幕間.一条零華

「ただいま」

「おかえりー」


 玄関から入ってすぐの部屋、リビングでテレビを見ている母に軽く声を掛けると、一条零華は階段を上り、二階にある自室へ向かった。


 「REIKA」のプレートがかかったドアを開けて部屋に入り、己の身を包んでいた紺色の制服から手早く部屋着に着替えると、倒れるようにベッドに身を投げ出した。


「〜〜〜〜」


 零華はベッドの脇に鎮座しているジト目をした無愛想なクマのぬいぐるみ「くまごろー」を抱き抱えると、半円状の耳と耳の間に顔を押し当て声にならない声をあげた。

 5分はそうしていただろうか。くまごろーを抱きしめたまま、ひとしきり悶えると、やがて満足したのか、顔を上げてハーとため息をついた。


 今日あった出来事が延々と脳を駆け巡る。後悔と罪悪感が胸をきゅうっと締め付けるが、この気持ちの対処は慣れているのか何回か深呼吸をして落ち着かせる。

 零華はいつもならキリリとしている眉を八の字にすると、思わず消え入りそうな声で独り言をもらした。


「なんでもっと優しい言い方できないの……」


 小さく呟いた彼女の顔は、年相応の悩める10代の少女そのもので、普段彼女のことを『魔女』と呼んでいる人間が見れば同一人物か疑っていたかもしれない。

 呟きと共に思い浮かべるのかは、眼鏡をかけた明るく笑顔を絶やさないクラスメイトの少女。零華は今日、その少女を酷い言葉で傷つけてしまった。


「どうすればよかっんだろ……」


 零華は再度、くまごろーの後頭部に顔をうずめるとこの事件の根本的な原因について問いかけた。

 目の前のクマのぬいぐるみは答えを返さない。あくまで自問自答である。

 理由は明白だった。中学の時からそうだった。彼女の厄介な性質。

 

 学校では、他者全てを拒絶する攻撃的な『魔女』

 家に帰ると、どこにでもいる普通の『少女』


 相反する二つの性質を合わせもった彼女の性格によって、引き起こされる諍いと苦悩。

 どちらか一方だけであれば、悩む必要は皆無だった。前者だけであれば、己の行動を後悔することはないし、後者だけであればそもそも行動に移さない。


 だが、重要なのはその二つがどちらも本心であるということ。


 それは二重人格なんて大層なものではなくて、人間であれば誰しもが持っている二面性。

 学校では無口な生徒が、家族と喋る時は饒舌だったり。余裕あふれる大人な雰囲気のビジネスマンが、地元に帰ると下ネタで盛り上がったり。

 そんな人格における別の側面、もしくは延長が零華にとって生命線であり、同時に自分を苦しめる一因になっていた。


「あぁ~~~~~」


 ぬいぐるみに顔をうずめたまま、今度は声を上げて悶えた。

 そして尻すぼみに小さくなっていく声と同じく、零華の意識も深く深く思考の海に沈んでいく。


ーーーーーーーー

 一条零華の本質を説明するには、彼女の半生を語らなければならないだろう。


 零華はごく普通の中流家庭の家に生まれた。

 父親は頑固で気難しいところはあるものの、どこにでもいるサラリーマン。母親は思ったことをすぐ言葉にしてしまう正直すぎる面のある、どこにでもいる専業主婦。

 特別美男美女というわけでもない、この二人の間に生まれた零華は奇跡のような可愛さを持っていた。そのことを零華の母は「とんびが白鳥を産んだ」と自分で言い、それを聞いた零華の父親が仏頂面になるという一連の流れが一条家では定番になっていた。

 零華は思う。耳の形と二重の目は父親に似ており、すっと通った鼻筋や漆黒の髪は母親に似ていると。パーツ単位でみれば二人の子供であることに疑いようがなかった。恥ずかしくて言わないが、大好きな両親との確かなつながりを感じる己の容姿が零華は好きであった。


 零華は一人っ子であり、その容姿も相まって、周囲からたいそう可愛がられて育った。いや、この両親であれば零華がどんな子であっても愛情いっぱいに育てただろう。

 だからだろうか、零華は幼いころから少々わがままだった。父の頑固さが受け継がれたのもその一因かもしれない。わがままといっても泣きわめいたりするのではなく、自分の主張を曲げないのである。


