第2話   見たことがないモンスターだな

 青年は観光に来たわけではなかったが、過酷な土地柄の故郷と比べて、ここは見る物全てどころか、風の吹き方から空気の匂いまで、とにかく細かく何もかもが違っていて、目移りが止まらない。


 お小遣いで観光客用の地図を買ってみたけど、簡易な挿絵と青年が捉える景色の雰囲気が違うせいか、すぐに迷子になってしまった。掲げられている看板も、お洒落に跳ね上がった文字が見慣れなくて、なんて書いてあるのやら読みづらい。


「こげなときは、地元民に相談だ。道さ迷ったら地元民に頼りなさいって、婆ちゃんも言ってたしな」


 己を励ますように独り言を言い、独りでうなずき、いざ出店屋台の店員に近づいて声をかけようとした、その時――


 燃えるような毛色の真っ赤な長い尾が、揺らめきながら青年とすれ違った。


「ん……?」


 思わず振り返ると、大型のネコ科に類似したモンスターが、真っ赤な尻尾を立ててゆらゆらさせながら、ふくよかな肉球で足音を消して歩いているところだった。人混みに慣れているのか、それとも、隣りを歩くすらりとした少女に絶対の信頼を寄せているのか……リラックスしている様子が、尻尾の動きとつるりとした毛並みで分かった。


「わあああ、初めて見るモンスターだなぁ。さっすがは王都だべ、珍しいモンでいっぺえだ」


 思わずしげしげと目で追っていると、視界の端に、この王都の象徴シンボルの一つである大きな噴水が目に入った。噴水の周りをぐるりと囲むように、広場になっている。あんなによく目立つ場所で、水音も聞こえてくるというのに、それを掻き消すほどの人混み。目や耳に入る情報が多すぎてしまい、青年はいつの間にか、何も発見できなくなっている自分に気が付いた。いかんいかん、とほっぺたを叩いて、うし、と前を向く。


 地図をもう一度確認。なるほど、象徴だけあって、地図に大きくはっきりと描かれている。ひとまず、あの場所を拠点にして、もう一度自分の立ち位置を再確認することにした。迷子のままでは、北を向いているのか違うのかすら判断できない。


 ……そんなつもりはなくとも、少女の後ろをついて行く形になってしまい、気まずくなった青年の視線が石畳の上を泳ぎだす。しかし下を向いたままで人の波をくぐるのは、至難の業だ。しぶしぶ顔を上げると、少女の太ももと白いソックス、茶色いローファーが視線に飛び込んできた。


(うーわぁ、あったけぇ地方の娘っこは、こげな季節でもスカートさ短ぇな~。あんなべべ着て、どうやって坂道さ駆け上るんだべか)


 いざ美しい異文化が目に入ると、しげしげと観察してしまったのだった。



 この国の噴水の在り方が、青年は好きだった。地図の下方に紹介文が載っており、それを一読したとたんに、すぐさまもう一度読み返したほどに。


『テイマー所有のモンスターのみ、飲料水として利用可』


 つまりモンスター専用の水飲み場だった。


 その造形は大自然からこんこんと沸き出る山水を模しており、わざわざ石職人を雇用して、つるっとした巨大な石を見映えよく設置し、草木まで丁寧に植えこんでいた。沸き上がる水は絶え間なく水面を揺らし、青空から降り注ぐ光を反射する。小さなモンスターでも水に触れられるように、水場を囲う石垣の高さは無いにも等しい程だった。


 あの大型ネコ科モンスターが、噴水に鼻先を近づけて、ぺろりと一口。美味かったのか、ぺろぺろと飲み続けた。


 その傍らで少女がしゃがみこみ、しなやかな毛並みに手の平を滑らせて撫でる。


「あなたはすぐに喉が乾くもんね。ゆっくりお飲み」


 慈愛に満ちた眼差しの美少女。今この瞬間を切り取れば名画にも勝る光景に、青年はしばし見惚れてしまった。ハッと我に返り、慌てて地図を取り出す。己の目的は迷子から脱却することであり、水の煌きを受けた美少女と太ももを凝視するためじゃない。


