4.虚像

 き、気まずい。

 二つの机を向かい合わせでくっつけた状態で、同じく向かい合わせで座る二人の生徒たち。そして、僕の対面に座っているのは一条さんだった。

 口は真一文字に結ばれ、眉間にしわを寄せた仏頂面。普段であればその華憐な容姿を引き立てているぱっちりとした二重まぶたは、睨むように虚空をみつめている彼女の迫力を際立たせることに一役買っていた。


「一条さん、それでさっきの話なんだけどね……」


 そんな一条さんに僕は会話を試みるのだったが、彼女に僕の声は届いていないらしく、投げた言葉のボールはキャッチされず空気に溶けてなくなった。

 一条さんの正面にはもちろん僕がいるのだが、その目に映っているのは僕ではない。なにも見ていない、というより自分自身を省みるために、外界のすべての情報を遮断しているように見えた。


 気まずい。そう思っているのは僕だけかもしれない。最初から彼女の視界には僕が入っていないのだから。この状況を望んだのは僕自身だったが、それでも堪えるものがある。


 こんな状況になった原因は、担任の教師のある言葉から始まった。


ーーーーーーーー


「おーいお前ら、ちゅうもーく」


 四月第四週の火曜日。時間は一限と二限の間の休憩時間。

 授業中は教師という絶対的存在の監視下にあるが、休憩時間は教師の目から解放される束の間のひと時。本来であれば。授業中より三分の二程度の半分密度になった教室で、我らが担任の先生の威勢のいい声が響いた。


「理科の山本先生だがなぁ。急な欠勤で次の時間出られなさそうなんだ。いつもだったら、空いてる先生が代わりに授業を入れるんだが、急だったのもあって誰もいない。俺もこれからD組で授業だ。ってことで二限は自習な」


 自習。その言葉を聞いた瞬間、教室にいるクラスメイトがわずかに色めきたった。教師の監視から解放される時間が一時間もあるとなれば、非日常感も相まってその反応は当然だろう。シュンとトウマもにやにやしていた。絶対サボる気だ。


「けど普通に自習にしたら、お前らサボるだろ。だから今まであまり喋ったことないやつ同士で、二人づつペアつくって、復習がてら教えあえ」


 そう指示する担任の先生に、僕は気になったことがあるので質問してみた。


「あのー、今の授業進度であればそこまで難しいところがあるわけじゃないので、たぶん教えるところも少ないのかなって」


 入学してからまだ一か月が経っていない。高校一年の最初に習う内容は、中学の復習や基本的な内容ばかりで、受験をして入っている僕たちにとって特に苦になる内容でもないのだった。

 聞いたのはあくまで確認。予習でもしろという回答であるのを確信しての質問だった。


「だったら、てきとうに予習しとけばいいよ。だが、その場合も二人でだ。知らない人同士で喋りづらいってんなら、自己紹介がてら雑談してからでもいい。そういう交流を通して、クラスが一致団結するんだ。そしたら、個の力じゃなくてみんなで学力が向上するだろ。これはその先行投資でもある。あんまり騒がなければ、あとはお前らに任せるよ」


 最初の方は予想通りだったが、後半は意外だった。言外にサボりを黙認するようなものじゃないかな。サボりを防ぐためというのは何だったのだろうか。

 雨岸先生であれば、絶対にこんな提案はしないだろう。ある程度生徒に甘い先生が好かれて、生徒に厳しい先生が嫌われるというのは、不条理ではあるが世の常だ。もしかしたら、生徒からの好感度稼ぎも目的なのかもしれなかった。現にシュンは「先生、サイコーw」と声をあげている。


 僕らの担任の先生は若い男だった。大学を出て数年、自分の教育理念を一途に信じている様子は、まだ大きな挫折をしていない裏付けでもあった。


『One for all, all for one.』


 先生はこの言葉が好きらしく、自分の授業でも、よくペア学習やグループ学習を取り入れていた。 

 かく言う僕も、サボりの是非は置いておいて、ペア学習やグループ学習は好きだ。

 僕は入学当初に掲げた通り、このクラスの人全員と仲良くなりたい。だから、まだあまり話したことがない人と話せるのは嬉しい。それに、他人に教えることで勉強の理解が深まるというのは現代においては当たり前の事実で、そういう意味でも複数人での勉強というのは歓迎するところであった。

