二 突然の宣告と惨劇色の薔薇園

 しかしその幸福は、長く続くことはなかった。朝の陽ざしで目が覚めると、侍女に殴られるところから一日が始まる。侵入者を捉えることはおろかどこに入ったかも掴めなかったからか、怒りは日に日に高まっていった。




「非国民め」二人の部屋で、侍女は皇女を殴り続ける。




「あなたなぞが生まれたから、この国が崩壊するのです。悪魔が付け入るのです。帝国の裏切り者・エルメス」




 殴り続ける音が部屋の空気を満たしていく。出窓に置かれた花瓶の花は、この惨状から目を逸らすように窓の方を向いていた。皇女は顔を伏せ、じっと侍女の暴虐に耐える。これを耐えれば、これを耐えれば、その言葉と共に浮かんでくるのは男の優しい微笑みだった。




「帝国のために、消え失せろ! 悪魔・エルメス!」




 侍女が振りかぶった瞬間、重たい扉が突然壊れたように開かれた。時間が止まったように侍女の手は止まり、扉の方を見ていた。皇女の胸に舞踏会の煌めきが満たされる。彼が来た、その期待を胸に顔を上げると、久しぶりに見る顔が立っていた。




「元気にしていたか。我が娘にして悪魔の子・エルメス」




 皇帝。彼は足音を立てて皇女の前に近寄った。侍女は興が覚めたように立ち上がると、最後に一発、皇女の背中に蹴りを入れた。前に転がる彼女を見て、皇帝は、冷ややかな目でこう告げた。




「悪魔・エルメス。皇帝の命令だ。お前はシーグル王国の国王に嫁ぐことが決定した」




 刹那、息をするのも忘れるような混乱を感じた。命令? シーグル王国? 嫁ぐ? 理解できない脳細胞に一つずつ単語を組み合わせて文章を組み立てると、彼女は突然不安に襲われた。


 シーグル王国。その言葉を彼女は聞いたことがあった。反政府勢力は徹底的に弾圧される、自由のない世界。国民は秘密警察に怯えながら過ごし、秘密警察は鞭を持って国民を連れ去る国……そんな国に、自分は嫁ぐというのか。絶望が脳裏を掠める。




「幸い、ベッケン国王はこの結婚に賛成してくれるそうだ。たとえ悪魔のように醜い人間でも、私が面倒を見てやろう……と」




 更に凶悪なのは国王の性格だった。丸々と肥った顔つきに、狐のような猜疑心さいぎしんに溢れた目。周囲を忙しなく観察しては、自分より立場の弱い人間に暴虐を振るう男だった。顔を思い出しただけで恐怖に震え上がる。もしその男に嫁いだら最後、二度と帰ってこれないことは明白だった。




「婚儀は二か月後。我が城で行う。反論は認めぬ。最後は国のために尽くせ、国家に巣くう悪魔・エルメス」




 皇帝は有無を言わさぬ表情で周囲を威圧すると、それを誇示するようにゆっくりと部屋を後にした。締め切られた部屋の扉は、二度と向こうから開けられる気がしなかった。




「いいじゃないですか。醜怪な憎悪・エルメス。あなたが居なくなることは、国民にとっての悲願です」


 侍女が満面の敵意を皇女に降り注ぐ。彼女を蹴り飛ばした時よりも強く、殴り続けた時よりも輝いていた。政略結婚。侍女がまるで人を殺した時のような微笑みを浮かべている横で、皇女はそれが意味することを無意識的に理解していた。


 ――彼と会えない。


 それは皇女にとって、死刑を告げられたのと同じことだった。彼の微笑みを二度と見ることができない、彼の甘い蜜のような声を二度と聞くことができない、そんな恐怖の可能性を想像するだけで皇女の視界は暗くなっていく。彼の薔薇の匂いが感じられないほど遠ざかっていく。




