、そんな彼女が唯一逃げ込むことができる居場所も、もうすぐ彼女の手元から奪われようとしている。そうなったらもう、いよいよだろう。
だからそれまでに決める必要がある。
蓬田さんがどうするかじゃない。
俺が、どうしたいか。を。
「もう、決めてる」
心は穏やかだった。まるで静かに寄せては返す波のように。
ちらり、ともう一度眠っている少女の姿を見た。
斜めに注ぐ陽光は蓬田さん緑色の髪を淡く照らし、優しくその身体を包み込んでいた。
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