 

 僕は異論がなかったので、それ以上の質問はしなかった。他のクラスメイトからも特段反論の声は上がらなかった。

 だが、それがクラスの総意を示すものではないだろう。ペア学習の提案に異論があるような人は、そもそも反論ができない。異論があるのは、他人との関わりが苦手は人。だが先生の提案に、異を唱えようものなら自分はこのクラスの人と仲良くできませんと言っているようなもの。だから、自分の気持ちを押し殺して周りに合わせることを選ぶしかなくなる。


 それを知ってか知らずか、先生は「決まりだな」と言って、教室を出ていく前にもう一つ指示をした。


「四季神!じゃあ仕切りはお前に任せる。いい感じに頼むぞ!」

「……はい。了解っす!」


 クラスで一番リーダーシップがあるであろうレンヤにまとめ役を任せる先生。レンヤも僕と同じ考えに至っているのか、元気よく返事をしたものの何かを考えるように顎に手を当てている。

 一条さんであれば、先生の提案を断固として拒否していたかもしれない。しかし、いつもであれば自席で本を読んでいるはずの彼女は、とても珍しいことに席を外していた。


 二限開始のチャイムがなると、他の教室に行っていた生徒も戻ってくる。レンヤは先生から言われたことを、再度みんなに伝えるために教壇に立った。事情を知らない生徒は不思議そうな顔をしている。


「皆、聞いてくれ!山本先生は今日休みだから、この時間は自習になった。だが、先生からの指示があって、あまり話したことない人とペアを作って勉強してほしい。お互いあまり知らないやつ同士で、いきなりっていうのも気まずいだろうから、ある程度雑談してからでもいいってことだそうだ。他のクラスは普通に授業してるから静かにな」


 やっぱりレンヤが仕切ると、スムーズだ。クラス全員がそろっていても、否定の声はあがらなかった。そして、皆は戸惑いつつも、各々ペアを作るために動き出した。

 でも、ペア決めはくじ引きとかじゃないんだ。真っ先に思いつくであろう決定方法を除外した意図はこの後すぐに分かった。教壇を下りたレンヤがこちらに向かって歩いてくる。


「幹隆、ちょっと来てくれ。話がある」


 そうやって呼ばれたのは僕ともう一人。


「八王子くんも呼ばれたの?」

「七夕さん」


 七夕ここみさん。黒より少し色素の薄い茶髪をおさげにし、楕円形の眼鏡をした女の子は、ほほ笑みながらそう僕に問いかけた。僕が名前を呼ぶと、七夕さんはニコニコと笑顔になる。ぱっと見は図書委員のような大人しそうな印象を受けるその子は、花の咲いたような笑顔と愛嬌を持っていた。

 そんな彼女に僕も笑顔を返してから、二人してレンヤに向き直る。すると、いつも明るく大きめの声のレンヤにしては珍しく、声を潜ませて相談を持ち掛けてきた。


「幹隆。七夕さん。単刀直入に言うよ。二人を呼んだ理由は、幹隆と二階堂、七夕さんと一条さんでペアになってほしいんだ」

 

 なるほど。僕はレンヤの考えを理解して、思わずうなずいた。

 一条さんと二階堂くんは、僕から見てもあまり人付き合いが得意ではない二人だ。一条さんは最初の自己紹介で自分に話しかけないでというくらい人嫌い、片や二階堂くんは休憩時間は机に突っ伏して寝ていて、誰かと話しているのを見たことがない。さあペアを作れと言われて、積極的に行動する二人ではないだろう。


 そして、この人選にも納得がいった。自分で言うものではないが、僕と七夕さんはクラスで顔が広い。ほとんどのクラスメイトとはある程度話したことがあるし、毎朝教室に入ったときに全員に挨拶するのも僕と七夕さんだけだ。

