ミュータント・デイズ

みちゃのふ・みちゃんこわ

序章

いつも物事は思うようにうまく進まない。僕が決心した時に限ってそうだ。

「実験体の脱走が確認されました。緊急プロトコルに従い、施設内の職員及び研究員は直ちに避難を開始してください。5分経過後、研究所及び管理棟へのガス放出が開始されます。」

鳴りやまない警報サイレン

繰り返します、とまた同じ文言を吐き出すスピーカー。

あれは居なくなった子を捜す親の呼び声。

きっと大丈夫だから。

僕は手の中で心配そうにこちらを見上げる天使に優しく言いかける。

すると深く信用してくれているのだろう。彼女はまた私の手の上で眠りについた。

僕は彼女をそっとポケットの中に滑り込ませた。

時間がない。急ぐんだ。

必死に抗菌加工の床を蹴り続け、消えかける希望を追いかける。

彼女がそばにいるだけで走り続けられる。

彼女がいるだけで強くなれる。


非常階段を軽快な足取りで駆け下り、何とか一階までたどり着いた。

通路にはバリケードのようなものがあちこちに築かれていて、ところどころに鮮血が飛び散っている。

「そこで止まれ‼」

何事かと思い、避難中であった研究員が数名僕とともに振り返った。

そこには普段はお目にかかれない連中がいた。

防毒マスクに化学防護服とプレートキャリア。大した出で立ちだ。

めいめい短機関銃ヘッケラーアンドコッホを手にしている。

彼らはSS。セキュリティサービスだ。

多くは語られないが、「有事」に自己判断で施設内の人間を処分することを許可されている。

「速やかに投降しなさい。要求に応じない場合は容赦なく処分する」

真っ先に僕に声をかけたあたり、お見通しだったようだ。

SSはまるで練習用の標的に向けるように、躊躇うことなく僕に銃口を向けた。

研究員たちは慌てて僕から離れた。

死んでたまるか。こんなところで消されてたまるか。

「この…人を何だと思ってんだ」

じりじりと後ずさりながら、僕は最後の手段を試そうと考えた。

「おい、ポケットに手を入れるな‼」

僕はSSが引き金を引くより先に、白衣のポケットの中身を彼らに投げつけた。

「ッ⁉」

ピンを失った鉄の塊がレバーを勢いよく弾き飛ばす。

「手榴弾だ‼」

SSは掩体えんたい代わりの横倒しになったテーブルの後ろに飛び込んだ。

その一瞬の虚を突いて僕は逃げ出した。

その数秒後に手榴弾が炸裂し、あちこちから悲鳴が上がった。

誰かが巻き込まれていないか気がかりだったが、それどころではないことにすぐに気づかされる。

「逃げるぞ‼撃て」

乾いた破裂音が立て続けに響き、窓から飛び出した私の背中に火花が飛びちるような痛みが走る。

何が起こったのかは考えたくもなかった。

「早く逃げなきゃ」

一瞬よろめいたがなんとか姿勢を立て直し脇目も降らずにただ走った。


どれほど走っただろうか。研究所の裏山の中腹ほどまで走ってきた。

日頃よりあまり動き回らない仕事なので運動不足のはずなのに、人というものは不思議だ。

危機感さえあればなんだってやり遂げるのだから。

ゆっくりと振り返ると、研究所はカステラ程度のサイズに見えるほどに遠ざかっていた。

だがいまだに銃声が聞こえるので、恐らく俺を追いかけている余裕すらないように思える。

しばらくは大丈夫だろう。

安堵とともに背中の激しい痛みを思い出す。

「僕…撃たれたのか」

寒い。身体に力が入らない。

何とか姿勢を保っていたが、やはり急所バイタルパートに弾を受けていたらしい。自分の意思とは別に膝から崩れ落ちていく。

そのまま仰向けにぶっ倒れた。衝撃で背中の銃創が痛む。

もう時間がない。

はやる気持ちを抑え、そっとポケットから彼女を取り出した。

怖かったのだろう。小刻みに震えている。

「いいかい、僕はもうじき死ぬ。だが君は強い。」

いまいち状況を理解できていないのか、僕の出血の心配をしているようだった。

「いい。僕にかまうんじゃない。さぁ、行くんだ。」

うっそうと茂る木の間と、俺の顔を交互に見て、泣きそうな顔をしている。

「大丈夫だ。君はもう自由だ。」

ようやく彼女は俺を置き去りにした。


雨の一粒一粒に僕の涙が溶け込む。

空の灰色さえ滲んで僕の目には映らなかった。

胸は焼け付いたように痛み、喉からは鉄臭い息が絶えず漏れ続ける。

こんな筈じゃなかったのに。

だがもう祈る以外のことはできそうにない。

どうか今度こそうまく進みますように。

雨の降る森のにおいが絶えず鼻腔を刺激する。

僕は声を出さずにひとしきり泣いた。

涙を流すとセロトニンという神経物質が出るそうだ。

セロトニンには体をリラックスさせる効果がある。

なんだか少し楽になった気がした。

もうどこも痛くはない。

「来世はきっと晴れますように。」

僕はそのままゆっくり目を閉じ、深い眠りについた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ミュータント・デイズ みちゃのふ・みちゃんこわ @michanov

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