 零華が小学二年生の頃、両親と三人で遊びに行った動物園で、ジト目のクマのぬいぐるみをねだったとことがある。父は「今住んでいるマンションは狭いからそんなに大きいぬいぐるみは邪魔になる」と言い、母は「あんまり可愛くないわね」と言った。

 だが、零華も譲らなかった。一時間ずっと動物園のグッズコーナーでクマのぬいぐるみの前から動こうとしない彼女に対し、先に折れたのは両親の方だった。そのクマのぬいぐるみが「くまごろー」である。以来、零華の一番の親友だ。


 幼い零華は多少頑固なところはあるものの、優しい子だった。このまま真っすぐ育っていけば、その性根が変わることはなかったのかもしれない。

 だが彼女の人並外れた容姿が、彼女の運命を捻じ曲げてしまった。


 小学五年生になる頃、学校からの帰り道の途中で、零華は誘拐された。幸い、近隣住民からの通報によりすぐに保護された。身体的な負傷はないものの、その事件は零華の心に傷をつけるに至った。

 カウンセラーの助けもあって一週間の休学後、対人恐怖症になることもなく普通の生活に戻ることは出来た。ただ、自分に近づいてくる人間の表情を注視するようになった。


 中学にあがると、零華の容姿はよりいっそう輝きを放った。異性を意識し始める同じ中学校の同級生、別の学校の生徒や高校生、はたまた大人であっても、零華へ様々な思惑を持って近づいてきた。


 ある時は、同じクラスの男子生徒から告白された。

 ある時は、休日に街を歩いていると大学生にナンパされた。

 ある時は、香水がきついスーツを着た大人に何かのスカウトをされた。


 零華に近づいてくる全ての人たちに共通することは、皆一様に笑顔だった。

 笑顔が楽しい時や嬉しい時にするとは限らないことを知った。周りと合わせるため、悪意を隠すために笑顔を使うのだ。この頃から、大人になっていく途中である同級生もその笑顔を使い始めた。

 中学生の零華にとって、他人の表情から善意と悪意を判別するのは無理だった。どう見たって同じ笑顔なのだから。


 そして学校内で告白され続けると、隠しもしない悪意も発生した。女子生徒からの嫉妬である。AちゃんはB君を好きだと言っていた。零華はAちゃんの恋を応援した。だがB君は零華が好きだった。Aちゃんに嫌われる。似たようなことが中学時代は頻発した。


 だからすべてを拒絶した。隠れた悪意、むき出しの悪意。それら無数の悪意から自分を守るために。

 家では今まで通り、頑固だが普通の少女であるように振る舞い、学校では人と関わることを避け、それでも近づいてくる人には強い言葉でもって攻撃した。

 いわば『魔女』というのは、彼女なりの自己防衛本能なのであった。


 中学三年になる頃には、相手がどういう人間で、何を考えて自分に近づいてきたのかが分かるようになってきた。様々な感情に晒されてきた零華は、知らず知らずのうちに人間観察の力が磨かれたらしかった。

 しかし、中学三年間で形成された『魔女』の性質は、その力を他者を攻撃することに利用した。なぜなら、家族以外の人間はすべて他人で、いつ悪意を向ける存在に変化するかわからないから。

 ただ、現状悪意をもたない人には攻撃はせず、そっと自分から離れるくらいの分別は持つようになった。

 だが────。


「久しぶりに間違ったぁ……」


 思考の海から浮上していくと、押し当てていたぬいぐるみから顔を上げ、思わずといったように声を漏らす。

 今日は一限が終わったあと、職員室に呼ばれ、帰ってきたら二限はペア学習をすることになっていた。自分のあずかり知らぬところで、自分の行動を決定される。それは何より彼女が嫌いなことだった。だからイライラしてた。普段なら判断できることも見誤るほどに。