 他人と関わるのが苦手な人には、他人と関わるのが得意な人を。レンヤらしい優しい作戦だった。もしも、くじ引きで決めて、二階堂くんとシュンがペアになった時なんて気まずいどころの騒ぎじゃないからね。


「うん、私は全然大丈夫だよ!四季神くん」

「僕もいいよ、レンヤ」

「ありがとう、二人とも!」

「そういえば、レンヤはどうするの?ペア」

「俺は組まないよ。ちょうど一人余るしな」


 今日の出席数は31人。奇数なので一人余るが、レンヤはペアを作るつもりがないらしく、授業での先生のように歩き回り、各自の様子を見ていくようだった。


 三人で相談している間に、あらかたペアが固まったようだ。一条さんと二階堂くんは……やっぱりペアは作れていないようだ。周りの状況には目もくれず、教科書を読んでいる一条さん。キョロキョロと周りの様子を伺っているが、声をかけられない二階堂くん。

 レンヤの作戦通り、僕は二階堂くん、七夕さんは一条さんの席に向かった。


「二階堂くん、もうペア決まってる?よかったら、僕と組まない?」

「え……あ、うん。いいよ……」


 どもりながらも、了承の返答をしてくれる二階堂くん。ほっと息を吐いた。僕が一条さん担当だったら、100パー断られてただろうな……。


「じゃあ机動かそうか」


 教室の机は六列の配置、二列づつ対面に向かい合わせになるように90度回してそのままくっつける。教室に大きく3列できる形で机を並べた。

 隣の席の人とペアをつくるわけじゃないので、他の生徒の席に座ることになる。その席の主はまた別の生徒の席へ。ごちゃごちゃになって座れない生徒も出てくるかと思いきや、そこはうまくレンヤがフォローする。

 担任の先生のペア学習は一度や二度じゃないので、クラスの皆は慣れたものだった。


 窓際前の席に目線を向けた。一条さんは机移動をせず、かたくなに動こうとしない。七夕さんが身振り手振りで何かを言っていると、一条さんはしぶしぶといった顔で机を移動させた。


「よーし、準備できたな!じゃあ各自、ペア学習を始めてくれ!」


 机だけじゃなく、自分たちも教科書とノート、筆箱を持って移動が完了した。その後、レンヤの呼びかけによって自己紹介や雑談、勉強の不明点の共有など、各自の自由意志に任せられたペアでの勉強会が開始された。


「じゃあ、僕たちも始めよっか」

「…………」


 二階堂くんはこちらを向かず、机の上に広がっている理科の教科書を読んでいる。

 移動が完了してからレンヤの開始の宣言まで、ずっと下を向いている二階堂くんの目線。僕の言葉では上に向かせることは出来ないようだった。


「どっか分かんないとこってある?」

「……ないかな」

「だよねー」


 教科書を見ているはずの目もキョロキョロと動き、手は所在なさげにずっとペンを弄っている。それは勉強をするためというより、気まずさを誤魔化すためだろうか。


 助け舟を出すわけじゃないけど、僕から話しかけることにした。


「てきとうに雑談しててもいいって言ってたけど、それはそれで困るよね」

「あ、ああ……そうだね」

「そういえば、分かんないとこないってことは、二階堂くんってけっこう理科得意?」

「まあ……普通かな」

「いってまだ一ヶ月だし、そうだよね」


 この反応じゃ、他の勉強系の話題もあまり食いつかなさそうだ。とりあえずヒットするまで手当たり次第に質問していって、手応えありそうな話題を広げよう。

 自己紹介という大義名分があるんだ。あくまで僕は二階堂くんの自己紹介を手助けするだけ。誰にするわけでもない言い訳をする。

 

