思い出せない女

増田朋美

思い出せない女

ある日、杉ちゃんとジョチさんは、富士駅近くのショッピングモールにて行われるイベントに参加していた。主催者さんにも挨拶して、さて帰るか、と、駅へ向かって歩いていて、ショッピングモールの駐車場に向かおうとしていたその時。

「あれ、もしかして、女の人が倒れているんじゃないか?」

杉ちゃんが駐車場の近くの草むらを指さした。確かにそこはショッピングモールの立体駐車場で、その入口の目立たないところに、女性が一人倒れていた。

杉ちゃんとジョチさんは、その女性が倒れているところに駆け寄ると、ジョチさんは直ぐに、

「まだ息がありますね。」

と言った。女性はしっかり息をしていた。靴を履いていなかったので、ジョチさんと杉ちゃんは、駐車場から飛び降りたんだということを知った。ジョチさんはスマートフォンを出して、

「あの、すみません、救急車お願いします。二十代から、三十代程度の女性ですが、富士駅前のショッピングモールの駐車場から飛び降りたようです。息はありますが、意識はありません。おそらく自殺を図ったものではないかと思われます。」

と、早口に言った。直ぐに救急車が来てくれて、女性を連れて病院まで運んでくれた。これで、なんとか終わったのかなと思われたのだが、そうではなかったようだ。

その翌日、ジョチさんのスマートフォンに、電話が入った。

「はい、曾我でございますが。」

ジョチさんが、そう言うと、

「こちらは、富士中央病院でございます。」

相手はどうやら、病院の事務員らしい。

「あの、もったいぶらずに話してくれませんか?」

ジョチさんがそう言うと、

「それなら申し上げますが、昨日こちらへ搬送されてきた女性ですが、昨日の夜、意識を回復しました。しかし、記憶が曖昧で。名前は持っていた名刺により、加藤ゆりさんと判明しましたが、名刺に住所も記載されておらず、どこから来たのかもわからないそうです。それで体の傷が回復して、退院できることになりましたら。」

病院の職員は事務的に言った。

「それでは、帰るところがどちらなのかもわかっていない、そういうことでしょうか?」

と、ジョチさんが聞くと、

「はい、そういうことになりますね、住所も電話番号を聞いても、何を聞いてもわかりませんしか言えませんから。それでは、こちらでも、どこに住んているかなど、調べようがありません。しまいには錯乱状態になって大暴れということもありました。」

と、職員は言った。

「わかりました。そういうことなら、僕の名義で精神科のある病院へ転院させます。その間に、記憶が戻るということは決して無いでしょうから。」

ジョチさんはそう言うと、中央病院の職員は、良かったという感じの声になった。

「ありがとうございます。幸い高所から飛び降りたわけではなかったようで、体の方は軽いけがで済んでいます。その後の処置につきましては、皆さんで適当にやっておいてください。」

病院でもこんなわけだから、精神障害者への偏見は本当にすごいのだった。

「わかりました。それでは、加藤ゆりさんと今話をすることはできますか?」

ジョチさんが言うと、

「はい。意識も回復しておりますし、怪我の方も大した事はありませんので、話をすることはできますよ。ただ、こちらとしましては、病院なので、二度と錯乱状態にはさせないでください。」

と事務員は言うのだった。ジョチさんは、わかりましたと言って、電話を切った。そして、別の番号を回して、小薗さんに車を出してもらい、杉ちゃんと一緒に車に乗って、中央病院に向かった。

病院に到着すると、若くて頼りなさそうな看護師が、二人を迎えた。

「来てくださってありがとうございます。全くちょっとしたことでもわからないわからないの一点張りで、落ち着かせるのに一苦労なんです。彼女としっかり話してあげてください。」

そういう看護師も、なんだか本気でその女性を看病するという気は全くなさそうだった。

「こちらです。幸いお二人が早く発見されたので、怪我も出血も少しで済んだものですから、さほど重傷ではありませんでした。そういうわけですから、幸運だったと言っているのに、あの人はなんで死ねなかったんだろうと、怒鳴りだすので。」

看護師は、嫌そうに言った。

「なるほど、その自殺をしようとしたことは覚えているわけですね。まあ確かに、記憶のなくし方には、古い記憶をなくすこともあるし、最近の記憶をなくすこともあるそうですから、人それぞれでしょう。」

