三 教会で誓う、底知れぬ愛情
下水道の匂いとドブネズミの音で、皇女は目を覚ました。あらゆる関節を抑えながら体を起こすと、まず見えたのは鉄格子と鍵がかかった鉄扉だった。足を引きずりながら、地面を這うようにして皇女は鉄格子を掴む。地下牢。向こうの独房には、三十人を殺して死刑になった男が座っていた。
「やっと目を覚ましましたか。国を破滅させる悪魔・エルメス」
どこかから、左か右か、地下牢全体からヒールが地面を叩く音が反響している。その音は段々と大きくなってきて――下水道の匂いに紛れて、憎たらしいロザリオの香りが一筋届く。
「反省をしていますか? 悪魔・エルメス」
どこからともなく、侍女が杖を突きながら皇女の前に現れる。低く、乾燥した声が傷だらけの皇女に届いた。「反省したのかと聞いているのです」侍女はそう言うと、目に怒りの色を浮かべて鉄格子を力一杯に蹴り上げた。耳を塞ぎたくなる、混雑した音が彼女の鼓膜を引っ掻き回す。ふと目を奥にやると、短く側頭を刈り上げていた男は恐怖のあまり頭を床につけていた。
「なぜ答えない! 私の質問が理解できないというのか! 悪魔・エルメス!」
金属を炎で掻き回したような甲高い声が響く。「言葉もしゃべることができないのか!」侍女がそう叫んだ瞬間、突然、銀色の物体が皇女の耳元を高速で通り抜けた。それは壁に衝突すると、高い音を立てて落ちた。皇女は後ろを振り返ると……腰が引けた。
小刀が、彼女の側に落ちていた。
殺される。息が急激に浅くなり、呼吸のリズムを忘れてしまう。心臓が競走馬のように駆けだすと、両手両足の力が抜けて肘を地面に投げてしまう。数十秒も時間をかけて、皇女はゆっくり侍女の顔を見た。彼女は、目を真っ黒にして右手にもう一つ、同じものを構えていた。
「……答えない。……最初から最後まで、醜い女だった。そういうところが、私は嫌いだ。残り二か月、そこで過ごせばいい。私の嫌いな女・エルメス」
侍女はポケットからパン屑を取り出すと、鳩に餌をやるようにそれを独房の中でまき散らした。食料。自尊心が下水道に汚染されていくのを感じながら、皇女は必死にそれをかき集めた。ネズミがパンの匂いを嗅ぎつけて、鳴き声と共に襲い掛かる。そんな彼らを追い払いながら、皇女は、この現実を堪えるために涙を拭いた。
彼に会えない。
袖を濡らしながら、考えることはいつも一つだった。安寧を得たい。彼の顔を見たい。あの甘い蜜のような声にこの鬱屈な現実全てを溶かして、人生全てを帳消しにするようなロマンチックな愛を迎えたい。彼の微笑みを思い出すだけで、侍女に与えられた苦痛がほんの少し和らぐ。安寧を得ることができる。お願い、皇女は秘かに彼の名前を呼ぶ。今日ばかりは、夢にあなたが出てきて私の苦悩を全て包んで溶かしてほしい……。
*
二か月が経った。地下牢に閉じ込められた日々は、一日一日を区別することさえ困難となっていた。そんな彼女の唯一の希望は、やはり舞踏会で出会ったあの男だった。皇女は目を瞑るたび、彼の姿が脳裏に浮かぶ。夢の中の彼女は、鳥のように自由に羽ばたいていた。ある日は彼と一緒に花園へ行き、ある時は彼と一緒に石レンガの通りを歩く……そして舞踏会で、彼女は必ず目を覚ます。紫色の桔梗紋や金色の蛇の国旗に見守られながら、「頑張れ」と彼が最後に囁く。その囁きに勇気を受け取りながら、地下牢の一日を始める。
「悪魔・エルメス。婚礼の日を迎えました」
しかし何も行動ができないまま――皇女は婚礼の日を迎えた。婚礼の儀。シーグル王国、暴君の下へ嫁ぐ葬式。それが意味することは、彼に会えないということ。彼に会えないということは、愛する人に会えないということは、どんな侍女の激憤や暴虐よりも耐え難い苦痛だった。皇女は彼の微笑みを想像する。あの柔らかな笑みをもう一度見れずして死ぬのは――絶対に御免だった。
侍女は鍵を開けると、手袋をはめて皇女の腕を掴む。使い捨てに見える黒の手袋は、皇女の一切の汚れを受け付けないよう分厚かった。そのまま居城の浴室へ連れ込むと、身体を何度も洗わせて汚れを取った。体裁。冷たいシャワーを浴びながら、皇女はそんな言葉を考えていた。