「部活とかってはいってるの?」

「帰宅部」

「帰ったら何してるの?」

「寝てる」

「寝るのが好きなんだね」

「いや特にやることもないから」


 ううむ、中々に強敵だ。なんとなしに二階堂くんの筆箱に貼っているステッカーをみた。多分アーティストかも。


「これはなんのステッカー?アヴィシーってかいてるけど」

「……言ってもどうせ分かんないと思うよ」

「そういわずにさ。僕もJPOPとかはよく聞くから」

「……m」

「ん?なんて?」

「EDM。あとアヴィシーじゃなくてアヴィーチー」


 EDM……。クラブとかで流れてる音楽のことだよね。クラブのイメージと正反対の二階堂くんから出た単語が、自分の知識と結びつかず一瞬混乱する。


「お、それAviciiじゃん!」


 真上から声が聞こえてきた。レンヤだ。僕の上から顔を出してたのを引っ込めたと思ったら、さっと僕と二階堂君の間、向かい合わせの机の境目に回り込んだ。


「二階堂EDM好きなんだ。何の曲?『The nights』とか?」

「……『The nights』もいいけど、僕は『Trouble』かな」

「おー名曲!ぶちアガルって感じじゃないけど、あのノスタルジーな雰囲気がマジで染みるよな」

「そうなんだよ!カントリー調なギターのメロディーにアツい歌詞が最高なんだ!何者でもあって何者でもない自分。ずっと歩いてきた旅路に挫けそうなとき、ぐっと背中を押してくれるんだ」

「わかるわー。世間的には『Wake me up』の方が有名だけど、『Trouble』は……」


 さっきまで口数が少なかった二階堂君が饒舌に語りだした。レンヤもすかさず言葉を返すと、会話は天井知らずに盛り上がっていく。

 洋楽を聞かない僕にはチンプンカンプンだ。何を話しているか全然わからなかった。

 レンヤはすごいなぁ。そういえば、レンヤの知り合いがクラブを運営してるんだったっけ。よく勧められて聞くとも言ってたような。


 僕も帰ったら聞いてみようと、目の前で飛び交う慣れない英単語を心のメモ帳にメモっていく。共通の話題をつくるのは、仲良くなるための第一歩だから。

 そういえば、一条さんが好きなものは何だろう。二階堂君と同じく人付き合いが苦手な女子生徒を思い浮かべる。嫌いなものは自分を邪魔してくる人?というか人間全般?彼女と仲良くなりたいと言っておきながら、彼女のことを何も知らない。知るためには少なくとも、会話が成立する必要があって。でも僕は嫌われてるから難しい。

 レンヤと二階堂君のやり取りを見ながら、そんな取り止めのない思考の波に身を任せていると。


「……が、…………だって!」

「…………は…………よ」

「……!」


 クラスメイト全員が騒がしくない程度に会話している教室。そんな状況だから分かりにくかったが、穏やかではない口論の声が聞こえた。


「なんか向こうの方、騒がしいな」


 レンヤも気づいたようで、二階堂君との音楽談義を中断して、声のする方に顔を向けた。場所は、窓際一番前の席。一条さんと七夕さんか座っている席だ。レンヤと顔を見合わせる。


「俺、ちょっと様子見てくるわ」

「僕も!……あ」


 つられて席を立とうとして、二階堂君を見た。僕がいくと二階堂君は一人になる。僕の役目は皆をまとめることじゃない。レンヤに任せて僕は余計なことはしなくてもいい。僕の理性がそう言った。けど────。


「行ってきなよ。僕は一人で勉強してるから」

「でも……」

「僕とペアを組んだのも気を遣ってでしょ。実績作りならもう十分だよ。ペア学習をやれとは言われたけど。ペア学習"だけ"をやれとは言われてないから」

「ごめん……ありがとう二階堂君!」


 二階堂君の言葉に、はっとした。分かっていて合わせてくれた。僕に一条さんのところへ向かう口実まで用意して。彼は彼なりに僕を最大限に尊重してくれていたのだ。そんな彼を人付き合いが苦手という印象で片付けていた。

 何が自分は人付き合いが得意だ。そんなことも気づかないで、上から目線で話をリードしてあげるなんて気持ちで会話して。今はそれも投げ出して、一条さんのところへ向かおうとしてる。

