最終章  ジェームズ・フィリモア氏の真相

「もういい。十分だ。」

ホームズの言葉に私は朗読を止めた。ここは、ベイカー街221番B。玄関を開け、一階のハドスン夫人の部屋から一七段ある階段を登った二階にある名探偵の居間だ。この部屋に、当時ロンドン市内で注目を集めていた二人組の強盗が侵入した事件から数カ月がたっていた。部屋はすっかり片付けられ元のあるべき姿を取り戻していた。シャーロック・ホームズは暖炉の前の椅子に座っている。階段の前にはスコットランド・ヤードのレストレード警部もいる。

「あの事件のことを思い出すと、今でも腹が立ってくる。」

いつだって冷静沈着な名探偵が珍しく感情をあらわにしている。

「はっきり言って取るに足らない文章だ。加えて、僕に成りすましていた背の高い方の強盗は、何て愚かな推理力なんだ!」

「それは私も同じだよ、ホームズ。この偽ワトスン博士はまったく私に似ていない。これじゃまるで『名探偵の間抜けな助手』じゃないか。」

二人組の強盗は不法侵入により勾留されたが、たいした物は盗んではいなかったため、思いの外早く出所していた。そしてあろうことか、あの夜の事件のいきさつを手記にして三流犯罪雑誌に送りつけようとしていたのだ。二人組の強盗が根城にしていた賃貸の事務所を捜査していたレストレードが草稿を発見し、わざわざ私 —本物のジョン・H・ワトスン— の元へ届けてくれたのだ。

「しかし、ホームズ、君の機転のおかげであの二人組を無事に捕まえることができたじゃないか。」

レストレードが言った。

「いや、私のおかげではない。二人を捕まえることができたのは、あの人の功績だよ。」

ホームズが階段の方へと目をやる。

「その通りだな。」

私も同意する。お茶を持ったハドスン夫人が階段を上がり私たちのいる居間へやってきた。強盗に立ち向かった勇敢なご婦人は言った。

「三人とも、お茶でもいかがかしら。」


ハドスン夫人の淹れた紅茶を啜りながらレストレードが口を開いた。

「せっかくだから、もう一度、あの夜の事件のことを思い出してみようじゃないか、ホームズ。」

「……そうだな。正直に言うと乗り気ではないが、興味深い事件だったことは間違いない。」

ホームズは、紅茶を一口飲み下すと当時のことを思い出したのか、ゆっくりと話し始めた。

「あの日私は徹夜で調査をしていた。その疲労からか椅子で眠り込んでしまっていた。玄関の鍵も開けっぱなしだった。するとそこへ二人組の強盗が忍び込んできたというわけだ。私が目を覚ますと目の前には拳銃とナイフが突きつけられていた。二発ほどの拳も頂いた。」

「まったく。鍵をかけないなんて何て不用心なんだ。」

レストレードが呆れた口調で言った。

「あの日は、知人と一緒にバースへ旅行に行っていたハドスン夫人が帰ってくる予定だった。重い荷物を持っているハドスン夫人が家に入りやすいように、あえて鍵をかけなかったのだ。なんにせよ鍵を閉め忘れた事で、あの二人の手助けをした形になってしまったのは私の落ち度だ。」

「あえて鍵をかけなかったというのは本当か、ホームズ。単に忘れただけではないのか。」

私が言うと、ホームズは少しムッとした表情を見せた。

「とにかく、私は捕まってしまった。あの二人組の強盗が探していたのは《索引》だった。」

《索引》とはホームズが作成した人物リストのことである。ホームズは長年にわたり、あらゆる人物に関する記録を要点とともに整理し、いつでもどんな問題、どんな人物を聞かれても即座にそれに関する情報を得られるようにしていた。米国出身コントラルト歌手から海軍参謀少佐まで、あらゆる人物がリストに記載されている。

「どうやら二人には依頼主がいたようだ。その《索引》を高額で買い取る約束だったらしい。奴ら、依頼主が何者なのかについては決して口を割らなかったがね。」

レストレードが呟いた。ホームズが続ける。

「銃を押しつけられた私は寝室へと連れていかれた。私が口を割らないと分かっていたのだろう。奴らは私を縛った後で、ゆっくりと居間を物色するつもりだったようだ。私は縄で縛られる直前に、二人に一つ提案をした。『私を縛るのは構わない。だがその前にこの部屋空気が悪いようだ。そこの窓を開けさせてくれ。』とね。幸運な事に彼らをその要求を呑んでくれた。」