その後、豪華絢爛な化粧室に連れ込むと、王宮で何度か見かけた程度の女が割れ物に触るように化粧をする。特に顔の左半分。大きな腫瘍が目立つところは何度も繰り返し、最後には大きなバタフライマスクを着けられた。すっかり、自分の腫瘍は隠れてしまった。
体裁。国家の自尊心を傷つけないために、皇女は顔を隠したような状態で会場へと向かう。侍女に連れられ、純白なドレスを着させられ、教会の茶色な観音開きの扉の前で待たされた。
「……お前は最初からずっと悪魔だった。これで終わりです。悪魔・エルメス」
横からは常に、鼻をつまみたくなるようなロベリアの香りがする。生まれてきた時から今に至るまでずっと、この花は暴力の側にあった。青い小花。皇女はこの花が嫌いだった。それを嗅ぐだけで、侍女の暴虐を思い出してしまうほどに……。
「さあ、行きましょう」
兵士が扉を開くと、強大な光に包まれた。
眩しい。皇女は目を細め、辺りを見渡した。真っ赤な絨毯が玉座に向かって一直線に伸び、その向こうでは天を貫くほど巨大な十字架が突き刺さっていた。
皇女は侍女に連れられる形で、一歩一歩前へ進む。
後ろからオーケストラが、交響曲を奏でていた。舞踏会の時と同じ曲。金管楽器とヴァイオリンがしなるように音を奏で合い、数多の音符を運んでいる。その中から男の低い声をしたオペラが聞こえる。芳醇なワインがゆっくり沈殿していくような音楽。
赤い絨毯の周りには、家臣や来賓、画家など様々な人間が皇女を囲み、拍手している。今まで皇女を無視した人間も、満面の笑みで彼女の門出を祝っている。形だけの祝福。
玉座にそびえたつ十字架が、着々と近づいてしまう。何百人ともなる神父が、十字架を握りしめながら体全体を覆う服で皇女のことを見守っている。そしてその十字架の前には、丸々と肥った王が、虚栄心に溢れた様子で立っている。
この男が、あの彼だったら――。彼がこの場に駆けつけてくれたら。皇女はもう一度だけでも、彼の姿を見たかった。
階段を上り、王の隣に立つ。侍女は役割を果たしたのか、ロベリアの香りが遠ざかっていく。そのことに安心を抱きつつ、前に立つ神父を見た。
聖書を片手に、髭を生やした神父は二人を確認した。
そして、婚姻の誓いを読み上げる。
「汝はこの女を妻とし、良き時も悪き時も……」
国王。その巨大な顔面に反して線のように細い目は、常に周囲を疑う姑息な不安に満ちていた。鼻息を荒くして、勝ち誇った顔を浮かべる――狂気。
「富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も……」
――刹那、皇女の心臓が止まった。あの香りだ。それは小さく、糸のように細い一筋の香り……薔薇の香りが、背後から漂っていた。彼だ。皇女は彼が婚礼の儀に参加していることを把握した。神父の集団、そこに紛れて彼はいる。
「共に歩み、他の者に依らず……」
そしてそれが意味することを、彼女は理解していた。彼が神父の姿でこの場に参加している理由。今の自分の、素直な感情。それがもたらす結果と結末を、彼女は十分に理解した。
「死が二人を分かつまで、愛を誓い、妻を思い、妻のみに添うことを……」
彼は言った。『あなたの魅力は、人が成長する中で失った、純粋な心と勇気』だと。そして正解は、その中に埋まっていると。
「神聖なる婚姻の契約の下に、誓いますか?」
嫌だ。
私は、私の好きな人といたい。
「それは嫌だ!」
皇女が全身で叫んだ瞬間、全ての時が止まった。音楽も、神父も、国王も、そして、侍女の顔も。そして彼女は、全てを理解した上で、彼の名を呼んだ。
「行きましょう! 私の希望・ルーカス様!」
刹那、神父の集団、五列目三番目の男が、突然コートを脱ぎ捨てた。数々の神父を押し倒し、会場に乱入する大怪盗のように、男は大胆に皇女の下へ駆けよった。
「分かった! 共に行こう! 希望の皇女・エルメス!」
男はポケットから小刀を取り出すと、扉に向かって全力で投げつけた。真っすぐ突き刺さった小刀を見て、四方から絶叫のような悲鳴が立ち上がる。皇帝や家臣、来賓に神父は出口を求めて慌てふためいた。会場は大混乱に見舞われていた。騒然とした会場、様々な思惑が錯綜する教会にて、男は隣に立つ花婿に向けてウインクをした。
「すまないな。お前の相手は、頂いていく」