 羞恥と罪悪感で穴に入りたい気分だったが、反省しているヒマもない。代わりに二階堂君には、ただ謝罪と感謝をして、僕も席を立った。


「なんでそんなこと言うの……!私はただ……」


 一条さんと七夕さんが向かい合わせで座っている席に歩みを進める。七夕さんは震えた声で、対面に座る一条さんに言葉を発している。それはいつも柔らかい音でクラスメイトを笑顔にさせる一条さんの声とは同じものだとは思えなかった。

 すでに一条さんと七夕さんの間に入っているレンヤの隣に行き、七夕さんの顔を見ると。

 ────────彼女は泣いていた。


「二人とも落ち着いて。とりあえず先生呼んでくるから」

「先生は呼ばないで。……大事にはしないで」


 七夕さんの様子から尋常ではない事態を悟ったレンヤは、自分で取りなすことはせずに、職員室に先生を呼びに行こうとした。それが最善手であることは僕も同じ意見だった。

 しかし、普段より力強い七夕さんの言葉によって、レンヤの行動が実行に移されることはなかった。彼女を見ると赤い目元ながら、強い意志のこもった目でレンヤを見つめていた。

 一条さんは、七夕さんとレンヤのやり取りを何も言わずじっと見ていた。けど何かが違う。いつも凛とした姿勢の一条さんとしては珍しく、身じろぎをしてどことなく居心地が悪そうだった。


「……わかった。じゃあとりあえず保健室に行こう」


 七夕さんの意を汲んだレンヤは、代替案を提案した。仲裁が難しい以上、優先すべきは一条さんと七夕さんを引き離すこと。七夕さんの顔は目元とは対照的に青く、本当に気分が悪そうで、保健室に行く理由としては十分だった。彼女も先生を呼ばれるよりはと、レンヤの提案にコクンと首を縦に振った。


「俺は七夕さんに付き添うとして、一条さんは……」

「僕が話してみるよ」


 口をついて出た僕の言葉に、レンヤは心配そうな顔をする。僕が一条さんにビンタで振られたというのは、周知の事実。それを気にしているのだろうが、大丈夫という意味を込めて僕は大きく頷いた。


ーーーーーーーー


 話は冒頭に戻る。レンヤが七夕さんを連れて保健室に向かった後、僕は先ほどまで七夕さんが座っていた席に座り、対面の一条さんと何とか会話をしようと試みていたところである。


 七夕さんとのいざこざで気が立っているかもしれない。こんなことを言うと失礼だが、野生動物と接するときのように、なるべく刺激を与えずに話を振っていく。そんな健闘むなしく、一条さんは僕の言葉に対して無反応で返すのだった。まあ、普段の挨拶も無視だから仕方ないっちゃ仕方ないけど……。


 よし!と気合を入れなおすと、次は渾身の話題で勝負することにした。この話題はクラスメイトの反応もいいとっておきだ。


「一条さん、そういえば『ナンバーズ』の話しってる?」


 そう話を切り出し、一条さんの反応を見る。虚ろな目はまだ空中に視線を彷徨わせていて、僕の声も右耳から左耳へとすり抜けたような見事な無反応だった。ここまでは想定通り。


「この一年A組には、なぜか苗字に数字の入った生徒が多いんだ。僕の八王子の8、一条さんの1、レンヤ……四季神の4もそう」


 僕たちくらいの年頃であれば、学校の噂話や都市伝説はよく話のタネになる。学校という共通項が保証されているので、話す相手を選ばないから。その中でも最近広がっているこのクラスにまつわるゴシップを話すべく言葉を続ける。


「あと二階堂くん、三輪さん、五月女くん、六波羅さん、七夕さん、九鬼さん、十時くん。1~10までの数字が一つのクラスに集まるなんてどんな確率かな?すっごく運命的だよ。それもあってか、僕たち10人は『ナンバーズ』って呼ばれてる。名付け親は他のクラスの子で、ふざけてつけたのが定着したみたい」


