第14話 水平線はそこに。


 信号が青になると停まっていた車の群れが一斉に動き出す。


 俺も遅れぬようアクセルを踏んで自動車を前へ進ませた。


 運転しているのは父親から受け継いだワンボックスだ。まずは軽自動車から慣れていけという方針で下げ渡された我が青い車だが、俺はけっこう気に入っていた。小柄で運転しやすいし、なぜかステレオの音質もよく、なにより運転し始めて一年以上にもなるとそれだけでいろいろと愛着が湧いてくる。


「ハンドルを握る如月先輩、いいです……!」


「そ、そう?」


 助手席に座って熱烈な視線を送ってくるのは汐里ちゃんだ。クリーム色のボブカットは今日もさらさらで、これから動くことを想定してか前髪をピンで留めているのが子供っぽくてかわいい感じだ。


「免許、持ってたのね」


 となぜか気に入らなそうに言うのは、後部座席に座る蓬田さんだった。さっきまで外に出たくないと駄々をこね、さんざん抵抗していたところだ。今はまるで猛獣を檻に拘束するみたいにシードベルトをきっちり締められて仏頂面で窓の向こうを見ている。


「まあね。一年くらい前に。ちなみにこの車は元々は父さんの車だよ」


「聞いてないし……」


 さっきからずっと不機嫌そうな蓬田さんだが、やっぱりひさしぶりに外に出ているのもあってか、窓ガラスの外を流れる景色からは目を離さない。ルームミラーから盗み見る蓬田さんの表情が、そこまで嫌そうには見えないのは俺の気のせいだろうか。


「で? なんで海なのよ? こんなアッツい日に限ってわざわざ……」


「こんなに暑い日だからこそ海に行くんじゃないですか。なに言ってるんですか? 馬鹿なんですか?」


「ばっ、馬鹿⁉ あんた今馬鹿って言ったわね⁉ とっ、年下のくせに⁉」


「うわぁ、年齢だけでそうやって上下関係植えつけちゃうんだぁ、古い人間ですね……先輩、やっぱりこんな人放っておいてわたしとふたりで海行きましょ? ね?」


「こいつ……!」


 相変わらずこのふたりは犬猿の仲らしい。

 そのくせ妙に息は合っている気もするが。


「今日はそうも行かないんだ。一応、蓬田さんのためなんだし」


「ぶーぶー、つまんないです」


「あ、あたしのためって……」


 困惑を示す蓬田さんに俺は前を見ながら言う。


「蓬田さん前に言ってただろ? むかし父親に連れて行ってもらったけど、あんまり覚えてないって」


 そう。


 深夜一緒にオンラインゲームで遊んでいたあのとき、蓬田さんはゲームのなかの作り物の海を見てそんなことを言っていたのだ。それを俺は覚えていた。


「あのときの蓬田さん、すごく海に行きたそうだったから」


「べ、べつにあたしは……」


「あら? 行きたくないならいいですよ? わたしと先輩がふたりで行きますから」


「は、はぁ⁉ なんでそうなるのよ!」


 蓬田さんは「行かないなんて言ってないし!」とムキになった様子で返していた。いい感じに汐里ちゃんに乗せられている。やっぱり汐里ちゃんを連れてきてよかった。


「でも、そういえばあたし、水着とか持ってきてないんだけど」


「一応わたしが見繕いましたから、大丈夫ですよ」


「え……でもサイズとかは」


「安心してください。わたしの目はたしかですから」


「も、目算ってことよねそれ⁉」


「安心してくださいと言っているでしょう? ダイジョーブですよ。少しズレてたとしても、せいぜいちょっとはみ出るぐらいですから」


 蓬田さんの悲鳴が車内に響き渡った。






 **






 目的地には意外と早く到着した。


 海沿いの道にワンボックスを停めて俺は先に車から出る。


 女性陣は車のなかでお着換えだ。野郎の出番はない。


 とりあえず車の周りに人影がないか警戒に当たって、安全が保障されているか確認しながら立っていると、そこで女性陣からスマホに「先に行け」とのお達しがあった。どうやら俺が近くにいると落ち着かないらしい。そりゃそうか。