ジョチさんがそう言うと、

「ええ、それは、先生もそう言ってました。ですが、困るんですよ。だって加藤ゆりって言う自分の名前は覚えているけど、それだけが全てですから。それ以外何も覚えていないんです。どこに住んでいたのかも、職業も何もわからないそうですから。」

別の看護師が二人に言った。それではなんだか愚痴ばかりで、看護師としての役割をしっかり果たしていない気がした。でも、精神疾患を持っている女性には、そういう態度で接してしまうのも仕方ないのかもしれなかった。

「こちらの部屋です。くれぐれも、錯乱させないようにしてくださいよ。」

始めの看護師が、個室の前で止まった。

「加藤ゆりさん、あなたを最初に発見してくれた人が来てくれました。この二人のお陰で、あなたは命拾いしたんです。だから、ちゃんと感謝してください。」

二番目の看護師がそう言って、扉をガラッと開けた。

「ほら、加藤ゆりさん。ご挨拶は?」

加藤ゆりさんは、びっくりした顔で、杉ちゃんたちを見る。

「こんにちは。僕たち、あなたが、駐車場の下で倒れていたのを見つけて、救急車をお願いしたものですが、覚えていらっしゃいませんか?」

と、ジョチさんが、加藤ゆりさんに優しく言うと、

「そうなんですか、、、。じゃあ私が死ぬのをじゃましたのは、あなた達二人なんですか?」

と、加藤ゆりさんは言った。

「加藤ゆりさん、そういう事言わないでください。折角この二人は、あなたを見つけて、通報してくれたのよ。それを邪魔した何ていう表現をしたら行けないでしょう!」

ちょっときつい表情で看護師が言ったが、ジョチさんはそれを止めた。

「いえ、大丈夫です。看護師というのは、どうしても勤務がきついので、強い態度をとってしまうものです。それは、あなたが悪いわけでは無いので、気にしないでくださいね。それよりも、あなたは、自殺をしようとしたというところだけは覚えていらっしゃるんですね。それもあなたが悪いわけではないですよ。きっと、自殺をしたいくらい辛いことがあったんだろうし。それも少しづつ思い出していきましょうね。まず初めに、帰る家がどこかも思い出せないということですので、退院したら、うちを少し手伝ってください。」

「うち?」

加藤ゆりさんがそう言うと、

「はい。うちは、居場所の無い女性たちに部屋を貸し出すための福祉施設なんです。どうせ、あなたが、どこから来たのかもわからないのなら、とりあえず、うちにいてくだされば。」

とジョチさんはできるだけにこやかに言った。

「そうなんですね。私、どうしてここに来たのか全く覚えていないのですが、働かせてもらえるのなら、頑張って働きます。どうか、その施設にいさせてください。」

加藤ゆりさんは頭を下げた。それを見た看護師たちは、こんなふうに普通に話ができるのは、不思議だなあと、変な顔をしてみていた。

加藤ゆりさんの体の傷は確かにあまり重傷ではなくて、数日で回復することができた。なので、退院することができた。彼女の身元引受人として、杉ちゃんとジョチさんは、彼女を迎えに行った。送ってくれる医者や看護師は誰もいなかった。皆、精神障害のある女性と関わるのは嫌なのだと言うことが良く感じられた。

とりあえず、彼女、加藤ゆりさんを小薗さんの運転するワゴン車に乗せて、製鉄所に向かった。製鉄所と言っても鉄を作るというところではない。前述した通り、居場所の無い女性たちに勉強や仕事をさせるための、福祉施設であった。それでも、日本旅館のような建物で、ちょっと不思議な空間になっている。

「連れてきたぜ。加藤ゆりさんだ。なんだか、名前以外何も覚えてないようだけど、よく働いてくれると思うからさ。まあ、安全を考えて使ってやってくれ。」

杉ちゃんに促されて。加藤ゆりさんは、製鉄所の部屋に入った。

「へえ、素敵な建物ね。なんか懐かしの昭和時代に帰ったみたい。そういう思いをさせるのも、大事なことなんですかね。」

加藤ゆりさんはそう言った。それと同時に、新しい利用者が現れたんですかと言いながら、水穂さんが布団から起きてきた。たしかにげっそりと痩せていたが、それでも大変美しい男であることは間違いない。ゆりさんは思わず水穂さんを見て、