 クラスメイトの反応が良かった理由。身近な人が話題の渦中にあるというのは、想像以上に興味をそそるものだ。それが当事者であれば言わずもがな。故に一条さんの気を引くためのリーサルウェポンなのだった。

 しかし、当の一条さんは相も変わらずのノーリアクション。七夕さんの名前を呼んだときに、一瞬ピクリと眉を動かしただけであった。

 ならばと、この話を聞いてからずっと僕が温めていた考えを二の矢として放った。


「この話には続きがあって、みんな『ナンバーズ』は1~10の数字の集まりだって言ってるけど、僕は0~10だと思ってるんだ。だって、一条さんの名前は『零華』だから0が入ってるよね。名前に入ってるから、意外とみんな気づかないもんなんだねぇ」


 どうだ。と静かに一条さんの様子を伺う。皆が気づいていない事実というのは、時に人に優越感をもたらすものである。何度でも言うが、それが当事者であればなおさらなのだ。


「…………」


 周りのクラスメイトの話し声は聞こえるが、僕と一条さんとの間に流れたのは静寂という名の空白だった。

 ああ、知っていた。結局のところ僕がやっているのは、誤魔化しなのだ。人の心に土足で踏み込んで嫌われたくないという保身。一条さんが嫌うその言動に対し、彼女が心を開く可能性は皆無なのだった。

 分かっていても、やってしまった。いや本当に分かっていたのか。15年間そんな風に生きてきて、沁みついた無意識の習慣は、僕の意識的な行動までも縛っていたのかもしれない。

 

 以前の雨岸先生とレンヤのやり取りを思い出す。いきなりレンヤみたいには無理だけど、ちょっとだけ勇気を振り絞ることにした。

 ごくりと唾を飲み込むと、僕は深く息を吸って大きく吐いた。机の上に置いていた手を下ろし、制服のズボンをぎゅっと掴むと覚悟を決める。


「一条さん、さっき七夕さんと何があったの?」


 言い終わった瞬間、今まで虚空を見つめていた彼女の両目は真っすぐ僕をとらえた。一条さんは、今日初めて僕を見た。


「…………」


 一条さんにはこの問いに返す義務も責任もない。数秒の無言の間は、彼女なりの拒絶なのだろう。質問を取り消そうと僕が口を開きかけると、静かに彼女は語りだした。


「……この時間がペア学習なんて聞いてなかったわ。さっきの休み時間は職員室に行っていたから。仮にこの教室に居たなら断固として拒否したでしょうね。そうね…………論議するのであればこの提案をした担任の教師。けど、指示した当の本人は別の授業でいない。そのやり場のない苛立ちを、彼女に向けてしまったのかもしれないわ。貴方と同じ自己陶酔の気遣いと偽善を振りかざす彼女に」


 それは懺悔のようだった。一条さんにとっては言語化することで自分の行動を振り返るためだけのものだったかもしれない。しかし、おそるおそると言葉を探しながら語る彼女の様子は、犯してしまった罪の告白みたいだった。

 問いに対し抽象的な答えを返すのは、いつも遠慮のない一条さんとは異なるものだった。僕はもう一歩踏み込むべく、質問を重ねた。


「具体的には何をしたの?」

「…………貴方に対して言ったことを彼女にも言ったわ」

「僕に対して言ったこと…………」


 思い出されるのは、入学してすぐの頃。一条さんに罰ゲームで告白することになった僕は、彼女を屋上まで呼び出して────。

 なるほど……。八方美人で誰かれ構わずに尻尾を振り、そのためには嘘もつく癖に誰からも好かれてないって言ったってことか。

 想像以上にやばかった。僕の精神をズタズタに引き裂いたあの刃が、七夕さんにも向いたのだ。


「それは泣くよ、誰だって」

「貴方は平気そうだったじゃない」

「あれには諸事情があって……」


 詳細までは語らない。絶対変人だと思われるから。どうやら僕の心のパーソナルスペースはこの辺らしかった。僕の気持ちに興味が無さそうな一条さんは、それ以上追及することはしなかった。