 一足先に浜辺へ向かう。


 浜辺はびっくりするくらい人がいなかった。警戒心が強い蓬田さんのため、できるだけ穴場を狙ったのはたしかだったが、それにしても今日が祝日だということを忘れてしまうくらい人気ひとけがない。こっちにしてみれば好都合だ。


「お待たせしましたー」


 人気のない砂浜でしばらく突っ立っていると、汐里ちゃんが横からひょっこり現れる。


「おお、びっくりした……って……」


「ん? どうかしましたか?」


 にっこり、と汐里ちゃんは上目遣いで微笑む。


「いや……意外と大胆だね、汐里ちゃん」


 無邪気な表情とは裏腹に、汐里ちゃんが着ているのはなかなか大人っぽい水着だった。水着というか、青色のビキニだ。肩も鎖骨も、胸元もお腹もまるで惜しげもなく晒していて、健康的な白肌がまぶしすぎる。しかもビキニにはフリルが付いていて、ゆらゆらと羽のように揺れるそれが露出度の高さに反してすごく可愛らしかった。


「ふふふ、先輩と一緒に海に来れるとあらば、気合も入るってもんですよ」


「そ、そうなんだ」


「どうです? 見とれちゃいますか?」


「ははは……」


 全体的にほっそりとした体格の汐里ちゃんだが、しっかりと出るところは出ていて正直目に毒すぎる。屈託のなかった笑顔もなんだか妖しげに見えてきて非常にドギマギしてきた。イマドキの高校生ってこんなにマせているのか。想定外の破壊力に視界が眩み、俺は「か、可愛いと思うよ」と月並みな感想を答えて視線を外した。


「ぶー、ちゃんと見てくださいよー」


「無茶言わないでくれ。……あれ? そういえば蓬田さんは?」


「むぅ、またあの人のことですか……まあいいですけど」


 不満そうな汐里ちゃんは諦めたような仕草で「あそこです」と指差した。


 指差された方向、遠くの波打ち際には、たしかに蓬田さんの姿があった。


 なぜかいつものひょっとこのお面を付けていて(家からわざわざ持ってきていた)、寄せては返す波に足元を濡らしている。大体は汐里ちゃんのものに似た水着だが、色は黒色で、なにより上から白いパーカーを羽織っていた。


「蓬田さん……?」


 蓬田さんは波打ち際に黙って立ち尽くしていた。癖っ毛のある二つ結びの緑髪が波風に揺れている。一瞬、いつかのゲームのなかの光景とそれが重なった。あのときはおじさんキャラを操作していたが。


 心配になって近づくと、蓬田さんは気配を察して俺たちを一瞥した。


「もー、ダメじゃないですかー、そんな上着で隠しちゃって」


「……こんな下品な水着、見せられるか」


「とか言っちゃって、ほんとは先輩に身体見られるのが恥ずかしいんじゃないですか?」


「そ、そんなわけないだろ!」


 口調もいつのまにかお面モードだった。さっきまでずっと普通に喋っていたのに。


 そしてよく見ると、ほっそりとしたその手首には包帯が巻かれている。これから海で泳ぐというのに、濡れるのも厭わない姿勢らしい。蓬田さんらしいと言えばらしい。


「蓬田さん、海はどう?」


「…………べつに」


 ぷい、と顔を逸らして、蓬田さんはまた静かに海を眺め出す。


 俺もならって同じ方向を見据えた。


 ゲームの海とは違って、本物の海はとても深い青色をしている。昼間の陽光を反射してキラキラときらめくようなのが綺麗だ。吹きすさぶ海風も思ったより強く、それに運ばれてくる磯の香りが鼻をくすぐってくる。おまけに真っ白な鳥が何匹も飛んでいて、それがなんだか絵になっていた。