 ……と、頭ではわかっているのだが、初めて見るモンスターに抱いた強い興味関心の火は、簡単には消えてくれない。珍しい赤いネコ科モンスター、そして機嫌の良さそうな少女、今声をかけなくて、いつモンスターの詳細を尋ねることができようか。


 今しか、ない……。


 青年は緊張のあまり生唾を飲み込み、ギクシャクした動きで、じりじりと噴水に近づいていった。


 その気配を察知したのか、大きな猫の頭部がぬっと持ち上がり、青年を捉えると瞳孔を細めた。どう見ても警戒されている様子に、青年はギョッとして後退り。


 大きなピンクの鼻先が、くんくんと動く。


「ん? どうしたの、クレア。何か見つけたの?」


 緩やかに波打つ金の髪を揺らして立ち上がった少女と、目が合った。宝石のような深い蒼色。一瞬、世界中の時が止まったように感じた。


 紺を貴重とした清楚な制服の胸元を飾るのは、校章だろうか、金のドラゴンのエンブレムが。白いリボンの真ん中で煌いている。


 少女に驚いた顔で凝視されてしまい、青年は「いや、あの、オラは決して怪しい者では!」と両手をぶんぶん振って慌てた。


 しなやかな身のこなしで躍り出たのは、クレアと呼ばれた大型のネコ科。少女とおんなじ色の虹彩を細めて、一歩、二歩、三歩目で大きく飛びかかってきた!


「うわあああ!!!」


 広場中の通行人が一斉に振り向くほどの悲鳴を上げた。走っても敵わないとわかっていても背を向けて逃げようとした青年の、荷物たっぷりの両肩に、赤い毛並みの前足が全体重をかけてきた。さらにリュックサックに飛び乗ってこられて、青年は石畳に腹這いで転んだ。


 このまま首の頸動脈をガブリ……肉食動物の狩りのやり方が脳裏をよぎり、まさかこんな所で落命するなんて思ってもみなかった青年は、背中にずっしりと乗っかる獣がリュックの生地をバババババッと前足で擦っている音に、涙目になっていた。


「ちょ、ちょっとクレア! どうしたの? 滅多に人に懐かないのに」


「……へ? 懐く???」


 恐る恐る顔を上げると、クレアの顔が大接近していた。瞳孔の細まった両目で凝視され、ぺろりと舌舐めずりを。


「すみません! 大丈夫ですか!? もうクレアったら、降りなさい!」


 少女が青年の傍らにしゃがみこんだ。ひらりと持ち上がったスカートの中を意図せず目撃してしまい、スパッツを知らない青年は慌ててギュッと目を閉じた。


「へえ! オラは大丈夫ですだ!」


「よかった〜。ごめんなさい、いつもはおとなしい子なんです。すぐどかしますから、少し待っててください!」


 はきはきとした口調でそういうと、立ち上がってクレアにあれこれと尋ね始めたが、インタビューを受けているネコは一向にどかず、青年の鞄をもさもさと押している。


「あ、ひょっとして、コレが欲しいんか?」


 器用に腕だけ後ろにまわしてリュックの紐を緩めると、魚の干物を一つ、引っ張り出した。


「ひい! 魚のミイラ!?」


「ええ? あはは、おっかしいこと言う娘っこだなぁ」


 青年がクレアの鼻先に差し出すと、即座にバクッと喰らい付かれた。指先の皮が、ちょっと前歯にかすってゾッとした。


「おっかねぇなあ……」


 まだまだ鼻先をくんくん動かしている真っ赤な猫を、少女が両脇に腕を通して豪快に持ち上げた。びよ〜んと伸びる、猫の体。


「もう、クレアったら!」


「おお? あっははははは!」


 なんだかおもしろくて、王都に来てから一番笑った。


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