「そういうことです。落伍者・エルメス。あなたは誰にも、見向きもされないのです」




 その言葉を聞いた瞬間、皇女は無性に叫びたくなった。気が付くと身体を起こし、部屋の扉をこじ開けていた。「捕えなさい!」後ろから侍女の怒声が聞こえる。階段を何段も下りている最中、後ろから甲冑の音がした。騎士。剣が抜かれるような、暴力の空気が背後から漂う。階段を下りて庭へと駆け寄る。とっくに侍女の傷は悲鳴を上げていた。脳に痛みがこみ上げて、麻薬のような興奮が身体を支配する。目的は分からなかった。ただ、こんな時に浮かぶのは彼の顔だった。タキシードに身を包んだ、人生で初めて手を差し伸べてくれた人。彼にもう一度会えないというのは――皇女にとって全ての希望を失ったことと同義だった。


 長いスカートを持って走っていた皇女の足が止まる。疲労に負けて膝に手をつくと、そこは居城の中庭だった。荒い呼吸を整えながら周囲を見渡す。陰険とした城内とは打って変わり、そこは庭園のように色彩豊かな花の数々が咲き誇っていた。コスモスにロザリアの他、薔薇やブルーベルが狂い咲く……


 くたびれた身体を引きずって、花の匂いを嗅いでいると、




「どうされたのですか、可哀想な皇女・エルメス」




 ああ、ああ。皇女は溢れんばかりの感情に、言葉を失いそうになった。目の前に立つのは紛れもない、あの男だった。全てを託してしまいたい。この感情全てを開放してしまいたい。「どうされたのですか」変わらぬ蜜のような囁きに、皇女は口角が緩みながら両手を彼の背に回す。そして、こみ上げてきたものを許す。




「……あなたに出会えて、よかった」


「どうしたのですか、純粋な皇女・エルメス。……涙を零して」


「散歩で道に迷ってしまったの」




 全てを彼に告げたいのに、明らかな嘘をついてしまう。今更ながら自分に微笑みかけてくれる彼に、嫌われたくないという感情が芽生えてしまう。居城を抜け出して来てくれた彼に対して、言葉にできないほどの感謝と共に若干の躊躇ちゅうちょを感じてしまう。彼女の明白な嘘に、男は無言で背中をさすった。「安心してください……私は味方です」耳元で、花がそよ風に揺れるような声だった。




。純粋な皇女・エルメス。どうか、生まれてきたのが悪いなぞ、自己嫌悪に陥らないでください」


「でも……私が生まれてさえなかったら、こんな惨劇を招く必要もなかった」


「少し前に」




 男は皇女を強く抱きしめた。「少し前に、私が話したことを覚えているでしょうか? ……主に、あなたの魅力について」


 皇女は一時も忘れたことがなかった。男の暖かい吐息が聞こえる中、微笑みを零しながら彼女は呟いた。「ええ、覚えているわ。私の部屋でした会話」実直に照らす希望の瞳、薔薇の香りと相まってそれは皇女の脳に忘れることができないほど刻み込まれていた。




「あなたの魅力について、言いそびれていたことがありました」




 折々の花の香りが、そよ風に運ばれて鼻腔をくすぐられる。皇女は彼の肩を掴むとその瞳を直視した。端正な顔立ち、くっきりとした目鼻。息をするだけで飲み込まれそうな彼の妖気に、皇女は我慢できずに彼を抱く力を強めた。




「あなたの美しさは、そう簡単に見えるものではありません。それは、包み紙に隠されたルビーのように美しい、あなたの心のうちの、人が成長する中で失っていった、子供のように純粋で勇気溢れる心のもの」




 男は腕一杯に皇女を抱きしめながら、蜜の香りに託して言葉を綴る。彼の言葉を理解できなかったのか、皇女は微笑みを浮かべたまま首を傾げた。




「そうです。それでいいのです。それがあなたの魅力なのですから……」




 男はふっと身体を離すと、やつれた皇女を見て笑みを浮かべた。二人だけの談笑。蜜に誘われる蝶が舞う中、二人は一瞬の時間を共に過ごす。男が何かを語り掛けると、皇女はそれに対して囁いた。そこは花の園に相応しい、楽園のような空間だった。