「海ですね~」


「海だね」


「…………」


 蓬田さんの表情はお面に隠されて見えない。けれど、


「こんなに、綺麗だったのね」


 お面の隙間から漏れた呟きは、たしかに聞こえた。


「さあ、突っ立ってないで泳ぎましょう! おふたりさん!」


「俺着替えてくるから、先にふたりで遊んでおいて」


「だ、そうなので。行きますよぉ蓬田さん‼ ほら一緒にダーイブ!」


「えっ、ちょ、いやぁ……‼」


 今度の悲鳴は波打ち際に消えて聞こえなくなった。






 それからしばらくは海辺で色んなことをして遊んだ。


 ビーチボールでバレーをしたり、ふたりが乗ったボートを俺が泳いで押したり、三人で位置についてから泳ぎの速さを競ったり(汐里ちゃんがダントツだった)、そのほかにも色々と遊び道具を持ってきていた汐里ちゃんのおかげで楽しめた。


「ごめん、俺ちょっと休憩……」


 俺はすぐ泳ぎ疲れて水分補給に戻った。砂浜に設置したビーチパラソルの下、荷物の置いてある日陰に座り込み、クーラーボックスから冷えたペットボトルを取り出す。


「そこ! 隙ありです!」


「い、いやああああ‼」


 向こうでは相変わらず元気なふたりがはしゃいでいた。油断した隙に汐里ちゃんにパーカーを奪い去られ、蓬田さんの水着姿があらわになる。陽の下にさらされた豊かな胸を慌てて両手で隠しながら蓬田さんは絶叫する。ちなみに蓬田さんのお面は汐里ちゃんと一緒に海に飛び込んだ際にどこかに消えていた。


「元気だな……」


 現役女子高生の汐里ちゃんは当然として、引きこもりの蓬田さんがこんなに体力があるのは少し驚きだ。あれはたぶんはしゃぎすぎて変なアドレナリンが出ているんだろう。


 それを裏付けるように小休止を提案したのは汐里ちゃんからだった。疲れた顔をしながらビーチパラソルの下へ戻ってくる。


「もぉー、あの人はしゃぎすぎですよー、休む暇もありません」


「蓬田さんは?」


「なんか車に忘れ物があったとかで戻っていきましたよ」


 言いながら、ぐびっ、と汐里ちゃんはペットボトルを豪快に呑む。周囲を探すと、たしかに車のほうへ歩いていく緑髪の少女の後ろ姿が見えた。


「やっぱり海はいいですねー、なんか生きてるって感じがします」


「汐里ちゃん、泳ぐの得意そうだもんね」


「ふふん、実は中学のときは水泳部だったんです。今はめんどくてやってませんけど、こうやってひさしぶりに泳ぐとやっぱりハメ外しちゃいますねー。……ま、蓬田先輩には敵いませんけど」


「汐里ちゃんがそこまで言うくらいか」


「というかふつーに異常ですよ。あの人高校のときは何部だったんですか?」


「部活は入ってなかったよ。蓬田さん、運動苦手そうだったし」


「苦手ですか……でもそれにしては……」


 どうも汐里ちゃんは今日の蓬田さんの様子に違和感を覚えているらしい。


 たしかに半ば強引に家から連れ出したときは億劫そうにしていたのに、海に到着したらここまで全力で遊んでくれるなんて、俺も思ってもみなかったが。


「……たぶん、色々と吹き飛ばそうとしてるんじゃない、かな」


「吹き飛ばす、ですか?」


「うん。蓬田さんの義理の父親が家に来たって話、したでしょ? もうすぐあの家から追い出されることになるって。蓬田さん、あのときけっこう参ってたみたいだから」


「ストレス解消、ですか?」


「少なくとも俺は、そういう意味も込めてあの部屋から連れ出したつもりだよ」


 俺がそう言うと、汐里ちゃんは「むぅ……」と難しい顔で黙り込んでしまった。女の勘ってやつだろうか。まだ出会って間もないはずなのに、汐里ちゃんは僕の意見にはあまり納得できていないようだった。