「なるほど、窓を開ける隙にあの時計を外に投げたのだな。」

私の言葉にホームズは窓の方を指差しながら答えた。

「その通りだよ、ワトスン君。『赤毛連盟』事件の際に、ジェイベス・ウィルスン氏がお礼にくれた懐中時計だ。寝室のキャビネットの上に置いてあったものだ。私は懐中時計に血を付け、彼らの隙をを見て窓の外に投げたのだ。」

「それをハドスンさんが拾ったのですね。」

レストレードが尋ねると、静かに紅茶を飲んでいたハドスン夫人が答えた。

「ええ、私はちょうど小旅行から戻ったところでした。すると、家の前の道路に血のついた懐中時計が落ちているのを見つけたのです。ホームズさんが以前解決した事件の依頼人からもらったものだとすぐに分かりました。鎖には中国の珍しい硬貨が付いていましたから。」

「私はその日の夜にハドスン夫人が帰宅することを知っていたので、警告の意を込めて時計を投げた。『私は今危険な目に遭っている、警察に知らせてくれ』と。通行人が落とした品と思われないように、特徴的な時計を使ったのだ。しかし、ここで不運にも奇妙なすれ違いが起きてしまった。そうですね、ハドスン夫人。」

「ええ、二階の窓を見ると、明かりの中に二つの人影が見えました。ホームズさんとは明らかに違う人影だったので、もしかしたら近頃、巷を騒がしている強盗じゃないかと思いました。私は近くを通った辻馬車の御者に幾らかのお金を渡して警察に連絡するよう頼んだのです。」

「それで、本署に御者が通報に来たのか。しかし、なぜ家の中に入ったんだ? どうしてそんな危険な行動を……」

レストレードの疑問にホームズが答える。

「それが『奇妙なすれ違い』だったんだよ、レストレード。私が投げた懐中時計の鎖には中国の硬貨がつけられていた。ジェイベス・ウィルスン氏が中国旅行をした際にお土産で買ったものだ。それを拾ったハドスン夫人は意図を読み違えてしまったんだ。硬貨と時計……。『Buy time —時間を稼げ—』とね。」

「なるほど。それでハドスン夫人は依頼人のふりをすることにしたのか。」

私の言葉を聞くと、ホームズは続けた。

「ああ。私は寝室で手足を縛られ、猿轡を付けられていた。ドアの向こうからハドスン夫人の

の声が聞こえてきた時は気が気ではなかったよ。」

「すみません、ホームズさん。」

ハドスン夫人が心の底から申し訳なさそうに謝った。

「謝らないでください、ハドスン夫人。私が紛らわしいメッセージを送ってしまった結果、あなたを危険な目にあわせてしまった。謝るのはこちらの方です。」

ホームズがハドスン夫人を慰めた。

「しかしホームズ、なぜ強盗の二人組は君と私のふりをしようとしたのだ?」

「ハドスン夫人の顔を知らない強盗たちは、ハドスン夫人を本物の依頼人だと思った。一刻を争う事態かもしれない依頼人を下手に断って怪しまれても困ると思ったのだろう。ノッポの方の男はそういう勘だけは働く様だったからね。いっその事、家主のふりをして適当にやり過ごそうと思ったのだろう。まさか御者を通じてレストレードに通報がいっているとも知らずにね。」

「ふむ、確かにのっぽの男の方はなかなか頭が切れるのかもしれない。君の特技と同じようなことができるようだった。」

私がそう言うと、ホームズは頭を振りながら言った。

「それは違う、ワトスン君。あの男は答えを知っていたんだ。レストレード、奴らは何も盗んでいないと言っていたが、押収物の中に財布があったな。」

「ああ、そうだ。ハドスンさんの財布だ。」

レストレードが答えた。

「のっぽの男は階段を登る際に、ハドスン夫人の旅行鞄から財布を抜き取っていたんだ。」

「抜け目のないやつだ。」

私が言うと、ホームズは苦笑いしながら言った。

「まったくだ。そしてのっぽの男は財布の中に旅券を見つけた。バース行きの汽車の半券だ。温泉に向かった事を知っていれば奴が偽の推理を組み立てられた事はそれほど驚くべきことではない。のっぽの男はハドスン夫人の黒ずんだ指環を見てすぐに『バースの温泉で変色してしまった』と分かった。しかし、それは温泉に行った事を知っていたからだ。」