混乱がさらに混乱を招く中、男は国王を蹴飛ばした。壁に向かって転がっていく巨漢をよそに、真っすぐ会場を後にしようとした。無秩序とした会場は、行き場を失った人々が足を引っかけ合って倒れるなど、大惨事を招いていた。
「お待ちなさい」
人々の慌てふためく声で騒々しい会場に、たった一つのしわがれた声が聞こえる。混乱で会場から抜け出す人々を、外の光を背にして、侍女が道を塞ぐようにして立っていた。
「どうしたんですか。侍女・エリザベス」
「どうもこうもありません。この場は婚礼の儀……これを一国の伯爵が邪魔したとなれば、それは戦争状態に突入してしまいます。それでもよろしいのですか?」
侍女は一歩も退かず、悪意に満ちた目で彼のことを凝視している。皇女は彼の腕を掴んだまま、自信に満ちている男の顔を見た。彼は、ふふ、と笑った後にこう言った。
「大丈夫です」
「どうして」
「この城は、もう包囲されていますので」
その声を合図に、教会とは別の方向から物騒な物音が鳴り響いた。銅鑼が鳴り響き、兵士の喧騒と爆撃音が聞えてくる。
「あなたたち侍女や皇帝の悪行を世間に公開したら、私を盟主に連合軍が結成されましてね。その数およそ二十万。各地選りすぐりの精鋭で結成された、攻城戦のエキスパートです」
その言葉を聞いた瞬間、侍女の瞳がぐらりと揺れた。同時に、教会の混乱を潜り抜けた騎士が侍女に片膝をつき、報告した。
「侍女・エリザベス様! 敵勢に城壁を突破されました! このままでは陥落寸前です!」
「ええい、引っ込みなさい!」
侍女の激昂に、騎士は顔を青白くさせながら引き、再び教会を後にした。
「だから言ったでしょう。この城は落ちます。彼女のせいではなく、あなたたちの悪行でね」
そして、戦いのさなかとは思えない微笑みを見せて、彼は言った。
「まあ、あなたたちはどうでもいいのです。私の最高の興味は、美しき皇女・エルメスにあるのですから」
彼は侍女を突き飛ばし、持っていたもう一本の小刀で太腿を刺す。
苦痛に満ちた声をよそに、彼は言葉を吐き捨てた。
「このままじっとしていてください。もう直に、私の兵があなたを捕まえますので」
振り返ることもなく、男は皇女を連れて教会を後にした。
その後は兵士に連れられて、馬車で城から離れた丘まで向かった。目を瞑っても、ロベリアの香りは二度とすることはない。安心して、皇女は彼の身体に自分を託す。
「大丈夫でしたか?」
「ええ、大丈夫です。あなたは?」
「大丈夫ですよ。美しき皇女・エルメス」
馬車の中で広がる、薔薇のような美しい空間。彼の微笑みを見る度に、今までの苦痛が全て水に流されるように洗われていく。「そうだ、魔法をかけてみましょう」彼は言った。
「どんな魔法かしら?」
「両手を差し出して」
首を傾げながら、皇女は両手を前に出す。彼はまた微笑むと、指をぱちんと軽く鳴らした。
「ほら、あなたに薔薇の花が」
すると、皇女の手にはあの時と同じように、一本の薔薇が置かれていた。
「素敵……」彼女はその薔薇を恍惚とした目で見て、ふふ、と彼に甘い微笑みを零す。
「また会えて幸せです。私の愛すべき人・エルメス」
彼は愛の囁きと共に、背中を彼女の手に回す。
それを、彼女は甘んじて受け入れた。
「私も。私の愛すべき人・ルーカス」
太陽が昇る、青空広がる正午にて。二人は涙を零し、愛を誓いあう。皇女の初めてのキスは、少ししょっぱい涙の味がした。
*
スズメの鳴く声で朝が来たことを知る。
目を覚ましても、部屋の中からロザリオの香りはもうしない。もう彼女の周りには侍女はいなかった。久しぶりにぐっすりと眠った彼女は、枕に隠れて微笑みを零した。
ぐっすりと眠ってしまった。朝日を浴びながら体を伸ばし、顔を洗う。外に出ると、西からそよ風が吹いていて、薔薇やコスモスがそよ風に気持ちよさそうに揺れていた。
「起きていたのか」彼の言葉に、彼女は晴れた笑顔で後ろを向いた。
「あら、愛すべき人・ルーカス様……」
「おはよう。愛すべき人・エルメス」
そして二人は、誓いのキスを交わしていた。
底知れぬ愛情と悪意 とうげんきょう @__Tougenkyou
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