鬼姫の邂逅
榎本色
泡沫
月に一度、決まって同じ夢を見る。
眠りについてから、少し経った頃。真っ暗だった世界が唐突に光を帯びて、鮮やかな紅葉を映し出す。満月のように丸い、外側からの光を大きく取り込む窓いっぱいに、赤と、黄色と、橙が入り混じる。
音ひとつない部屋の中にはすえたような臭いが漂っていて、鼻腔に感じる不快感に眉を顰めた。
室内にあかりは灯っていない。1つだけある大きな円形のその窓から強烈な光が差し込むせいで、全てのものの陰影が激しく浮かび上がっている。
私の正面が2メートルはあるであろう巨躯で塞がれていて、その手に握られた細い刀身の刀からは、ぽたりぽたりと液体がゆっくりと滴り落ちていた。
聴力が徐々に戻ってくる感覚がする。巨躯の頭は下を向いていて表情を窺うことはできないが、激しく息を切らしているのがわかった。時々、苦しそうに呻く声まで響いている。
「全部、殺ったの?」
「……っ、……はい」
“私”の意思に反して勝手に口から言葉が紡がれると、一度グッと何かを堪えるような素振りを見せた後に、短く巨躯が肯定した。
(また、この夢だ)
物心がついた頃から、何度も繰り返し見てきたシーンが眼前で繰り広げられる様子に、心の中で大きくため息をつく。
小さい頃はただただ意味が分からなくて、鮮やかで恐ろしい光景に身を竦ませるばかりだったが、流石に歳を重ねればその意味合いも悲哀に包まれた空気も感じ取ることができた。
(好きじゃないのよね、この夢)
頭部に小さな角を二本生やしたこの男は、この後私のことを姫と呼ぶ。
「姫、もうわかっておられるでしょう。私には貴女しかいないのです」
そして、この一切の俗物が取り払われた部屋から私を連れ出そうとする。
「お願いです、私と来てください。このまま貴女が死ぬのを黙って見てなどいられない。だから……」
でも、私は冷たく拒否するのだ。
「嫌よ。もしこのまま死ぬのだとしても、お前と一緒にこの場所を去るなどしないわ。身の程を弁えなさい」
男は顔を上げた。頬から額にかけて飛び散った赤黒い液体の間から、美しい金色の目が私を凝視する。ありありと浮かんだ深い恋慕と、苦痛と、失望が、瞬く間にその瞳を染め上げるのがわかった。
あまりの感情の強さに、背筋を甘美な恐怖が走り抜ける。このどうにも“私”の意思では動かすことのできない自分自身の体の手足から、スッと血の気が引いて行くのも感じた。
でも、それと同時に、絶対に言いたくない言葉を口にしてしまったような苦しみが胸を締め上げる。両目から涙が溢れ落ちそうなのを必死で堪えて、無表情を貫く。
「……そんなに私のことが嫌いですか?」
「ええ。むしろなぜ私がお前なんかについて行くと思ったの?」
真摯な思いを真っ向から捻り潰して嘲る様な声音が口から漏れる。片方だけ意地悪に釣り上がった口の端が、口角に歪な皺を作った。
そんな私に、まだ希望を捨てきれない様子で男が手を伸ばす。
男の背中の半ばまで伸びた紫色の髪があちこちで絡まったり、血で固まっているのを見て、あんなに輝いていたのにと心がざわめいた。そして、自分も魅入られるように釣られて腕をあげようとして、ジャラリという小さな金属が擦れる音と手首の重さで我に返った。
ほんの一瞬、全ての時が止まったかのような時間が2人の間に流れたが、私は誤魔化すように上げかけた腕で自分のネグリジェを掴む。
貴方と、行きたい。
どこまでだって。
貴方の隣で過ごせるだけで良い、それ以上を望んだことなんて一度もない。
心臓が高鳴って、決意を鈍らせる。
走り出して、あの大きな胸に飛び込みたい。
その手に持つ刃でこの鎖を断ち切って欲しい。
途端に息が苦しくなって、喉に飴玉が引っかかったような異物感が押し寄せる。
相手を求める気持ちでぐちゃぐちゃに塗りつぶされた心を、その上から無理やり黒で塗りつぶす。
この人となら本当に幸せに暮らせるかもしれない。でも、9割方自分は災いの種にしかならないことがわかっていた。あの手を掴めば、この愛しい男諸共地獄に沈めてしまうことがわかっていた。泣きたくなるほどに。
「早く行きなさい。目障りだわ」
男は、苦しげに顔を歪めて、そして遂に大粒の雫をその瞳から溢した。ぎり、と歯を噛み締めた音がこちらまで響いてくるほどに悔しさを迸らせて、こちらに一歩、また一歩と近づいてくる。
「それなら、せめて私の手で貴女を葬らせてください。これから何度生まれ直しても、私のことを許さなくていい。だからせめて……」
そこまで言うと、私の頬に手を伸ばしてきた。温かい大きな手の感覚に喉元まで言葉が迫り上がる。それを懸命に抑えて、少しでもこの男の顔を目に焼き付けようとじっと相手を見つめた。2つの黄金に自分の顔が映り込んだ。
そして、その映り込んだ表情を確認する間もなく、上半身を熱が貫いた。
夢だから動けない、言葉も自由に発せない、1つも自分の好きにできることなんてない。それなのに、臭いや音、感触はどれも全て鮮やかで、本当に嫌になる。
“私”はもう目を瞑ってしまいたいのに、目の前の美しい顔が大きく崩れて掠れた声を発するところを見たくもないのに、この夢の中の私は決して目を閉じない。それどころか、さっきはにひるな笑みを浮かべた口元が優しく緩み、目線は相手を慰めるように細まる。貴方の手で逝けて良かったと、傷口の激しい痛みなんて忘れてゆるゆるとした春のような気持ちが胸に広がっていく。そしてその手に業を背負わせてしまった罪悪感が、雫となって頬を伝う。
「ごめんね」
その言葉を最後に、私の世界はぼやけて暗転していく。
絶叫する男を、世界にただ1人取り残して、私の世界が終わっていくのだ。
鬼姫の邂逅 榎本色 @enomoto_shiki
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