 けどそうなると、少し話がおかしい。僕の心をすり潰した時の一条さんは満足そうな顔をしていても後悔などは微塵もしていなかった。今回の彼女の心境の変化はなぜだろうか。男女によって手心を変えるとも思えないし。

 浮かんだ疑問に答えるように、、続けて彼女の後悔の理由を語るのだった。


「けど多分……違ったのよ。彼女の善意は欺瞞ではなくて、本心だった。それに気づいたときにはもう遅かったわ」


 なぜそう感じたのかは僕には分からないけど、一条さんは確信を持っているようだった。

 暗に僕の善意は欺瞞だと言っているのに気づかない振りをしつつ、七夕さんのニコニコとした笑顔を思い浮かべる。僕もあの人の良さそうな七夕さんが、自分に酔うために人を利用するとは思えなかった。


「彼女が自分自身のためにやっているのだったら、泣いても何も思わなかったわ。けど違った。私も無償の好意を踏みにじるほど酷い人間じゃないつもり…………だった……」


 その声には力がない。普段であれば他人の精神を壊すのになんの躊躇いもない一条さんが、誤解という一つのボタンの掛け違いで、傍目から分かるほどに狼狽していた。彼女は自分に嘘はつかない。だから自分の道理に反する行いをした自分自身を許すことができないのだろう。

 この時の僕は、なぜだか彼女の考えは手に取るように分かった。壊れたものは直せない。過ぎた時間は戻せない。だったらどうすればいいって。


 一条さんと七夕さんがちゃんと話したのは今日が初めてだったのだろう。だから誤解が生まれた。

 しかし、そんなのは人と人との関係では普通のことである。程度がものすごく大きいということに目を瞑れば。


 誰だって間違うのだ。僕が二階堂君を、一条さんが七夕さんを見誤ったように。自分は自分であって、他人ではない。人は誰しも、相手の虚像を見ているのである。

 誤解が悪いことではない。すれ違って、本音をぶつけて、認識を正して、互いに理解しあって。そうやって人間関係は深まっていくのである。

 だが恐らく、他人への対応が拒絶ばかりだった一条さんはそれがわからない。


 そこにいつもの毅然とした『魔女』の姿はなかった。どうしていいか逡巡している彼女の表情は、暗い洞窟の中、出口がわからず戸惑っている迷子のようだった。

 そんな一条さんの姿を見て、僕も自分の過ちを自覚した。僕も彼女の虚像を見ていたのだ。強く正しく、我が道を征く。自分の歩みに一寸の迷いも疑いもなくて、誰の助けも必要としない究極の孤高。そんな虚像を。


 だったら、ここから理解すればいい。僕が一条さんを。一条さんが七夕さんを。そのための一歩となる言葉を紡いだ。


「誤解だったっていうなら、そう言って七夕さんに謝ればいいんじゃない?」


 それまで罪悪感が全面にあった一条さんは、表情を変えてキッと僕を睨みつける。それとなく返したような僕の言葉は、彼女にとっては軽く聞こえたのだろう。


「私はあなたみたいに軽い謝罪はしないわ。相手や場の空気に気を遣って、自分に嘘をついてまで頭を下げない」


 だから彼女は反射的に言い返したのだ。その穴だらけの反論に対して、僕は事実を述べるのみである。


「けど今の一条さんはそうじゃないでしょ」

「ん……」


 今気づいたという風に、固まる一条さん。もしかしたら、人に謝ることが無さ過ぎて、初めから謝罪という行動を脳内から排除していたのだろうか。あ、ありうる。


「本当に七夕さんに悪いと思ってるなら、軽い謝罪じゃないよ」

「……彼女は私の顔も声も聞きたくないでしょ」

「それこそ誤解かもしれないよ。七夕さんがどう考えてるかは、七夕さんしか分からない。どれだけ彼女の心情を測ったって、憶測にしかならないんだったら、一条さんのそれは言い訳だ」