「まあ、なんてきれいな人なんでしょう。」

と言ってしまったくらいだ。

「そうですか?」

と、水穂さんが言うと、

「なんか、私が一緒にいた人と似ているみたい。」

と、ゆりさんが言うのだった。

「一緒にいた人?それは誰でしょうか?」

ジョチさんが聞くと、ゆりさんは、申し訳無さそうに思い出せないんですといった。

「ということは、結婚していたのかな?」

杉ちゃんがそう言うと、

「そうかも知れませんね。とりあえず、天童先生にお願いして、記憶を呼び覚ましてもらうようにしましょう。」

と、ジョチさんは言った。直ぐにスマートフォンをとってジョチさんは、電話をかけ始めた。それから、数十分後。こんにちはという声がして、天堂先生の来たことがわかった。ジョチさんから、記憶をなくした女性の治療をお願いしたいと言われた天童先生は、

「わかりました。完全に記憶を取り戻すというのは難しいかもしれませんが、それでも思いっきりリラックスすることで、映像のような感じで要所要所が見える可能性はあります。それをまずやってみましょう。」

と言ってくれて、ゆりさんに、縁側に寝てもらうように言った。水穂さんが、座布団を繋げて寝る台を作ってくれたので、ゆりさんはそこに寝転がった。天童先生は、彼女に目を閉じてもらい、体の力を抜くことから始めて、体の一部などをイメージしてもらって、彼女にものすごくリラックスした状態になってもらう。そして、彼女は、リラックスすることにより、記憶の一部が現れてくれるのを狙っていた。

「なにか見えますか?それを、私に話してくれませんか?」

と、天堂先生は優しく言った。

「そうですね。これは何でしょう。私が、覚えていることなのかわかりませんが、なんだかすごい真っ暗で、そこに私ずっと、閉じ込められていたのかな?」

と、ゆりさんは言い始めた。

「それは、誰がそうしたのですか?それとも、誰かが、そうするようにさせたのですか?」

天童先生がそうきくと、

「はい。それは、わかりません。でも私、真っ暗で怖い思いをしていることは、理解できます。それでは私、なにかあったのかな。なにか悪いことをしたのかな?」

加藤ゆりさんはそう言っていた。どうやらその理由を思い出すことはできなかったようだ。それ以上思い出させると、辛いと判断した天童先生は、

「それでは、そのときの、ご自分になにか言いたいことはありませんか?」

と、彼女に聞いた。

「わかりません。それでも私はどうしてこんなところにいるのか、よくわからないのです。」

彼女はそういった。

「わかりました。それでは、理由の分からないおそれと、暗闇が見えたということで、本日の施術を終わりにしておきましょう。では、静かに、目を開けてください。」

天童先生がそう指示を出すと、水穂さんが直ぐ隣にいた。

「私、どうしてここにいるんだろう。この人は一体どなたなのですか?」

と、加藤ゆりさんは、驚いて水穂さんを見た。

「ええ、この人は、磯野水穂さんという方で、ピアニストの方ですが?」

と天童先生が言うと、

「ピアニスト、、、?」

と、彼女は言った。

「なにか僕が、記憶の中にあるのでしょうか?」

水穂さんがそう言うと、

「はい。確か、一度、ピアノの演奏を聞いたことがありました。何を聞いたのかな。確か、世界で一番むずかしい曲ということで、すごい話題になってましたから、私も面白半分で行ったんだった。その後で、あたしは、何があったのかな。どうしたのかな、えーと、、、。」

彼女、加藤ゆりさんはそういうのである。

「無理して思い出さなくても構いません。無理して全部思い出そうとすると、体力を使いますからね。それはとてもつかれることだと思いますし、無理しなくていいですよ。」

水穂さんが優しくそう言うと、

「無理して思い出そうとしなくていいなんて、そんな事言っていただけるんでしょうか?」

と、加藤ゆりさんは言った。

「ええ、言いますよ。それは人として当たり前のことですから。無理をしないというのは当たり前のことですよ。だから、無理をしないで、ゆっくり思い出していってください。」

水穂さんがにこやかに笑ってそう言うと、

「ありがとうございます。」

と、加藤ゆりさんは言った。とりあえず天童先生は、彼女が発言したことを、ノートに記録して、またあした来ますねと言って帰っていった。

翌日。また天童先生が診療にやってきた。また座布団を並べた上に加藤ゆりさんに寝てもらい、また体の一部をイメージしてもらうなどして、誘導していく。そして、加藤ゆりさんの消し去ろうとしている記憶を呼び出すのだ。

「さて今日は、何を思い出してくれたかな。見える映像、聞こえる音など、お話してください。必ずなにか、見えることや聞こえることはありますよね?」

天童先生がそう指示を出すと、ゆりさんはちょっと苦しそうな顔になって、

「ああ、思い出しました。私襲われたんです。確か、学校を飛び出して、一生懸命逃げて、それでも叱られて、それで、怖くなって学校から逃げ帰ってきました。」

と、言うのだった。ということは、学校の先生に、なにかひどいことをされていたのだろうか?