 だからだろう、今度は質問を変えてきた。


「最近の如月先輩は、あの人に対してなんだか必死ですよね? どうしてですか?」


「必死……そう見える?」


「はい。以前はむかしのことで罪悪感があるって言ってました。けれど今は、それとはべつにどこか焦っているような気がします」


 ほんと敏いな……この子は。


「もうすぐ死ぬんだって」


「えっ?」


 ごまかしてもよかった。


 というか、きっとごまかすべきだったのだろう。でも汐里ちゃんが蓬田さんのことをすごく考えてくれている気がして、それが嬉しくて、俺は嘘をつきたくなかった。


「生きてても迷惑かけるだけだって。大人になり損ねたらなにもかも終わりだって。そう蓬田さんは言ったんだ。まるでなんてこともないみたいにさ」


「な、なんですか、それ」


「おかしいだろ、そんなの。でもそれくらい蓬田さんは追い詰められてるんだと思う。未来を見るのが怖くて、だったら未来なんかなければいいって思ってる。そう思うことで、安心しようとしてる」


「冗談ですよね?」


「俺もそう思ってるよ。どうせ冗談だって、今でもさ」


 そのとき視界の端を人影がちらついた。


「でもやっぱ、そんなこと言うやつを、一人にさせておくのは怖くてさ」


 会話に夢中な俺は無意識にそれを無視した。


「なにかの拍子に間違いが起こってしまうかもって、先輩は考えてるんですね」


「どうだろ。正直半信半疑だよ。そもそも死ぬとかなんとか、蓬田さんにそんな度胸あるわけないし。だから結局、そんなの起こるわけないって…………」


「せっ、先輩……‼」


 汐里ちゃんが突然大きな声で叫んだ。


 俺はぎょっとして固まる。なにか不味いことでも言ったか。しかしその声に含まれているのは怒りや非難じゃない。

 一気に余裕を失ったそれは、叫びというよりも悲鳴に近かった。


「どうしたの、急に」


「あ、あれ……‼」


 焦ったように汐里ちゃんが指を差す先を、俺は目で辿った。


「…………え?」


 だれもいない砂浜、そのさらに向こう、波間に緑髪の少女の後ろ姿が見える。


 まだ遊び足りなかったのか。一瞬よぎった思考はやはり一瞬のうちに掻き消える。


 なぜなら少女は一歩ずつ海のなかへと歩みを進めていたのだ。


「蓬田さん……‼」


 汐里ちゃんが悲鳴をあげた理由がわかった。


 直前までの会話が頭のなかでリフレインする。

 俺はたぶん今青ざめている。


 まさか、そんな、

 嘘だろ、


「先輩!」


 俺は強く唇を噛んで立ち上がった。


 まるでなにかに突き動かされるように全力で砂浜を駆けていく。


 蓬田さんはもう身体のほぼすべてを海に沈めていた。小さくて丸い頭と緑色の髪がかろうじて水面から覗いている。広大な海は深い闇のようで小さな身体を徐々に呑み込んでいく。だが少女は抵抗する素振りもない。自分のなにもかも全部、手放そうとしているみたいに。


「蓬田さん‼」


 声は届かない。すでに耳元までが海に沈んでしまっている。


 俺は躊躇なく海に飛び込んだ。


 今の自分に出せる力をすべて注ぎ込んで海を泳ぎ進む。顔を上げるたび蓬田さんの身体が見えなくなっていくのがわかる。これじゃ遅すぎる。


 もっと速く。手足を動かせ。


 そんな努力も虚しく、蓬田さんの身体は大きな波に覆われてついに見えなくなった。


 くそ……‼


 どうして、なんでこんなところに連れてきてしまったんだろう。頭のなかが後悔の言葉で埋まっていく。ずっと不安で、もしものことがあったらと危うんでいたのに、どこかでそんなことが起こるわけないと高を括っていたんだ。ここに到着したとき、海が綺麗だと言っていた蓬田さんの表情で気づくべきだった。


「っ……‼」


 俺は藁にも縋る思いで海に潜った。


 海は暗くて深い。小柄な少女を見つけるのは困難を極める。


 それでも一縷の望みに賭けて潜り続けた。諦めたくなかった。


 体力は残っている。


 だから間に合え。




 間に合ってくれ。



 

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