 なあなあで終わらせない、僕らしからぬ言い分。だが不思議と引くことはしなかった。一条さんと七夕さん、そして僕のために。これで嫌われたとしても、正直な本音を一条さんに伝えた。


 キーンコーンカーンコーンとチャイムの音が鳴り、とても長く感じた2時間目の終わりを告げる。クラスのみんなが勉強道具を片付け、机をもとに戻している間、一条さんはじっと僕の言葉を反芻するように考えていた。

 しばらくした後、彼女は立ち上がり、ガタタッと自席の机を反時計回りに90度回転させてもとの定位置に戻すと、再び席に座ることはせず教室の戸の方に足を向けた。歩き出す前に、僕の顔を見るとなぜか嫌そうな表情をしながら、


「言っておくけど、あなたに乗せられたわけじゃなくて、自分の意思だからね。その一本取ったみたいな顔はやめなさい。気持ち悪いから」

「全然してないよ……」


 どうやら七夕さんに謝罪するために、保健室に向かうようだった。僕の言いなりに動くのは心底嫌いらしく、それでも七夕さんに謝ることを決めたのは、彼女自身の心に従ったからだろう。

 本当に僕の言葉に感化されたのが嫌だったのか、一条さんの捨て台詞は僕に対する否定だけでは終わらず、ついでとばかりに先程の雑談の内容を突っついてきた。


「あとさっきの『ナンバーズ』の話。生徒がどのクラスになるかはランダムじゃなくて教師が決めているのよ。だから運命じゃなくて作為的。その張本人はあなたみたいな噂に踊らされている生徒の顔を見てほくそ笑んでるんでしょうね」


 耳に入っていないと思っていた僕の話を掘り返して、「どう?悔しい?」と言いたげな彼女の顔は『魔女』のそれに戻っていた。


「じゃあ僕は運命じゃなくて、その先生に感謝しなくちゃね。おかげでレンヤや一条さんと出会えたんだから」


 一条さんは眉間にしわを寄せて、口をへの字に曲げた。そんな顔すると癖になっちゃうよ。言うとまた彼女の機嫌を損ねてしまうから、僕は笑顔で口を噤んだ。

 仏頂面になった一条さんは、今度こそ廊下に出るために僕に背をむけて歩き出した。彼女の後姿を見送ると、僕も勉強道具と机を片付けて、いつもの自分の席に戻った。


 なんとなく誰も座っていない一条さんの席を見る。休憩時間二連続で席を空けるなんて、入学してから初めてかもしれない。いつも目の端にあった黒髪の少女がいない窓際の席を見て、入学してからずっと拒絶されてきた僕の言葉は、経緯はどうあれ確かに一条さんに届いたのだと自覚した。

 今までも言葉を交わしたことはあったけど、「話した」のは初めてだった。彼女にとって僕は、路傍の石ころからクラスメイトの一人くらいにはランクアップできたのかな。マイナスからゼロになっただけだが、それは大きな一歩なのだ。それに────。


「嫌われてもいいなんて、はじめて思ったな……」


 初めて芽生えた感情に戸惑いつつも、頭の中を占領するのは一条さへの心配だった。

 七夕さんにはちゃんと謝れたかな。許してもらえただろうか。

 これから帰ってくる彼女に、七夕さんへの謝罪の結果を聞くのは野暮な気がした。けどきっと許してもらえたんじゃないかな。一条さんの謝意は本物で、七夕さんの優しさも真実であるならば、そこにすれ違いはないのだから。


 一条さんと七夕さんのいざこざの行く末。昨日より少し深く知れた一条さんの内側。『魔女』とは異なるもう一方の彼女の側面に対する感情のすべてをいったん頭の片隅に置いて、僕は三限目の授業の準備を始めた。


 三限がはじまるギリギリくらいに、一条さんと七夕さんは教室に戻ってきた。一条さんはいつもの仏頂面。七夕さんはいつものニコニコとした笑顔。その表情から読み取れたものも、結局僕の推測の域を出ない。だが今回の騒動の結末に限っては、実像を知るまでもないようである。

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