「もう少し器用にできたらなぁ……」


 『魔女』にとって他人を遠ざける手段は避けるか攻撃するかだ。ひとによって対応や言葉を変えて、上手く世渡りができたらなと一瞬思ったが、すぐにかぶりを振って否定した。


 ────そんなことができるほど人付き合いが得意じゃないし、そもそも嘘をつきたくない。


 これがすべての原因。『魔女』は決して二重人格などではなく、一条零華自身の本心なのだ。それをどうやって表に出すかの違いだけであって。

 八王子幹隆や七夕ここみのことを「八方美人で誰かれ構わずに尻尾を振り、そのためには嘘もつく癖に誰からも好かれてない」と思ったのは『魔女』や『少女』の側面は関係なく、紛れもない一条零華自身である。

 『魔女』が幾度となく一条零華という存在を救ってきたのは、紛れもない事実である。ただ、たまに少しだけもうちょっと器用に生きれたらなと、零華は自室で一人悶々と悩むことがあるだけ。


「けど今日は謝れてよかったな」


 零華は保健室で頭を下げて、七夕ここみに謝罪した。


「びっくりしたけど、もう大丈夫だよ……。わたしも一条さんと仲良くなりたくて焦っちゃった。ごめんね」


 おそるおそるそう言って零華の謝罪を受け入れた七夕ここみは、あの花が咲くような笑顔をしていた。彼女と仲良くなるかの是非はさておき、彼女の言葉に嘘がないことは零華の観察眼でみるまでもなく明らかだった。

 非は完全に零華にあるし、周囲も七夕ここみの味方に付くであろう状況。にも拘わらずすぐにその返事ができる彼女は真に善人なのであろう。


 そのまま一緒に教室に帰ることは、零華としては遠慮したいものであったが負い目もあり、無言の了承で答えるしかなかった。


 ここでふと零華は七夕ここみへ謝るきっかけをくれた存在を思い浮かべた。


 癖っけで目じりの下がった、人の良さそうな男の子。零華からすれば特にどうでもいいクラスメイトの一人。

 最初に認識したのは入学時の自己紹介。彼が言った「このクラスの人全員と友達になりたい」という言葉を聞いて、内心気が合わないなと思ったのが第一印象。人には合う合わないがあるというのに、クラスメイトの性格も知らないで全員と友達になるなんて、零華には口が裂けても言えないことだ。

 その後の告白騒動で好感度は最低になり、今日は彼の助言のおかげで助かった。今でも全員に愛想を振りまく彼のことは好きじゃなかったが、そこまで悪い人間ではないのだろう。結局、零華の八王子幹隆に対する印象は、少し苦手なクラスメイトくらいに落ち着いたのである。


 だが不可解なことがある。なぜ彼は、あそこで零華に助言をしたのだろうか。もっと言うと、零華と七夕ここみがトラブルになった際、零華と話そうとしたのだろう。そういえば、彼の告白を切り捨ててからも、毎朝彼は零華の机の近くまで来て挨拶していく。


 零華はくまごろーをぎゅっと抱きしめた。彼女が思考に没頭するときの癖だ。

 確かに、零華は八王子幹隆を精神的にボコボコにした。さらに彼女にしては珍しく、物理的に手を上げた。今まで彼女に告白してきた男子と同じように、今後一切零華に関わろうとしないはず。自己紹介の目標を達成するため?ビンタされた相手と友達になりたいなんでマゾなのだろうか?

 わからないというのは恐ろしいことである。中学時代、外面と内面が違う人間と接してきた零華にとって、身をもって実感している事実である。

 彼女は八王子幹隆の認識を改めた。彼はよくわからなくて気持ち悪いクラスメイト、だが悪い人間ではない。


 今日彼とした最後の会話を思い出す。お礼を言わないといけないという零華の感情に対して、口から出てきたのは憎まれ口だった。他人に「ごめんなさい」を言うのと同じくらい、「ありがとう」を言うのが苦手な零華であった。


 だけど七夕さんに謝れたみたいに、彼にもいつか────。


「零華ー!夕飯ー」


 一階から母の声がした。部屋の壁にかかっている時計を見ると、いつのまにか19時を回っていた。もう父も帰ってきている時間だ。思考を切り上げ、ベッドから身を起こす。零華の頭から、もう八王子幹隆のことは消え去っていた。


「はーい!今降りるー」


 そう返事をする零華の声はやはり『魔女』といった禍々しいものではなく、ごく普通の少女のものだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

魔女の九九 @yukiusagi999

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る