2. ゾティークの珠




 咳とともに、ごぼりごぼりと、いやらしくも忌まわしい、湿った息が胸の奥から噴きだしました。

 血と、痰と、菌の息とがまざりあった、けがらわしい腐臭のながれ。


 窓を見やれば、疫病えやんだように重苦しい雲のはびこる暗い空。

 そんな空からふりそそぐ、病魔のはなつ矢をおもわせる雨が、なにはばからずふりそそいでいるのです。


 そんな雨に掻きたてられるかのように、湿った土の吐息のかおりが、がらをとおして、部屋のなかまで押し入ってくるのです。




 ああ、いやだ。

 この雨も、雨のもたらす湿しめも、えたような土のかおりも。

 私のからだにはびこったこの病巣と呼びあって、肉も、血も、心さえも腐らせてゆく。


 そうしてこの病んだ胸から吐き出された血痰をかたづける女中どもは、汚物を見るがごとき目を私の顔からそむけて去り。

 胸に、はだに、聴診器あてる医師の老人は、その忌まわしいねばついた目を隠そうともせず。

 めそめそした涙と嗚咽を垂れながす陰気な父母。その声からは、なまぐさい自己憐憫のにおいが立ちこめ。




 ああ、いやだ。

 日がつごとに痛みときしみとを増してゆくこの身をよじり、寝台ベッドのそばに控えいるわきづくえに手をかけて。


 引き出しからつかみ出したのは、すこしいびつで扁平へんぺいで、その芯を白くにごらせて、それでも冷たく清潔ないろのすいしょうだまなのでした。




――― 日に一度、かなうならば二度でも、三度も、その奥を覗きこんでみなさい。


――― きみに素養があるのならば、そのたまは、この湿った土地からのがれる翼をきみに与えてくれよう。




 言い残された叔父様は、この館をおとずれる人びとのなかでただ一人。清らかにんだ乾きと、かぐわしい砂のかおりをまとった人でした。

 このたまをくださってから間もなくして、大陸のかわいた台地の奥にあるといういーあんほうの廃都をめざす探検隊へと参加なさって、それから十年、いまだに行方が知れないけれど。


 そのお言葉にすがり続けて、水晶のたまを覗きつづけて。

 いまや珠は、かすんだ目の代わりとなり、このむしばまれた身体からだからはるか彼岸の砂漠へと、私の心を逃れさせてくれるまでになったのです。






 空は明るく晴れていました。


 湿ってれたかさなどはすべて枯れてはがれ落ちて。

 乾いた肉をおもわせるあかい空が、涙もなく、まなざしすらなく、ただ無言でひろがっています。


 その紅をうつして染まった大地もまた、一言もなく、咳こみも嘆きも発せず。

 ときたま砂を風に舞わせつ、静まりかえっているのでした。




 人類という猿のあゆみがついに絶え、乾ききった大地のみの

 すべての文明がついえ、砂による、砂のために在る、砂の王国と変わり果てたタスーンの地では、ただ砂だけがその沈黙をもって語り、その静けさをもって歌い、ときおり思いだしたがごときに、風とたわむれ踊るだけの楽園。


 りを前にまどろむような、あの安らぎだけがべる光景。

 この身体からだむしばにじる病魔すらも、この幻視ゆめにひたるときは、もだえすらかなわぬままこわばり、乾き伏すのです。




 そんなたのしさのあまり、痩せた腕をおもわず前に突きだしました。

 すいしょうだまがつかのま見せる、幻だとも忘れ果てて。


 地球最後の乾いた紅き砂たちは、羽毛よりもやわらかくこの手をつつみ、うるおすのでした。

 その感動にうち震えながら、名残なごしくも両腕をひきだして見ると。




 えた肌も、腐れた肉もとうに溶けて。


 ただ清らかな骨だけが、砂のうえへとこぼれ落ちてゆくのでした。

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