「でもこれはあくまでも、彼女の意識の問題です。それでは書き換えている可能性もあります。もしかしたら、正反対の事を記憶していて、それを言うことを恐れているために、反対の発言をしている可能性もあります。」

天童先生は静かに解説した。

「ええ。そうなんですね。できれば、そういうことではなくて、本当の事を話してもらえないでしょうか?私たちは、悪人ではありません。ただ、あなたが、本当に辛い思いをしているのが、不憫でならないので、それをなんとかしようとしているだけなんですよ。それは、ご理解くださいね。」

「あたしは、本当に怖かったんです。それでは私、殺されるのではないかと思った。だって怒ると、すごい声をして襲ってくるんだもん。それでは、行けないって何度も思ったけど、でも、それを言ってしまったら、私が、生きて行けなくなってしまうわ。それでは、行けないから、、、。」

加藤ゆりさんは、そういうのだった。

「それは誰に襲われると思ったのですか?」

と、天童先生は言った。

「私、、、私、、、。」

どうしても思い出すことができないらしい。

「それなら思い出さなくてもいいです。思い出すと辛いんですよね。それをしたくないから、かえって全部忘れてしまうことで、それで有利なのだから忘れてしまっていたのでしょう。それを無理やり思い出そうとしても辛くなるだけじゃないですか。それなら思い出さない方が良いのではありませんか?」

水穂さんがそう優しく言った。

「それは大事なことだから、外してはいけないことなんでは無いでしょうか。忘れているから、彼女は生きていられるのだと思うのです。もし思い出させてしまったら、辛い感情と、辛い真実を持ったまま、生きることを強いられると言うことになります。それは彼女に課してしまうのは、可哀想過ぎるというか、そうなってしまうと思うんですね。」

「水穂さん、そんな事言っても、彼女がどこに住んているとか、家族構成はどんなとか、そういう事を思い出させないと彼女は、帰れなくなってし買うぞ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「でも、帰ってしまったら、きっと、辛いことが待っていると思います。先程、僕の演奏を聞いてくれたと言いましたが、それはその辛いことから逃れたかったので、それで印象に残ったのだと思うのです。そうでなければ、ピアノの演奏なんて、直ぐ忘れますよ。」

水穂さんは何かを確信したように言った。

「水穂さんは、そういうことが直ぐわかってしまうんですね。なんか不思議な超能力みたい。だけど、彼女は、記憶を取り戻してもわらないと、こまるというか、本来住んでいたところに帰れないのよ。それは行けないでしょう。」

天童先生が、水穂さんに言った。水穂さんは、

「そんな意味で言ったわけではないですよ。」

と言っているのであるが、

「それならもう少し、深く誘導して、あなたをおいかけ回した人物が誰なのか、それをはっきりさせましょう。それから、彼女がどこに住んていて、そこの出身なのか、そのあたりまで思い出して貰わなければなりません。それは少しずつ、施術を重ねていけば思い出してくれることです。」

天童先生は、そう静かに言った。

「今日は、ここまでにしておきましょうか。次は、もう一度深いところを思い出してもらうように。」

と天童先生がそう言ったので、加藤ゆりさんは、目を開いた。

「なんだか、ゆりさんの本当のことがわかってしまうと、ゆりさんは辛いところへ行かなければならなくなるような気がします。それをムリヤリさせてしまうのもどうかと思うのですが。」

水穂さんがそう言うが、

「大丈夫です。真実を知ることはもちろん大事だけど、それをおとなになった時点で客観的に見つめ直す技法もありますから、それでご自身を癒やしてくださることも可能です。催眠療法ではそれができるんです。もし、不自由なところがあれば、他のリラクゼーションと併用してもいいです。」

と、天童先生が言った。本当にそれをして、記憶を取り戻してもらうことは、どんな良いことがあるか分からないが、これを繰り返していかなければならないのだ。

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思い出せない女 増田朋美 @masubuchi4996

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