「……できることなら、こうしてあなたをずっと抱きしめたい」




 何の拒否もなく、二人で頬を擦り合う。そうしながらも――これが限られた時間であることを悟っていた。目を瞑ると、花々が怯える音が聞こえる。何百もの軍靴が草木を踏みつぶすように侵略する。次第にその音が大きくなる中も、二人は感情を分かち合っていた。




「やめなさい」




 悪魔のような声が、花の園に響いた。


 二人は身体を離し、声の方を見る。どんな色も混ざらない漆黒のドレス、天に突き刺す音を立てる漆黒のヒール、数多もの怨念を乗せたような畏怖の声……侍女が皇女を、鋭い眼光で見下していた。




「これは……辺境の公国にお住いの伯爵ではないですか。どうしてここに?」




 侍女のしわがれた声が、彼の鼓膜に狙い撃つ。振り向くと、男は柔らかい微笑みを作りながら、皇女の背中をさすった。「大丈夫です。怖がらないで」




「これはエリザベス侍女。会えて光栄です。旅に出ていたのですが、少し道に迷ってしまいまして。綺麗な花ですね」


「そうでしょう。一流の者を呼び寄せて作らせたのです。そこに失敗はありません」


「そんなにこの庭は美しいのに、なぜ彼女は傷だらけなのでしょう」


「……それは私たちの勝手です。引き渡しなさい」




 張り詰めた空気に皇女は息を飲む。不敵な笑みを浮かべる男に対し、侍女は黒のスカートを正し、有無を言わせぬ尊大な表情で相対している。虎と狼が睨み合うように、辺り一帯に死の空気が漂った。微かに香る薔薇の匂いに、皇女は男の無事を祈った。




「嫌だと言ったら?」


「引き離すまでです」




 男の答えに、侍女は指を鳴らして合図をかける。同時に、何重もの兵士の壁が皇女たちを取り囲むように立ちふさがった。




「あなた一人ではどうしようもありません……憎悪・エルメスを捕えなさい」




 侍女が言い終わったその瞬間、皇女の目には騎士が雪崩のように押し込む姿が映った。筋肉を装備し、鉄をも叩き切る剣を腰にぶら下げて、彼女の下へ獣のように駆ける。敵意の眼差しを向けた男が視界一杯に埋め尽くすように彼女の足、腹、腕を掴む。恐怖で身体が壊れそうな悲鳴を上げる。「離せ!」喧騒に負けじと、彼が騎士を掴んで引き離し、皇女を守ろうと試みる。「離せ! お前たちは騎士の尊厳、騎士道を忘れたのか!」彼は痛みに気絶しつつある皇女を捉えながら、必死に騎士に掴みかかっていた。




「多勢に無勢……諦めればいいのです。あの伯爵は捕えた後、国境の外に放り出してしまいなさい。殺すまでもありません」




 必死に皇女を守っていた男も、やがて足を取られて騎士に捕まる。四股を固定され、身動きが取れないにもかかわらず、男は全身の力を込めて騎士らに向けて暴れ出す。




「離せ! お前たちはどうして騎士になったのか! 人を傷つけるために騎士になったのか!」




 国境沿いに連れ去られる彼の瞳には、美しくも儚い皇女の顔が映っていた。横に伸び、恐怖のあまり気絶している。騎士が四人で担ぎ、反対方向へと連れ去ろうとしている。その暴虐を見ているとあまりにも悔しく――しかし何もできない自分に腹を立てた。




「私に楯突くから、こうなるのです……」




 彼が痛みに目を閉じる前、侍女は姿勢を正すと、口角を悪意に任せて上げた顔でそう勝ち誇った。その表情や声には、陰謀に溢れた恍惚の色が混じっていた。


 そして日が沈む。皇女は目を覚ますまで、常に無意識の中で侍女の声が反芻していた。運ばれる最中、意識が朦朧とした皇女に、侍女の悪意に満ちた表情がフラッシュバックする。ああ、現実は破れなかったのだ。今にも太陽は地平に沈み、悪魔のような月が登ろうとする。新月。そこに明かりはない……。

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