「なるほど。それにしてもハドスンさんの機転も素晴らしかった。咄嗟に架空の人物や情報をでっち上げるなんて。」

レストレードが言うと、ハドスン夫人が口を開いた。

「私に思いつくのはそれぐらいでしたから。」

「いや、立派ですよハドスンさん。ところで、ジェームズ・フィリモアという人物は知り合いの誰かですか?」

レストレードがたずねると、ホームズが割って入った。

「レストレード君、君が偽名や架空の逸話を作るとしたらどうする? 恐らく頭に浮かんだ有名人や知人の人名リストから適当なファミリーネームとファーストネームを組み合わせるでしょう。逸話についても、他人から聞いた話をあたかも自分の逸話のように話すんじゃないか。教養のない彼らには分からなかったらしいが、ハドスン夫人が時間を稼ぐためにでっちあげた電報に出てくる『さようなら、美しくて残酷な方』というのは、シェイクスピアの『十二夜』に出てくるシザーリオがオリヴィアに言い放った台詞だ。偽名についても例外ではなく、その場で目に入った人物と自分の知っている人物の名前を組み合わせたんだ。あの日、居間のテーブルの上には海事高等法院の最後の判事を務めたロバート・ジョセフ・フィリモア卿が亡くなったという記事が一面に載っていた。ハドスン夫人はその新聞が目に留まったのでは無いですか?」

「ええ、ホームズさん。その通りです。メアリーというのはもちろん、あなたの奥様の名前ですよ、ワトスンさん。」

「などほど。では、ジェームズというのは?」

私が尋ねるとホームズは、呆れた顔をした。ハドスン夫人は、くすくすと笑っている。レストレードは私と同じく理解できていなようだ。

「何を言ってるんだ、ワトスン君。それは君の事だよ。」

ホームズにそう言われて、私は思い出した。ジョン・H・ワトスン、私のミドルネームであるHは、《Hamish ヘイミッシュ》の略だ。《ヘイミッシュ》をロンドン風に発音すると《ジェームズ》だ。

「なんという事だ。気が付かなかった。言われてみればジェームズ・フィリモア氏の元軍医という経歴も私と同じだ。」

私がそう言うと、ハドスン夫人が私に言った。

「でも、ワトスンさんには悪い事をしてしまいました。あなたとメアリーの名前を勝手に拝借してジェームズ・フィリモア氏を作ってしまったのですから。」

「何をおっしゃるのですか、ハドスンさん。私はあなたの機転に感服しましたよ。」

私の言葉を聞くとホームズは私の方に向き直り言った。

「ハドスン夫人だけじゃない。ワトスン君、君の機転がなければ奴らを捕まえられなかったよ。」


あの日私は自宅で就寝の準備をしていた。そこに、ヤードの警官が慌てた様子で訪ねてきた。221Bに何者かが侵入しているかもしれないという通報を受けたレストレードが警官を寄越してくれたのだ。私は辻馬車に乗り急いでホームズとハドスン夫人の家へと向かった。221Bに到着すると数人の警官がいた。レストレードは玄関前で侵入者と交渉をしている所だった。ハドスン夫人が人質に取られているらしい。なんてことだ。私はホームズの寝室がある二階の窓が見える家の裏側に回った。窓を凝視すると微かに血痕が付いているのが見えた。間違いない、ホームズは寝室にいる。私は排水管に足をかけ、二階の窓の飾り枠に手をかけた。幸せ太りなのだろうか、自分が思っている以上に体が重い。結婚してから増えた体重をなんとか持ち上げ、僅かに開けられた窓に上半身を押し込めた。音を立てないように寝室に転がり込むと、そこには縛られたホームズがいた。私は強盗に悟られないよう気配を殺し、ホームズを縛っていた縄を外していく。猿轡を外し終えるとホームズは大きく深呼吸をして私にこう言った。

「やあ、ワトスン君。」

その後起こった事は、強盗の手記に書かれていた通りだ。ホームズと私は強盗が階下に気を取られている隙に忍び足で背後に周り、寝室にあった陶器の置物で彼らの後頭部に強烈な一撃を食らわせた。

「大丈夫ですか。ハドスン夫人。」

ホームズがハドスン夫人を介抱する。私が玄関の鍵を開けるとレストレードが突入してきた。強盗はその場で逮捕された。それがあの事件の顛末だ。


紅茶を飲み終えたレストレードが、そろそろ仕事に戻ると言い帰り支度を始めながら言った。

「とにかく、ハドスンさんが無事でよかった。そしてホームズ、ワトスン博士。君たちはあの愚かな二人組の命も救ったんだ。」

「どういう事だ? レストレード。」

私の問いにレストレードは笑いながら答えた。

「このご婦人にもし何かあったら、あの二人はロンドン中から命を狙われていただろうからね。」

私とホームズはその言葉に思わず笑みを浮かべた。勇敢なご婦人は、照れくさそうに俯いていた。

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